二、あぶく淡く
1.
送り迎えのために店先に顔を出すと、裏手に回って中へ入っていいと家人に言われた。
押都は言われた通りに店脇の、家人用の門扉を開き、手入れの行き届いた庭を抜けて、店の裏側に位置する呉服屋の私邸へと進んだ。家の玄関口で押都を迎えた家の使用人は、押都に縁側へ回るように言って離れを指さす。
使用人が差した離れからは、薄っすらと琴の音色が聞こえていた。
押都が自身が仕込んでいる弟子への行儀見習いを、この家の娘に持ちかけたのは件の娘の指南役が京出の女房だったから、ということも十分にある。
が、同時に、こういう大店の商家の娘というのはどういう振舞いをするものであるか。それをその弟子に見せるためでもあった。
弟子の少女は元々は海で生まれタソガレドキに流れ着いた経緯の者なので、里の中しか見たことのない者に比べれば見識が広いほうではある。しかし勿論ながら「まるで姫君のような」という振舞いは知らぬし、里中の女の真似はできても姫君の真似事や地位や立場のある女、そして育ちがいい女というものの真似事をさせるには、些か見聞が足りなさ過ぎた。
故に、まずはタソガレドキの城にて武家の女とその取り巻きの姿を見せ、次に町中での身分や立場を持っている女、というものを見せた。勘は悪くない弟子なので、こうして仕込めば押都が学んで欲しい身のこなしや立場に応じての挙動を、十全に見て帰ってくるだろう。
だから、そうしてある程度見込んでいる女弟子に行儀見習いをさせるのに、わざわざその弟子を押都が送り迎えをする。
それは決して弟子の身を案じているわけではなく、タソガレドキ城下でもそこそこ大きなこの商家の内実を押都自身が見ておきたい。ただそれだけの理由であった。
「ああ、長烈さま」
言われた通りに庭を回って、縁側に近づくと以前道端で助けた娘が廊下の向こうからぱたぱたと現れた。てっきり、今室内で琴の練習を弟子が共にしている相手は彼女かと思っていた。
そう押都が思った気配を嗅ぎ取ったのか、彼女は「叔母が……」と少し困った顔をして言った。
「彼女、とても筋がいいと言って、偶々来ていた叔母が琴のお稽古にやる気を出してしまって……。
私も元々、叔母に琴を習ったのです。一時はお城へお琴を弾きに行ったこともある名手なんですよ」
「それはありがたい」
彼女の叔母が、京にも出入りする琴の名手だというのは調べがついていた。そして母親のいない彼女を気にかけて、その叔母が時間を見つけてはかわいい姪に会いに来るのも知っていた。
弟子がその叔母に気に入られるかはわからぬと思っていたが、目論見どおりに気に入ってもらえたようだ。その叔母君の琴の技量も、近くで見ることができただろう。押都自身にも経験があるが、変装の見本とできる人物像は多ければ多いほどいいのだ。
「そろそろお迎えにいらっしゃる時間とはわかっていましたが、もう少し、叔母に手解きをさせてあげてくれませんか?」
「こちらこそ、願ってもない機会です。私はいくらでも待ちますので」
押都の返答に、彼女はあわく微笑んで「そちらにお掛けになって」と縁側のふちを差した。言われるままに掛けて待っていると、彼女は盆に湯飲みと茶瓶を乗せて戻ってくる。
彼女が楚々とした手つきで淹れてくれた茶を飲みながら、仄かに聞こえてくる琴の音色を聞いた。琴は、押都も昔教わったことがある。
押都が琴を教わったのはとある寺の坊主で、声を荒げることはほぼない御仁であったが、琴やら手習いやらを習っていて少しでもうまく行っていない部分があると、坊主が常に携えていた竹箆で押都の手をぴしゃりと、よく打った。
坊主はタソガレドキの忍び達から金を積まれて依頼され、幼かった頃の押都に今の彼の弟子と同じく、行儀見習いを叩き込んでいた。
「…………長烈さまは、琴の音はお好きではありませんか?」
そんなことを薄っすらと思い出しながら琴の音を聞いていた押都に、彼女は恐る恐るというように聞いた。押都は努めて朗らかに「いいえ。好きです」と間髪入れずに返す。
すると彼女は少しほっとしたような顔をして、押都に微笑んだ。
こういうところのある娘だ、ということは、会って二度目か三度目のときに勘付いた。
いかに大店の子と言ってもただの町娘に過ぎないのに、妙に勘が鋭いというか目端が利くところがあって、今も彼女が当ててみせたように押都は琴の音色にあまりいい思い出はない。
押都もいい大人なのでそうして本心を当てられたことは見せず、白々とした顔をして首を振ってみせるが、内心では些か厄介な娘だな……と彼女への認識を改めていた。
一方で彼女のほうは、この「長烈」という少し風変わりな男に少しだけ興味を抱いていた。
自分をああして往来で助けてくれたとき(実際は押都の仕込みであったわけだが)は如何にも荒事に慣れたような雰囲気だったのに、話してみれば物腰は低く、よくいる武家の男のように偉ぶるような素振りもない。
何が他の男と違うのだろう、と少し考えてから、ああ、と腹落ちした。
この男はなぜか、幾らばかりかの哀れみや同情を込めて、彼女を見ている気がするのである。それがどうしてなのかはわからない。けれど、長烈と名乗った男が彼女に向けるのは、どうにも憐憫や同情や不憫さを込めた視線に思えた。
「失礼ですが、どうして私が琴の音色が好きではないと……?」
だから彼女の問いかけに彼がそう聞き返してきたときに、彼女は少し虚をつかれた気持ちになった。男からはなんだか彼女への遠慮があるように思えたので、こうして問いかけに問いが戻ってくるとは思ってもみなかった。だから敢えて聞いた節さえある。
押都のほうは逆に娘が、そういう「きっと聞き返してこないだろう」という少しの打算の元に、自身への問いかけをしてきたことを敏感に悟って、仕返しのつもりで問いを戻した。勘のいい娘と言えど、押都のような磨かれた目敏さとは違う。
なので押都が問い返したことに、彼女は少し困った顔をした。
「さぁ、どうしてかしら……。
大変失礼致しました、不躾なことを聞いて」
「いえ、とんでもございません」
謝罪をしあいながらも、押都は彼女が押都が琴の音が苦手なのだろうと見抜いた要因を、それが論拠のない何となくの感覚であっても、掴んでいるだろうことを悟った。
恐らくその要因が当たっているだろうと悟ったから「不躾なことをした」と謝るわけである。
娘は押都に茶を淹れ、それきり黙った。押都もそれ以上は問い質さなかった。
ほろほろと、琴の音色が部屋の中からただ聞こえてくる。
2.
またある日、迎えに行くと娘だけが玄関から出てきて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ございません。彼女は弟と一緒に市へ買い物へ出ておりまして、まだ戻っておらず……」
「ああ。構いません」
体は頑丈だし物怖じをしない女子なので行儀見習いだけでなく、店の小間使いでも何でも使ってやってくれと先方にも依頼した通り、時折そうして店の手伝いとして弟子の娘は連れ出されていることがある。
良ければここでお待ちください、と彼女に言われるまま玄関の上がり框に腰かけ、彼女が出してくれた茶を飲んだ。
「近頃は随分暑くなってきましたね。もう夏も近いのかしら」
「そのようですね」
「長烈さまもここまで歩いてらっしゃるのも大変でしょう。
日暮れになればもう少し、涼しいのですけれど」
「ええ。しかしいざ暮れると、歩くのも難儀ですから」
「そうですね。暗い中で歩いて、怪我をしたら大事ですから」
他愛のない天気の話をしながら娘が自分のために時間潰しをして、間を持たせてくれようとしているのを眺める。彼女は長い前髪の下から送られる押都の視線に気づいているのか、少しだけ居心地の悪そうな顔をして、そっと会話を切った。
「……あなたは、一緒に行かれなかったのですね」
「え?」
ややあって押都が聞くと彼女は虚を突かれたような顔をして、瞳をしばたかせた。
「市への買い物です。弟君とあの子が一緒に行ったのなら、あなたも一緒に行かれても良かったでしょうに」
「ああ……、私は、いいのです」
言いながら、彼女が困ったように目線を逸らして、板張りの床をじっと眺めるのを見ていた。
「私が行くと、以前のような迷惑をまたかけることになりますから」
「………………」
「あの時だって、長烈さまが助けて下さったからどうにかなっただけで。
ああして面倒事を引き起こしますから、私は外へ出ないほうがいいのです」
あの時のあれは仕込みであるから、いざ彼女が今外へ出かけたとしても同じ出来事が起きるかどうかはわからない。それでも、この女がああして破落戸もどきのヤンチャな男たちの目を引くような、見目のいい女だということは確かだったし、わざわざ彼女の方に直接的に手を出すよう押都が仕向けたわけでもない。
そうして女が少しだけ落ち込んだような様子で、板張りの床に目線を落として見せると白い頬に睫毛がぬら、と光って、押都の胸底がざわざわとした。
そんなことはありませんよ、と言ってやりたいような気持ちになるし、そうして落ち込んだような素振りの彼女の顔を上げてやりたい。白い頬の手触りはきっと滑らかで、触り心地がいいのだろうと、そんな夢想を男にさせる。
「……そんなことはないでしょう」
そんな欲を抱かせるような目の前の光景と、自分の心の内を見ながら押都は、結局その場の雑談を続けるためだけの当たり障りのない返答をした。押都の声音に滲んだ少しだけの困惑の色を嗅ぎ取って、彼女は慌てて顔を上げ申し訳なさそうな顔をする。
「失礼しました。こんな、愚痴のようなことを勝手にお話しして」
「いえ」
押都からしてみれば、そうして女が自身の見た目が男の興味を引くせいで、満足に外出もできないという憂いは身に覚えがあることであったし、だから同情もしていた。けれど押都には、例えばこの女にそういう同情心や、人目を忍ばないと外出もできない不自由さを押都自身も理解できると、教えてやる。
そういう共感を返す理由は一つもなかったし、すべきではないと思えた。
押都が短く相槌を返したのに、彼女も些かばつの悪そうな顔をして、押都から目を逸らした。押都に呆れられたとか、気分を害したのではと思って、少し落ち込んでいるようにも見える。
落ち込む必要は別にない、と声を掛けてやりたい。
あなたがそうして面倒に巻き込まれるのは、あなたのせいではない、と言ってやりたい。励まして、そうして落ち込んだような顔をして俯くのを、止めさせたい。
そんなことをこの女に対して思う自分の胸の内を、押都長烈は、じっと眺めている。
市から戻ってきた行儀見習いとして預かっている娘と、その迎えの男を見送って、彼女は微笑みながら振っていた手を下ろした。
あの武家の男たちに絡まれた騒動から二月ほどが経ち、数日に一度の頻度で娘に行儀見習いをさせるのに一日預かっている。男は朝に娘を呉服屋の店まで送ってきて、日暮れ前に迎えに来て、一緒に帰っていく。
親子というには年が近すぎるように見えるのは、事実娘と男は親子関係ではなく、娘の実の父親が南蛮へ行っているのでその間、父親の友人である男が娘の面倒を見ているのだそうだ。
その娘を父親に一目でも会わせたいと、こうして行儀見習い先を探してその送り迎えも小まめにするのだから、男は情の深い人柄に思えた。
「行儀見習いとして預かることを父上がお許しになったときは、さぁどうなるかと思いましたが。
二人とも気のいい人達で本当に良かったですね。ねぇ、姉上」
「そうですね」
娘と一緒に市に出て二人で買い物をしてきて、それなりに楽しかったらしい。弟の含みのない、明るい声音を聞きながら彼女は、二人を見送っていた店の軒先から踵を返した。
「やっぱり姉上も一緒に行かれれば、よかったのに」
「私はいいんです、家で長烈さまを出迎える者が必要でしたし……」
それに市に出ても、いいことはないし。
そう続くであろう言葉を切って、彼女はそのまま黙った。弟は彼女がその言葉の先に何を続けようとしたかを何となく悟って、物言いたげな目線を送ってくる。
弟が彼女をああして連れ出して武家の男たちに囲まれて暴力を振るわれそうになったあの日から、娘と、そして「長烈」と名乗る男に出会ったあの日からもう二月が経とうとしている。あれから彼女は市など人の多いところへは、一度も出掛けていなかった。
今日にしたって、弟は何度も「一緒に出かけよう」と彼女を誘ったが先日と同じような無駄な揉め事になるのが嫌で、二人で行ってきたらいい、と彼女は弟の誘いを断った。
ああして外へ出かけて悪い男に目を付けられるのは別に近頃始まった話でもなくて、幼い頃から見目のせいか、よく人目を引く彼女はよくよく男に物陰に引き込まれそうになったり、人攫いに攫われそうになったりを繰り返していて、一緒に出かける父や番頭の手を散々煩わせたものである。
母も同じように美しい人だったから仕方ないよ、と父も番頭も優しく慰めてはくれたけれど、そうして知らない他人に触られることも攫われそうになることも怖くて、彼女は外へ出かけることがあまり好きではなかった。
弟は、――養子組をしたので弟と呼んでいるが、実際は父の弟の子なので本来は従兄弟だ。
その『弟』である彼は、昔から彼女が怖い思いをしていたことを知らないわけではないが、やはりその目で見ていたわけではない。その為か、偶には外へ出かけた方がいいとよく誘ってくる。弟がそうして誘ってくれるのを断るのも悪いと思って、時折一緒に出かけていた。
その矢先に起きたのが、先日の出来事だった。
彼女は弟がぼこぼこに殴られて、痛めつけられると思って怖くて仕方なかったし、事実、長烈があの場で助けてくれなかったら自分も弟もどうなっていたかわからない。
だから長烈には、「長烈」とだけ名乗ったあの武家とも何とも知れない不思議な男には、感謝してもしきれない恩義があると思っている。
「そうだ。今度、長烈さんに一緒に出かけて頂けないか、聞いてみましょうか?
そうしたら、姉上も安心して出かけられるのでは……」
「不躾なことを言うのはお止めなさい。
あの方は恐らくですが、お武家様ですよ」
ピシャリ、と叩くような鋭さで弟の放言を叱ると、彼は「失礼しました……」としゅんとした声を上げた。
気のいい、優しい子なのだが、まだ元服もしたばかりで言動に思慮深さがなく、他人の厚意に甘えるようなことを平気で言う。
あの笠を被った男が、長烈が「長烈」と名前だけを名乗ったのは、恐らく自身がどの家の者かを知られたくないからだろうと、彼女は考えていた。
長烈の身のこなしや着物や持ち物、連れて歩いている娘の様子からも長烈がどこかへ奉公している武家の男なのは、彼女にも見て取れた。
彼女にわかるのだから、父にも番頭にもそれは理解できているのだろう。
家名を名乗らず、名前だけを名乗った武家らしき男にそれ以上を問い詰めず、向こうの希望通りに家への出入りを許しているのは、そうすることに利益があるからだ。ここで武家に恩義を売っておけば、どこかで見返りがあるかもしれない。そういうことを父も番頭も、彼女も、思っている。
ただ武家の男のわりには、押都が時折する彼女への憐憫を込めたような視線が、幾らか不可思議に思えた。
あの男はいつも何か言いたそうな顔をして、けれどそのまま結局何も口に出すことはなく、ただ茶を飲んで娘を連れて淡々と帰っていく。彼が何を言いたいと思っているのか、それを知りたいような気がして、そもそもなぜそれを知りたいと私は思うのだろう、と逆に煩悶したりもする。
彼女に叱られた弟は、しょんもりとした顔をして店の反物の整理を再開し、彼女はゆっくりとため息を落としてそんな弟に「怒ってはいませんよ」と一言声を掛ける。
弟は、途端に機嫌を持ち直してにこにこと笑いながら今日の市で見た物の話をし始めた。なので彼女はもう一度、呆れたように微笑みを落とした。
3.
手のかかる弟子を連れて里まで戻れば、狼隊の山本陣内が組頭からの文を届けに黒鷲の詰め所を訪ねてきたところだった。連れていた娘は陣内に挨拶をすると、これ以上押都の小言を聞く前に、とでもいうようにさっさと鍛錬所の方へ駆けていく。
「珍しい女の忍び候補だが、どうにも随分なお転婆で。
まさか、お前が手を焼かされてるって話じゃないか」
「どこでお聞きになった」
「うちの小頭からだよ、勿論」
押都と似た年頃の雑渡昆奈門は、ほとんど同時期にそれぞれ狼と黒鷲の小頭となった気の置けない友人であるが、その気安さ故、押都の内情は大抵雑渡には筒抜けだった。逆も然りであるが。
「見込みも根性もありますのでいい忍びになるでしょうが、だから尚更なのか。手のかかる娘でして。
それに面白がって場を引っ搔き回すような癖もある」
「ほう、例えば?」
「今は町に降りて裕福な商家にて娘に行儀見習いをさせているのですが、何を思ったかあの娘。
わざわざ私の名前を先方へばらしましてな」
商家へと渡りをつけたあの初日に、娘がとぼけた素振りしらっと、押都の名前をわざわざ呼んでみせた。その時の途方に暮れたような気持ちと脱力感を、今もまざまざと思い出せる。
娘は「お…長烈さま」と押都のことを呼んできた。本当はいつもの通りに「押都さま」と呼ぼうとしていたことを悟って、押都は思わず笠の下から彼女を睨んだ。
押都の名とはつまり、忍軍黒鷲隊の小頭の家系のものであると聞くものが聞けばわかってしまうし、市井の中で押都の名前を使っていいはずもない。今回の件だって別の偽名を名乗る準備をしていたのに、娘がそうして押都のことを「長烈さま」と呼んでしまったので、場流れ的に本名を名乗るしかなくなってしまった。
そして押都は、娘がそうして押都の本名を呼んだのは不注意や迂闊などではなく、恣意的なものだと何となく理解している。
そんな先日の出来事を思い出して、思わず押都は顔を顰めた。そういう押都の表情と声音の苦々しさを、陣内はふふっと朗らかに笑ってみせる。
「お前もうちの小頭も、昔から私に迷惑と面倒ばかりをかけてきたものだが。
そうして別の若者に振り回されているのを見ると、なんだか気分がいいな」
「酷い仰りようだ、陣内」
「事実だろう」
確かに言われる通り、幼い頃は雑渡と共に悪さをして陣内にはそこそこに迷惑をかけた覚えがある。幼少期のことを少しだけ思い出して、あの頃の自分達よりはあの娘はマシか、と少しだけ溜飲を下げた。
今でこそ笑い話だが、押都も雑渡も、そこそこかなりの悪ガキだったわけである。山本陣内さまさまである。
「けれど娘のほうが男よりも成長が早いから。
もしかしたら、そうしてお前がただの悪戯としか見ていない娘の言動にも、何か意味があるのかもしらんぞ」
微笑んでから、陣内は娘が駆けて行った修練所の道場の方向を見て言った。今の時間は隊に入ったばかりの他の忍び達も体術の稽古をしているから、娘の幼馴染たちも道場のほうにいるだろう。それがわかっているから、娘も駆けて行ったわけである。
「意味とは?」
「知らんよ、娘の考えていることなんか、俺にわかるもんか」
陣内は笑いながら妙に実感のこもった声音で言うと、押都の手に組頭からの文を押し付けて、行ってしまった。
陣内も道場の方へ歩いて行ったので、稽古を少し覗いていくつもりがあるのだろう。確か、陣内が烏帽子親として元服の面倒を見た高坂の長男も同じくらいの年頃だから、恐らく狼隊の忍びとして稽古に参加しているはずだった。
陣内に押し付けられた組頭からの文に目を通しながら自身の執務室までの廊下を歩き、押都はぼんやりと、陣内の言った「娘がわざと本名をばらした意味」というものを考えていた。
――あの女が、あの商家の娘が。
その胸の内を、押都長烈はじっと一人で見つめ続けている。
弟子の娘には、同じ里で育った幼馴染が数人いる。どれも同じくらいの年の男で、かつ全員が黒鷲隊に配属された忍びなのでその男たちは彼女と同じく、押都の部下でもあった。
その中でも一番家が近くて仲のいい幼馴染は名前を五条と言って、昔から破天荒なところのある娘の面倒をよく見てきたのも、その五条であった。だから今までにも数度、押都自身が任務で商家への送り迎えをしてやれないときは、五条に娘の送り迎えをさせたことは、確かにあった。
だから彼女も特に疑問に思わずに、迎えに来た五条と一緒に娘を帰したのだそうだ。
「…………申し訳ありません」
「いえ、悪いのはあのお転婆なので、お気になさらず」
彼女はいかにも大変なことをしてしまった、という青ざめた顔をするので、押都は大したことではない、と首を振る。
今日は町で祭りのある日で、どうやら幼馴染と一緒にその祭りを見物に行きたかったらしい娘は、自分の幼馴染にいつもよりも早い時間に迎えに来るように言って、まんまと押都を出し抜いたらしかった。
「今日はお祭りの日だから、きっとあの男の子と一緒に見て回りたかったのですね。
いつも仲が良さそうですもの」
「そうでしょうな」
彼女が少し微笑んで言うのに同意をして、腹底を浮つかせるような太鼓の音が聞こえてくる、道の向こうを二人でなんとはなしに見る。そこから向き直って彼女に問いかけたのは、押都にしても思わずのことだった。
「あなたは今日の祭りにも出かけられないのですか?」
「……はい。この人ごみで何か揉め事を起こしても、迷惑を掛けますから」
いつもの通りに、出かけないと頷いた彼女を玄関先で同じく押都を出迎えた壮年の使用人が気づかわしそうな顔で、見ていた。きっと、いつもこうなのだろう。そう思った。
きっと彼女の弟も他の若い使用人たちも、楽しげに祭りに出掛けても彼女だけは「迷惑になるから」と言って家に閉じこもっていて、きっと祭り一つも満足に参加できた試しがない。
押都は、――押都長烈が、ずっとこの女のことが気にかかって仕方なかったのは。
この女がそうして自身の身の丈に合わぬ容貌を持ち合わせたせいで人並みの経験を得ることができず、ただ鬱々と、小さな場所に閉じこもって暮らしているのが気に食わぬと、そう思えたから。
ただそれだけの理由だ。
でもだからと言って、押都がこの女に構っていいはずもない。押都長烈はタソガレドキ忍軍黒鷲隊の小頭の男で、ここに今いるのは、自身が育てている娘の行儀見習いを任せているだけの関係だ。
女に必要以上に構うことは、仕事の支障になる。だから必要以上に彼女と会話をするべきではなかったし、個人的な付き合いは避けるべきだった。
「あの……、長烈さま。
差し出がましいと思いますが、……よければ。
お嬢様と共に、お祭りへ行ってはくださいませんか?」
そうして幾ばくか煩悶した押都に、その些かの逡巡を見逃さず声を掛けたのは彼女と一緒に押都を出迎えていた、壮年の使用人だった。既に孫でもいそうな年齢の使用人の女は如何にも仕事然とした顔を作って、商家の主人から、もし可能なら彼女を祭りへ連れ出してほしい、と言付けを預かっていることを話した。
「そんな、ご迷惑では……」
「いえ、構いません」
恐縮した彼女に、押都はさらりと言い返していた。
商家の主人から頼まれたのであれば、無碍にもできないという打算が働く。あまりに間髪入れずに押都が返事をしたので彼女は驚いたように押都を見、それからじわじわと彼が祭りへ連れ出してくれる、と理解した彼女は嬉しそうな、困ったような複雑な表情をした。少し頬を染め、押都からついと目線を逸らす。
そのままあれよという間に二人して壮年の使用人に家を追い出されてしまって、彼女はますます困った顔をして俯いていた。
「何かあっても私がその相手を追い払えますから、お気になさらず。
どうぞ、楽しんでください」
「でも……」
麗しき呉服屋の娘が見慣れぬ男を連れて外へ出てきたことが珍しいのか、祭りの熱気に当てられて道を足早に行く人々からもチラチラと視線が送られる。なんとなくだが、顔をじろじろ見られることが嫌なのだろうな、と押都は悟った。
「山の方へ昇ってみますか。
こうして火も焚くから、日が暮れれば高いところから見てもきっと景色がいいですよ」
「そうなんですね、なら……」
押都のその「人の少ない山の方へ行く」という提案には、頷いてくれた。人込みから離れた方が、彼女も落ち着けるらしい。
町の市の中心から離れて、逆に山の方面へ向かっていくのは押都たちぐらいしかおらず、そのまま押都はまだ足元が悪くなさそうな道を辿って山の裾野辺りまで登り、少し開けた場所で足を止めた。
「足元が悪いですが、大丈夫ですか」
「あ、はい」
「振り向いて、見てみるといい。
ちょうど日が落ちかけたので、祭りの篝火がよく見える」
彼女は言われるままに木の根元で足を止めた押都に横に同じく立ち、町を見下ろした。町のあちこちに焚いた篝火がちらちらと光り、もう日暮れだというのに今日に限っては町がまだ明るい。
暗闇の中でもちらちらと光っている火の明かりは行き交う人々の陰だけを映していて、ここは町の喧噪からも離れているから、静かだった。
「お祭りの日って、こんなにもたくさんの人出があったんですね……」
「ここの町はタソガレドキの城下でも大きい方ですから、この祭りに合わせてやって来る者も多いのです」
「そうなんですね……。小さい頃に行ったきりで、知らなかったです」
彼女はじっと、町中に広がる篝火の明かりと楽しそうに行き交う人々の様子を眺めていた。市にはいつもよりも店が多く立ち並んで、露天で小間物を売ったり食べ物を売ったりしているし、市の中心の一番大きい篝火の近くでは、それを取り囲むように踊っている者たちもいる。
「長烈さまも、この祭りには行かれたことがありますか?」
「私は、あまり……。娘はこういう場が好きなようですが、私はあまり、騒がしい場が好きなほうではないので」
「……なら、私と一緒ですね」
互いに顔も見ずに、祭りの光景を見ながらそんな会話をしている。だから彼女が衒いなくしたその疑問にも、さらりと応えてしまっていた。
彼女が噛みしめるように「同じ」と言ったときにようやく、何も取り繕わずに返答をしてしまっていたことに気づき、何となくばつが悪くなる。
そっと横目で伺い見れば彼女はじっと祭りの様子を見るばかりで、先ほどの押都の発言は、彼が思わず言ってしまった本心だ、などとは気づいていないようだった。
いい加減にしなければいけない、と押都は自身を戒めるように思う。
それなのに、まるで憧れるように祭りの様子を眺める隣の女の横顔が、少しの明かりに照らされた彼女の頬が白くて、艶やかで、そこからどうにも目線が逸らしづらい。
「…………長烈さまは。
私がこうしてぐずぐずと家に閉じこもっているのが、きっとお嫌いでしょう」
「………………」
まともな男なら、彼女が傷ついたような声音でそうして自身を卑下するようなことを言うのに「そんなことはない」と大真面目に言ってみせるのだろう。
けれど押都は、押都長烈という男は決してまともな男などではなく、仕事だからこの女とも一時の会話をするだけの、本来であれば日陰に生きる者だ。
恐らく自分のような身が彼女のようなごく普通の、麗しい女に対して共感を返すべきではない、とわかっている。それなのに押都は彼女に応とも否とも返せず、そのことに腑が煮えそうなほど、自分自身が憎かった。
何も感じていなければきっとこの場に適した返答がいくらでもできるのに、まさか、この女を少しでも慰めてやりたいなんて欲を、男の欲を自身が抱く。
そのせいで、今この場で口にすべき最適な答えがひとつも見つからない。だから結局、押都は彼女に何も言ってやれない。
「………………いいえ」
「…………ふふ、すみません。
私はいつも、長烈さまを困らせてしまうみたいです。決して困らせたいわけでは、ないのに」
絞り出したような押都の返答に、彼女はそうして押都が答えあぐねることなど見通したかのような自嘲をこぼして、眼下に広がる町の篝火の明かりから顔を背けた。
「そろそろ戻りましょう。いつまでも長烈さまのお時間を無駄にできませんから。
……ありがとうございました。
ここからこうして祭りの様子が見れて、とても嬉しかったです。綺麗でした」
「いや。……こちらこそ」
礼を言った彼女に首を振って、押都は山道をまた先導しようと先に道を下った。彼女も同じく山道を降ろうとしたが、その時に足元をぐらつかせてずるりと体勢を崩したのが視界の端に映る。
慌てて、腕を差し出した。
足をもつれさせた彼女はそのまま押都が差し出した腕の方へ倒れてきて、彼女の体を押都はしっかりと受け止めた。彼女の柔らかくて長い髪が押都の頬を少しくすぐって、男たちとは確実に違う、女のたおやかさと肌の甘い香りがする。
腕の中の女があまりに小さくて頼りないのに、この人はそれでも初めて会ったとき、この女は、自分に無体を働こうという男たちにも負けずに睨み返して自分の弟を庇ってみせたのだ。このままだと自分がどうなるのか、それをわかっていながら庇った。
「も…申し訳、ごさいません……」
「いえ、お気をつけて」
彼女が押都の胸元にしがみついたまま、そうして顔を赤くして謝るのに押都は、そうして彼女が自分という男相手にも頬を染めてくれることに、受け止められたことを嫌がるのではなく恥じらいを見せることに、どうしようもないほどの言い訳のできない大きな満足感を抱きながら、受け止めた彼女の体をそっと支えて立たせてやった。
彼女はそろそろと体を離して、離れようとしてまた直ぐに足元をもつれさせる。そうしてまた都合よく、体をふらつかせた彼女に手を貸して支えてやりながら、俺はこんなことはすべきではないと、そればかりを考えていた。
「足元が悪い。お嫌でしょうが麓へ降りるまではこのまま、手を引きましょう」
「…………ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「いえ」
押都が短く返して、そうして彼女の手を握ったまま山道を行くのに、彼女は如何にも申し訳なさそうな顔をして見せる。
そうして幾らか歩いてようやく山道が終わった後に、二人で手を握り合ったまま、彼女はそっと押都を見上げた。
「あの。『嫌』ではないので。
長烈さまなら……」
「……………………」
男に手を引かれて、触れられて「嫌ではない」と言うことの意味が知らぬわけがなく、この女はそこまでおぼこい訳ではない。だというのに、彼女は、女は頬を染めてそんなことを押都に言ってくる。
そしてこの女人はそんな男女の駆け引きができるほど器用な性分では、きっとないだろう。そう思えば口元を思わず緩ませそうになるほど押都は嬉しくて、それなのに、自分という男には彼女に何か気の利いた言葉を言ってやれるような権利がない、と真逆の冷めた心内で思う。
「……ひと葉さま」
彼女の名前を呼ぶ。まだ遠くでは祭りの雑踏の人のざわめきが聞こえて、町の向こうから煌々とした明かりが見える。
彼女は自分の言った言葉の意味合いにようやく気づいて、押都を見上げ、はっと愕然とした顔をして見せた。
彼女を抱き締めてその髪に頬擦りをしてみたい、真逆に、彼女を突き放してもう二度と会いたくない、心を乱されたくない。
まるで彼が面倒を見ている黒鷲隊の新人の子ども達のようなそんな逆しまな、思春期の子どものようなことを思って押都はただ困り切って、彼女の顔を見ていた。
これ以上近づきたくない、近寄らせては駄目だと思うのに女を傷つけて自身を嫌わせるような一手が打てず、それが必要な段階まで『押都長烈』という男へと、あわい思いを向けさせたことが、もはや手遅れだった。
よく鍛えられて有能と名高いタソガレドキの、忍びらしくもなく押都長烈は、その胸に恋という心を抱いてしまっていた。
手遅れ、だった。
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