一、醜聞の美学
1.
女の体は、子を産む為にあるのだそうだ。
目の前で自分を見下ろして下卑た笑みを浮かべるお侍を見ながら彼女は、いつかの昔に親族の男にそんなことを言われた。そんな遠く十の頃の記憶をまざまざと思い出していた。
彼女を庇った弟はお侍に蹴られて、腹を抱えて側で蹲っている。普段はあまり外出をしないのだが、そうして外へ出たがらない彼女を弟が気遣って、近くの団子屋へ行こうと誘ってくれただけだ。
団子屋はほんの五町(約五百メートル)ほど先の近所の団子屋で、弟は連れ出した彼女の手を引いて、ほらこんなにもう春の風が吹いて気持ちがいいでしょう、と楽しそうに笑っていた。確かに弟の言う通りで、たまには外に出て良かったな、そう思った矢先の出来事だった。
獲れたての魚を乗せた荷車が忙しなく道を駆け抜けていって、道端の泥濘の泥水を少し跳ね上げる。「おっと」 弟は彼女の着物にその泥が掛からないように、少し身を捻って彼女を庇った。それだけだった。
そうやって荷車を避けた折に近くのお侍に軽くぶつかったのは、それは確かに自分たちが悪かった。「申し訳ありません」 小さく彼女はそのお侍を見て謝って、弟も同じく「失礼しました」と謝った。普通なら、そこで終わるはずだった。
お侍も「ああ」と軽く頷こうとして、それからじっと傘の下の彼女の顔を見た。嫌な予感がして、そっとその覗き込むような視線から目を逸らす。
弟も同じように嫌な予感がしたのだろう。彼女を庇うように一歩、お侍との間に踏み込んだ。
「そちらからぶつかって来ておいて、その態度はないだろうよ。
まるでこちらが悪者のようだ」
そうして庇うように弟が前に出たことが、最終的には気に入らなかったのだと思う。ぶつかった男がそうして野卑な声を上げると、近くにいた恐らく男の連れの男たちも集まってきた。なんだか騒ぎになりそうな気配に、他の市井の人間は逆に距離を取る。
そっちがぶつかって来て謝るっていうなら、それなりの態度があるよなぁ、とか、ぶつかって来たせいで一張羅が汚れたじゃねぇかどうしてくれる、とか。
そういう言いがかりとも、真実とも取れないことを言われて彼女も弟も困りきって、仕方なく顔を隠していた笠を取った。
「不躾な態度に思われたのなら、本当に申し訳ございません。弟はあまり外に出ない私を気遣っただけなのです。
まさかお侍様にご不快な思いをさせようなどとは、そんな気持ちは露もなく」
そう述べながら顔を隠していた笠を取った彼女を、荒事にして相手を揶揄おうと寄って集ってきていたお侍たちは、まじまじと見た。自分の顔が見られているのがわかり、そっと目線を逸らす。
「…………そんな風に顔を隠して、どんな醜女が出てくるかと思えば。こりゃあ、驚いた。
京の姫様だって、そんなにもお綺麗な顔はしてないだろうさ、なぁ?」
口説くとも、物珍しさに値踏みされているとも取れない口調で言われ、彼女は屈辱に少し唇を噛んだ。
男たちの言う通り、彼女は少々顔が整い過ぎていてよく人目を引く。その自覚は彼女自身にも、確かにあった。
「俺たち、これから飲みに行こうとしていたんだが。
悪いと思ってるならアンタも一緒に来てくれないか? アンタみたいな美人にお酌でもされたら、そりゃあ天にも昇る気持ちだろうよ。
なぁ、いいだろう?」
「――――まさか姉上にお酌をさせるなんて……!
そんな売女のような真似がさせられるはずがないでしょう……! お巫山戯も大概にしていただきたい!」
腹を抱えて呻いていた弟がようよう立ち上がって、彼女への放言を聞き咎め声音を荒げるが、多勢に無勢だった。弟はよろよろ起き上がったところを男たちに押されてまたたたらを踏み、彼女は慌ててそれを支えようと、弟の体に腕を伸ばす。
二つ年下の弟はまだ物事の分別が甘く、彼女の父や生家の番頭のように上手に荒事をあしらうことができない。彼女はじらじらとした目で男たちを睨む弟を見て、このままではここで乱闘になってしまう、とこの出来事の推移を悟った。
大勢に囲まれている今、もし弟が無鉄砲に突っ込めば弟は男たちにぼこぼこに伸されてしまうだろうし、そんな暴力を受けて命が無事で済むかどうかもわからない。
ぐっと唇を噛むと、彼女はなるべくにこやかに微笑んで、男たちを見上げた。
「お酌ですね? 私でよろしければ、是非」
「………………姉上!」
体を支えた弟が、咎めるような声を上げる。その彼の着物の裾をぐっと掴んで彼が飛び出していけないようにしながら、彼女は周囲の様子を伺った。
少しでも時間を稼げば、誰か近所の知り合いが生家の店まで駆けて、父か番頭を連れてきてくれるかもしれなかった。
彼女だってこのまま男たちに着いていって、まさかお酌だけで済むなんて思っていない。日暮の道を歩いたせいでそこらの男に拐《かどわ》かされて無体をされ帰ってきた娘の話は、家の者が彼女の耳に入れないようにしていたとしても何度も聞いたことがあるし、彼女自身にしても、生家へ出入りする店屋《たなや》に懸想されて犯されそうになったことが数度ある。
だから、ここで弟を庇ってついて行けばきっと自分は早々に乱暴をされることも、清い身ではとても帰れないだろうことも、わかっていた。それでも、この可愛い年下の弟が、むざむざと殺されるよりも、幾らもましである。
彼女がそう思って覚悟をしたことがわかったのだろう。男たちはピュウっと囃し立てるように口笛を吹いて、下卑た視線で彼女を見た。好きでこんな見た目に生まれたわけじゃないし、好きでこんな体つきになったわけではない。
彼女は自分のそれを心の奥底から嫌がっていたが、女は、大層うつくしい娘であった。そうして男たちの視線を嫌がって目を逸らせば、射干玉のような長い睫毛が頬に薄く影を落とし、髪も同じく艶めいて雲間からの陽光をしらりと弾く。
唇は身の内の赤をそのまま透かすように紅く、つややかだった。この荒事で少し乱れた黒髪が首筋にちらっとかかって、その首筋の肌はますますと白く見える。肌が真しろく透けるようなので、その下に透けている青っぽい血の筋に歯を立てたなら、女はどんな声で鳴くのだろうか。
そんなことをまざまざと男に想起させるような、彼女はそういう麗しい女であった。彼女が特段望んでもいないのにその容貌はまさに御仏から偶さかに与えられた類のもので、彼女は自身のその見た目に、倦んでいた。
男が、男たちが、下卑た笑みを浮かべてこちらへ腕を伸ばす。嫌だった、知りもしない他人に触られてお酌をさせられ、着物の下のその肌に触れられるなんて、本当に舌を噛み切りたいくらいに嫌だったけれど、そうすることでしか彼女は弟を守れそうになかった。
だから。
「か弱い女と童にそうして男どもが寄って集って。
見苦しいとは思いませぬか」
そうして全く別の男の声が遠巻きに事の推移を見守っていた群衆の中からしたとき、彼女ははっとして男たちを睨んでいた顔を上げた。
弟の着物を掴んだまま、周囲を見回せば声を発した男の周りから人が離れていき、誰がそんなことを言ったのかがすぐわかった。その男は、ずんぐりとした小男に見えた。
地味な色の着物と袴を着ていて笠を被り、顔は見えない。腰には短い刀を一振り差している。傍らには十二、三歳に見える若い娘を連れていて、雑踏の中で逸れないようにかその娘の肩を抱いていた。
なんだお前、とお侍の男たちが唸る声が聞こえる。彼女の弟へ向きそうだった暴力の矛先は、急に現れたあの男に向けられたようだった。
「見苦しいと言っている。さっきから見ておれば、言いがかりも甚だしいだろう。
見れば城勤めの御家の末席と見受けるが、……黄昏甚兵衛もこんな輩をお雇いになって。落ちたものよ」
白々とした言いぶりで言う男は、言いぶりからどこか他の領地からの浪人のように思えた。領主である黄昏甚兵衛様に仕えるにも、他の城へ出仕しているにしろ、仕える相手があるならしないだろう口ぶりだ。
こんなタソガレドキの領地内で領主の悪口を城勤めの侍になんか言えば、その誹謗が領主の耳に入らないとは言い切れない。仕える先のある武家が、そんな向こう見ずなことはしないだろう。そう思った。
彼女と弟に絡んでいた男たちも同じことを思ったようで、腰に差した刀をこれ見よがしに触りながら男の方へ向かっていく。
「へぇ……、随分な言いぶりじゃないか。
あんた、どこの武家だ?」
「別に名乗るほどの者でもない。それよりも見苦しいから、早くここから去ったらどうだ。
市井でここまで衆目を集めて、タソガレドキの城主は戯け者をお雇いになっていると醜聞が立つであろうな」
「…………言ってくれるじゃねぇか」
わらわらと彼女たちを取り囲んでいた男たちは、皆その口さがのない笠の男の方へ刀に手を掛け、向き直った。笠の男は隣の娘の肩をまだ抱いていたが、男たちが刀に手をかけたため一応とでも言うように、同じように腰に差した刀に手をかける。
彼女もあまり詳しくはないが、笠の男が持っている刀は脇差の類の小刀ほどの長さのものに見え、長刀を持っている他の男たちと比べると幾分か寸足らずに思えた。戦う為のものではなく、護身用にさえ見える。
口ぶりはまるで武家のようなそれなのに、装備は薄く服装もさして武家らしくもない。それだというのに、如何にも城勤めの男たちにこうして喧嘩を売ろうというところが、何だかちぐはぐな男に思えた。
男たちは皆、一様に刀の柄に手をかけており何かのきっかけで直ぐにも抜刀しそうであった。彼女は飛び出していかないように強く押さえ込んでいる弟の体に、縋るように力を込める。周囲の空気は剣呑で今にも乱闘が始まりそうだったので、周りの町の人たちは巻き込まれないようにかなり遠巻きだった。
「さて……。
そうして如何にも偉ぶって取り巻きを連れて町で女などを拐かそうなどとしているが、お父上にこの醜態が見つかりでもしたらどんな折檻を受けるであろうな?」
「…………何を、」
「お前、雀部の国司へお仕えする家々の出であろう。
お前がどこの武家の者かがわからぬうちは、良い。
されど市井で悪さをした若造たちがどこの家の誰なのかがわかれば、その悪評は即ち仕える主人への悪評となる」
「…………ばっ、馬鹿なことを……」
「そう思うか? 試してみようか。
ここで私と大立ち回りをしてみるがいい。そちらが勝とうが負けようが、市井で女に粉をかけて浪人風情に大立ち回りをした大うつけとして、明日にもこのタソガレドキの市井中に噂されるであろうよ。
『雀部様のところにお仕えする家臣には市井の中で女を攫って犯すような、浪人相手に刀を抜いて脅すような乱暴者がいて、そんな者をお雇いになっている雀部様もきっと痴れ者なのだろう』などと――、」
――噂されるであろうなぁ。
笠の男がそう続けたときには、彼女たちに言いがかりをつけ乱暴をしようとしていた武家の男たちは既に笠の男に背を向け、見物人の間を抜けこの場から逃げようとしていた。
市井の見物人たちを乱暴にかき分けて押し退けたいのに、自分達が誰に仕えているのか素性がばれているせいで、乱暴な素振りもできない。男たちの頭目のように一番偉ぶって喋っていた男は、一度振り向いてじっと笠の男を睨み弟を庇ったまま道の端でしゃがみ込んでいる彼女を見て、こちらまで聞こえるような舌打ちをした。
そうして男たちが去ってしまうと、見物人たちも口々に武家の男たちの乱暴ぶりについて悪態をつき、ざわざわと騒がしくなる。そうして俄かに緊張の解けた市井の町人たちの中に紛れようとしていた笠の男と、その連れの娘の姿を見つけ、彼女は慌てて弟の側から立ち上がった。
「あの、お待ちください!」
「…………急ぎますので」
呼び止めた彼女に、笠の男は目深に笠をかぶったままちらりと彼女を振り向き、そう小さく呟く。小さな声なのに、少し離れた位置の彼女のところまで、不思議と聞こえる声だった。
「けれど、お礼を……。危ないところをお助けいただき、ありがとうございました。
生家が近くで呉服屋を営んでおります。良ければ、是非お礼を」
彼女がそう言って頭を下げると、隣で座り込んでいた弟も慌てて立ち上がり同じように頭を下げた。連れている娘の肩を抱いて、そのまま去ろうとしていた笠の男は彼女の言葉を聞いてふと立ち止まり、奥の見えない笠の下からじっとこちらへ視線を送る。
「呉服屋……? あなたは、その呉服屋の娘さんでよろしいか?」
「はい。市井の皆さまにもお城の黄昏様からも、お贔屓に頂いております」
聞き返してきた男へそう返事しながら、市井の喧噪の向こうから店の番頭が息を切らせて走ってくるのが見えた。恐らく諍いの見物人の誰かが彼女と弟の顔を知っていて、生家に伝えに走ってくれたのだろう。後でそちらにも礼をしなければならない。
「家の者も参りましたし、よければ店までお出でいただけませんか?
大した持て成しもできませんが、少しでも、お礼をさせていただければ」
「………………では、お言葉に甘えよう」
男はややあってから、そう返事をした。男が目深にかぶっていた笠を少しだけ持ち上げる。しかしそうして笠を目元から少し払っても、男の顔はよく見えなかった。総髪にして後ろで括った髪は、前髪を長く垂らしていて、目元は杳として見えない。
それでもその見えない目元の奥から、突き刺さるような眼光が覗いた気がして、彼女は思わず息を詰めた。男の傍らの娘が、じっと黙って男の脇に控えている。
2.
彼女は、上司である押都長烈がいけしゃあしゃあと女たちを策にはめるところを、いかにも白々とした視線で見ていた。
採れたての魚を積んだ荷車を引いた荷運びに、届け先の魚屋に急ぎ届けてほしい文があると頼んだのは押都だし、町の破落戸もどきの武家の若造どもに無駄な小銭を与え気を大きくさせて町へ出し、麗き呉服屋の娘御がその魚屋の荷車に驚き、よろけたとき近くにその男たちがいるように仕向けた。
男たちはまんまと押都の目論見どおりに呉服屋の娘に絡み、押都は然も行きずりの浪人風情の顔をしながら、お礼をしたいという呉服屋の者たちに連れられて家まで上がり込んだわけである。
押都の魂胆は、黒鷲隊の忍びとして仕込み途中の彼女に、この呉服屋にて良家の子女のような行儀見習いをさせることであった。
彼女はタソガレドキ忍軍の黒鷲隊に忍びとして入り、既に数年が経つ。タソガレドキ忍軍は、忍び達の村里から忍びになる子どもを採って育てるが、女が忍び適正がありと判断されることは、まま珍しい。
彼女はそういう、貴重な女の忍び候補であったので、黒鷲隊小頭の押都長烈に手ずからの仕込みを頂いていた。
それなりに房中術も教わったし、女の身ながら自分より大柄な男を伸す方法も、男を騙して篭絡する方法も他人を静かに殺す方法も教わった。堺の街中で男の袖を引いて花売りをする所作も教わったし、白拍子としての舞も振舞いも教わった。
そうして次に押都が彼女に仕込もうというのが、堺の大店にも出入りできるような良家の娘のとしての所作であった。
「礼を、言われるのであれば……。
もしよろしければ、この娘の行儀見習いを引き受けてくださいませんか?」
呉服屋の番頭と旦那に是非にも、礼を、と言われて上げてもらった座敷の中で、いただいた香り高い茶を飲みながら、押都は如何にも困った素振りを装って隣に大人しく座った彼女を差した。
「この娘は、私が知己から面倒を預かっている娘なのですが、近々、この娘の父が堺の港に戻ってくるそうでして。
戻ってこれたと言っても、これの父は大きな船を持つような商人殿と共に働く身なので港の中で自由は特になく、堺の商家で接待を受けた後にまた航海に戻るでしょう。
一目でも娘を父に会わせてやりたいので、商家へ一時的に奉公に出すことも考えたのですが、上流の商家にお仕えさすにはそれなりの教養と作法が必要です。
私にはそれを教えてやる術もなく……」
押都の口からはすらすらと、そういう出まかせが並べ立てられていた。この押都の嘘がたち悪いのは、そういう並べ立てた嘘の中に幾らかの真実が混じっているところだ。彼女の父親は実際に商船に混じって外海へ航海に出ており長く戻っておらず、そして堺の商家への潜入も今後の予定には入っている。
白々しい嘘を、そうしてさも困った愁傷な素振りで並べ立てて、呉服屋の主人どもの同情を引く。呉服屋の人間たちは如何にも哀れなものを見るように彼女を見てから、頼もしく、大きく頷いた。
「お引き受けしましょう。うちの娘は京からお招きした、御所勤めの元女房殿に御指南頂きました。
行儀作法もそこらの武家様よりも、かなりしっかりしていると自負しております」
「それは有難い」
この呉服屋の娘の指南役が、元御所勤めの女房だったのは調べ済みだったというのに、如何にも僥倖という、そういう白々しい顔をして見せるのが押都である。彼女はそうして隣の押都長烈がトントン拍子に彼女の行儀見習いについて話をまとめていくのを横目で見ながら、出された美味い茶をそっと一口飲んだ。
押都の魂胆など何も知らない呉服屋の麗しき娘御殿は、そんな彼女を見て少しの親しみを込めて、あわく微笑んでいた。
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