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第二章


2.

 彼女の自宅はペール一番地、ペール広場が見える角の小部屋だった。カラスバが彼女の自宅がどこにあるのかのみならず、部屋の大きさまで把握しているのはカラスバが彼女の部屋まで上がったからに違いなく、それは偽装恋人には関係のない、全くの色気のかけらもない話であった。

「…………アー、来たけど」

 彼女が借りている単身用アパートの下に着いてからスマホで連絡を入れれば、電話の向こうから「ちょっと待っててください! あっ、あ〜〜!!」という、盛大な悲鳴が聞こえる。
 カラスバは溜息を落とすと、既にカツアゲ――もとい、預かってあった部屋の合鍵を使ってエントランスのロックを開け、五階の隅の、彼女の部屋の前まで上がった。部屋の中からは朝からドタバタと騒がしい足音と、鳥の鳴き声が聞こえて、階下から苦情が入るのも時間の問題だろう。

「また、何してんの」
「あっ、ごめん、ごめんって! 窓開けるから!」

 カラスバが部屋の扉を勝手に開けたのと、彼女が謝りながら部屋の窓を開けたのは恐らく同時だった。大きな羽音がして、窓から一匹のポケモンが飛び去ったのが見える。
 カラスバは、もう一度大きく溜息を落とした。

「なんやの、また逃げられたんか……」
「いやだって、このフードは新作で栄養もあるしポケモンの満足度も高いって書いてあって……」
「もう按配なフードにしときって、何度も言うたやろ」

 小さな部屋の中は先程の大型ポケモンが暴れたせいで散々に荒れており、部屋の中央で疲れたように座り込んだ彼女の髪はぼさぼさに乱れている。

「いつものフード切らしてて、でもスーパーが開いてる時間に研究所を出られなくて……」
「連絡してきたら若いもんに買いに行かせるて、言うたで」
「わ……、忘れてて……」
「……………………ハァ……」
「……ひぃッ」

 隠しもせずに深々と溜息を落とすと、彼女は怯えたように小さく悲鳴を上げた。けれどそうして怯えてみせるが、本当にカラスバを恐ろしいと思っているならそうしてポケモンフードを買い忘れたりはしないのである。

「仕事の合間に見つけて捕まえてとくし、ボールこっちに寄越しとけ。ほんで、お前はまたオレのペンドラー待っとけ」
「…………あ、あの、多分いなくても大丈夫……」
「あ゙?」

 わざと濁った声を出して睨めば、彼女はまたわざとらしい悲鳴を上げてしぶしぶ、カラスバのペンドラーが入ったボールを受け取った。
 相棒のペンドラーを他人に貸すのはカラスバとしても快いものではないが、フジデの頃から一緒にいるだけあって、一番カラスバの意を汲み取ってくれるのがペンドラーだったというのも理由の一つだ。
 彼女はペンドラーのボールを受け取り、もう一匹のポケモン――レベルが十にも満たないミニーブのボールと合わせて、自身のスラックスのポケットに突っ込む。
 鳥の翼に煽られた髪はぼさぼさのままだったが、彼女は手櫛で多少整えて、それでよしとしたようだった。部屋に鍵をかけ、カラスバもそれを確認する。部屋の鍵をかけ忘れて、帰宅した途端に襲われて行方が分からないなどという間抜けは、起こさせないつもりだった。
 そのまま連れだってエントランスから出て、大通り沿いのヌーヴォカフェでコーヒーとパンを買う。

「おはようございます、今日もいい天気ですね」
「おはよう、ウノカ。今日もカフェラテでいいのか?」
「はい。……ええと、カラスバさんは?」
「オレも、いつものでええ」
「じゃあ、かえんほうしゃローストで」

 彼女は燦々とした朝日の中で少しばかり居心地の悪そうなカラスバに代わり、注文を済ませた。いつも通り店員のグリーズがテイクアウト用の紙袋に包んでくれたコーヒーと、パンを持って公園へ向かう。
 燃えるような赤い髪のグリーズは今日も朝から溌剌とした雰囲気ではきはきと喋り、キッチンカー内にいつもいる、少し陰気な雰囲気の男性店員とは、彼女は喋ったことがない。

「あんた、うちのからも報告届いてたけど昨日も日付変わる頃しか帰ってへんのやろ?
 せやのに朝からほんま、よぉやるわ……」
「いやでも、ときどき子分さん?に聞きますけど、カラスバさんも夜遅くまで事務所にいて帰らないってジプソさんがぼやいてるって」
「……いらんこと喋りよって」

 怖い顔で苦々しくカラスバが言うのに、藪蛇だったな、と彼女は内心で呟いた。ウッカリお喋りを漏らしたサビ組の下っ端には申し訳ないが、彼女とて別に口止めをされていたわけでもない。
 少しだけまずった気持ちを抱きながらも連れ立って歩いて、ペール広場前のベンチに腰掛けた。ペール広場は近くの水路から水を引き込んだ公園で、草むらや木々が多くポケモンがいるのもちらほらと見える。ワイルドゾーンとしては二番目に設定された公園で、この草木の多さや引き込まれた水路から、確かにポケモンも暮らしやすい場所だろうと思う。

「こっち、カラスバさんの」
「……おー」

 カラスバの分のコーヒーを渡して、グリーズが適当に見繕ってくれたパンの包みもカラスバは渡す。カラスバは眼鏡の向こうの目を少しだけしょぼしょぼと眩しそうにさせていて、下っ端の人が言う通り、昨日も遅くまで事務所にいたならそれもそうか、と思った。

 彼女が攫われた一件から、もう二週間が経つ。カラスバの「彼女のふりして近くにおったらええ」という言葉とその圧に頷き、場の流れのままカラスバと偽装恋人のようなことをする羽目になったわけだが、恋人のふりをすると言ってもナァナァの付き合い方をして効果が出るとは思えない。
 攫えそうな場面と、そうでない場面を切り分けた上で、彼女が確実にカラスバのウィークポイントであると相手に見せつける必要がある、とカラスバは言った。

「私は別にカラスバさんの弱点ではないと思うんですが」
「そうや。だから、相手に『弱点らしいぞ』とわかりやすく誤解してもらう必要がある。
 やり方は色々にしても、一番手っ取り早いのはある程度の時間を共有することやろな」
「……時間?」

 そういう会話の後、一日のおおよそのスケジュールを書き出しをさせられ、それから可処分時間の中でカラスバと定期的に時間が合わせられそうな時間として、朝のこの時間が選ばれた。
 彼女はミアレに越してきてから、自宅近くのキッチンカーでカフェと朝食を買ってペール広場の植物の様子を眺めながらそれを食べ、その後研究所に出勤する。
 そういう朝をルーチンにしていて、なので一番手っ取り早いのはカラスバが彼女を朝に自宅まで迎えに行き、二人で朝食を食べてからカラスバが彼女を研究所まで送っていく。

 朝の時間を共有し始めたばかりの頃は、カラスバがいつもむっつりと怖い顔をしているのもあってビクビク怯えていたが、カラスバがそうして怖い顔をしてみせるのはあまり深堀してほしくない、都合の悪い部分を怖い顔で誤魔化しているだけで、実際に会話をしてみればそれなりに会話も続くし、常識がないわけでも、無闇やたらに誰かに喧嘩を仕掛けるわけでもない。
 そういうことを徐々に理解してからは、彼女も、カラスバが怖い顔をしてくるのに適当に合わせたりはするが、過度に怯えないようになっていた。もともと、それなりに図太く図々しい性格を彼女のほうだってしているわけである。

「今日のクロワッサンサンドも、すごく美味しいですね。中のポテトサラダ、潰しきってなくて」 
「オレは、別に……」

 朝が弱そうなので、しょぼしょぼとした目つきのままサンドイッチにかぶり付くカラスバの目線は、心なしかぼんやりとしている。カラスバ自身が言い出したことだし、仕事を中途半端にするタイプの男には見えないので毎日決まった時間に迎えに来て、こうして朝食を共にしているわけだが、カラスバ自身は朝日の中で公園の緑の木々を見ながら朝食を食べるなんてことは、柄でもないのだろう。
 大して喋る話題もないので、天気がいいとか、そろそろ初夏の花も蕾を膨らませる頃だとか、彼女が一方的に当たり障りのないことを話して、カラスバがその話題に適当な相槌を打つ。
 そうやって傍目には仲睦まじく朝の公園デートみたいなものをしつつ、クロワッサンのサンドイッチを食べ終わって軽くパン屑を払う。カラスバはしかめっ面でかえんほうしゃローストを飲み切って、それからまた白い朝日を睨んで、コーヒーのカップを少し潰した。

「今日は何時頃に事務所に顔出すんや」
「夕方までには。昼から講習会の手伝いの予定が入っているので、それが終わったら行くつもりです」
「わかった。なら、その頃までにヒノコヤマは見つけとく」
「ありがとうございます」

 お礼を言いながらも、視線は自然と目の前のペール広場へと向かった。ワイルドゾーンを囲む緑色のホログラムの向こうでは、心なしかポケモンたちが騒ぐ鳴き声が聞こえる気がする。恐らくだが、彼女のヒノコヤマが縄張り争いをしつつ朝食にきのみを摘まんだりしているのだろう。

 彼女が連れているヒノコヤマは、少し前にローズ広場でフィールドワーク中に出会った個体で、そのときヒノコヤマは怪我をして動けないようだった。
 そのヒノコヤマは普通のヒノコヤマよりも体が大きく、広場の中ほどで蹲っていた。通常サイズのヒノコヤマなら、抱えて連れて行くのだがそのヒノコヤマは通常よりも体が大きく、彼女一人ではポケモンセンターまで抱えていけないし、誰か人を呼んでくる間にどこかに隠れてしまって、そのまま怪我を悪化させるかもしれない。
 そう思い、苦肉の策で「後で離すから」と話しかけながら手持ちの空ボールを出してみた。ヒノコヤマは迷っていたようだが何度か彼女の顔とボールを見比べ、最終的にはボールに入ってくれたので、ポケモンセンターで治療を受けさせることができた。
 治療が終わってもなんだかんだと、言うことはあまり聞いてくれないけれど、ヒノコヤマは彼女の手持ちボールの中に入ってくれて側にいてくれている。先日に攫われたときも、勝手にボールから出てサビ組の下っ端の人たちを威嚇していたそうだ。

「うちの奴らを数人伸した言うから、それなりの実力者かと思ったのにてんで駄目トレーナーで、ほんまに……」
「いやぁ、ハハ。お手数おかけします」

 軽く笑って話しながら、ペール広場前を通ってペール四番地と五番地の間の路地へ入っていく。そのままサウスサイドストリートの方面へ抜ければ、彼女の職場である研究所ももうすぐだった。

「じゃあ、ペンドラーはちゃんと連れて歩きぃや。あと、スマホも」
「わかりました」

 研究所の前でそう会話をしてから、彼女は研究所の中へ入っていった。そこまでを見送って、カラスバも踵を返す。どちらにせよワイルドゾーンで負傷ポケモンがいないかの見回りも今は定期的に行っている。その時にでも彼女のヒノコヤマは見つけて、ボールに戻すつもりだった。
 彼女のヒノコヤマは、所謂オヤブン個体で彼女自身のトレーナーレベルが低いので指示を聞きはしないが、ボール主である彼女を守る意思はある。
 念のためにペンドラーをつけてあるが、あのヒノコヤマが臍を曲げて彼女の側から離れたということは、あのヒノコヤマが察知するような危険は近くにはないということだった。
 二週間、あの女と仲睦まじい様子を演じているが、相手はなかなかカラスバが張った罠に引っかからない。朝日が燦々と輝く、プランタンアベニューの白く明るい大通りを歩きながら、カラスバは一つあくびをかみ殺した。
 今日の一日も、それなりに長くなりそうだった。






3.

 カラスバはあまり、朝日の似合う男ではない。
 本人が朝型ではなく夜の方が思考が冴えるタイプだというのもあるし、低血圧で朝はあまり食事をしたくなく体や脳味噌が重たいこともあるし、着ている服が真っ黒で爽やかな朝に相応しくない雰囲気だということもある。
 だからカラスバは、朝に行動するということがこれまでの日常の中では選択肢として少なかったわけであるが、今回に限っては別だった。彼女は朝からいそいそと近くのカフェに出掛けてテイクアウトでコーヒーとパンを買うと、それを携えて近所の公園に出掛けていく。
 ワイルドゾーンはポケモンが飛び出してきて危険なので基本は外から眺めるのみだが、それでも季節の花や草木で気になるものがあるとそろそろと広場の中に入っていって、その花の名前を嬉しそうにカラスバに教えてくる。

「これはマグノリアです。いい匂いじゃないですか?」
「あれはライラック。いろんな色があって可愛いんですよ」
「ね、春が近くなってきたので、植物の色がいきいきしてますよね」
「見てください。ウィステリアの蕾が膨らんできたみたいです」

 そんなことを好き勝手にぺらぺらと喋りながら、公園の景色を眺めて池のコイキングが水を跳ね上げるのに驚いて転びそうになる。彼女が連れている二匹のポケモンの内、一匹は指示を聞く気のないヒノコヤマで、もう一匹はまだ赤ん坊のようなミニーブ。
 そんな頼りないポケモンしか連れていないのにワイルドゾーンの中に入ったりなんかして、初めはカラスバがいることを当てにしているのかと勘繰って、少し気を悪くしたりもした。
 けれど付き合っている内に、彼女は恐らくそこまで色々と深く、駆け引きを考えていないだけだ、とカラスバは悟った。ワイルドゾーンで野生ポケモンに見つかったら走って逃げればいいし、コイキングに水を跳ね上げられてびしょ濡れになっても、そのまま出勤して研究所で着替えればいい。
 そういう、あまり後先への頓着の無さが、そのまま彼女自身の身軽さに繋がっていた。カラスバがどろりとした黒っぽい男なら、彼女は軽やかに朝を駆ける軽妙な女で、彼にとっての白い朝は、そうして彼女と過ごした幾らかの朝のイメージに塗り替えられていった。

「カラスバさん、お夕飯たべましたか?」

 彼女が近くで買ったデリの袋を下げてやって来たのは、そういう生活を続けて三週間が経とうかという頃で、カラスバは事務所の自身の机でミアレの地図と睨めっこをしていた目線を上げ、部屋にやって来た彼女を胡乱な目で見た。

「まだ」
「近くに新しくできたタコス屋さんなんですけど、美味しそうだったから」

 彼女は袋からがざがざとフレッシュジュースらしきドリンクと、紙製の器に入ったタコスを取り出して見せる。また食べにくそうなものを……と思ったが、口には出さなかった。
 開いていたノートPCを閉じて、彼女が勝手に食べ物を広げる応接セットに向かう。眼鏡を外して目頭を揉みこむと、目からは少しだけ涙が滲んだ。

「顔、めちゃくちゃ怖いですよ」
「元からやボケェ……」
「わぁ。悪態にも元気がない」
 
 ポケモンを攫う事件はこの三週間も断続的に発生していて、遂に先日の事件で十件目を越えた。そろそろミアレの街の中にも、最近ポケモンが攫われることがあるらしい、と噂が立つようになってきてしまったし、ワイルドゾーンでのパトロールも強化しているが断続的に怪我をしたポケモンが見つかる。
 面倒なのは、怪我して見つかったポケモンをサビ組の組員が助けてポケモンセンターに連れ込むから、怪我をさせているのはサビ組なのではないか、と悪意のある噂を立てられること。こうしてカラスバも他の組員たちも攫われたポケモンを探しているのに、攫ったのはサビ組の奴らじゃないのか、とか、そういう噂まで立てられる。
 街の中でも近頃不穏だ、ということが何となく雰囲気として流布しているから、その不穏さの原因を求めて、サビ組のようなわかりやすいアイコンへの噂に飛びつく。人間は自身の生活の安寧が崩されたときに、わかりやすい絶対悪を欲しがるものだ。
 下っ端たちへは、何か言われても言い返さず帰ってこいと言い付けてあるが、サビ組だって元々はカラスバを含めて行き場のない奴らの掃きだめだった。沸点が低く、舐められたら終わりとばかりに睨みを利かせる者も多いから、ジプソは今も諍いを起こした下っ端を諫めに外へ出ていた。

「なんでこんな、食べにくいもの買うてくんねん」
「んー、そこのブルー広場に屋台が出てて美味しそうでしたし、こういうのって野菜が多めでさっぱりしてるから。
 睡眠が少なくて、胃もたれしがちな時でもまだ食べやすいかと思って」
「……そぉか」

 彼女はさっさと包装を開いて、大口を開けてタコスに齧りつく。カラスバも自分の分としてテーブルの上に置かれた包みをとって、包装を開けた。彼女がぼろぼろと溢しながら食べている通り、中には青くて新鮮そうな野菜と、赤っぽい香辛料でマリネされたらしきチキンが挟まっていて、溜息を薄く溢してから、そのタコスに齧りつく。
 ばり、と音がして硬めのトルティーヤ生地が崩れるが、彼女のように生地の端からぼろぼろと中身を溢すようなことはしなかった。それでも香ばしく焼いてからマリネされたチキンは柔らかく、粗く刻まれた野菜はしゃきしゃきとして美味い。少し強めにレモンと酢を効かせたワカモレの味つけが、疲労続きで食欲の落ちた体でも案外ぺろりと食べられるものだった。
 カラスバは大口を開けて、三口でタコスを詰め込むが、彼女はまだちまちまとトルティーヤ生地を齧って、ぼろぼろと中身がこぼれるのに目を白黒させている。

「ハっ、間抜け面」
「……ッいや、カラスバさん、食べるの早ぁ……」

 膝の上に置いた包装の紙パックの上に、ぼろぼろと落ちた中身の野菜を残ったトルティーヤでかき集め、彼女はそれを口の中に放り込む。彼女が一緒に買ってきたのはオレンジジュースで、少しだけ皮の苦い後味が残る。
 彼女がせっせとタコスを食べ終わるまでを眺めていると、ポケモンの食事を見ているような気分になった。

「折角食いにくいもの買ってきて、オレを笑おうとしてはったのに、残念やなぁ」
「そ…そういうわけじゃ、ないんですけどぉ、……あはは」

 乾いた笑い声をあげて、二つ目の包みを開けている彼女は自分の魂胆を見破られたことに、少しだけ気まずそうな顔をしている。彼女からしてみれば、カラスバはいつもツンと澄ましていてこういうタコスのような、いかにもな屋台飯などあまり食べたことはないんじゃないか、とワクワクしながら買ってみたのだが、残念ながら見込み違いだった。
 朝に食事するときは大抵がヌーヴォカフェのサンドイッチだし、カラスバはまだ眠そうな顔をして食べているから、普段の食事風景など見たことがない。なんとなく好奇心に駆られてタコスなんかを買ってみたのに、まんまと醜態を晒したのは彼女の方だった。

「竹の観察日記は終わったんか」
「はい、今日の分は記録できました」

 食べ終わって、オレンジジュースのストローを行儀悪く齧りながら聞いたカラスバに、タコスの刻まれた具に苦戦中の彼女は素直に頷いた。
 彼女は初めにサビ組に乗り込んできたときから変わらず、毎日やって来ては目星をつけた竹の生育具合について調べているようで、サビ組に来るのが遅い日は大抵昼間に研究所の方で外に出られない仕事の要件があったときだ。

「なら、今日はもう帰るんか」
「そうですね。今日はもう遅いですし、研究所に寄らずに帰るつもりです」
「ふぅん」
 
 時間を見れば、すでに夜の二十二時を過ぎていた。女の一人歩きとしては遅い時間である。なら送っていく、と言いかけてから、あかん、と思い直してやめた。

「…………気ぃつけて帰れよ」
「ありがとうございます」

 彼女はカラスバの逡巡には何も気づかぬまま、明るく返事をして食事のごみを片付けた。あとで捨てさせるからいい、と言ってテーブルの上にまとめるだけにさせて、彼女は「じゃあまた」と言って部屋を出て行った。
 どちらにせよ、明日の朝にはまた彼女を迎えに行くのだしこの帰り道だって、カラスバの指示で隠れて彼女を護衛している下っ端が着いて歩くのだ。
 
 そもそも、カラスバは彼女を『餌』として扱っているはずだった。朝はカラスバが一緒に歩いて仲睦まじさと隙のなさを見せ、夜は下っ端たちに護衛させながら見た目は一人だけで歩かせて、二度目の誘拐やら向こうからの接触やらを誘っている。
 彼女の誘拐騒ぎからこの偽装恋人を始め、もう三週間が経ち、そろそろ次の一手を向こうから仕掛けてきてもらわないとこの膠着状態が延々と続く。
 向こうが地道にサビ組へ嫌がらせを続けてくるのに対しサビ組は何も困っていない素振りを続けているし、カラスバ側から手出しをしてはこの駆け引きに負けたことになる。
 だから、彼女を餌としてわざわざわかりやすく、夜道を一人で歩かせ、向こうの目の前で揺らしているのだ。そこにかかってもらわないと困るのに、そのことも忘れて「送っていく」などと言いかける。
 そういう自分に対してカラスバは全く呆れ返って、彼は、ソファに深く沈み込みながら眼鏡を外し眼窩をゆっくりと揉んだ。
 
 わかっている、疲れている。疲労が溜まっている。
 こうして彼女の誘いに乗って普段は食べないような食事を共にしたことも、買ってこられた甘酸っぱいオレンジジュースに文句も言わなかったことも、彼女を家まで送っていこうと、少しでも思ったことも。
 そういうらしくなさを全部丸ごと、疲労という理由一つに押しつけてしまいたかった。何もかも。






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