三、生かされていることの全て
1.
「そこそこ、彼女は元気にやっているそうだぞ」
そう言われて、雑渡は一瞬、誰のことだ?と呆けた。それが陣内にはわかったのか、「お前の嫁のことだ」とため息交じりに付け足される。
そう言えば、一月ほど前に娶ったのだった。雑渡が今忙しなく行っている仕事はその嫁の故郷の国を盗ったことによる、事後処理についてだったが、あまりの多忙に無用な情報を頭から追い出してしまっていた。
「そうなの」
「ああ。俺の家からの文に、彼女のことが書いてあった」
「押都からはそんな報告受けていないけれど」
「黒鷲隊としての報告と、村の人たちからの印象や見え方は、違うと言うことだろう」
陣内の言に、それもそうか、と思う。押都は部下をつけてあの娘の様子を監視しているようだが、そうして見えるものと、村で地に足をつけて生活している者とでは、確かに見え方が違うだろう。
ただあの押都の部下の女が、面白がって報告の内容を少しだけ曖昧にしている可能性も、捨てきれはしないが。
「……どちらにせよ、この仕事がもう少し片付いたら一度村に戻るよ。
皆も長く城に詰めさせたままだし」
「そうですね」
雑渡の言葉に、陣内は口調を配下としてのものに変えて、頷いた。現在行わなければならない仕事の内容は件の盗った国の中を掌握し、治めていくことにある。村々に情報網を敷き、治める土地を調べていく。そういう処理を、主に黒鷲隊が主導して行っていた。
なので書面に向き直った雑渡の頭からは、その迎えた嫁の話は、もう既に抜け落ちていっていた。
:
目付役の女が、困った顔で困った顔をした子どもを抱えて屋敷へやって来たのは、ある雨の降る日であった。
「すみません、一日この子をここにいさせてもいいでしょうか?」
「いいですけれど、その子は?」
「私の子です。普段は人に預けて見てもらっているのですが、昨日その人が腰を痛めてしまって。
その状態で預けるのは、流石に忍びなく」
目付役の女に子がいたなど、知らなかった。子どもは五歳ほどの男の子で、母親と同じような困った顔をしていると思ったのは、ぐりぐりと大きな目の上の眉が、困ったように垂れた顔つきをしているからだ。本人は興味深そうな顔をして、じっとこちらを見ている。
「雨ですし、屋敷の中でもできる遊びをしましょう。どんな遊びがお好き?」
「嫁御様、そんな放っておいても勝手にしていると思いますから」
「私は弟妹が多くて、よく一緒に遊んでいたんですよ。久々に子どもと遊ばせていただきたいんです」
彼女が言うと、目付役の女はますます困った顔をしたが、子どものほうはその母親の腕から抜け出し、彼女のほうへ歩いてきて懐からいくつかの遊び道具を出してみせた。お手玉やお弾きなど、室内で遊べるものばかりである。
それらを部屋の床に並べて、子どもと一緒に座り込む。彼女が何度かお手玉を放って回して、をしてやると子どもは自分もやりたいと言って、見よう見まねでお手玉を回す練習を始めた。
「嫁御様は子どもの扱いが、お上手ですね」
「元々嫌いではないのもあります」
「私はどうも、どうやって子どもと遊んだらいいかがわからなくて。尊敬いたします」
「大袈裟ですね」
彼女が少し笑って言うと、彼女は情けなさそうな顔して肩を竦めた。いつも飄々としている目付役の女にしては珍しいことである。
「今まで、普段は離れて暮らしていましたから、未だに接し方がわかっていなくて」
「父親は?」
「私と同じ黒鷲隊の所属ですので、今も城に詰めています」
言いぶりでは、恐らく彼女の存在がなければこの目付役の女も普段は城詰めで、村から離れて暮らしているのだろう。彼女という存在があるので村に戻って来ているが、そもそも普段は村にいないのだ。
「では、子どもはずっと預けていたのですか?」
「そうなりますね。私も幼少の頃からお世話になっていた、近所の小母さんにお願いをしています。
父母がいなかったり、両親ともに働きに出る者も多いので近所の者が子どもの面倒を見るのですが、こういうことがあると困ってしまって」
目付役の女の言いぶりでは、彼女自身の育ちも似たようなもので、親ではなく近所の者に協力してもらって育てられた子なのだろう。忍軍に入る者の生活は村の中にではなく、タソガレドキ本城や忍んだ先の他の土地であったりするので、子や、家族の面倒を見ることが難しいのだ。
「私は構いませんので、とりあえずその預け先の方の体がよくなるまで、こちらへ連れていらっしゃい」
うまくいかないお手玉を頭にぶつけている子どもから、お手玉を受け取って、ゆっくりした動きで見本を見せてやりながら彼女は目付役の女に言った。
目付役の女は一瞬何か言いたげな素振りをしたが、結局それを飲み込んで「お気遣いありがとうございます」とただ頭を下げた。
次の日、屋敷に現れた目付役の女は、今度は三人の子どもを連れていた。
「……三人とも、あなたの子?」
「追加の二人は、近所の子です。この子が、どうしても二人を一緒に連れて行くと言って聞かなくて」
お手玉の練習に、子どもは友人二人も連れ出してきたらしい。きらきらと並ぶ六つの目を前に、彼女は何度もお手玉を投げさせられてお手玉の練習に付き合わされたが、それはぼんやりと昔の生家での弟妹たちを思い起こさせるような望郷の光景だった。喪われたものに胸が締め付けられるように切なかったが、それでも、悪いものではなかった。
彼女の弟妹たちはきっと殺されてしまったが、今目の前にいる子どもたちは今を生きている。死んでしまった誰かと悼む気持ちと、今ここにいる子どもを愛しいと思う気持ちは全く別物のようで、実は同じ物であったのだ、と彼女は薄く、子どもたちのけらけらとした笑い声を聞きながら、思った。
2.
雑渡がおよそ二ヶ月ぶりに戻った村は、相変わらずほのぼのと平和そうに見えた。道の脇の畑では作業をしていた村の者が手を止めて、雑渡たちの姿を認めて挨拶をしてくる。雑渡はそれに薄く笑って返しながら、屋敷までの道をゆっくりと歩いた。
国盗り後の処理はなかなかに煩雑を極め、終わってしまってからはもう笑い話であるが最中は、なかなかの地獄を見た。久々に戻った村に、雑渡に付いた山本も押都も、連れている黒鷲隊と狼隊の数人も少しのんびりとしていて、修羅場中の鬼上司の素振りはもう欠片も残っていない。
屋敷までの丘を登り切り、「戻ったよ」と声をかけると奥から屋敷の世話を長く任せている使用人夫婦と通いの下女、そして娶った件の亡国の姫とその付き人として置いた黒鷲隊の女が出てきた。
姫が一歩分前に出て「お帰りなさいませ」と頭を下げる。おや、と雑渡は思った。使用人夫婦が彼女にそんな妻のような素振りをさせるとは、あまり思っていなかったのだ。
「長くお勤めご苦労様でした。湯の用意もありますが」
「いや、いいよ。少し話をするから、茶の用意を」
「かしこまりました」
彼女が頭を下げて、使用人夫婦に目配せをして下がろうとする。
「君も同席するんだよ」
雑渡が言うと、彼女はぱちくりとした目をしてから雑渡を見て、ああ、と気の抜けた声で言った。そのときバタバタと足音がして、わっと玄関から子どもが走り込んでくる。
嫁御様!と華やかな声音で駆け込んできた子どもは、黒鷲隊の五条のところの子であった。
子どもは、屋敷の玄関におどろおどろした、どでかい大人の男が何人も溜まっているなど考えてもみなかったのか、ひぐ、と喉の奥で悲鳴を上げて玄関口でビタと止まる。数秒そのまま止まってから、見る見ると泣きそうな顔をして、それでも雑渡から目線を逸らさず、蟹のようにそろそろ横向きに移動を始めた。
こら、来るなって言ったでしょう、と奥に控えた黒鷲隊の女の、母親が叱る声がするが子どもはそれを丸っ切り無視し、ジリジリと雑渡を見つめたまま移動していく。嫁御様、と子どもが呼ぶ彼女のところまで辿り着くと、彼女の着物が丈が長く一番隠れやすいからなのだろう。彼女の、その着物の袖の奥にビャっと隠れた。
その場には母親も、少し離れたところには子どもの父親もいたというのに、隠れやすそうだとはいえ、余所者だった姫の袖に隠れたのである。
長く屋敷に仕えた使用人が彼女を立てるような素振りをすること、そして村の子どもが彼女に懐いている素振りであること。
それを見て雑渡は、大凡のことを悟った。
「わッはは」と大口を開けて笑う。少しだけ、目尻に涙まで浮かんでいた。
「いやぁ、随分馴染んだみたいだね」
「……どういうことです?」
雑渡の笑い声に陣内が、困惑した声音で聞く。雑渡は片目に滲んだ少しの涙を払って、またこみ上げる笑いを喉の奥で噛んだ。
「ちゃんと報告は上げてましたよ」という、黒鷲隊の女の気の抜けた声がしている。
橋が落ちてしまった川に、向こう岸へ渡さなければいけない牛がいたが、それを向こう岸へ渡した。
父母がおらず村の者たちが分担して面倒を見ていた子どもたちを雑渡の屋敷で纏めて預かり、面倒を見てついでに手習いまでさせ始めた。
村で育てている大豆に虫がつき困っていたところに、子ども達をつれて「一番たくさん虫を捕まえた子には特別なお手玉を教えてあげる」と言って、子どもたちに害虫駆除をさせた。
壊れた橋を直すのに材料を運ぶ人手が足りず困っていると、上流で木を切りそれをそのまま川の流れにのせればよい、なんならそのまま崩れた橋に切った木をぶつけて橋の残骸も砕いて片付けやすくしてしまえ、と助言をくれた。
迷子の子どもがどこで迷っているのかを見つけた、獣が畑を荒らすと困っていたら足跡から何の獣なのか検討をつけて獣を捕まえる罠を考案してくれた、などなどなどなど。
報告は都度してましたよ、と黒鷲隊の女は繰り返し言ったが、押都たちが修羅場を極めすぎていて些事に構っていられないことがわかっていて、さして気に留めないような報告の上げ方をしていたのは雑渡の目から見てもわかった。
黒鷲隊の押都配下の女は今別室にて、押都と膝をつき合わせて叱られている。
雑渡たちが関知していない間に、亡国の姫君は雑渡の『嫁御様』として随分村に馴染んだようで、わらわらと屋敷に遊びに来た子どもたちに手を引かれて、庭先で子とろ子とろの鬼遊びをしている。
「ああも馴染むとは」
その光景を縁側から見ながら、関心したような少し心配するような素振りの陣内の言葉に、雑渡は同じくその光景を眺めていた視線を向けて、薄く笑った。
「だから言ったじゃないか。あれは『為政者の器だ』と。
どうやっても人の目を引き、誰かの為を思い事を成し、あっと驚くように解決策を提示してハッタリをかまして、最後には人心を掌握する。
甚兵衛様と同じ、根っからの為政者気質の娘だよ」
「それは……よろしくないのではないか?」
「どうだろうね、…どうだろう。
私には、あの娘が甚兵衛様と違う方向を見ているようには見えなくてね。だから、まあ放っておいても大丈夫かと思ったのは、多分甚兵衛様とあの娘がよく似ているように見えたからだよ」
昔、甚兵衛について浅賀の城へ行ったことがある。甚兵衛は「将棋が上手い」といって客人の前に出されてきた娘と相対し、何度か指していた。二人とも互いに会話をしていなかったが、大人と子どもでも駒運びがそっくりだと思ったことを覚えている。
しかし甚兵衛にはあり、あの娘には決定的にないものがある。
何かを為そうとするときに、『為すのは自身でなければならぬ』という意識――野心である。黄昏甚兵衛には強い野心があり、あの娘にはその野心がない。
「殿と違って、あの娘は何かが為されるときに『しかしそれを為すのは、自身である必要はない』と考えるだろう。
だから甚兵衛様と相反するような質の人間ではないのだ、と私は思っている」
「……ああ、なんだ。結局はあの娘に惚れていたのではないか」
雑渡の言葉に、陣内はごく軽い調子で言った。兄貴分の思いもせぬ言葉に雑渡は「は」と薄く声が出、どく、と心臓が跳ねる。さっと陣内を見るが、陣内は雑渡のその様子には気づいておらず、ただ得心がいったような顔つきをしていた。
「私はお前がどうしてあの娘を連れて戻ったのか、とずっと考えていたが、あの娘の気質に惚れこんでいたからなのだとなれば。
やっと理解できたよ」
「……ああ」
陣内の言いぶりはまるで、雑渡があの娘の人柄に惚れこんだと言っている。そういう言いぶりであった。「惚れた」などと言ったのは恐らく陣内の言葉の綾で、深い意味はないのだろう。
それでも。
雑渡は陣内の言葉を受けて跳ねた心臓の音を、今もどくどくと大きく脈打っているこの心臓を、無視できるほど子どもではなかった。陣内が見る庭先の娘へ、雑渡も同じく目線を向ける。
雑渡が娶った姫君は、庭で子どもたちと共に陽だまりのように笑い合っていた。
3.
雑渡昆奈門の運命は、黄昏甚兵衛である。
幼少のみぎりに雑渡と甚兵衛は出会ったし、顔見知りではあったので雑渡がアレコレと我儘を通すのに、若君であった甚兵衛に頼み込んで口利きをしてもらったことも数度ある。
甚兵衛は幼少の頃から優秀な男で、それは雑渡昆奈門にしても同じであった。二人とも種類は違っても立派なクソ餓鬼様であったが、雑渡からしてみれば、黄昏甚兵衛は自分とは違い、根っから人の上に立つ気質の男である、と思っていた。
鉄砲が流行り始めたときに雑渡は甚兵衛の協力を得て堺まで鉄砲を探して買いに行ったが、使うごとにこの鉛玉を人に向けて打つことの恐ろしさを思い知った。鉄砲なる物を初めて見たときの高揚感などはそのとき既にもうなく、この先自分たちはこの鉄砲と、火薬を使って戦をし、そうして人間を虫けらのように殺していくのだとまざまざと思い知って、強く打ちひしがれた。
考えずともよい、と言ったのはそのときの甚兵衛である。
「他人を殺す意味も、お前が殺されるかもしれぬという恐怖も考えずともよい。
何も考えず、ただ儂のためだけと思って武器を振るい、儂のためだけに生きよ」
戦道具としての鉄砲を前に、鬱々と悩む雑渡に甚兵衛が言ったのはそんな言葉であった。なんと強い男なのだろう、とそのとき雑渡は思った。
他人に「お前のため」と言って命を懸けられることを、生きる理由にされることを、黄昏甚兵衛は見事に受けきってみせていた。
甚兵衛はその言葉を雑渡に言って、是か是でないか、と聞いた。
雑渡昆奈門は「是」と答えた。
そのときから雑渡昆奈門の命は黄昏甚兵衛のものであり、黄昏甚兵衛は雑渡昆奈門の生きる理由である。
黄昏甚兵衛は、雑渡昆奈門の運命である。
:
雑渡の屋敷は、見違えるように騒がしかった。村の子どもたちは十ほどになると一度集めて忍びとしての適性を見、適正のある子どもは忍軍に入れるため修行をつける。そうでない子どもは村の中で仕事をするので、大人について村の仕事を覚え始める。
そのため、雑渡の屋敷に集めて彼女が面倒を見る子どもとは、まだ十にも満たない子ども達、文字通り年端もいかない子たちであったのだ。
「これ、宗家の子どもも混じっていないか?」
「嫁御様が集められているなら、ということで宗家の方々も自分の子どもを寄越していらっしゃるそうで」
ようは、彼女が「雑渡の嫁」としてうまく身を立てそうなので、顔繋ぎに、ということだろう。久々の休みで忍軍の大半は城主付を城に残して村へ戻ってきていたが、雑渡は、大人以外がこの屋敷にわらわらと集まってくる光景を初めて見た。
「お邪魔でございましたら、外へ追い出しますが」
「いや、いいよ。問題ない」
壮年の使用人の男は、雑渡が子どものときから長くこの屋敷に詰めていてくれる夫婦だ。彼は雑渡の気質が他所で恐れられるような血も涙もない、という男でないことを良く知っているし、屋敷から子どもたちを追い出さないだろう、とわかっている。
それでも一応という態で聞くのは、逆にその「嫁御様」が雑渡の反応に気を揉んでいるからだろう。
「これ、こうなり始めたのは、どういう経緯だったの」
「さぁ、私どももはっきりとは存じていないのですが……。
初めは五条のところの子ですとか数名だったのが、あれよあれよという間に増えていきまして」
「何か誰かが、裏で手を打っていたとか?」
「そんな様子もなく、流れのままでこうなったように見えました」
「ふうん」
庭では、わらわら集まった子たちに彼女が手習いを教えている。紙を使うのは高くつくので、皆地べたに木の枝でがりがりと文字を書いてみせている。
ぼんやりと、忍軍で使っている書面の端紙(たんがみ)をここまで持ってこさせてもいいのかもしれない、とか、この屋敷だけでなくて近くにもう一つ建物を立ててやって、そこで子どもを集めてもいいのかもしれない、とか。
そういう彼女がいるからこその運用を考え始めて、また脳裏を陣内の「惚れたから連れてきた」という言葉が巡る。
どうにも腹の底がむずむずとして、雑渡はやりきれなさに自分の包帯の下の、ざんばらな髪をガシガシと掻いて、撫でた。
それから数月は、特に表立って目立つ事柄もなく、平和に過ぎた。結局雑渡は忍軍から端紙を村へ寄越すように手配をしたし、同じく手習い道具を安く集めて村に届けさせた。
忍術学園の教師に相談をして、十以下の子どもに手習いをさせるための教材を紹介してもらい、今は屋敷の側にもう一つ小屋を建てて、そこに忍術学園の教室と同じような黒板を入れてもらおうと画策している。
彼女がいなくなれば、それらの手配差配は全て無駄になる。そうは思っていたが、「そうしようかと思う」と話したときの彼女の表情が目に見えて嬉しそうであったので、なんとなく、雑渡はそのまま絆された気持ちになってしまっていた。
タソガレドキ領の領地線の際まで逃げ込んだ間者を森の中で追い詰め、懐の苦無を投げて間者の首の付け根を穿つ。
間者の男は鈍い悲鳴の後にごぼ、と血を吐いて溺れたような音を出して、そのまま絶命した。部下に言ってその男の死体を始末をさせながら、死体から苦無を抜き取り軽く拭って、懐にしまう。
血錆の匂いが、いやに鼻についた。
その場は部下に任せ、先にタソガレドキ本城へ戻るために森の中を行く。ふと、視界の端に冴えた赤色をした花の影を見つけて、立ち止まった。
ぼんやりと、昔のことを思い出す。
まだ狼隊の小頭であった頃、一人目の子が生まれたばかりの陣内がこれから村へ戻るぞ、というときに同じような色の花を手折っていたときがあった。
別に、それは陣内への苦言とか、惚気の多い陣内への嫌味とか、そういうものではなかった。ただ近頃は、自分の兄のように思っていた男がまるでその嫁に取られてしまったような気持ちはあって、少しムカついていたことは覚えている。
花は、山茶花という花であった。
「いい枝ぶりじゃないか、手折って帰ろう」
陣内はそういうと、懐から苦無を取り出して、見目のよい花の付いた枝を幾本か切り落とした。雑渡の記憶が確かなら、先ほど敵方の胸を突き、首を、血の筋を掻き切った得物である。
「それさ、奥方はその花を手折ったのは誰かの血で汚れた得物だって、知っているの?」
「そりゃあ、知っているだろうさ。
自分の夫がどんな仕事をしているかを知っているし、自分や子の飯がどの犠牲の上にあるかも知っている。
その上で、そんなことは露も知らぬという顔をして『嬉しいわ』などと笑ってくれるような良い女を、俺は嫁にしたんだ」
まごうことなき惚気に、雑渡はゲロゲロと舌を出した。聞くのではなかった、と思ったが、そうか、陣内の妻はそういう賢い女で、陣内はその賢さを承知の上で花を摘んでいき、家へ帰るのか。
そう思ったことをよく覚えている。
あのとき同じような、いい枝ぶりの花であった。雑渡は懐の苦無でそれを数本切り落とし、向かっていた先を変えて村へと走って行く。誰にも見咎められることなく村奥の自分の屋敷まで忍び込むと、縁側から屋敷の中へ入り、部屋の中で一人で書き物をしていた彼女に、その花を差し出した。
「雑渡さま、……驚きました」
「すぐに出なければいけないけれど、これを」
幼子のように短く言ってその花を差し出すと、彼女はほのかに頬を染めてその花を受け取った。
「まぁ、ありがとうございます。こんな風に花をいただけるとは、思ってもみませんでした」
使用人に言って、花を生けるための花器を用意しようと立つ彼女を、雑渡は名を呼び引き止める。「雨露子殿」と呼ばれて、彼女は「はい」と衒いなく振り向いた。
「もし、その花を手折ったのは、他者の血が付いた得物だとしたら。あなたはどうされますか?」
雑渡が聞くと、彼女は雑渡の顔をその花とを見比べ、少し不思議そうな顔をした。それから、ふふ、と小さく笑う。
「どうにも。
どういう経緯であれ、雑渡様が下さった花には変わりはございませんし、花に罪はないものです」
少しお待ちください、花器と一緒にお茶でも用意させます、と言って彼女は部屋を出て行った。雑渡は大きく息を吐き、彼女が部屋に戻ってくる前に屋敷を、村を抜け出した。
こういう気持ちか、と兄が花を手折っていた様を思い返して、走りながら雑渡は思った。
家で待つ妻に花など摘んで帰るのは、あの何もかもを飲み下したような女の笑みが、ただ見たいからか。
身の中のやりきれなさは、雑渡としても初めて感じる類のものであった。もう四十にもなろうという自身がおぼこい子どもだとは思っていないが、自分の人生の中で、確かにこうして女を、妻を迎えて家に人を入れたのは初めてのことである。
家を守る女がいるというのは、自分が守るべきものを任せておける女がいるというのは、こういうことか。
雑渡はつくづくと思った。
身の内には、胸の中を温めるような淡い愛しさに似たものがただ、溢れている。
:
彼女が使用人に花を預けて茶を淹れて部屋に戻ると、そこにもう雑渡の姿はなかった。すぐに出なければいけない、とは言っていたから予想していなかったわけではないが、やはり残念ではある。
気落ちして盆を床に置く。少しして使用人が花器と水揚げした花を持ってきたが、もう雑渡の姿がないことに大凡を察したようだった。
――しかし、昆奈門様が花を渡しに来られるとは、思ってもみませんでした。
花と花器を手渡されながらそんなことを言われ、その口振りがいかにも幼い頃からの子どもに対する口つきなので、彼女は少し笑ってしまう。
見目こそああして包帯に覆われて、背は誰よも大きく片目でじろりと睥睨するようにするから恐ろしくも見えるが、雑渡が本来は優しく子ども好きで、この村や住む人々、自身の部下たち、この自分の国であるタソガレドキを大切に思っている。そういう穏やかで、至って普通の気質の男であることは、彼女にも理解できていた。
花器に花を生けながら、次はいつ帰っていらっしゃるのかしら、と思った。
花は色づいて赤赤としていて、彼女の心の内を仄かに染めていくような、そんな色をしていた。
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