四、不均衡なれど
1.
雑渡はそれからも一人で忍んで、時折彼女のところに花を持ってくるようになった。
決まってる彼女が一人で部屋にいて、何か読み物や書物をしているときにやって来るので彼女は部屋の中に花器を用意しておくようになったし、茶は二人分用意しておくようになった。目を離した隙に、雑渡はいつの間にかいなくなってしまうからだ。
雑渡は彼女が用意したものがそうして自身の逃げ道を塞いでいくことに少し驚き、そして面白がってもみせた。彼女が差し出した茶を一杯だけ飲み、大事はないか、とだけ聞く彼は、目付役の女や他の者からの報告で彼女の様子などずっと具に知っているのだろう。
それでも彼女自身に花を持ってきて、「大事はないか」と聞くことの、その意味を思って彼女はどうにも弛む頬を隠せずに雑渡を見ている。
不思議な男であった。
村の子ども達に手を引かれて遊んで、大きく口を開けて笑っているのに、そこへ黒鷲隊の押都がやってきて何事かを耳打ちすれば、すっと眼差しを変えて酷く怜悧で冷徹な目つきをする。
まるで返す刃で白くひらめく、御太刀のような男だと思った。
村へ戻ってきていた雑渡が出立の支度をして出ていこうとするのを、一緒に遊んでいた子たちが引き止める。またすぐに帰ってくるから、と曖昧に言って、雑渡は彼女を見た。
「よろしく頼んだ」
嫁御様、と周囲から呼ばれる立場で忍軍の頭目である主人の雑渡から「頼む」と言われることの意味を図れぬほど、彼女も幼くはない。
雑渡はこうして何度も、村を頼む、と彼女に言って忍軍の仕事へ出ていくようになった。
変な男であった。
雑渡の屋敷に子どもを集めて手習いを教えても、村の作物の作り方に口出しをしても、害獣を捕まえるためにかなり大掛かりな罠を作らせても、用水の使用規則と用水の流れを整理させても、雑渡は何も言わなかった。
普通の男であれば、「勝手なことをするな」と怒りそうなものである。
「それは嫁御様のご指示がいつも、きちんと理に適っているからでしょう。
村の者も皆、嫁御様が村にいらしてから村の仕事がやり易くなった、時間が掛からなくなった、と喜んでおります」
「そうなのですか?」
目付役の女に、雑渡が何も言わないことについての薄らとした愚痴を溢すと、彼女はからりとした口調でそう言った。彼女としては聞かれたので答えたり、見たものについてぼそりと「こうしたらどうか」と言っているだけのつもりだ。
だからどちらかと言うと、それを受け止めて実行していく村の者こそ、よく余所者の言葉を反発なく受け入れられるものだな、と彼女は関心している側なのである。
そう言えば、目付役の女は少し嬉しそうに顔を綻ばせた。
「忍軍、ひいてはきっとこのタソガレドキの気質ですね。良い物はどんな生まれだろうとどんな経緯であろうと、『良い』と評価される方が城主ですので」
そう言われれば、確かに黄昏甚兵衛はそういう男である。
彼女は何となく納得をして、庭先に植え付けをしていた小葱の苗に目を向けた。庭で、やはり野菜を作ってみたいと言ったら、いつの間に雑渡が柵で囲った場所と、小さな畑の畝と苗を用意してくれていたのだ。
「……やっぱり、雑渡様は変わったお方です」
滅び行く他国から攫ってきた女に葱の苗を贈る殿方とは、あまり聞いたことがない。そう思いながら言うと、目付役の女は「マア確かにそうですね」と同じく頷いた。こうして組頭相手にもそんな態度だから、目付役の女はいつも何時も押都からドッ叱られてまくっているわけである。
長雨が許容量を超えて降り続いたのは、米の収穫を控えた秋の頃であった。
いくら夏終わりから秋にかけては降水量が増えると言っても、限度があるだろうという降り方であった。
畑の土も道も、あちこちがどろどろにぬかるんで村の境界線のある林の先にある別の村のいくつかは、山からの土砂崩れの被害にあった、と聞いた。
村中に引き込んでいる用水は、水門の開け閉めである程度の調節が効くように改修してあるのでよいが、問題はその収穫を控えた米、林向こうの川沿いで作っている田んぼのほうであった。
川の縁には土嚢を積んで川水が簡単に溢れてしまわないようにしてあるが、それにも限度がある。
雨が降り続けて三日目に、遂に川が決壊しそうだ、と田んぼの様子を見ていた者から報告が来た。忍軍とは、雑渡とは、この長雨のせいで連絡が取れておらず、現在の村の状態を相談できる相手はいない。
決断をするのは、この村の中では今、宗家の頭目の嫁――つまり雑渡の嫁御と呼ばれる、彼女の役目であった。
「むざむざと決壊するまで待って、米を全て駄目にするわけにはいきません。
片側の堤を、我々で切りましょう」
彼女が言い切った言葉に、雑渡の屋敷に集まってきていた田んぼの管理役や、宗家の中で引退し村で隠居している男たちなどが、何か言いたげな素振りで彼女を見た。
「片側の田んぼを失って、今年を飢えることなく越えることができるのか」
言ったのは、宗家の隠居の内の一人の老人だった。じっと、睨むような目つきでこちらを見る。
「村の備蓄庫は開けることになるでしょう。それでも足りなければ、黄昏甚兵衛様に国の備蓄庫を開けていただくことになります」
「長雨の被害を受けているのはこの村だけではないぞ。国の備蓄が十全に足りる保証はあるのか?」
「甚兵衛様のことですから、十分な量を保管してはいると思いますが足りぬ米の全てを賄えるかは、わかりませんね」
「では…………」
村の老人は苦々しい顔つきであった。こんな話は彼もしたくないし、彼女もしたくない。けれどここでこの老人と彼女がこの会話をしておかねば、後々に禍根が残る。
「この村は忍軍の生命線です。村が動かねば忍軍も動かない。それを甚兵衛様は十分にご理解なされていらっしゃるでしょう。
この村へは、優先的に備蓄が送られてくるだろうと私は思っています。もし、そうでないのなら……」
そこまでを言って、彼女は老人と、周囲の村の男たちの顔をぐるりと眺めて、微笑んだ。
「幼い頃、甚兵衛様と将棋をして一度だけ勝ったことがございます。飛車角落ちでしたが、甚兵衛様は『自分にもし勝てたら、なんでも願いを叶えてやる』と。私、まだこの約束をまだ果たしていただいてません。
ですから、この村に国中分の備蓄を回していただくようにでも、お願いしてみましょうか」
彼女が冗談めかして言うと、周りの男たちも少し気が緩んだらしい。「まあ、仕方ないことか」と隣の者と口々に言い合う。皆、片側の田を潰してでも、もう片方の田を活かさねばならないことはわかってはいたのだ。
だから、誰かが言い出して誰かがそれに反対意見を言って、その上で話を纏めなければいけなかった。
方針が決まったことで、議題はそのまま「どうやって堤を切るか」「誰がやるか」の話題へずれていく。
反対意見を言ってくれた宗家の老人に目線で礼をすると、彼は何も知らぬの素振りで彼女から目線を外した。確か、高坂の家の人間だ。
半刻ほどで堤を切るための手筈の話し合いが終わり、川の様子を見に行っていた目付役の女が屋敷に駆けて戻ってくる。
「もうあまり猶予がありません。こう言っている間にも切れてしまうかも」
目付役の女が言ったことで、雑渡の屋敷に集っていた男たちは慌てて荷造りをし、川堤を切るために屋敷から出て行った。残ったのは先ほどの高坂の老人と、彼女だけである。
老人は足があまりよくなく、彼女は忍びの修行もしておらぬので決壊間際の川側にいては、逆に邪魔なのだ。
「先ほどの話、本当か」
「先ほどの話……、ああ甚兵衛様との約束ですか? さぁ私は覚えていますけれど、甚兵衛様が覚えていらっしゃるかどうかまでは。
口約束で、私が九つの頃の話でしたし」
「覚えていらっしゃらねば、約束などないと言われれば、あなたはどうする」
「『幼子との口約束も覚えておらぬとは、世に聞こえる黄昏甚兵衛ともあろう者が呆れた。
それを反故にするというのか、こんな約束も守れぬ男が、この国をタソガレドキの国をこの先も生かしていけるものか』
とでも言って甚兵衛様を煽り、この首と差し替えにしてでも米をもらってきます。
無礼者の首を落としたのなら、『土産だ』などと皮肉を言い米をくれるような気性の方ですから」
彼女が言うと、老人は嫌なものを見るような目で、眉を顰めて彼女を見た。
「どういう……、まあ。今更であるか…………」
老人は口の中でそうブツブツと言うと、雨の中を歩いて帰って行った。堤を切りに行った者たちが戻ってくるまでに、使用人夫婦と相談して腹ごしらえの準備をしておいてやらなければならない。堤を切り終われば今度はその水がどこまで流れていくかを見ておかねばならぬし、雨はいつ止むのかわからないから、他の問題も出てくるかもしれない。
堤を切りに行った者たちがまたびしょ濡れになった戻ってきたのは、それから一刻後のことであった。
2.
続いた長雨がようやく止んだのは、それから一日後のことであった。
長く降り続いた雨だったが、上がってみれば空はからりとしていて涼しい風が吹いている。夏を遠くへ連れ去って、本格的な秋を連れてくる雨だったのか、と彼女はいつもよりも高く見える空を仰ぎながら思った。
雑渡が一度村に戻ってきたのはその日の午後で、彼にしては珍しく馬に乗って早駆けをしてきたようだった。
外で慌ただしい馬の蹄の音がするので何かと思って表に出れば、馬に乗った雑渡だったわけである。
「……ああ。大事は、ない?」
玄関から出てきた彼女を見て、雑渡は少し目を丸くし安堵したような表情を見せた。昼過ぎの陽光を背にした、馬上の雑渡を見て彼女はなんだか一瞬、泣きたくなってしまった。どうやら自分も、なんというか、安堵したようなのである。
「田の際の川が決壊しそうでしたので、村の者と話し合って私の判断で片側の堤を切らせました」
「ああ、それでいい。私でもそうしただろうから」
「今年の米は恐らく足りませんので、村の備蓄庫を開けます」
「許可する」
「それでも足りなければ……」
彼女が言いかけたときに、遠くから雑渡を呼ぶ声がした。何かの用事の最中に、本当に少しの時間ここに寄っただけなのだろう。雑渡は走り出そうとする馬を引いてその場で足踏みさせると、自身の口元を隠していた覆面を下ろした。
「甚兵衛様から伝言があるよ。
『約束は忘れておらぬし、此度程度の長雨であればお前の首を斬らずとも、国の庫で賄えるわ馬鹿にするな』と。
あと『その約束はそのまま懐へ入れておいてよい』と」
そう言われて、自分のかました張ったりの内容など、甚兵衛にも雑渡にもすべて筒抜けなのだと思って、彼女は思わずおかしくなってしまった。口許を押さえて、ふは、と思わず笑うと逸る馬の手綱を引いて馬の向きを切り替えた雑渡が、同じく笑った。口の端を大きく釣り上げ、片側の目尻が下がる。光の筋が閃くような、笑みであった。
「仕事が終わればすぐに戻る。それまでを頼む」
雑渡は短く言って、馬を旋回させるとそのまま諸鐙(もろあぶみ)を合わし、馬を走らせて行ってしまった。まるで、光のように来てすぐに行ってしまった、と薄く思って雑渡のあの、閃くような笑みを思い出した。
ぼんやりと彼が駆けていってしまった軌跡を眺めていたので、彼女は屋敷の中から出てきた使用人に「何を見ているのか」と怪訝な顔をされるのであった。
冬前に行った米の収穫はやはり例年よりも少なかったが、それでも水はけのよい側でかつ切った後の水流れの計算が思った通りにいったこともあり、覚悟していたほど少ない量ではなかった。
これならば村の備蓄だけでもなんとかなるかもしれないな、とようやく村に戻ってきた忍軍の者たち、雑渡達とも話し合いながら冬の支度を始める。タソガレドキはあまり深く雪の降らない土地なので、冬の間であっても忍軍の者たちは村とタソガレドキ本城を行き来する。
雑渡はやはり他の者から忍んで都度都度戻ってきては、花だとか、どこかで買った小間物とか、きれいな柄の折り紙を持って来て、茶を飲んで少しだけ話をして行ってしまう。
彼がそういうことをするのは決まって一人で帰ってくるときだけで、忍軍の者たちと大っぴらに帰ってくるときはしない。どうしてなのだろう、と何度か思案して、ふと思い至った。
雑渡なりの、照れ隠しである。
そう思い至ると、ちまちまと持って帰ってくる小さな贈り物や、彼女がやりたい、してみたいと言った細々とした願いを言葉少なく叶えていく夫の態度がどうにもいじらしいものに思えて、堪らなくなった。縁側で頭巾を巻き直して戻ろうとする雑渡の顔を見て、小さく噴き出す。
「……どうかしたの」
「いえ」
急に笑った彼女に、雑渡は少し憮然とした顔をして聞く。ああきっと、私達は互いに少しずつ表情を豊かにして、互いの考えていることが少しずつわかるようになって。
いつか、浅賀の城にいたときに招いた薬師の女の言葉を思い出す。わかり合おうとしないと、人は相手を理解できないのだ、というようなことを言っていた。そうなのだろう、きっと雑渡と少しずつ重ねた時間が彼の人となりを解きほぐし、今つまびらかにして、雑渡という男を彼女の前に見せている。
「次の御帰りを、心待ちにしています」
微笑んで言った彼女を、雑渡は少し目を丸くして見てから、優しげに眼差しを緩めた。
「行ってくるよ」
彼のその言葉に、いつも何時でも言いたかった。待っていると、帰ってくることを楽しみにしていると。
そう言えるだけの、資格と立場が、彼女はほしいと思っていた。それはきっとずっと前からで、今に始まったことはではなく。
いつも、いつであっても。
3.
初めは、タソガレドキのこの忍村にも薄く初雪が降った頃であった。
それは、小間物が一つ二つとなくなることから始まったのだ。筆だとか、文鎮だとか、投げ入れの花器だとか。そういう細々としたもの。屋敷の中の誰かが使っているのか、それとも昼間面倒を見ている村の子どもの悪戯かと思っていたが、ふとした時に戻ってくる。
近頃、鼠がいるようなのだ、と使用人夫婦の妻のほうが言っていた。夕餉の残りだとか、野菜の屑だとかが目を離した隙にふとなくなる、と。
筆がなくなり、文鎮がなくなり、花器がなくなり、それらが戻ってきてからは食事の残りや野菜屑がなくなる。きぃ、と天井の裏から、何かが這って歩いて、微かに鏡板を鳴らす音が聞こえる。
冬になり日が暮れるのは早く、酉の刻(17時~18時)の鐘が鳴る頃にはもう夕日はもうほとんど、沈んでしまっている。廊下の端から歩いてきて自分の部屋の薄暗がりの中に、まるでとぐろを巻くようにその人影が蹲っていたときに、だから彼女は「来てしまった」と、そんなことを思った。
「なぜ気づいてくださらなかったのです」
聞こえた声音はひどくしゃがれていた。体に巻き付いた黒っぽい布を払って、じっとこちらを見据える目は赤み走って充血をしており、眼窩は落ち窪んでいる。
「筆、文鎮、投げ入れ花器、あなたが子どもの頃に隠して遊んだでしょう」
「…………ああ」
彼女は持っていた燭台を掲げて、その人影を検めた。自分の喉の奥から嘆くような、声音が漏れる。蹲っていた人影は浅賀の城の、父が重用していた忍びのうちの一人だった。
来てしまったのか、と思った。
「でももう良いのです。さぁ姫様、浅賀へ戻りましょう。こんな黄昏甚兵衛のような裏切り者、薄汚い者の国からは抜けて、我々の国に帰りましょう。
そして浅賀の家を再興するのです。あなたがいらっしゃる、浅賀の血筋を正しく引いた、雨露子様。あなた様がいらっしゃるのです」
「……どうして、私が生きていると?」
彼女が聞くと、浅賀の忍びはくっくっと、喉の奥を転がすように笑った。
「あなたは御存知なかったでしょうが、私は火計を専門としておりました。
あなただと言われていたあの焼けた死体は、あなたのものだというには少し骨が太すぎましたし、口蓋の中の奥歯にはいくつか欠損があった。
あなたは麗しい姫君でしたので歯の欠けなど、ございませんでしたね」
雑渡がああして彼女の死体だと見せかけたことを、見破るものがまた浅賀にも残っていた。残ってしまっていたのだ、と彼女は思った。
「申し訳ないけれど、浅賀の再興は無理でしょう」
「なぜ?」
「もはや浅賀の国はないからです」
「関係ないでしょう、あなたがいらっしゃる。
それとも……、このタソガレドキの領で暮らしたいとそう仰るか? しばらく見させていただいたが、国を喪われた姫にしては、随分とご呑気な暮らしをしていらっしゃるようだった」
浅賀の忍びは如何にも皮肉げな口つきだった。彼女はそれに答える言葉を見つけることができず、じっとその忍びの血走った目を見る。忍びはいやらしく、口の端を歪めた。
「まさかとは思いますが、タソガレドキの者を浅賀の城へ手引きしたのは、あなたですか?」
「……違う、」
違う、とは言ったが、城の者を根絶やしにする原因は、彼女が雑渡に唆されて他国の忍びに自身の嫁入りについての情報を漏らした、ということに元々ある。
彼女にしては鈍い口調の言いぶりに、浅賀の忍びはくぅ、と喉の奥を鳴らして笑った。
「そんなことだろうと思っていました。あなたはいつも、城の者を冷たい目で見ていた」
「そんなことはない」
「しかし浅賀様は殺され、あなたの他のご家族も皆殺された。城主様らがどんな目に合って死んでいったのか、あなたは知りますまい。
…………しかしもう、いいのです。あなたはこうして生きておられた。血があれば、浅賀の再興も夢ではないのですから」
「………………」
「あなたは死んでも私がお守り致します、雨露子様。ですから、共に行き、浅賀の国を再興いたしましょう。私と共に、ここを…………」
飢えたような男の口ぶりに、彼女はほとほと嫌気がさして荒く首を振った。男が手を伸ばしてくる。ざらついた、垢が指先に絡みついた指で、強く彼女の腕を掴む。
ずっと、きっと。この男は彼女を探し続けていたのだ、こんなに飢えてこんなに汚れて、こんな風にぼろぼろになってまで。
「お前たちは、いつもそうだ」
腕を掴まれて強く引かれて、出てきたのはそんな言葉だった。
「あなた様のため、あなた様が正しく生きるためと言って、簡単に自分の命を投げ出すという。簡単に命を懸けて、命に代えてもなどと言う。
いつもいつもいつもそうだ、姫に、私に自分の死に場所を求めるくせに、私にそうして自分の命を押し付けて勝手なことばかり言って、私に生きよと申す」
「姫……?」
「……私のために死ぬというのなら! どうして誰も私のために生きるとは言わぬのか!
私一人が生き残っても、浅賀の国はタソガレドキに吞み込まれてどこにもなく! 家臣は私に生きよと言って、身代わりに死んだ! 国も領も慕ってくれた家臣も皆死んで喪って残らぬおらぬ私が、一体誰の、どこの国の姫だと言うのか!
…………申してみよ!!」
苛立ちから逆にその忍びの枯れ木のような腕を掴んで言った言葉に、その忍びの瞳にも同じく憎悪の炎がひらめく。忍びは素早く自分の懐に手を差し込むと、逆手に柄の付いた刃物を取り出し、大きく振りかぶる。死ぬのだ、と思った。ここで、今。
そのとき。
金属と金属の擦れる、甲高い音がして後ろから肩を捕まれる。「下がって」と小さく短く声がした。
「そこまで」
凶刃を同じく柄の付いた刃物で受けた雑渡は、彼女の肩を引き自身が前に出ると、そのままの勢いで足を振り、浅賀の忍びの鳩尾辺りを蹴り飛ばした。がら、と忍びは障子にぶち当たり、外れたその障子は砕けて忍びの体に木屑を絡ませていく。
そうして庭まで転がっていき、忍びはその庭先で転がった体勢を整えると、彼女をひと睨みしてからたっと跳ねて、夜の暗がりの中へ消えて行った。
「五条」
「は」
天井裏から、深い色のうねった髪をした男の忍びが降りてくる。
「追え」
「生死は?」
「問わぬ」
「承知」
五条と呼ばれた男は短く返事をし、風のように部屋を抜けて走って行った。合わせて数人が、庭先から男を追って走って行く気配がする。
「……満足ですか」
それを見送ってから、ゆっくりとこちらを振り向いた雑渡に、彼女は聞いた。雑渡の冷えた視線がこちらを捉える。わかっていた、わかっていたはずだった。
「村の林には、見張りを立てた境界線があると聞きました。この村の者が、そこを超えた侵入者を易々と見逃すとは思いづらい。使用人も、『鼠がいる』と言った。
あなたは、わかっていてあの者を、泳がせたでしょう」
わかっていた、そのはずだった。
雑渡はタソガレドキを守ることが仕事で、忍村を守ることが仕事だ。だからああして間者が紛れ込めば、それが余所者の彼女と関係があるのかどうか、確かめなければならない。
わかっていたはずだった。
「……直に夕餉の支度ができるそうだ。私はタソガレドキ本城へ戻るので、あなたはいつも通り、過ごしなさい」
雑渡は彼女の質問には、答えなかった。すっと身を屈めて先ほどの浅賀の忍びに掴まれた彼女の腕を見分すると、使用人を呼んで手当をするように言いつける。見れば、男の手の形に赤く色がついてしまっていた。
強く掴まれたため、痣になったのだろう。
雑渡はそのまま彼女を見ることなく、立ち上がって部屋を出て行ってしまった。手当てを命じられた使用人の女は、彼女の腕に何か膏薬を擦り込み、包帯を巻いていく。
ひどく気持ちは虚ろで、外から聞こえるざわめきもなんだか遠い。結局、わかり合えたと思っていたのは、自身だけの幻想だったのだな、と彼女は思って、じっと床板の合わせ目を見た。
「私の息子は、忍軍に入って勤めております」
ぼんやりとしていると、ふとその使用人の女が話し始めた。
「夫も定年で退職しましたが、長く忍軍に勤めておりました。
息子も夫も忍軍に取られてしまい、大きな戦があるときには恐々としながら日々を過ごしたものです」
「…………」
「昆奈門様は、忍軍に勤める者も村の者も同じく大切に思ってくださる方です。
それでもしかし、息子や夫は忍軍の、組頭の命であれば命を投げ打ち、そして命に代えても昆奈門様をお守りするだろうと思うと、二人を待っている身としてはどうにも。やり切れぬと思うことが幾度もございました。」
女が訥々と話す。ふと見れば、部屋の入口には幾らか、人の影があった。黒い忍服の者ではない、至って普通の野良着を着た、村の者たちである。
「先ほどのあなた様の、『自分のために死ぬというならば、なぜ自分のために生きると言わぬのか』という仰りよう、胸がすくようでした。
私達は昆奈門様に死に場所を求める夫や、息子を馬鹿だ愚かだと思いますし、死ぬことこそが天晴などと口が裂けても言うな、と思っております。
これはこの村に生きる忍びにもなれぬ半端者たちの言ですから、夫たちは『それは違う』と申しますでしょう」
「………………」
「しかし、嫁御様。
私達、村衆は、あなた様のその言葉こそを真と思います。主君と仰ぐ方に死に場所を求めるのではなく、生きる意味にせよというあなた様こそ、わたくし達の主君と存じます」
女はそう言い、彼女から少し距離を取ってその場に指をつき、身を伏せた。部屋の入口辺りにいた他の村の者たちも、同じく跪いて首を垂れる。
彼女は何が起きているのかがわからなくて、ぼんやりとその光景を見ていた。
「雨露子様。
あなた様こそ、この村の、雑渡の嫁御様と存じまする。どうかこの先も長く、この村の、忍軍頭目の嫁御様として我々をお導きくださいませ。
あなた様がここで幸いに生きてくださるのであれば、それが我らタソガレドキ忍村に生きる者たちの喜びでございます。
どうかいつまでもこの村にて、昆奈門様の嫁御様として」
ぼんやりと、それを見ていた。
ずっと何がしたいのかわからなかった。お前は姫だ、と言われても首を垂れる者たちは皆、彼女が浅賀の城主の娘だから首を垂れるのであって、彼女だから付き従っているわけではなかった。
しかし、今のこれは違う。彼女は浅賀の姫ではもうなく、雑渡の嫁として迎えられたが他国の、タソガレドキに徒名す国の女であった。それなのに、この者たちはお前にこそ、と言う。
「このタソガレドキの忍びの村にて、お生きくださりませ」
そう言われて、目の端からぼた、と涙が落ちた。視界の端で、目付役の女が悪戯っぽい笑みをして、村の者と一緒になって首を垂れている。お前の仕業か、と思ったが、その小さな恨み言はどうしても、言葉にならなかった。
「……はい」
ぼたぼたと泣きながら頷いた彼女に、使用人の女は笑って、あなたでも泣くのですね、と手拭いを差し出した。使用人の女の分厚い、働き者の手のひらが支えられた背中にとても、温かかった。
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