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四、夜空とひとひら


 仕事が終わらない。
 先日から、隣のドクタケ領との睨み合いが始まっておりそれに人員を割かれていると思ったら、チャミダレアミタケ側にも何かの動きがある。そういういざこざの中にしれっと、先日の雀部の子飼いの若衆たちを放り込んで国境の見張りをさせるように手筈したりなどなど。しながら、押都は粛々と仕事を進めていた。

「押都小頭。明日は昼すぎから城の方へ行くから、狼に黒鷲も随伴するように、と組頭から」
「雑渡小頭。承知した」
「なので今から明日の昼までは、我々に暫時を取るようにとのお達しだ。隊の指揮は月輪と隼が受け取ると」
「……………………」
「家に戻ってやれって、陣内から伝言」

 黒鷲の執務室に顔を見せて、そういう連絡事項のみの伝言を告げて「じゃ」と去っていく雑渡昆奈門は、変わらず独り身の身軽さを持っていた。似たような年齢の押都が身を固めたので、そろそろ雑渡にも、という話がないわけではないようだが本人にはあまりそういう気はなく、飄々と、押都のこのザマを見て軽やかに笑っている。
 陣内が未だに兄貴分の顔をして細かく口出しをしてくることと、その背後にいるのであろう女たちの辣腕ぶりに押都は大きく溜息を落としてから、取り掛かっていた書類に再度目線を戻した。もう日は暮れたので、今から村へ帰れば着くのは夜中近くになる。
 変に夕飯の心配をさせるような時間に着くと、彼女にも使用人にも要らぬ心配りをさせることになる。なので押都は夜半まで時間を潰してから、のろのろとタソガレドキの城を出て村へと戻った。
 
 久しぶりに戻った村の自身の邸はやはり既に寝静まっていて、家の者たちを起こさぬようにそっと家の中に上がり込む。彼女が寝起きしている部屋は邸の中でも一番奥にあって、押都にしてみれば、そこまで忍んでいくも造作のないことだった。
 彼女も寝起きしている、この家の主人の自室をそっと開けて、その中に体を滑り込ませる。今まではこの部屋は押都が村へ戻ったときぐらいしか使われていなかったが、今は彼女がいるので、少し部屋の雰囲気が変わったように思う。埃っぽくないというか、部屋の中に生活の張りがある。
 
 部屋の中では、彼女はすやすやと小さく寝息を立てていた。足音も立てずに褥まで行き、そっと彼女の寝顔を眺める。久しぶりに見た彼女は、いつもはたおやかに押都を見る瞳を閉じて、少しあどけなくも見えた。
 額にかかった髪を払ってやり、その寝顔を眺めている。このまま、彼女の顔を眺めて朝を迎えるのも、良い。
 そんな馬鹿げたことを思っていたら、ややあって彼女が身じろぎをして、そっと瞼を持ち上げた。

「…………おかえりなさいませ」
「起こしたか」
「どうかしら……、帰っていらっしゃるとは思わなくて……。
 ……というか、そんな。起こしてくださればよかったのに……」

 彼女はゆるゆると褥の中で瞼を持ち上げて、少しだけ眩しそうな顔をして押都と、その向こうから覗く月明りを見てから、恥ずかしそうに自分の顔を手のひらで隠した。押都が自分の寝顔を眺めていたと、今さら気づいたのだろう。
 そうして彼女が恥じらってみせたことに、ここに戻ってきたのだとようやくじんわりと、甘い気持ちが込みあがってきて、押都は薄く喉を鳴らした。彼女にも、押都が顔だけ見せてすぐに城に戻るのではなく、少し腰を落ち着ける気持ちがあるとわかったのだろう。
 顔を隠していた手のひらをそろそろと離すと、褥に寝転がったままで仄かにあまく、押都に微笑みかけた。

「…………いらして」
「今駆けてきたばかりで、水も浴びていない」
「褥が汚れたら明日の朝、一緒に怒られましょう。湯もその時に使えば。
 着物も脱いでしまわれたら、きっと大丈夫です」
「私の妻は、随分と大胆になられたようで」

 押都が小さく鼻で笑って言ったのに、彼女も同じように悪戯めいた顔で笑って、押都の手に自分の指を絡めた。女が誘うままに着物の帯を解いて、彼女の誘う褥の中に入っていく。
 彼女は自ら、押都が帯を解いた着物を脱がせて自身の腕を押都の首に絡めてきて、女の体の香りに押都はじわじわと脳味噌を蕩かされていくようなこの心地を、思った。
 褥から衣擦れの音をさせながら、お互いに唇の先を擦り合わせて触れるだけの口吸いをする。いつの間にか押都の雑面は、無造作に取り払われていた。

「明日は、朝餉をご一緒できますか?」
「朝だけであれば。昼には戻る」
「そうなのですね。でも、嬉しい」

 恥も衒いもなく、彼女はそうして小さな喜びを口に乗せて、押都に囁いてくる。まだ今は夜だけれど、明日に二人で迎えた朝にはきっと、笑い合いながら朝飯を一緒に食べることができて、彼女に見送られてまた仕事に戻るのだろう。
 この女と出会って初めて、押都長烈は、好いた女の肌は他とは違って、あまい味と匂いがするということを知った。恋しいとは、誰かを慕わしいとは、恐らくこういう事象を呼ぶのだ。
 恋女房で世帯持ちの山本陣内が、家に帰れ家に帰れと口煩くいうのも成程。道理なわけである。













 店先に水を撒いた。ざ、と音がして撒いた水は地面に吸い込まれていく。
 陽炎がたつほどまだ暑くはなっていないが、近頃は汗ばむほどに夏に近づいてきた。なので彼は呉服屋の店先に打ち水を撒いて、店先の温度を少しでも冷ましておく。
 近頃は国境で戦の種がくすぶっていると聞くが、そのおかげなのかどうか、店に嫌がらせをしていた武家の子飼い若衆たちからの悪戯は鳴りを潜めていた。彼だって普段は戦などいやだ、とは思っているが、今回ばかりはそれの頃合いが如何にも、都合良かったと思えた。
 
 姉の姿はあれから半年以上、長く消えたままである。
 普段どおりに、店からも自宅の邸からも出ていないはずなのに、彼女の私室には姉の姿がなかった。朝になって、いつもの時間に起きてこなかったことを不審に思った使用人が、部屋も、邸のあちこちも店も全部探し回ったがどこにもいなかった。
 たった一晩で、彼女はまるで真夏の陽炎のように揺らいで、消えてしまった。彼はなんとなくだが、いつかこんなことが起きるような気がしていた。

 彼の姉はひどく見目のうつくしい、麗しい人で、だからいつも家の中に閉じこもっていた。けれどその一方で、姉が外に焦がれていることを知っていた。
 いつか、外に出て帰ってこなくなってしまうのではないか。彼は漫然とそんな不安を感じていたから、逆に彼女の外への憧れを消してしまえないかと、都度外出に誘ったりどこかへ連れ出そうと試みたのである。
 けれど結局はそれも無駄で、彼女はどこかへ消えてしまった。彼女の失踪は件の若衆たちも、彼女が嫁入りするはずだった武家の者たちも何も知らず、恐らく突発的なものだと父や番頭は考えているようだった。

「――――――もし」

 そんな風に姉のことを考えていると、朝早くの白々とした陽光の下で、伺うように声を掛けられた。
 顔を上げれば彼と同じくらいの年頃の少年が笠をかぶって立っていて、じっと笠の下からこちらを見ている。笠の下の髪は波打つようにうねっていて、じっとこちらを見る目は伏せがちの眉とは真逆に釣り目がちの、そんな少年だった。 
 どこか、見覚えがある気がした。

「失礼ですが、こちらは空谷様のお宅でしょうか」
「……はい」
「こちらを預かってきました。どうぞ」

 少年はそれだけ言って、ずい、と折り畳んだ紙を差し出してくる。その有無を言わせぬ様子に思わず紙を受け取り、見る。
 折り畳んだ紙は間に花枝が一輪挟んであり、白い椿の花だった。彼は思わず、薄く喉と鳴らしてからそろそろとその紙を開く。すると、中には一言だけこう書かれていた。

『結婚いたしました』

 間違いなく、姉の字だった。
 慌てて顔を上げて、先ほどの少年に問いかけようとする。「あの――、」 けれど顔を上げるとそこには、先ほどのうねり髪の少年の姿はどこにもなく、まるですべて夢だったかのように、ただ町の人びとの雑踏だけがそこにあった。
 けれど、夢ではない。
 手の中の小さな文が、彼にそれを伝えている。既視感の正体を思い出した。いつか行儀見習いに迎えていた少女を数度迎えに来ていた。大抵は娘の面倒を親代わりに見ていると言った陰気な年上の男だったが、数度、あのうねり髪の少年が迎えに来たことがあった。

 もう、あの少年が見ているか、分からない。けれど彼は心がそうしたいと叫ぶままに、その場で大きく頭を下げた。
 姉が外へ行きたいと、もっと自由にどこかに行って色んなものを見たいと思っていることと、そして店に一時期出入りをしていた、あの陰気な男を憎からず思っていたこと。
 そのことを、彼は知っていた。嫁入りの打診も何もなく姉を攫ったことはただ彼や家の者を不安にさせただけだったが、武家の後家に入る縁談や嫌がらせの数々のことを思えば、それが最適ではないにしても一つの正答であったと言える。
 そしてこうして姉の字で『結婚した』と文を送ってくるのだから、それをしてくれるぐらいの甲斐性がある。そういう男なわけである。

 だから彼は、頭を下げた。自分にはそれぐらいしかできないと思った。
 姉がどうか、幸せに暮らしてくれたらいい。ここではない、どこか違う場所でそこでも同じように苦労があるのかもしれないけれど、どこかで幸せに暮らしてくれるなら。
 あの武家染みた、陰気な男がどこの誰だったのか。彼は今も知らないけれど、どうか姉をよろしくお願いします、と思っていた。
 姉はきっとどうやら、好いた男と結婚できたらしいから。

 しばらく頭を下げて、ようやく顔を上げたその道の先に、うねり髪の少年といつかの少女が並んで歩いていく。それが見えた気がした。気がしただけだった。もう、暑くなって夏が来る。
 彼の姉は道のその向こうの、まるで夢まぼろしのような逃げ水のその方へ。
 
 好きな男のところへ、嫁いでいったのだ。






―了―







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