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第三章


4.

 研究所でコーヒーでも入れて一息つこうと、給湯室の前で湯が沸くのを待っていると、所長代理のモミジがそこに顔を出した。

「あれ、まだいたんだ」
「はい、コーヒー淹れようと思って。モミジさんも飲みます?」
「いただこうかな」

 所長代理の肩書のモミジは、飄々とした口調のいかにも研究者らしい研究者で、朝も昼も夜も研究所で見かける。もう日は暮れたので早く帰った方がいいのは彼女もモミジも一緒だったが、こうしてとりあえずの集中力の底上げと息抜きとしてカフェインを求めに来る。日が暮れてからの方が作業効率がいいとか、そういう馬鹿げたことを二人とも言うタイプなのである。

「君、最近も行ってるの。あのサビ組の竹を見に」
「行ってますよ。あっちの竹のほうが日当たりがいい場所にあるので」

 彼女の研究は「植物の生育とポケモンの成育における環境要因の相関について」で、竹は基本多湿な環境を好むため、カントー地方やジョウト地方への分布が多いが、このミアレでは都市の再開発時に緑地化の一環として様々な植物を街の中に植えた。そしてその緑地に釣られたり、食べ物や寝る場所を探してポケモンが増加したため、街の一角を『ワイルドゾーン』として指定する取り組みを始めた。
 彼女が朝に眺めてから出勤するペール広場も、このポケモン研究所のすぐ隣のサウスサイドストリートも、このワイルドゾーンに指定されており、ミアレは街の中でポケモンと人間、そして人の手が入っているとは言え植物の三つの生命が共存する、非常に珍しい街となった。
 彼女が竹の観察に注力しているのは、竹が元々ミアレに生息していたわけでなく、別の地方から持ち込まれた植物であるからだ。
 竹のようにカントーやジョウトが原産の植物がミアレの街に根付くことができるのであれば、同じように、カントー・ジョウト地方のポケモンもこのミアレの土地に居つく可能性がある。
 植物が生きていける環境とポケモンが生きていける環境には一定の相関があり、それについてを研究するのが今の彼女の仕事だった。

「ものすごく題材としてはいいんだけれどね。
 ローズ地区に植わっている竹はビルの間の日陰がちな位置にあって、一方でサビ組の竹は日当たりのいい場所にある。
 一部なんて屋上に植わっていて、日を遮るものがほぼないときた」
「ここまで条件の揃った比較対象が元々存在しているのも、珍しい話ですよ。ありがたい限りです」

 彼女が観察を続けている対象には、ローズ地区四番地の裏路地の竹もあって、日当たりが悪い位置の竹とサビ組の日当たりのいい竹の差分比較をしている。ミアレの街は比較的背の高い建物が多いので、場所によって日当たりにも差が出てくることが、ここまで街中に多くの野生ポケモンが住み始めたことの一因でもあるのだろう。
 笑ってそう感謝を口にした彼女に、モミジはちらりと視線を向けた。

「でも最近、サビ組は悪い噂が多いんじゃないの?」

 モミジがじっと、試すような顔をして彼女を見ている。彼女もじっと、モミジを見返した。
 
「モミジさんも、噂とか気にするんですね」

 モミジはあまりそういう、他人や他からの風評のようなものを気にしないタイプかと思っていた。コーヒーメーカーが湯気を立ててコーヒーが抽出され終わった電子音を鳴らす。
 彼女の言葉に、モミジは少しだけ傷ついたような顔をした。彼女が以前この街を壊した大災害の、その当事者の一人だということは薄々聞いている。
 薄いガラスのデカンタから、紙コップにコーヒーを注ぐ。持ち手のあるカップホルダーを付けてそれを手渡すと、モミジは困った顔をして彼女を見ていた。

「……らしくないと思うだろう?」
「人って、結局社会の中でグループを形成することでしか生きられない。そういう生物なんですよ。
 一人だけじゃ自分の知りたいことも満足に解き明かすことができないし、だから私もモミジさんも、この研究所に所属するしかないんですよね。
 嫌だなぁ」

 そんなことを軽々しい口調で言えば、モミジは喉を鳴らして小さな声で笑った。

「噂を気にするのは、君のことが心配だからだよ。
 サビ組は大災害後に台頭してきたグループだし、今までひどい悪評を聞いたことはないけれど、最近はポケモンが攫われるって話まであって。物騒だからね」
「……はい。ありがとうございます」

 モミジの言葉に何か探るような裏は無さそうだった。
 そうやって心配をしてくれる上司のモミジに、まさか実際に彼女は攫われかけて、今もそのポケモンの失踪事件を解決するためにサビ組に、カラスバに協力をしていると言ったら、きっと驚かせてしまうのだろう。
 第一印象のモミジは、ポケモンの研究に熱心でそれ以外のことをおざなりにしがちな研究者に見えたが、こうして何度か会話を交わせば彼女はそれなりに他人を気に掛けて、それなりに他人の言葉に耳を貸す人物に思える。
 そこまで喋ると、モミジはほどほどにして帰るように、と言って三階の所長部屋へ戻っていった。彼女はそのモミジの背中を見送ってから、湯気の立つコーヒーを一口啜る。

 毎日の朝に、メディオプラザの前のあのキッチンカーで淹れてくれるコーヒーは、もっと香りが高くて雑味のない味がする。彼女はいつもひのこローストをカフェオレにしてもらって、それを飲みながらペール広場を眺めてパンをかじる。
 そこにサビ組のカラスバという別の要素が増えたのは、ここ数週間のことで隣で同じようにコーヒーを啜っている男は、いつも顰めっ面をしていた。あまり朝に動くタイプではないのだろう。前に一度聞いたときは、朝食を食べる習慣があまりない、と言っていた。

 ペール大通りから眺める、ペール広場の景色が彼女は大好きだった。
 一番目のワイルドゾーンとして指定されたサウスサイドストリートは、ポケモン研究所がすぐ近くにあるという理由と、街の中心から離れており閉鎖可能だったという理由から選ばれた暫定的な場所であったが、ペール広場はセゾン運河から引き込んだ川の流れと、でこぼことした岩山や鬱蒼と伸びる木々や草を有していた。
 サウスサイドストリートのワイルドゾーンはそこに「ポケモンを引き込んだ」と形容するのが正しいが、ペール広場のワイルドゾーンに関しては「ポケモンの住処を街の中から隔離した」と形容できる。
 街の中で十分な電力と外部とのコミュニケーションの恩恵を受けながら、ポケモンと植物の観察ができ、それをワイルドゾーンという形で保護されている。彼女は今まで、こんなにも素晴らしい研究環境に出会ったことがなかった。
 
 だから、カラスバの言った「街を守りたい」という言葉に、彼女は幾らかの共感を抱いていたのだ。
 勿論、ただ歩いて帰ろうとしていただけなのにいつの間にか意識を失わされて、別の場所で目を覚ましたことは十分に恐怖だった。ああしてカラスバの口達者な弁に流されたわけではあるが、彼が「街を守りたい」と言ったのは、それはきっと真実なのだろうと彼と話をしていて、思う。
 色違いだから、とかそんな理由でポケモンを攫ったりその目的のためにワイルドゾーンのポケモンを悪戯に傷つけていくような奴らに、この街やワイルドゾーンという環境の素晴らしさは理解できないだろう。
 そんな奴らに、この街を良いようにさせるわけにはいかない。この街に住んで日の浅い彼女だって、カラスバと同じことを多分思っている。
 
 ゆっくりとコーヒーを飲み切って、彼女は紙コップを備え付けのゴミ箱へ捨てた。スラックスのポケットにはカラスバから預かっているペンドラーのボールの感触が確かにあって、彼女は給湯室の窓から煌々と光る月明かりに一度目をやってから、給湯室を出た。
 もう少しだけ仕事をして、日付が変わる前には帰るつもりだった。明日の朝も、きっとカラスバが彼女を迎えに来る。






5.

 相手が罠にかかった、と下っ端から連絡が入ったのは、彼女と偽装恋人なんてトンチキなことを初めてから、およそ一か月が経った頃だった。定時連絡を入れる手筈になっていた下っ端の一人から連絡がなく、その下っ端はローズ地区の路地裏で気を失って倒れていた。彼女のスマホの位置情報から現在地を探せば、ルージュ地区のドールビアン墓地の中だった。
 墓地の中の植え込みには彼女のスマホ、そして手持ちのミニーブとカラスバのペンドラーのボールが置き去りにされており、ミニーブはボールの中にいたがペンドラーのボールは開いていて、中にペンドラーはいなかったそうだ。

「自分で外に出て、攫ったやつらの後を追ったんやろな。今は『いとをはく』を使えるようにしてるさかい」

 ペンドラーがいない報告をジプソから聞いたカラスバは、そう言った。

「しかし墓地に荷物を捨てるとは……。趣味が悪いですね」
「まぁ、分かりやすい奴らで助かったわ」

 ジプソが苦々しく言うのにカラスバはそう返しながら、ペンドラー以外の手持ちと、もう一匹の確認をして事務所の席を立った。彼女とは近頃、ずっとペンドラーとヒノコヤマの交換をしたまま過ごしていて、なので今も彼女のヒノコヤマのボールは、カラスバの手の中にある。

「わかりやすい、とは……?」
「墓地であいつのスマホが見つかれば、その近辺をまずは捜索するやろ。攫ったなら、その道中でスマホや荷物を捨てたんか? とまずは考える」
「はぁ……、つまり、我々の目をそちらに向けさせたかった、ということですか?」
「そぉや」

 話しながら、カラスバはサビ組を出てブルー広場の前を通り、ブルー一番地の前を通り抜けてブルー三番地へ入る。

「ブルー三番地の通りって、何もないんや。それぞれの建物の正面は反対側を向いてて、道幅の割りにここは裏側の道や」
「そうですね……?」
「あの女、変わり者やからわざわざこの道を通り、ポケモンによる気象の影響で人が近づきたがらん、ボンヤーリ公園の中を抜けていく。
 そのブルー三番地には、何があると思う?」
「何って……」

 喋りながらカラスバはブルー三番地の中ほど、細い路地の前で立ち止まった。短い階段を登り人気のないその路地へ入っていく。そしてその先の、舗装されてはいるがミアレの瀟洒な街並みらしくない、無骨な煉瓦造りのままの路地の階段を、ゆっくりと下っていく。

「エスパー系ポケモンを使えば、いくらでも人やポケモンは隠せる。せやけど、『どうして』サビ組が邪魔なのか。『なぜ』ブルー三番地を定期的に通る女に、怖い思いをさせる必要があったのか。
 なぜ女のスマホを攫った場所でなく、墓地に捨てる必要があったのか。そういうことを考えていけば、おのずと相手が『何に注目してほしくなかったのか』は見えてくるやん」

 ブルー三番地の路地を通り、地下通路に入ればそこには、地下水道への入口があった。カラスバの靴が、ぱしゃん、と水道の浅い水を跳ね上げる。

「墓地に荷物を捨てたのは、ルージュ地区方面には水路の出入り口が一つもないからや。
 今、あちらさんは女を攫って自分たちのところへ連れ去って、恐らくサビ組への脅迫を考えてはる。それを実行するまで、この水路には近づいてほしくない。だからオレらの目をルージュ地区方面の、水路とは真逆側へ向けるために墓地にわざわざ捨てはったんやろうなぁ」
「では、サビ組がここまで嫌がらせをされて悪評を流されたのも……」
「オレらがあちらさんにとって、一番邪魔やったからや。地下水道の管理は、一部サビ組がしとるからな」

 ミアレの地下水道は広く、まるで迷路のようになっている。街の水辺へ繋がる経路は複数存在し、水道に乗ってセゾン運河へ入れば、川の流れのままにミアレの外へ人知れず出ることも可能だった。
 攫った珍しいポケモンは小さなボールに入れてしまえば、簡単に持ち運びができ、使役する水ポケモンをセゾン運河に放てば、街の中と外のやり取りが人目に付かずに可能だ。
 カラスバは、自分たちがここまで嫌がらせをされて目の敵にされている時点で、サビ組の持っている利権のうちの何かを向こうが欲しているのだろうと薄々察していた。そしてそれが地下水道というナワバリだ、と確信を持ったのは、彼女がブルー三番地で攫われた、と聞いたときだった。

 恐らく彼女は、毎日サビ組に通ってブルー三番地を歩いて研究所に帰るまでの間に、何か向こうにとって都合のよくないものを見ているのだろう。本人はそのことに気づいていないのだろうが、普通ならあまり人通りのない道を歩く女は、悪事を企む者たちにとって、随分と邪魔だった。
 だから攫って怖い思いをさせて、以前に攫われた、その場所に近づかないようにさせたかった。
 同時に彼女を攫ったことをサビ組に知らせたのは、彼女を攫った理由そのものをカモフラージュするためだ。サビ組に対する嫌がらせの一つとすれば、彼女を攫って怖がらせる本当の目的も、隠すことができる。
 向こうにとって誤算だったのは、攫って怖がらせようとした女が変な女で、怖い思いをしても行動を変えることなくブルー三番地を歩き、カラスバもサビ組も嫌がらせに屈する様子もない。
 向こうから打つ一手としては、女にはもう一度怖い思いをさせ、そして毎日甲斐甲斐しく『恋人』に会いに行くカラスバには、その女を使って交渉のテーブルに付かせる。
 そうするには、彼女をもう一度攫って手元に一度置き、サビ組に脅迫の連絡を入れるのが、一番効率のいい方法だったのだ。だから彼女が攫われるのを、カラスバはずっと待っていた。

「手持ち、ちゃんと連れてきとるな?」
「はい、抜かりなく」
「じゃ、行くで」

 カラスバは手持ちのボールの中から、彼女のヒノコヤマを繰り出した。ヒノコヤマも凡そ何が起こっているのか理解しているようで、睨むような目つきでカラスバを見る。
 その頭を一度撫でてから、ヒノコヤマの足首に発信機を付けた。ジプソが自身のスマホでその信号が受信できていることを確認する。

「なら、行こか。
 ヒノコヤマ、『とんぼがえり』や」

 ヒノコヤマが鋭く鳴いて、翼を羽ばたかせる。彼女のヒノコヤマは体の大きい『オヤブン』個体で、オヤブンのポケモンは通常なら覚えないわざを覚えていることが多い。
 このヒノコヤマは、『とんぼがえり』を覚えていた。『とんぼがえり』は相手に攻撃をした後に高速でトレーナーの元へわざで、そしてこのヒノコヤマのトレーナーは、攫われた彼女である。
 護衛でポケモンを連れていたとしても、攫われればスマホも、持っているだろうボールもどこか別の場所に捨てられてしまうのは、わかっていた。だから彼女の連れているヒノコヤマのわざ構成を見て、ヒノコヤマがとんぼがえりを使えるのがわかったときに、この作戦を思いついたのだ。
 攫われたとしても、このヒノコヤマが逆にカラスバの手元にいれば、とんぼがえりの技の効果で彼女の居場所が探し出せる。
 しかし本来なら彼女を護衛すべきヒノコヤマがカラスバの手元にいれば、相手を逆に警戒させることになる。だから更にレベルが高く、カラスバの相棒のペンドラーを彼女に預けることで向こうの目を攪乱したりもしたが、それが上手い具合にハマってくれたわけだ。
 
 ヒノコヤマは翼をはためかせ、薄暗い水道の中を矢のように飛んでいく。カラスバはギャラドスを、ジプソはエアームドを出して、ヒノコヤマを追って同じように二人は、地下水道の中に飛び込んだ。
 





6.

 いつも通りの一日のはずだった。彼女は昼食を食べ損ねて、プランタンアベニューの通りの出店で適当に買ったサンドイッチを齧りながらルージュ地区へ向かい、日課の竹の観察をしていた。
 ルージュ四番地の裏路地は高い建物の合間にあるせいでいつも薄暗く、少し湿っぽいので人の気配も少ない。その日もいつもと同じように竹の状態や、近くのポケモンの気配についてを調べていたときに、ふと誰かの呻き声が聞こえた。
 顔を上げてみれば、何となく顔を見たことのあるサビ組の下っ端の人がゆっくりと地面に倒れていくところで、その奥にはねむりわざを使うポケモンの姿があった。ああ、遂に、来るべきときが来たのか、と彼女は思った。
 ぱっと、目の前にそのポケモンの放ったわざが閃き、頭の中身が重たくなる。彼女は優秀なトレーナーでもバトルマニアでもないし、ポケモンのわざに抗う術のない一般人である。
 次に目が覚めたのは、じめじめとして薄暗い、煉瓦造りの地下だった。近くでは水が流れる音がしていて、これが話に聞くミアレの地下水道か、と思った。

 腕は背中に回されて縛られており、ぴくりとも動かせない。濡れた床に倒れ込んだ状態で目が覚めたが、ぶつけたのか床に当たっている頬から、こめかみにかけてが鈍く痛んだ。
 腕を拘束されたまま、どうにか体を起こして周囲を見渡す。水が流れる水路があり、その奥に通路が見えた。あそこから出られるかも、と目線を向けたその時にようやくその通路脇に人が立っていることに気づいて、ひ、と小さく悲鳴が漏れた。
 通路脇に立っていた男は冷たい目で彼女を見ていて、彼女が目覚めて体を起こしても、何も声を掛けてこない。間に水路が流れているが、水路の向こう側には水路の間を渡せるぐらいの大きさの鉄板が置いてあって、恐らく自分がここに運ばれてきてから外されたのだろうと思った。

「水路を渡る橋は外しておきます。ここで大人しくしていてください」
「こんなところへ連れてきて、どういうつもりですか?」
「サビ組さんに連絡するので、あちらとの交渉が終われば、帰してあげます」

 水路の向こうにいる男は、彼女と会話をするつもりがないようだった。冷たい口調でそれだけ話し、踵を返して通路から出て行く。
 両手は後ろ手に縛られており、水路は深く水の流れは速く、とても泳げそうにもない。見晴らしのいい、まるで檻の中のようなものだった。膝を折ってスラックスのポケットの中の感触を探るが、そこに入っていたはずのポケモンのボールもない。
 予測していた通りの展開に、彼女はずきずきと痛む頭を振って、眉を顰めた。カラスバの作戦通りなら、きっとまずは彼女のヒノコヤマがここへやって来るはずである。それを、待つことしかできない。
 結局、彼女は餌だ。ここでただ、助けてもらうのを待つしかない。
 食らったねむりわざの影響か、頭の中がずっとぼんやりとしていた。このまま誰も来てくれなかったら、どうしようとそんな詮無いことを、考えている。

 彼女が自分のポケモンをカラスバに差し出す対価として、カラスバは自身が一番信頼しているペンドラーを彼女に貸してくれた。ペンドラーは悪い子ではなかったけれど彼女のヒノコヤマと同じように、カラスバもペンドラーに『とんぼがえり』のわざを使えるようにしていることは、気づいていた。その事実にぐっと胸の奥が痛くなるような心地も感じた。
 結局カラスバも彼女を心底信頼しきっているわけではなく、自身の大切なペンドラーをどうにか手元に戻す一手は、仕込んでいる。
 彼女だって絶対にカラスバが助けに来てくれるなんて、確信しているわけではなかった。だって今も、肩が震えている。

 この場所が寒い、だから震えているし、このままここで誰も助けに来てくれなかったらどうしようとか、カラスバはやっぱりとんでもなく悪い人で、預けたヒノコヤマに何かがあったらどうしようとか、そういうどうしようもない、詮の無いことを考えている。

「ぎゃろぉぉん」

 そのとき小さく声が聞こえて、顔を上げると赤色の触覚が、通路の端から見えていた。よく見ればきらきら光る糸がその触覚と自分の服との間に繋がっていて、ひょっこりと黄色の伏せ目がちの瞳が、顔を覗かせる。

「…………ペンドラー」

 呟くと、ペンドラーはもう一度小さめの声で、鳴いた。彼女はボールを持っていないのだから、きっとカラスバが付けてくれていたペンドラーのボールもどこかで盗られてしまったのだろうに、ペンドラーはボールから出て彼女を追ってきてくれたのだ。
 ペンドラーはのっそりと音もなく通路から彼女のいる水路の小部屋に入り、間に流れる水を見て少し考える素振りをしてから、少し助走をつけて水路を飛び越えた。
 たし、と微かな音を立てて、ペンドラーは水路を飛び越えると肩を震わせている彼女の側へ近寄り、そっと身を添わせる。自分以外の、何かの温かみがそこにはあって、寒くない、と思えた。じんわりと目に涙が滲む。

「助けにきてくれたの?」
「ぎゃろぉん」
「ありがとう、優しいね」
「ぉおん」

 ペンドラーは侵入がバレないように小さく鳴いて、触覚をゆらゆらと揺らした。そのとき通路の向こうで俄かに人の声が聞こえて、それが徐々に大きくなる。緑色の光が、弓矢のように通路の向こうを走って行き、そうかと思えば引き返してきて水路を上を滑り、彼女の元へ降り立った。
 鋭い目のヒノコヤマは座っている彼女の前に降り立って、じっと彼女を見上けた。約束を守ってくれた、助けにきてくれたのだ。
 思わず目を潤ませた彼女にヒノコヤマも同じく少しだけ潤んだ瞳を見せた気がして、そしてその目を細め、彼女の腹にぐりぐりと頭を押し付ける。無事でよかった、と言われているようで、ヒノコヤマに抱き着きたいのに縛られているからそれができない。
 通路の向こうでは派手な水流と、鋼が何かを叩く音、人の悲鳴が聞こえてそれから。ばっと、カラスバが顔を覗かせた。

「――――無事やな?!」
「……あ、」
「ペンドラーも、おるな。
 ここの奴らまず全員捕まえるさかい、そこで大人しく待っとき」

 カラスバはそれだけ言って、視線をさっと真正面に戻した。薄暗い光の中でも彼の赤いグラスコードがぬらりと光って、鋭い眼差しの横顔が見えている。ドラゴンダイブや、と声が聞こえギャラドスが体をくねらせて、駆けていく。
 安堵が、腹に頭を押し付けてきたヒノコヤマから、背中に体を添わせてくれているペンドラーから、その通路の向こうに見えて聞こえてくる光景から、じわじわと染み込んでくる。彼女は首を垂れて、ゆっくりと息を吐き出した。



 カラスバとジプソ、そして連絡を受けたサビ組の構成員たちが水路に巣食っていた奴らを全員捕まえてしまうまで、一時間余りだった。指示を出し組織をまとめていたのは、先ほど彼女に話しかけてきたあの男だったそうだ。

「まだ他にも残党がおるやろが、頭は叩いたし、名義詐称で手に入れたテナントに踏み込む大義名分がこれでできたしな。
 この後は攫われたポケモンの行方を探しながら、残党つぶしやな」

 一通りの大立ち回りが終わったらしきカラスバは、ジプソを伴って彼女のいる水路の部屋に戻ってきた。ジプソのハガネールが外されていた鉄板の橋を咥えて水路の間に戻し、カラスバがその橋を使って水路のこちら側へ渡ってくる。

「攫われてからなるべく早く来たつもりやけど、怪我はあらへんか」
「……捕まって倒れたときに、頬を打ったみたいで」
「…………そぉか。
 とりあえず、まずはポケモンセンター、行こか」

 カラスバは彼女が頬を見せると少し眉を顰めてから、彼女が後ろ手に縛られている腕の拘束を解いてくれた。ちり、とカラスバのグラスコードが擦れる音がして、きつく締められていた縄が緩んでいく。
 カラスバは縄を解いている間、何も言わなかった。すまん、とか、ごめん、とか、悪かった、とか。
 そういう、言うべき言葉は恐らく存在していて、カラスバはそれを言うべきだとわかっていながら、多分言わない。
 謝罪を口にしないのは、したところで意味がないからだ。
 
 カラスバはミアレの街を守るためにこうして彼女を餌にしたし、彼女は倒れて頬を打って、そして怖い思いをして肩を震わせた。
 彼女を餌とすることが問題の解決に最善だと判断したからカラスバはその話を持ち掛けたし、彼女に承諾させるために話術を弄して、頷かせた。
 だから、彼女が怖い思いをして頬に怪我をした一因はカラスバにもある。
 そしてだからこそ、安易に謝るべきではないと思っている。こうなることがわかっていて彼女を餌にしたのだ、分かっていた。そしてわかっていて起きたこの暴力に、カラスバが謝罪をする意味が存在するとすれば、それはカラスバ自身の罪悪感を薄れさせるためだけだ。
 加害者の罪悪感を薄れさせ、加害の事実を過去にするための謝罪に、何の意味があるだろうか。
 謝って自身の加害性を終わらせたことにするならば、きっと謝らないほうがいい。そう思っている。

 そして彼女は、カラスバがそうして自身を断罪したいがために謝らないということを、薄っすらと悟っていた。

「……センターに行くのは、少し、」
「……………………」
「少しだけ、待ってください……」

 言いながら、彼女は縄を解かれ自由になった手のひらで、カラスバのスーツのジャケットを掴んだ。それを少しだけ引き寄せて、俯いて、彼のジャケットの襟を開いて顔を隠す。
 ジャケットの襟を掴まれて、その中で顔を隠して彼女が小さく泣き始めたことに、カラスバはぴたりと動きを止めた。水路の向こう側で見ていたジプソはそっと目を逸らして、カラスバが微動だにもできず、ただジャケットの襟を掴まれているのを視界の端に留めている。

「こわ……、怖かったです……」
「……そぉか」
「来てくれて、ありがとう、ございます……」
「……………………おー、」

 カラスバはたったそれだけしか言えず、彼女の縄を解いたままの手は宙に浮いている。カラスバさま、そこは優しく抱きしめるところですよ、と目を逸らしながらジプソは思った。思ったが、言わなかった。
 彼だって同じ状況なら、そうしてしとしとと泣く女を抱き締めて、もう大丈夫だ、を言ってやれるかどうか自信がなかったので。
 相手が少しでも好ましいと思っている女の場合、男とはかくも愚かなほど、役立たずになる生き物なわけである。

 カラスバは彼女が自分で泣き止むまで、そうしてジャケットを掴まれて一ミリだって動かなかった。それがこの件に関しての彼が、カラスバが、最大限に発揮できる誠実さであった。






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