三、満ち欠け(上)
夏が過ぎて、秋が来た。
町へと通い娘に良家の子女らしい行儀見習いをさせていたが、それも夏が終わった頃に手を引き、今はもうあの商家には通っていない。弟子の娘は今も時折顔を出しているようだが、押都はさしたる理由もなくあの商家へ近づいてもいい口実をつけることができず、それでも今もふとした時にあの麗しい女の顔を思い出す。
祭りの日に彼女が、押都になら触れられてもいい、なんて世迷い事を言ったのは今思えばきっと雰囲気や祭りの空気が浮つかせただけの、何かの間違いのようだったとか思えず、押都にはそれ以上忍びでもなんでもない女へ踏み込む、その権利がない。
だって押都は、昔から体を使って生きてきた男だ。
押都の家はタソガレドキ忍者たちが黄昏氏に仕え始めたときから存在し、長く黒鷲隊の小頭として奉公を続けた家であったが、押都の先々代――つまり父の代で一度黒鷲隊の小頭を不在にさせる、という醜態を引き起こした。
任務の途中で父が不手際を起こし死んでしまい、父の弟――つまり押都の叔父が暫定で小頭の職務を継いだわけであるが、黒鷲隊の小頭が引き起こした任務の失敗は忍軍全体に波及し、その当時はそれなりの騒動になったそうだ。
だから小頭を暫定引き継いだ叔父も忍軍の中ではそれなりに苦労をして父の失策の挽回に奔走したし、押都も同じく、幼い頃から寺稚児に化けて大人に取り入り仕事をしてきた。そうすることでしか家の汚名は雪げなかったし、そうして生きることしか知らなかったのもある。
そういう自らを省みない押都長烈の献身が実を結び、押都は晴れて押都家の家長と小頭の役職を引き継ぎ、黒鷲隊小頭の汚名を晴らすこともできた。
そうやって自分の体を他人に差し出して生きてきたことを、後悔はしていない。同じように自身の体を使って男たちに取り入り戦乱の世を生き抜く術を幼い娘へと教えることは、必要だからしている。
だからそこに悔やむ気持ちはないけれど、ただそのこと自体が快いものだったかどうかと聞かれれば、不快だ、と奥底では思っている。そしてそんなことを自分が感じることさえ、不必要なものだ、と押都は思うわけである。
だって、体を使って生きることは必要だからするわけであって、それが不快だと感じるからと言って、その不快感は何の役にも立たぬのだ。
けれど、あの女は違うだろう、と押都は思っていた。
ただの商家の娘で、他人に彼女自身の体や価値や顔の良し悪しを値踏みされて、まるで体自体に価値があると他人から評価されることは、ただの商家の娘には必要のないことに思えた。
そしてその麗しきかんばせや、柔らかい声音や髪に、押都自身が惹かれることも彼女が押都へ向けた恥ずかしそうな微笑みを忘れることができないのも、結局は押都の体を食い物のようにしてきた過去の男たちと、押都自身が同じような『男』という性でしかない。そういう事実の証明のように思えた。
どれだけ自身が自分の体を食い物にすることに倦み、仕込んでいる娘に同情を抱きその先の多幸を祈ろうとも、結局押都自身だって他人を食い物にするような男という生き物でしかなく、きっと自分の性欲を相手に向けているだけなのだ。
あれほど他人が性欲に支配されることを愚かだと馬鹿にしてきたのに、いざ麗しい女を前にすれば自分自身だってその性欲に体を、心を支配されている。
そんな汚い感情をあの女に向けるのは、押都は嫌だった。だからどうか頼むから、自分の知らないところで笑ってどうか幸せでいて欲しい。そう思っていただけだった。
「押都さま、お聞きになられましたか?
ひと葉さまが、お嫁に行かれるそうですよ」
だから休みの日に町から戻った娘が押都の執務室をわざわざ訪ねてきてそんなことを報告してきた時に、押都は顔色も変えずにただ「そうか」と一言いっただけだった。
「それだけですか?
相手は二十も年上の武家の男で、既にもう子どもは五人もいる御仁だというのに、ひと葉さまはその後家に入られるのですよ」
「…………なぜそんな相手と?
呉服屋の経営に難でもあるのか?」
「我々があの店に取り入る時に嗾けた、雀部様の子飼いがいたでしょう。
あの男たちが店に嫌がらせをするので店の者たちも閉口して、別の武家と血縁を結ぶことにしたのだそうです。
武家同士なら、下手な手の出し方ができませんからね」
夏終わりに商家に通うのをやめてからそんな嫌がらせが起きているとは押都は露とも知らず、それからも都度商家に顔を出していた娘の方が詳しいことに、押都は些か愕然とした。
あの女に必要以上に接触してはいけないと意固地になっていたせいで、逆に情報を拾えていなかった訳である。小頭として有るまじき、と思ってから、しかし幾らしばらく世話になったとはいえ、もう縁もゆかりもない商家にこれ以上深入りする理由はない、とも思う。
「雀部様の子飼いを嗾けたのは我々です。
私は、我々にもその責任があると思っています」
「お前はそれでどうすべきだと、考えている」
外へ出ていた町娘の恰好のまま、執務室までわざわざ訪ねてきて押都に上申してくる娘の声色は、なんだか押都の優柔不断を責めているように聞こえた。
「……押都さま。
あの商家の――ひと葉さまのことに関してだけは、ずっとあなたらしくありませんでした。
いつもあなたは冷静で冷徹で、隊の人間にも私への仕込みも一つも判断を違えたことがない。なのに、あの方のことに関してだけ言えば、むしろ一つも判断をしようとなさりませんでした」
「………………」
「ひと葉さまは確かに美しい方です。町での評判もすごぶる良くて、これからだってあの方への縁談はいくらでも持ち上がるでしょうし、今回のような揉め事だっていくらでも起こるのでしょうね」
「……何が言いたい」
執務室の中で傅き、押都の如何にも従順な部下という顔をしながらも娘は、幾らかの憤慨を込めて押都との会話をしているように見えた。
「ご自分の心さえ見えていらっしゃらないことが、あなたらしくないと私には思えます。
お好きなんでしょう、ひと葉さまのことが」
「………………」
違う、という一言さえ、押都があの商家の女をただの他人として捉えられていないことの、まるで証左のようだった。
射貫くような目をして娘は押都を見ていて、そうして返答をできず押し黙った押都を見て、呆れたような溜息を落とす。
「お前は私が是とも否ともどちらかを言った時点で、私にとってひと葉殿が特別だと。
そう言うつもりなのだろう」
「私見ですが、そもそも押都さまは私などに『あの方がお好きなのでしょう』という質問さえ、させない方にございます。
私にこの質問を許している時点であなたはいつものような精細さを欠いているし、そうしてあなたの心を乱すあの方は、押都さまにとって特別な女人なのでしょう」
「…………なるほど」
自身の仕込みがしっかりと入っているので、他人の様子をつぶさに観察できている。娘をここまで育てたのは押都なので、これではまるで自分自身に足元を掬われたような構図だ。
押都は呆れらめたように溜息を落とし、手で娘を払って「もう退室しろ」の合図をした。娘はそんな押都の態度に不満そうな顔を隠しもしない。
「どうされるおつもりか、聞くまで戻りませぬ」
「……お前が気に病むまでもない。私にはどうともできぬ」
「…………だって……」
小さな子どものような言い方で不満を漏らし、娘は唇を少し尖らせた。
「ひと葉さまだって、押都さまのことが満更でもないご様子でした。
後家とはいえ、他人のお嫁になってしまえばもう会うことも適いません。それでいいのですか?」
「いいも何も。あの方は前途ある商家の娘で、私は城勤めともおおっぴらに出来ぬ身分。
どうやってあの方に『嫁に行ってほしくない』などと言えようか」
「押都さまだって、曲がりなりにも武家の方でございます」
拗ねたように唇を尖らせる娘は、押都がそうして自身の身分を卑下することも気に入らぬようで、ずっとむくれた顔をしている。押都はそうして娘が拗ねてみせるのに少し絆されたような気持ちになって、蘇利古の雑面の下で小さくだが、微笑んだ。
「もう戻りなさい。お前がそこまで心配をする必要は、ないよ」
「……………………はい」
そう言えば、彼女は不服そうな顔をしてむくれっ面のまま、じっと押都の雑面を睨んでから部屋を退室していった。体ばかりはすらりと手足が伸びて娘らしくなってきたのに、いつまでも手のかかる子どもだ、と娘に呆れと愛情の混じった溜息を落としてから、書類仕事の続きを再開する。
そうやってむくれた顔をしたまま、どうせ幼馴染たちのところへ走っていって散々と文句を言ってみせるのだろう。
そのまましばらく日暮まで執務室で仕事の続きをしてから、日が暮れて行燈の明かりが必要な時間になって押都は席を立った。今夜は月が明るいのでどこかへ忍んでいく急ぎの仕事もなく、夜は非番であった。
そっと黒鷲隊の詰め所を抜けて、城下へ降りていく。昏色の忍服は月明かりの下であっても押都の姿を暗がりの中に茫洋と溶け込ませていて、逆にいつも身につけている蘇利古の雑面が目立つと、指先でそれを払った。
久方ぶりに訪れた城下町で裏路地や民家の屋根の上を伝って人目に付かないように件の呉服屋まで辿り着き、家人に見つからないまま、そっと体を店の裏側の邸の庭先に滑り込ませる。
夜更けなので月は中天で高々と輝いており、押都は恐らく彼女の私室が有るだろう邸の奥を、ぼんやりと眺めていた。別にあの娘に言われたとて、押都に何ができるわけでもない。
彼女がそんな縁談を組まなくてもいいようにまた店に出入りをして姿を見せてやっても、嫌がらせの方法が変わったりもっと直接的な手段になることだってあるし、そういうものから彼女を押都が守ってやる手段もなければ義理もない。
もしも押都が直接相手を下したとしても、また別の恨みを買うだけで根本的な解決にはならない。武家に目を付けられたのであれば武家と武家の話にしてしまうのが、きっとこの店の者たちが考えるように一番手っ取り早く、賢い方法だった。
だから、押都が彼女にしてやれることなど一つもないのだ。押都家は一応は武家の流れを汲むとは言っても、大っぴらに名前や姿を見せていい役柄ではない。
押都の名前は、影の中に溶けて隠れてこそ意味があるからだ。
こうして一応は様子を見にきたのだから、あの娘だってきっとそれで少しは満足するだろうと思った。
あの娘だって馬鹿ではないから押都が表立って出ていくことができない身分であることも、そうして目先の露ばらいだけしてやることに意味がないことも、よくわかっている。
そんなことを思いながら庭の植栽の影から部屋の方を眺めていると、ややあって、すらりと閉じられていた障子が開いた。
彼女だった。
ほっそりとしたかんばせが月明かりの下に顕になっていて、気苦労が多いのか、少しだけ痩せたようにも思える。あの祭りの晩に握り合った手のひらの感触や、抱き留めたとき、彼女の髪から香油が香ったこと。
そういう、身の丈に合わない彼女との接触の記憶がまざまざと、押都の脳裏には蘇ってきて思わず喉の奥が重く、痛くなる。胸の奥がまるで絞められるように苦しいような気持ちになるのは、きっと押都が彼女をきれいな女だと、そう思ってしまっているからに他ならなかった。
部屋から出た彼女はそのまま廊下を歩いていこうとして、ふと立ち止まって庭先を見る。まるで押都がここにいることを悟っているような視線に、押都はぐっと喉を鳴らした。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
まさかそうして押都が唾を飲みこんだ音が聞こえたわけもなかろうに、彼女は月明りにぼんやりとした庭先に向かって、そう声を掛ける。出て行くべきではない、とわかり切っているのに、足も押都の思考も、全くいうことを聞かなかった。
庭の植栽の木立の中を抜けて、ぬる、と姿を現す。
暗闇の中から急に現れた白い雑面に彼女は怯えたように肩を震わせたが、喉元で悲鳴を殺してこちらを見ていた。
「…………もしかして、長烈さまですか?」
「…………なぜ。わかるのですか」
本当に心の底から、不思議だった。曲りなりにも押都は高名なタソガレドキ忍軍の黒鷲隊の小頭を務めるような有能な忍びだ。
だというのに武術の心得もない彼女が、どうして自分が控えているとわかったのかわからないし、この蘇利古面で彼女の前に出たことなど一度もない。
なのに彼女は押都が庭に潜んでいることを見抜き、雑面を被った奇妙な人影が押都であることを見抜いた。
「……あの子が、あなたが連れていたあの娘さんが。
訪ねてきたときに言ったのです、『必ず長烈さまがそちらへ向かうようにしますから、待っていてください』と」
「それは……」
「そんなことを今の時期に言われたら。私だって、期待をしてしまいます……」
彼女はそうして自身を恥じるような口調で言って、庭先に浮かんだ押都の影から視線を逸らした。彼女だって、まさか本当に庭先から男が出てくるなんて思ってもみなくて、これでも驚いているのだ。
一時期、行儀見習いを請け負っていた娘はあれからも時々店に顔を見せていて、他愛ない話を少しして茶を飲んで帰っていく。行儀見習いを終えてから長烈が顔を見せることは一度もなかったし、父に会えたのか、という彼女の問いにも娘は曖昧に頷くだけだった。
長烈が、見た目通りの武家であってもなくても、彼女はもうどうでも良かった。あの祭りの日に長烈が困ったように彼女の名前を呼んだこと、繋いだ手を彼が離してくれなかったこと、彼女が「あなたなら触られてもいい」なんてはしたないことを言ってしまったこと。
そういう思い出だけが胸の中にずっと凝りのように残っていて、いつまでも消えてくれない。
会いたいか会いたくないかと言えば、彼女はずっときっと長烈に、彼に会いたかったし嫁入りの話が出たときだって、もしかしたら長烈のところに嫁ぐことができないかしら、なんて。そんな馬鹿げた妄想をしたりもした。
「来ていただけたら、どんなに嬉しいだろうと思っていました。
でも、会いに来ていただけるとも思っていませんでした」
「…………あなたがお嫁に行かれるのだと、聞いたので……」
彼女の言葉に長烈は歯切れ悪く言って、そのまま少し黙った。月の明かりが流れる雲で少しだけ陰って、長烈の姿がひと時視界から消える。その間に彼は帰ってしまうのではと再び月明かりが現れるまで気が気ではなくて、もう一度長烈の姿が月明かりに浮かんでから、彼女はそろそろと庭先に降りた。
「……私、お嫁に行きます。相手は武家のご隠居さまで、奥様を亡くされて数年経つそうです。
既にお世継ぎはいらっしゃいますし、年も大きく離れていますから、私のお役目は大してないのでしょう」
「………………」
「気難しい方ではないと聞いていますし、私のような商家の娘でも後家に、と言ってくださるのですから。
きっといい方なのでしょう」
「そのお相手については、私もそれなりに存じております」
彼女を後家として嫁に取ろうとするのは、それなりに地位も武勲もあるタソガレドキに長く仕える家の一つである。押都も忍軍の小頭の一人としてその男に面識があった。それなりに賢く、武芸も政治もできる男で、確かに雀部の系譜とはあまり相容れない関係にある。
奥方を亡くされたと聞いた気はするが、そのご老体が彼女のような若い娘を再び娶ろうというのは単なる政治だけの話なのか、それとも男としての下心からなのかはわからない。
それでもそうして道具のように年上の男へ嫁ぐことを当たり前のように話す彼女を、俺はどうしたいのだろう、と押都はらしくなく、ぼんやりと考えた。
彼女は着物の裾や白い足袋が土で汚れるのも構わず庭へ降りてきて、じっと押都の姿を眺めている。
「あの祭りの日、あなたがああして連れ出して下さって、とても久しぶりにあのお祭りの空気を感じることができて。
私、本当に嬉しかったんです。……最後にそれだけ、どうしても伝えたくて」
たったそれだけのことを、彼女はまるで宝物についてを話すように、大事そうに口にして仄かに微笑んだ。あの祭りの日、彼女の手を離すことができず彼女の名前をただ呼ぶしかできなかったあの自身との記憶を、彼女は嬉しかったなどと言う。
きっと、他にもあるはずだ、と思った。
彼女がもっと大事にすべきものはきっと他にもあって、それは決して押都がああして半端に彼女の手のひらに触れて、彼女の名前をただ呼んだだけの、そんな下らない思い出であっていいはずがない。
もっと他に、彼女が心から笑って無垢に宝物のように扱うべきものは、きっと他にある。
「きっとあなたは、他にもっとたくさん、やりたいことをすべきなんです」
「…………そうでしょうか」
「そうです。ああして祭りを見に行くことだって、町への買い物だって好きに出かけてみたらいい。
団子だっていつでも食べに行って、呉服屋の店先から道行く人を眺めていたっていい」
「そうですね。……確かに、してみたかったです」
「してみれば、よかったんだ」
彼女がそうして今まで我慢してきたことを、まるで過去のことのように言う。押都はその諦めたような口ぶりに堪らない気持ちになって、思わず取り繕うことも忘れて、言った。
「やってみればよかった。外に出てみれば……」
「だって、私は外へ出ると店の者に迷惑をかけますから」
仄かに微笑んで他人への迷惑を語る彼女は、そうやっていつも、自分が悪いみたいな顔をする。そういう彼女の口調に苛々として、押都は思わず雑面の下から彼女を少しだけ睨んだ。
まるで自分が全部悪いみたいな顔をして、そうして自分が引きこもってどこへも出なければいいという顔をする。祭りに出掛けることも、団子屋へ出掛けて茶を飲んで帰ってくることも、本当は全部羨ましいと思っているくせに。
まるで物分かりのいい顔をして、しらっと嘘をつくのだ、この女は。
「――私なら」
思わず、口に出していた。
「私なら。
あなたをお連れして護衛もできた、私に言ってくだされば……、」
「言ったとして。
あなたは私を連れ出してくれましたか? それは違うでしょう」
彼女は冷たい口ぶりで、押都の言葉を遮った。彼女がそうして自分の言葉を遮ったことに、自分自身が何を口走ろうとしたかをようやく理解して、押都は愕然とした気持ちになる。
俺に言えばいい、と言ったのだ、自分は。
俺に言えば、君を連れ出して色んなものを見せて、楽しませてやれたのに。
そんな普通の男みたいなことを、まさか押都が言おうとしたのだ。愕然とした。しかも彼女に、押都がそんな普通の男のような真似をするわけにいかなかったことを見透かされて、どの口で、と詰られている。
彼女はいつの間にか泣きそうな顔でそんな愚かな男を、押都を少しだけ睨んでいて、そのことに喉の奥がぐっと熱くなった。違う、彼女を泣かせたいわけでも責めたいわけでもなく。
ただ、そうして男のせいで彼女が思う通りに生きられていないことが、悔しくて口惜しい。
「…………違うんです、私は、あなたが普通に生きられたらいいと。
そんな、差し出がましい……」
そうだ、押都だって結局他の男たちと同じで、彼女に自分の願望を押し付けているに違いない。
彼女がそうして自分の見目のせいで不自由を強いられることも、男の欲望や家の政治道具にされることなく、幸せに生きて欲しかっただけで、それは押都長烈という一人の男の、ただの独りよがりの独善でしかない。
そのことがほとほと、嫌で仕方なかった。
「私は……、言ってほしかっただけなんです。
あなたがどこへ行きたくて、どんなことをしてみたくて、誰とどう生きたいのか。
それを衒いなくあなたが言って下さって、それを聞いてみたかった。すみません、俺も、自分が何を言っているのか……」
ほとほと情けなくなって、押都は俯いて雑面の上から自分の額を押さえた。こんなこと、初めてだった。
喋るたびにぼろぼろと自分の襤褸が漏れ出て、零れていって何を喋っているのか、まるでわからない。俯いた視界に彼女の汚れた足袋が映っていて、それがまるで決意したように、こちらへ進んでくるのが見えた。
「私、あなたと出掛けてみたかったんです」
「………………」
「長烈さまがお外へ誘って下さったらって、いつも夢想していました。
だからあの祭りの日も本当はとても嬉しくて、久しぶりに怯えず外へ出られたことも、……あなたが誘って下さったことも。
それだけで、もう十分でございます」
そう言って彼女は微笑んだ。押都にはそれが、何もかもを諦めて、受け入れたような笑みに見えた。
喉がからからに乾いている、言うべきではない、と警鐘が鳴っている。
それでも、言葉が口をついて出るのを、押都は止めることができなかった。
「私は…………。
私の本来の名前は、押都長烈と言います」
彼女がそうして偽りなく自身の本心を話をしてくれたことに、押都の心だって同じように滲むように溢れて、こぼれて、彼は自分の言葉を続けていた。
「あなたがこの婚姻を心から嫌だと、お思いになるのであれば。私は、あなたを攫って帰ることができます」
押都の話したことに、彼女が目を見開く。
駄目だ、と心の奥で警鐘が鳴っている。こんなことをすべきではない、と理性が叫んでいる。
「けれど、私があなたを攫えばもう二度とこの家には戻れませんし、家族に顔を見せることもできません」
「…………はい」
「……それでも良ければ。
私はあなたを攫うことができる」
狡い聞き方だと思った。
年上の男との結婚なんて、嫌に決まっている。それなのにこんな聞き方をして、彼女に選択肢を押し付けて、彼女自身に選ばせるのだ。
汚い男は、俺だ、と押都は思った。向こうから、人の話し声が聞こえる。このままここにいればきっと見つかってしまうし、その前に押都は姿を消さなければならない。
らしくもなく、押都は顔を上げて彼女の顔を見ることができなかった。彼女の小さなつま先がこちらを向いている。
少しだけ、衣擦れの音がした。その足が押都の方へ一歩、確かに、踏み出された。
「攫って」
小さな声なのに、確かに聞こえた。視線を上げる。
彼女はじっと押都の顔を見上げ、瞳の中に明るい月が写り込んで、ちっかりと、光った。
「攫ってくださいまし、長烈さま」
向こうから人が歩いてくる気配がして、咄嗟に彼女の手を掴んで、木立の影に引き込む。彼女はされるまま、押都の胸元近くまで身を寄せていて、押都は人の気配がなくなるまでそこでじっと彼女の艶やかな髪を眺めていた。
お互いの吐息の音まで、聞こえる。
――いいのですか、なんて。聞けなかった。
押都はそのまま彼女を、女を攫った。月の明るい晩だった。
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