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 満ち欠け(下)


 背中に背負っていた彼女を庭先で下ろし、押都の家の玄関口で帰った、と声を掛ける。
 先代の時代から押都の家に勤めている使用人の老夫婦は、珍しい主人の突然の戻りに慌てて顔を覗かせてから、驚いたように目を丸くした。

「彼女の着物や足袋が汚れた。新しい物でなくていいので替えを用意し、今召されている物は洗濯を」
「……え、ええ。畏まりました」

 使用人の婦人は主人の言い付けに些か胡乱な視線を向けて返事をしてから、彼女を連れて居間の奥へ誘った。使用人の男の方は押都へと目線を向けて、ようやくですか、と呆れたような口ぶりで言った。

「ようやく、嫁を娶る気になられたので?」
「……………………」
「お亡くなりになられた先代も貴方様の母君も、やっとのことと、胸を撫で下ろすでしょうな」
「だといいが」

 短く言って、家の主人の自室へ引っ込む。ややあって使用人たちが茶を用意し、着替えの終わった彼女を押都のところまで連れてきた。

「長烈さまは、やはり御武家の方なのですか……?」
「厳密には違います」

 不安げな表情をした彼女に言って、とりあえず茶を飲むように勧めた。着物を変えた彼女は押都の家の座敷で落ち着かなさそうに座っていて、困り顔をしていた。
 彼女を連れてきた際に彼女の部屋を用意するように言ったので、しばらくすれば彼女の寝床を用意した使用人たちが声をかけてくるだろう。

「私はタソガレドキの城に忍びとして仕えております。
 我々の存在は城の中でも一部の者しか知りません。
 雀部殿とも、あなたの嫁ぎ話があったご老体とも忍軍の一としての面識はございますが、知己ではございませんし私は武士ではない」
「……はぁ」
「家の者には、適当に言っておきます。
 私はほとんど城に詰めてこの家には戻りませんし、この村の中であれば押都の名前の権威が使えますので、外出も好きにできましょう」
「けれど、そんな……」

 そこまで話をしたときに、部屋の外から「お部屋の準備ができました」と声が掛かった。障子を開けて使用人の女に彼女の面倒を任せ、押都自身はまた城に戻るために出立の準備をする。
 忍軍の村に余所者の娘を連れ込んだのだから、その言い訳をしに、組頭のところへまず参上せねばならなかった。
 
「長烈様、お戻りはいつ頃に……」
「わからぬ」

 使用人の男の問いかけに押都は短く返しながら、草履の緒を締めた。「しかし……」と使用人の男は困ったような声を上げる。

「しかし、祝言の日取りなど決めませんと……」
「あの娘とは別に嫁取りの約束をしたわけではない。祝言の日取りなど、決めずとも良い」
「そんな、押都の御当主ともあろう方が若い娘を邸に連れ込んでそれが、嫁でもなんでもないなど……」
「はは、お父上やお母上が生きておられたらさぞ、お怒りになったであろうな」

 軽く笑って言って、押都はそのまま邸の玄関から出た。まだ使用人の男はまだ何か言っているようだったが、それも無視して村を抜けてタソガレドキ本城へ向かい、駆け出す。
 きっと山本陣内には呆れられて、雑渡には笑われるのだろうな、とか。自分が仕込みを続けているあの娘には、きっと散々に文句を言われるに違いないとか。
 そんなことを思いつつ、押都は夜空の中を駆けていた。
 
 彼女を例え攫って押都の邸まで連れてきたとて、自分という男に付き合わせる訳にはいかない。そう思っていた。





 押都長烈と名乗った彼に攫われてこの隠れ里まで連れて来られて、数日が経った。押都はあれから一度も彼女の前に姿を現さず、代わりに行儀見習いとして面倒を見ていた少女がその間に尋ねてきて、彼女に不自由はないかを聞いてからぷりぷりと怒ってみせた。

「押都さま、ようやくひと葉さまを迎えに行ったと思ったら嫁入りの打診もせず放っておいて。
 どうかと思うと、村の女たちはみんな言っています」
「けれど、押都さまはやはりお武家様なのでしょう?
 私のような身分のない女など、相応しくありませんから……」
「今さら身分なんか。それに、嫁入り前の女を攫ってここまで連れてきたのは押都さまご自身です。そのことについて、しっかりと責任を取るべきですよ。ひと葉さまのお立場はどうなります」

 そうして少女が怒り心頭の様子で文句をぶち上げるのに、押都家の使用人の女も同じく頷く。押都が連れて歩いていた少女は忍びとしての修行中らしく、見込みがある娘のため、押都が自ら連れて歩いて修行を付けさせておりその一環として、彼女のところへ行儀見習いにも訪れていたのだそうだ。
 そんな話を聞いて、何となく違和感を抱いていた二人の関係にようやく合点がいった。娘と押都の関係は親子に似て親子ではなく、兄弟のようでもない。師弟関係だと説明されて、成程と思ったものだ。
 
「反屋のおばさん……、近所に住んでる友達のお母さんなんて『押都様はタマなしだったんだね』って言うんです。
 私もその通りだと思います、意気地無しのタマなしですよ。あの男ったら」
「……あの、仮にもお師匠様にそんな乱暴な口を効くのは、駄目かと…………」
「こんなことを言われるようなことをして、それでも知らん顔をしている押都さまが悪いんです!」

 娘はぶちぶちとそうして師匠に対する文句を言い、手土産として持ち込んだ団子を怒りのままガツガツと食べ、湯呑みから茶を一気飲みした。側に控えている使用人の女も娘のがさつな所作と言葉遣いにいい顔はしていないが、娘の怒りに正当性があるとわかっているので大して嗜めもしない。
 彼女を村の押都の邸に連れ帰った押都は、祝言の段取りもせず城に行ったきり戻らず、彼女は村の近所の女たちに此度の事情を聞かれた。そこに押都から彼女とも顔見知りである行儀見習いの娘を様子見として寄越したため、村の女たちはおおよその事情を把握した。
 押都の若当主が、懸想した女が他の男と結婚してしまいそうだから攫ってきたというのに、自分自身はその女に愛を乞うこともせず、城に篭って仕事が忙しいと帰ってこないのである。
 押都長烈も他の忍軍の男たちと同じく、十の頃までは村の中で育った子どもであった。だから押都の現当主を小さい頃から知っているような年嵩の女たちは、みな歯に衣も着せず、押都の意気地なしぶりを罵った。
 そうして婚前に攫われて帰ってきたというのに、彼女の立場をきちんと整えてやらず放っておく押都長烈に、村の女たちは大層怒ったし、その怒りの窓口になるのは押都長烈本人ではなく、村に世帯を持っている忍軍の別の男たちな訳だった。

「押都……、お前本当にいい加減にしておけよ。
 お前が邸に連れ込んだ娘について、村から何通も陳情書が届いているぞ」

 世帯持ちとしてそれは当然のように山本陣内のところへも、彼の奥方のところから文句を書き連ねた手紙は届いていたし何なら「幼い時分の兄役として、あなたがどうにかしなさい」などと指令まで書いてある。
 それはもう大概に、村の女たちはこの現状に腹を据え替えているわけである。
 
 なので陣内は黒鷲隊の詰め所にてようよう押都を捕まえ、とりあえずまず、その所業への文句を言った。陣内だって、とばっちりで自身の奥方や村の女たちから怒られたくないので。

「…………なんのことだ」
「とぼけるなよ、わかっているだろう」

 さすがにそろそろ、逃げそびれて陣内に捕まった押都はそれでもまだしらっとした様子で、冷たく陣内を一瞥した。
 
「さて…………」
「お前が連れて帰ってきた娘だ。さっさと祝言の用意をしろと、村の女たちは大層怒り心頭だぞ」

 そう陣内が言っても押都は大して返事もせず、そのまま廊下を抜けて自身の執務室へ戻ろうとしている。陣内は大きく溜息を落として、その後ろ姿を追いかけた。

「おい、押都」
「別に嫁に取るという約束をして、連れてきたわけではない。
 年上の男と結婚をしたくないというから、攫ったまでで……」
「押都……お前、なんて往生際が悪いんだ……。自分で言っていて、恥ずかしくはないのか……」
「……………………」

 陣内が思わず漏らした呆れ声に、押都はむっつりと不機嫌そうに押し黙った。
 
 押都は昔から、こういう変な屁理屈をこねては自分の我を通すところがあって、幼い頃から雑渡昆奈門とは別の意味で面倒くさいところのある子どもであったが、一人前の男として仕事をするようになった今でもその偏屈さは大して改善していないのである。
 女たちも自分たちがワヤワヤ言えばこの面倒な男が更に臍を曲げて、天邪鬼を発揮した挙句に「他に嫁ぎ先を見つけてきた」とかそういう阿呆をしでかしてもおかしくないと知っているので、まだ押都の扱いが上手い方である山本陣内に「どうにかしろ!」とせっつく。

「お前が『結婚させたくない』と思ったから彼女を自分の邸まで連れ帰ってきたんだろう。
 年上男の後家とはいえ、他人の縁談をぶち壊したんだ。男として、その責任は取るのが筋だろう」
「そう仰るが。
 あの娘に好色爺の後家なぞ相応しくないことと、あの娘と私が縁談を組むかどうかは、等号で結ばれるべき問題とは言えない」
「お前……またそんな甚だ面倒くさい話し方をして……。
 結局お前が好いた娘を嫁に取る覚悟と、度胸がないだけの話じゃないか」
「……………………」

 結局、山本陣内には押都の小難しい言い回しはからっきし通用もせず、押都はむっつりと押し黙るだけになった。
 「とりあえず、座れ」 陣内が言ったので押都は押し黙ったまま、執務室の自分の文机の前に座り、陣内も部屋の端から円座を持ってきて、その場に座る。

「その『縁談を組むかは別』というのは、どうしてそう思うんだ」
「…………私とあの娘では、釣り合いが取れない」
「何の釣り合いが悪いんだ? 商家の娘さんとは言え、武家の後家に入れるほどの教養と家格のあるだろう方だし、何も釣り合わんことはない」
「私の方が、だ」

 押都がそうやって一言ずつしか喋らない、相手に理解させるつもりもない欠片ずつの言葉を聞いている。
 それでも陣内は、付き合いの長さから押都のこの態度はどうやらとへたれており、かつ情けのない、臆病な男ぶりをもはや隠せてもいないのだ、と悟った。

「お前が何をそんなにも自身を卑下して、娘との関係について否定的な態度を取っているのか知らんが」
「………………」
「まさか、雀部殿の配下の若者達を嗾けたことを後悔でもしているのか?」
「…………そんなわけがない。あれは私の仕事だった」
「だろうな」

 娘との出会いは確かに押都が一方的にあの呉服屋に取り入るために仕組んだ、謀略からだったし、あの一件から此度の後家縁談だって持ちあがっている。だから、彼女が年上の男へ人身御供のように嫁ぐことに、押都や忍軍に責任の一端がないわけではないが、押都にしても陣内にしても、それはひとえに仕事でしかなかった。
 必要があったから実行したまでで、そのこと自体に自身の後悔や、懺悔の気持ちを抱くことはない。
 忍軍の男たちはそういう謀略や姦計の数々を、自身の仕事として行っている。仕事に余計な私情は不要だし、感じるべき物でもない。

 だから押都が彼女に対して、何を後ろめたく思っているのかと言えば。
 それは押都自身が『男して』、彼女という女性を好ましいだとか、きれいだとか、思ってしまったこと。その一点であった。

「……まぁ、お前が何をいじいじといじけていてもいいが。
 村から言伝だ」
「……いじけてない」
「わかったから、聞け。
 ひと葉殿は昨日から村にお戻りになっていない。押都の邸にもお戻りはなく、行方不明だそうだ」
「……………………は?」

 色々と耳の痛いことを言われるのが嫌で、まるで拗ねたように陣内から目線を逸らしていた押都は、陣内のその言葉に思わず視線を戻した。陣内はそうして物珍しくも驚きの素振りを見せた押都に、しらっとした顔を向けてみせる。

「私の家内からの手紙にそうあった。
 私はそのことを伝えに来ただけだ」
「…………戯言を。お前自身の態度が、その言伝が真実ではないと言っているようなものだろう」

 だって陣内の態度には、欠片も慌てた素振りなどないのだ。話しかけてきたときも、会話をしていた今しがたも火急の用などという雰囲気は欠片もなく、村へ遣わしている自身の部下のあの娘からも、特にそういう報告は上がってきていない。
 だから陣内のいうその村からの言伝は、どこからどう考えても嘘偽りでしかない、と子どもにだってわかるだろう。

「さて。
 私は自身の妻がいうことは事実だと思うし、実際にひと葉殿の姿を我々は確認していない。
 だから、その言伝が『事実ではない』と断ずる根拠は何も持っていない」
「…………何も報告は上がっていない」
「『報告は何もない』。それは彼女が健在である証左にはならん。
 賢いお前になら、よくわかっているだろう」

 陣内の言う通りである。情報を専門に扱う黒鷲隊の小頭であれば、状況判断における条件の性質を、よくよく理解していた。
 陣内には特段、慌てる様子もない。村から、彼女が行方不明だとかいう報告は上がっていない。だからと言って確かに、押都はその目で彼女の無事を確認しているわけではない。
 そういう状況判断の論拠の隙間をまんまと突かれて、押都はしてやられた、と思わず片手で頭を押さえた。陣内は相変わらずしらっとした顔をして、そうして押都がまんまと村の女たちの策略にやり込められているのを眺めている。

「一度村に戻って、彼女の無事を確かめたほうがいいだろう。
 最後に見かけた者がいたのは、村外れの平野だそうだ」
「そんなところまで……連れ出して……」
「ずっと見目のせいで騒動に巻き込まれがちで、生家では外出もままならなかったお方なのだろう。
 彼女は村のあちこちに出掛けて、大層我々の村での暮らしを気に入って下さったらしい」
「……無事なんだな?」
「私は知らんよ。お前が、自分で確認しに行くべきだ。
 だって攫って帰ってきたのは押都、お前自身なんだから」

 陣内は押都の質問にもすげなく返す。押都は大きく溜息を落として、雑面の上から自身の額を押さえた。くしゃり、と雑面が少し拉げるような音がする。
 ややあって押都は、それ以上の溜息を押し殺したように、抑揚のない声音を喉から絞り出した。ようようのことだった。

「暫時、村へ戻りまする。その間、黒鷲隊の指揮をお願いしたいと、雑渡殿へ」
「承知いたしました。お戻りは明日と、お伝えします故」

 勝手なことをいう陣内に、押都は雑面の下からじろりとめ付けるが陣内は白々しい仕事中の顔をして、押都の睨みに堪える様子もない。
 押都はこれ以上陣内にやり込められる前に席を立って、執務室から出た。陣内がああして言った以上、恐らく忍軍の中でも組頭までは押都が村まで戻るような手筈が整っているのだろうし、どうやっても、きっと邪魔など入ってくれないのだろう。
 仕込みに関して、タソガレドキ忍軍は本職である。
 押都長烈は情報を抜き取り、さまざまな要所へ入り込むことに長けた黒鷲隊の長であるが、同じように他の忍軍の男たちだって、戦仕込みや謀略に長けた玄人たちだ。
 まんまとしてやられた、という気持ちで、押都は城から抜け出た。村までは押都の足で一時ほどで、日暮れ前には陣内が話していた村外れの平野まで行きつくことができた。
 平野近くの樹上の枝につかまり、そこで一度足を止めたときに近くの木々が揺れる。

「………………ひと葉殿は」
「この先の平野の岩に掛けて、景色を楽しんでいらっしゃいます。
 山本様は必ずいらっしゃるだろうと請け負って下さいましたが、我々女たちはどうにも半信半疑で。
 お越しくださって、本当に良かったです」

 顔見知りであるから、彼女が村で落ち着けるまでは話し相手になるように、この配下の娘も村へ返していた。自身の配下であるはずなのに、いつの間にか陣内とも話をして上官を謀ったことを怒鳴り付けたい気持ちもあるが、それはただの八つ当たりである。
 彼女もそうして押都が大人気なく、腹に据えかねている気持ちがわかっているのか、にこりと楽しそうに微笑んで、そのまま樹上から下りて駆けていった。恐らく押都が来るまでは護衛がてら彼女と一緒に平野にいたのであろうが、押都が来たならもう自分は用済みだとして、村へ戻ったのだろう。
 ここで彼女の姿のみを確認して戻れば、女ひとりをこの平野に取り残すことになる。

 押都はようよう、観念をして樹上から降り、彼女がいるという平野の中にある岩へ向かって、ゆっくりと歩き出した。平野は木々がぽっかりと開けて、広く、さやさやと風に草が揺れる音がしている。
 彼女はその岩に腰かけて、じっと空を見上げていた。
 西の空は色の濃い黄色に焼けていて、もう黄昏時である。反対の東の空は既にもう濃い紺色に染まっていて、星ぼしが瞬きを始めていた。

「――――押都さま」
「寒くは、ありませんか。ここは風が強い」
「そうですね、でも、そんなに寒くはありません。
 ……空がとっても、きれいで。
 私こんな風に、空の色が暮れていくのを見たのも、一つの空の中に昼と夜が交じり合っているのを見るのも、初めて」

 彼女がそうして空を見上げながら、嬉しそうに話すのに押都は帰ろうとは言えなくて、そのまま黙って彼女の隣に立った。少しでも風除けをするためである。

「村の暮らしはいかがですか?」
「皆さん、とてもよくしてくださいます。私これでも呉服屋の娘なので、着物の仕立ては不得意じゃないんです。
 お針子として少しでもお仕事ができそうで、本当に良かった……」
「不自由はございませんか。足りていないものがあれば、家の使用人に申しつけください」
「…………押都さま」
 
 名前を知ったのだから、彼女が今まで通りの『長烈』ではなく『押都』と呼ぶのは、道理であった。それでも彼女がその呼び方だけでも少し遠くなった気もして、そんな気分に陥る自身に幻滅をする。
 彼女はそっと視線を見上げた空から押都の方へと移して、押都も同じく雑面の下から、彼女を見た。

「あなた様はタソガレドキのお城に勤められている、とても有能な方なのだと村で伺いました。
 だからお忙しくて、家も留守がちであると」
「……ええ」
「私、あなたと一緒にどこかへもっと出掛けてみたかったなんて。
 きっと分不相応なお願いをしてしまったと、……恥ずかしくて」
「そんなことは、ないです」

 彼女が「分不相応」と少し悲しそうな顔をして口にするのに、押都は思わず否定を返していた。彼女がどう思うかなんて、分かっていたのにこうして態度をはっきりとさせず、連れて帰ってきたくせに適当な誤魔化しと屁理屈を言って、彼女に向き合おうとしていなかった。
 連れて帰ってきたのは、彼女を攫ったのは、押都がそうしたかったから、攫ったのだ。
 彼女に攫ってほしいか、なんて狡い問いかけをしながら、その選択肢を彼女に突き付けたのは他でもない、押都自身である。
 彼女はまるで空のように澄んだ瞳をして、押都を見ていた。

「…………分不相応は、私の方だ。
 あなたには話すことができない裏が私にはたくさんあって、してきた仕事も、忍軍でこの地位までのし上がった方法も。
 女子供の耳には到底聞かせられないような、そんな話ばかりで」
「…………はい」
「……………………」

 それ以上は一言も、続けられなかった。
 彼女に許しを乞うて、彼女へしたことや村へ攫ってきたのに放っておいたこと。そういうことを謝って、理解を得ようと見苦しく言葉を重ねたり愛を乞うたりすべきなのに、押都はそうするための言葉を持たない。何一つ真実を話すことが、彼にはできない。
 そうやってじっと口をつぐんだ押都を、彼女は見上げてふっと、口の端で微笑んだ。

「あなたは立派な大人の男のはずなのに、まるで迷子の子どものような。そんな不安げな顔をなさるのね」
「私は面をしています。どうしてそう思うのですか」
「さぁ……、どうしてかしら……」

 彼女はさらっととぼけて、視線を押都から逸らした。きっと彼女の言う通り、今雑面を外して髪を上げれば、押都は情けない顔をしているのだろう。
 押都はほとほと、観念するような気持ちになってその場に片膝をつき、岩に腰かける彼女に跪いた。首を垂れると、彼女がこちらへ視線を向けた気配がある。

「私はきっとこれからも、あなたへ真実をお話しできないことの方が多いのでしょう」
「……………………」
「私は私の過去を、あなたには絶対に知られたくないと思っているし、仕事の内容もあなたには聞かせられないものばかりです。
 けれど、……もしも許されるのであれば」

 そこで一度言葉を切り、押都は顔を上げてじっと彼女を見つめた。
 彼女も同じく、かしずく押都を見下ろしている。風が吹いて、彼女の髪を攫うようにはためかせて、髪が空につらつらと、靡いている。
 その黒髪を手に取って口を押し当てて、彼女に愛を乞うてみたかった。

「あの邸で私の戻りを待っていていただくことは、できませんか。
 ……私にあなたを、口説かせてください。私のところへ、嫁に来て。ひと葉さん」
「…………ふふ」

 そう情けなく言って、かしずく男に彼女は小さく笑い声をあげた。彼女の指先が、風に揺れる押都の雑面にそっと触れる。押都は何をせよと言われているのか理解して、片手で雑面の結紐を解いた。
 ざらざらと、自身の前髪が風に揺れる音がする。

「あなたに口説かれたら、私、何でもすぐに頷いてしまいそう」
「お戯れを」
「……どうかしら、試してみて。
 …………長烈さま」

 彼女が熱く、震えるような瞳で押都を見て、押都は堪らず彼女のほうへ手を伸ばした。はじめて触れた彼女の頬は、幾月ぶりの指先は、この平野の夜風の中ですっかりと冷えてしまっていて、やはり寒かったのだろうと、押都は少しの後悔を思った。
 お互いの髪を払って、彼女に腕を伸ばす。されるまま、押都に少しだけ引き寄せられてされるまま、鼻先を擦り合わせて、そして口を寄せ合った。
 肌はひえていて、合わせた口先も少し、冷たい。
 誰かを温めてあげたい、この人が寒くないといい。
 そんなことを、生まれて初めて思った。

 誰かを温めることが愛なら、――――では。
 恋とは。

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