第四章
7.
こうしてミアレの街は、またどうにか平和に戻ったわけである。
まだそれなりに残務は残っているが、サビ組はカラスバの「捕まえた奴ら? 縛ってポリボックス前に転がしてきぃや」という指示の元、街に入り込んで悪さをしていた一党を縛って警察署の前に放り出してきたし、顔見知りの警察官からは「あとはそっちでどうにかせぇってぶん投げるのやめてほしい」と小言が入った。
ミアレの外へ売られてしまった、他の地方へ売られてしまったポケモンたちを取り戻すには少し苦労も必要そうであったが、一党がしっかりと帳簿をつけていたおかげで、どのポケモンがどこへ売られたのかは把握が早く、思うよりもスムーズに解決できそうだった。
そういうわけで、カラスバは久々の休みと十分な睡眠と休息を取ってから、ゆっくりとミアレの街を歩いていた。朝の日差しがきらきらしく街を照らして、ガラス窓に反射した光が目を刺す。
寝不足のときは悪魔にしか見えなかったこの眩しさも、十分な睡眠を取った今であれば、多少の爽やかさを感じることができる……気がする、とカラスバは思った。さや、と涼しい風が朝の景色の中を吹き抜けていった。
「あ、おはようございます」
「…………おー」
ペール大通りのベンチに腰掛けていた彼女は、ペール二番地を抜けて歩いてきたカラスバに気づいて会釈した。カラスバも片手をあげて、軽く挨拶をする。
ミアレの街で起きていたポケモン誘拐事件は解決したので、彼女との朝の待ち合わせも当たり前だが、なくなった。あれからカラスバも残党狩りと誘拐されて売られてしまったポケモンたちの行方を探したりなどでサビ組の事務所外での仕事があったし、彼女も頬を打って怪我をしたとは言えど翌日からはまた仕事に行っていたらしい。
「これ。忘れないうちに。
あの悪者たちが名義詐称したマルシェのお店の店主は、やはりパルデアに移住されていたみたいですよ。
アカデミーから該当者が見つかったと、連絡がありました」
「あ゙ー、それは…………おおきに」
日差しに眉を顰めながらベンチの隣に腰掛けたカラスバに、彼女は鞄から小さなメモ書きを取り出した。
彼女は、パルデア地方のアカデミーからやって来た学者だ。名義詐称されたマルシェの店主の行方は掴めていなかったが「子どもの学校のために」移住を決意したのなら、教育制度の整った地方の可能性が高かった。なので、出身のアカデミーの知り合いにカロス地方、もっと言えばミアレから越してきた子どもがいないか問い合わせをかけてもらっていたのだ。
連絡を取るのはこれからになるが、もしマルシェの店主が店の名前の詐称について証言してくれるならあの悪者たちにテナントを貸してしまった貸主の損害云々の話も、もしかしたら少しなりとも楽に進めることができるかもしれない。
カラスバは彼女が差し出した連絡先のメモを受け取り、スーツの内ポケットに入れる。彼女は傍らに置いた紙袋をがさがさ漁って、いつものコーヒーカップを取り出した。
「かえんほうしゃローストでよかったですか?」
「…………、おー……」
「まだ半分くらい、寝てますよね?」
鈍い返事をしてから、彼女が手渡してきた紙コップを受け取り手の中で温かみを感じる。彼女は少しだけ苦笑をして、自分の分のカフェオレをひと口飲んだ。
「朝食にパンはいかがです? 二つ買ってきたんですが」
「……いらん。オレは朝は、食わん……」
力なく言って、カラスバはゆっくりとコーヒーを啜った。さやさやと風に枝が揺れて、葉が擦れ合う音がする。
平日の朝のペール公園近くのベンチは、行き交う人も多く一日のはじまりに相応しい明るさだった。朝型ではないカラスバには、ただただ暴力的な明るさに思えた。
今までは恋人の振りをしていたから、快く朝食なんかを食べていたのだ。カラスバは起き抜けに物が食べられないし、逆に彼女は、朝もしっかりと食事しなければ頭が回らないと、思っている。
彼女はカラスバの返事がわかっていたように、じゃあ二つ目は私のランチですね、と軽々しく言ってヌーヴォカフェの紙袋の中からパンの包みを取り出す。
ざく、と音を立てて彼女が齧ったのは、きれいな狐色に焼き上げた、いつかと同じクロワッサンサンドだった。今日はパンの切れ込みの端から、緑色のレタスが顔を覗かせている。
「私、きっとこれからもここで朝ごはんを食べてから出勤しますから、また気が向けばカラスバさんも」
「恐らくもう二度と、オレの気が向くことはないわ。……朝は、しんどい」
「わぁ。顔、やばいですよ。いつもの三倍ぐらい怖い」
「わかっとるわボケ」
軽口の応酬に悪態をついて眩しさに眉を顰め、額を手のひらで撫でる。カラスバは片手にカップを持ったまま、背筋を丸めてふかぶかと溜息を落とすと、それからぐっとカップを煽ってコーヒーを喉の奥へ流し込んだ。
「……オレも忘れんうちに、や。
鍵は返すで」
ゆっくりとコーヒーを飲み下してからカラスバは立ち上がり、懐から一本の鍵を取り出した。彼女の自宅のあのペール一番地の部屋の、合鍵である。万が一のためにカラスバが預かっていたが、一件が解決したのであれば、もうカラスバがこの鍵を持っていていい理由はない。
彼女はカラスバが差し出した鍵を両手で受け取ると、ベンチに座ったまま、カラスバを見上げて微笑んだ。
「ありがとうございます。……いろいろと」
こちらこそ、と言いかけて、柄でもないと止めた。「ほな」と小さく挨拶をして、彼女のくれたコーヒーを片手に朝の明るい公園を横目に、歩き出す。
ざや、とその時また風が吹いて、カラスバの黒髪を揺らした。視界の端に白いものが風に飛んでいき、カラスバは反射でその行方を追った。
「……あ、フワンテだ」
風に乗ってふわふわと飛んでいったのは白い花のフワンテで、甘い香りがカラスバの鼻先を掠める。彼女も同じようにそのフワンテを目で追ったのか、声が聞こえた。
そのときに、カラスバ自身にもどうしようもなく、まざまざと。――――思い出した。
彼女と過ごしたひと月の朝に彼女が指さした花と、その名前、薄紅色のマグノリア、藤色と白のライラック、葡萄の房のようなウェステリア。黄色のミモザ、白くて小さいアーモンドの花、蝋燭のような形の房のマロニエ。
咲き頃だったマグノリアからは、柑橘類のような爽やかさの中に甘さの入ったいい香りがして、その花木を指さした彼女の指先は、白くて細かった。
そういう、欠片のような記憶がカラスバの脳裏には蘇って、フワンテが飛んでいく方を眺めたまま、ゆっくりと彼女のほうを振り返る。
彼女も朝の青い空を飛んでいくフワンテを見送ってから、ふと気づいたように、振り向いたカラスバに視線を向けた。
忘れられないのだろう、と思う。
これから先、きっとカラスバは何度でも初春に蕾を膨らませる薄紅色のあの花を見るたび、あの花の香りに気づくたびに、彼女が花木を指さした。あの指の白さと細さと、「マグノリアですよ」と花の名前をカラスバに教えたあの声と。そういうものを思い出すのだろう。
「朝は食べんけど……」
遠く風に乗って流れていくフワンテを見ながら、カラスバは言った。彼女は靡く髪を押さえながら眩しそうに、カラスバの方を見ている。
「夜なら、ええよ」
それだけを言ったカラスバのグラスコードと眼鏡の鉉に一瞬だけ日差しが反射して、白く、瞬いた。眼鏡ごしにこちらを見るカラスバは、心の読めない表情をしている。
黒いその人は、重たい色彩で朝の日差しにはちっとも似つかわしくないのに、どこか見覚えがある気もする。彼女は白い朝の中に黒が馴染むその光景を、ぼんやりと眺めていた。カラスバが、誘いの文句に彼女が何も返事をしないことに少し眉を顰める。彼女は慌てて口を開いた。
「いいですよ、行きましょうよ。食事でも」
「なんでも好きなもの、奢ってやるさかい。これで今回の貸し借りはチャラやで」
「え、奢りなんて、嫌ですよ。お金は出すので、貸しはそのままにしておいてください」
彼女がカラスバの申し出を断ったのに、カラスバは少し不機嫌になって彼女を睨む。彼女はその視線にわざとらしく肩を竦めてから、悪戯っぽく、笑った。
「また、私がヒノコヤマを逃がしちゃったら、一緒に捕まえてください」
彼女が図々しく言ったのにカラスバは睨んでいた目線を緩め、俯いて、呆れたように溜息をひとつ落とした。そんなもの自分でどうにかせぇって言われるかしら。そんなことを、彼女は思った。
目線を落としたカラスバは、ややあって、ゆっくりと目線を彼女へ戻した。その目はもう、いつもの冷徹なサビ組のカラスバ、その人そのものだった。
グラスコードが揺れる眼鏡の蔓を、彼はゆっくりと押し上げた。
「ええけど。オレは高いで?」
「…………それは、食事代くらいにしておいてくださいよ」
カラスバの睥睨するような目つきに、彼女が困ったような顔をする。その困り顔に些かの溜飲を下げて、ややあって、カラスバは少しだけ視線を和らげた。
また連絡するわ、と言ってカラスバは彼女に背を向ける。二人の関係はただの偽りであった。されども体は名前を表し、体は名前を表す。
以前の薔薇は名に残され、その素裸の名前だけを残すのがいずれ実在の定義だとすれば。実体のない偽りの関係に付けたひとつの名前はその名の内に、『何か』を有することは、果たしてあるのだろうか。
さてでは『何か』とは、なんだろうか。
そういう意味合いのことを、二人は考えていた。
それはミアレの街に光が輝くような春が来た、その晴れた日の朝のことだった。
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