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二、曇り日和の花嫁は


1.

 甚兵衛の前を辞してから、彼女をここへ連れてきた包帯の大男は素知らぬ素振りで、「こちらへ」と先に立って彼女を案内した。甚兵衛の室の前で控えている数名の男たち(恐らく忍びだ)の中に先ほど温かく湿らせた手ぬぐいを手配してくれた男を見つけて、軽く頭を下げる。
 隣にいるもう一人の、少し年嵩の男は何か言いたげな顔をしていたが、前を行く大男――ザットと言っただろうか。彼がさっさと先を歩いていくので、口を挟む隙が無いようだった。

「さて」

 そのザットがようやく口を開いたのは、城内の廊下をくねくね数度曲がって、入り組んだ道筋の先にあった部屋に着いてからだった。室内には誰の影もなく、ザットの勝手知ったるような素振りから、恐らくここは彼の城内での執務室か私室なのだろう。

「今まで名乗りもせず失礼した。
 私は雑渡昆奈門。このタソガレドキにて忍軍の組頭をしている者です。
 今まで一緒に控えていたのは、忍軍狼隊の小頭をしている山本陣内」
「どうも」

 隣の年嵩の男――山本陣内も合わせて紹介し、雑渡は少し困ったような目つきでこちらを見た。

「さて運が悪くも殿の気まぐれで、あなたは私などに嫁ぐことになったわけだが、……どうされますか?」
「どうするも何も、私が『嫌だ』と言えば甚兵衛は私を斬るでしょう」
「よくお分かりで」

 彼女の返事に、雑渡は覆面の下で薄く笑ったようだった。それに黙っていなかったのは、山本のほうである。

「組頭……、いや昆奈門様。
 あなたの嫁ということは、忍村に入るということです。他国の、それも我々が滅ぼした亡国の姫など、村には留め置けぬ」
「けれど、そうしなければ殿は彼女を斬るだろうよ」
「しかし……」

 そうまでする価値が、この娘にあるのか。
 山本は喉まで出かかった言葉を彼女の手前、ぐっと飲み込んだようだった。冷酷だと有名なタソガレドキ忍軍の小頭にしては、どうにも優しすぎる男に見える。

「すまないね、陣内は先日あなたと似た年頃の自分の娘を、嫁に出したばかりでね」
「昆奈門!」
「そういうことにしておこう、陣内。彼女を今から『忍村に入れぬ』などと言えば、それこそ殿のご不興を買いかねない。
 それは私も今、本意ではない」
「それは、そうだが……、お前は、」

 山本は何かを言いかけて、ぐっと押し黙った。彼女は山本が何を聞きたかったのかを薄々察し、そのまま聞くことにした。

「なぜ私を連れてこられたのですか」

 彼女の問いに、山本が薄く目を剥く。じっと問うように雑渡を見つめると、雑渡は少し思案するように彼女の顔を少しの間眺めて、それから覆面の下でにこりと破顔した。

「君のその、責の強さに免じて」
「……愚かなことを」

 彼女は思わず、呆れた声音になった。白々として雑渡を見れば、雑渡はやはり少し困ったような顔をしている。気まずそうに、彼は少し覆面に覆われた頬をかいた。

「愚かと言われようと、事実なんだよねぇ。
 甚兵衛様が同じ状況なら、私はあの侍女と全く同じことをする自信があるし」

 なんなら、身長や体格の違いにて見破られるといけないので、体中を粗方潰してからやるだろう。などと雑渡が内心で思っていることを、彼女は知らない。
 彼女は大きく溜息を落とすと、山本にほうへ目線を向けた。

「この忍軍組頭は私を受け入れることを止むなしとしているようだが、あなたの懸念は?」
「……あなたが忍村の中で国の再興を企み、村がその諍いに巻き込まれることです。
 村は我々忍軍の生命線ですから」
「私はそのようなことをするつもりはないが……、よい。四六時中私に見張りを付けなさい。
 忍軍の村であれば、そういう人材はいくらかいるでしょう」
「はぁ、しかし」
「私に世話も供もいらぬ、その村の端に小屋でも用意しそこに置け。畑ぐらいはさせてもらえるとありがたいが……」
「待ってください、あなたは仮にも組頭の、『雑渡』の嫁として村に来るのです。
 そのような扱いはできません」
「そうなのか?」

 彼女の何となくとぼけた聞き返し方に、山本は毒気を抜かれる気持ちで頭を押さえた。なんというか気位の高さとは別に、自分の身について無頓着さのある女子なのである。

「陣内。
 こうなればもう村へこの子を連れて行くしかないし、私の嫁として雑渡に入れるしかなかろうよ。
 血筋としては亡国と言えど武家の姫だから、中には喜ぶ連中もいるだろう」
「はぁ……」
「とりあえず、彼女を連れて村へ行く。押都を呼んできてくれ。お前と、押都を村まで同行させる」
「かしこまりました」

 そこまで話をすると、山本は部屋を出て行った。彼女はその気疲れを帯びた後ろ姿を見送ってから、目線を雑渡に戻す。

「可哀想な部下ですね」
「そう?」
「今のうちに私を斬り捨ててくださって、構いませんよ。甚兵衛様を愚弄した、とか理由をつけて」
「そういうのは、実際に愚弄してから言ってみるものじゃないか? 君なら人の動かし方ぐらい知っているだろう」
「むざむざ不興を買って死にに行くことを、できるはずがないでしょう」

 彼女のしらっとした物言いに、雑渡はまた薄く笑った。結局彼女も、懸けられた他者の命に縛られて生きているに、他ならないのだ。雑渡はそれを少し愉快に思って、部屋の中で所作なさげな彼女の前に跪き、首を垂れた。

「浅賀雨露子様。
 あなたのその御身、タソガレドキ忍軍組頭のこの雑渡昆奈門が、頂戴いたす」

 彼女は跪いた雑渡の姿をじろっと見てから大きく息を落とし、目線を逸らした。

「……好きにせよ」






2.

 雑渡の背中に背負われて、連れて行かれた村はタソガレドキ本城からおよそ一刻ほどの、深い森の奥に隠れた谷底にあった。随分不便そうな場所に思ったが、木々が開けてから見えた村の様子は暗がりの中でもかなり広く見え、村として栄えていることが見て取れる。
 山本が連れて戻った男は蘇利古の雑面を付けた小男だった。小男、というが膝と腰を常に屈めているように見えるため、実際の背丈はよくわからない。もしこの男が面を外して普通の人間のようにそこらを歩いていれば、彼女には見つけられないだろう。
 男は「黒鷲隊の押都です」と短く名乗り、彼女も会釈を返した。負ぶわれた雑渡の背中は広くて安定していたが、一刻余りも走り続けられたので背中の上でじっとしているのには、骨が折れた。
 ようやく下ろされたのは村の奥に位置する一際大きな屋敷の前で、山本がまず「戻ったぞ」と声をかけながら屋敷の門をくぐる。

「足が疲れたかい?」
「少し」
「黒鷲隊の者を先行させてございます。家の者が湯と、軽い食事などを用意しているでしょう」

 雑渡の背中から下ろされて、生垣に手をつきふらつく足を押さえる彼女に、押都が言った。雑渡が差し出した手を取り、案内されるままに屋敷の門をくぐる。庭はこじんまりとしているが丁寧に整備され、玄関もさして広くはないが綺麗掃き清められている。
 主人の帰還に慌てたようなものではなく、普段からこうしてきちんと手入れされているようで、使用人の気質が見て取れた。

「お帰りなさいませ」
「戻った」

 彼女の手を取り支えながら、雑渡は玄関の土間口で迎えた使用人に鷹揚に言った。

「旅の疲れがある。湯を使わせてやってくれ」
「承知いたしました」

 雑渡が言い、控えていた女が彼女に向かって「こちらへ」と案内をする素振りをする。雑渡を見れば頷くので、彼女は支えてくれていた彼の手を離し、痛む足でふらふらとしながら案内を買って出た女の後ろを付いていった。
 彼女をそうして見送ってから、雑渡は残った使用人に目を向ける。

「押都から伝達は行っていると思うが、あの姫を私の嫁として迎えることになった。
 今後村に置き、皆に世話を頼むことになると思うが、よろしく頼む」
「お言葉ですが昆奈門様」
「いや、お言葉しなくてもわかっております。……陣内からも、散々っぱら小言を言われたよ」

 雑渡の家の長く仕えている使用人は、雑渡の溜息まじりの言葉に肩を竦ませた。四十近くにもなっていい加減に落ち着いたかと思えば、今回の騒動である。昔からのクソ餓鬼様気質は、忍軍の組頭となれどそう簡単に治るものでもなかったのだろう。

「怪しい動きがあれば斬れ…とは言っておくが、恐らく彼女はそういう質の娘じゃないだろうからね。そこまでキリキリしなくてもいいよ。
 甚兵衛様もなんだかんだ、ご友人のあの娘御を目にかけていらっしゃったのだ」
「と言いますと」

 使用人の問いかけに、雑渡は薄く笑って付けっぱなしだった頭巾と覆面を解いた。
 まごうことなき、幼少からの雑渡の悪ガキ倅の悪戯じみた笑みであり、そして忍軍組頭の不遜な笑みであった。

「あれは、為政者の器だよ」













 屋敷の中に作られた湯殿はそこそこに広く、彼女は張られた湯をありがたく使わせてもらい体を清めた。顔は拭ったが着物の端から入り込んだ煤や木の屑が体中に貼りついており、髪からは流しても流しても黒い煤の色水が流れてくる。
 湯を汚さぬ程度に何とか体を洗いきってから、湯気の立つ湯舟に体を沈めた。ぐっと足を伸ばすと、カチカチに緊張で縮まった体が伸びる気がする。ぼう、と寝不足で霞む頭の向こうで、燃えていく自分の生家の光景を思い出した。
 あの光景を、自分の生まれた家を燃やす切っ掛けを作ったのは、確かに自分である。
 
 彼女は一年前のことを思い返した。
 父に言われて南蛮の商人に嫁ごうか、という時であった。父は南蛮商人と血を交わし長く確かに硝石を買い付ける伝手を手に入れようとしていたが、それはつまり軍拡を行うということでもある。
 甚兵衛のようにそれが気に食わない城主は他にも多くいたし、軍拡をすれば結局は戦をすることになる。父は、手に入れた玩具は飾るのではなく、使いたがる質の人だった。
 迷ってはいた。
 多くの火縄と使い切れぬほどの硝石を手に入れたとあれば、隣国への抑止にはなる。そうした方が国が安寧なのか、それとも無駄な火種は撒かぬ方がよいのか。彼女には読み切れず、迷っていた。
 そこに現れたのが薬師の女で、彼女の周辺を探る忍びで、そしてあの包帯の大男――雑渡昆奈門であった。
 昔から、あまり何かに夢中になれぬ質であった。兄が剣術が上達せぬと泣いているところや、他の弟妹たちが大声で笑いながら鬼ごっこに興じているのに、彼女は大してそれらが面白いとは思ったことがなかった。
 剣術は、兄や他の指南役の動きはどうにも無駄に塗れて見えたし、鬼ごっこは誰にも捕まらないことができた。父の為政は自身の欲と他者評価に重きを置くせいで差し手が鈍く思えたし、将の動かし方も配下達が何を思ってどこに謀反の火種があるかも、彼女には父よりもよく見えていた。
 しかしその目は、女の身である彼女には過ぎたる物であったのだ。
 
 一番目の兄は、「お前の目は鋭いからずっと私の側にいて、指南役になってくれたらいいよ」と言ってくれていたが、その兄も他領との戦の中で討ち取られて死んだ。二番目の兄とは反りが合わなかったが、その兄も昨日恐らくタソガレドキによって殺され、家族も家も焼かれただろう。
 国は、確かに燃えなかった。民は安寧のままである。しかし自分は、家族と生まれた家を喪った。
 これは彼女の、浅賀雨露子の選択ゆえの結果である。

「もし、御前様。何ぞございましたでしょうか?」

 風呂場の外から長湯を案じた、先程の案内の下女の声がする。彼女は「大事ない」と答えながら、湯から上がった。
 どうにせよ、自身の幼少から付いていた侍女に、配下にああして命を懸けさせた。
 であれば。彼女はここでどんな手を使っても生きることしか、道は残されていないのだ。






 風呂から上がると身支度をされ、そのまま屋敷奥の部屋へ通された。外は薄らと明るくなり始めてはいるが、まだ夜は明けていない。部屋の中では数名が立ち動いて、少しの膳を用意しているようだった。

「ああ、湯殿はゆっくりできたかい?」
「気持ちようございました。お気遣い、痛み入ります」

 部屋の上座から声をかけてきた雑渡に、案内されるままに隣の席に座して、彼女は頭を下げた。二人の席の前には杯が乗った膳が用意されており、脇には二献・三献の杯が控えているのが見える。

「手配が間に合わないのでね、正式なものは後日ということになる。申し訳ない」
「構いません」

 彼女が言って膳に体を向けると、壮年の女が銚子から酒を杯に注ぐ。雑渡は三度それを飲んで下すと、今度は杯が彼女の方は回ってきた。彼女も同じく、三度杯を飲み干す。
 いつかはこういう日が来るのだろう、とぼんやり思っていたが、こんな形だとは思っても見なかった、と三度同じことを繰り返しながら、思った。

「では私はまだ本城で仕事があるため、戻ります。
 後のことは家の者に頼んでありますから、まずは疲れをお取りください」

 夜の暗がりが白く明けていく頃に二人は杯を飲みきり、互いに礼をした後に雑渡は席を立って言った。同じく立ち会いをしていた山本と、押都も席を立つ。

「……かしこまりました」

 妻となったのであれば、玄関先まで見送るべきだったのだろうがそれは雑渡の家の者と、雑渡自身を困らせるだけのような気がして、ただその場で頭を下げた。
 雑渡はそれでも微かに困ったような顔をしてから、頭巾を巻き直して部屋を出ていく。

「雨露子様。
 私の隊――黒鷲隊の者を後で用意し遣わせますので、あなたの良しなにお使いくださいませ」
「ありがとうございます」

 部屋を出ていく際に、押都が彼女を振り返ってそう言った。良しなに使えといえど、それが恐らく彼女のお目付け役、見張り役なのだろう。そう思ったことが顔に出ていたのか、押都は雑面の向こうで薄ら笑ったようだった。
 雑渡たちが部屋を出ていくと、床間は急にがらんとした。下女に案内されて、少し休むようにと寝所を用意される。言われるままに寝床に横になれば、体は思った以上に疲れていたらしい。
 脳が蕩けるように、朝の日のような薄っぺらい眠りが、ようやく彼女にも訪れた。






3.

 押都が用意すると言った黒鷲隊の忍びとは、彼女よりも十ほど歳上の女だった。ぼんやりとした顔つきであるがふとしたときの眼光が強く、嫌に目を引く女である。
 彼女は「雨露子様付きとして配されました」と挨拶をしてから、雑渡の屋敷の彼女の側に詰めている。
 彼女は初めの数日こそは屋敷の中や少し庭に出る程度で大人しくしていたが、段々と部屋の中にいるのにも飽きてしまった。
 彼女が住んでいた城は、城から出ることこそ叶わなかったが広い庭があり彼女は日に何度もその庭に出ていたし兄の遺した書物も読み耽って過ごしていたのだ。
 何もしなくていいと言われても、部屋で転がっているのに飽きるというものである。
 つまらない、飽きた、という態度で与えられた部屋の中で鬱々としていたら、ここへやって来てから五日目にようやく、屋敷の外へ出てもよいという許しが出た。目付役の女にそこそこ管を巻いた自覚があるので、彼女が恐らく辟易として押都なりに物申したのだろう、と思った。

「あなたの上司……押都様だったでしょうか? よくお許しになりましたね」
「元々お許しを出していたのは雑渡様ですよ。それに小頭…押都と山本様が待ったをかけておりまして。
 私がそれに重ねて『部屋の中にいるのに飽きた』と、何度か文句を垂れた形になります」

 女は名を五条と名乗ったが、タソガレドキのような規模の大きい忍軍の中にいる割には何ともとっぽいというか、気の抜けたようなことをよく言い、そして少しなところのある女だった。

「というわけで、雨露子様。
 許しは得ましたので散歩にでも行きましょう。日がな一日部屋にいては、体を悪くします」
「それは確かに同感です」

 彼女が頷いて言うと、目付役の女はひらめくような笑みで、ちらっと笑った。
 雑渡の屋敷の者に少し散歩へ出ると伝え、二人で連れ立って屋敷の敷地の外へ出る。天気は快晴で、日がよく照っていた。
 屋敷の前の道を抜けて目隠しの林の中から抜けていくと、屋敷は小高い丘の上にあり周りには段々になって畑があるのがわかった。

「畑が多いですね」
「薬草や、村で食べる野菜を作っております。今の時期ですと、大豆の植えつけをしていますね」
「家々があまり纏っておらずあちこちに点在しているのは、畑の面倒を見る者の家だからですか?」
「そのようなものです」

 目付け役の女は軽く笑って言い、すっと見える景色の先を指した。

「ここからはよく見えませんが、この雑渡の屋敷の後ろには高く谷山が聳えており、あなたが登ることは不可能でしょう。
 村の出入りは向こうの林からしておりますが、村の者にしかわからぬ境界線を引いており、許可なき者の出入りがあればすぐに見張りの者に知れるようになっています」
「……その話をせよ、と?」
「ええ、押都から。言い遣っております」
「私が逃げるとお思いですか?」
「さあ? 雑渡様はあまりそうお考えでないようですし、押都はどちらかといえば、考え得る可能性は全て潰していくお人ですので。
 あなたがお逃げになるというよりも、『その可能性もある』と考えての指示に思います」

 目付役の女は変わらず気の抜けた口調で言い、行きましょうと言って先導して丘を降りていった。恐らく、押都の指示の狙いとしては、彼女が逃げる云々よりも「お前は我々の監視下にあるぞ」と意識させることが主目的だったように思うが、どちらにせよあまり言われて気分のいい話でもない。
 女の気の抜けた素振りや口ぶりはどうにもやはり、そう『見せた』だけのもので、あの目付役も見かけ通りの間の抜けた女ではないのだろう。逃げるつもりも算段も当てもないが、そうするのだろうと思われてると思うと、ツンと胸の奥が痛くなる。

 そうするだろう、と見えるのだ。普通は『そうするだろう』と思われるような事柄なのだ。
 それを押都のような他人からまざまざと思い知らされると、「普通ならば」から外れた自分が如何にも薄情な人間のようで、彼女は逃げ出すと疑われていることよりも、その自身の薄情さを思い知って、そのことに傷ついた。
 前を行く目付役の女が、振り返ってじっとこちらを見る。表情の読めない、くろぐろとした瞳だった。













 その日から、日に一度は屋敷の外へ出て散歩に行くことが日課になった。基本的には目付役の女が先導して歩き、林の際まで歩いて行ってから折り返して、ぶらぶらと雑渡の屋敷まで戻ってくる。
 それだけのことであったが、日に日に育っていき景色を変化させる草木や畑を見るのはやはり楽しかったし、見える空の色も毎日違う。彼女があまりに飽きる様子もなく村の中を散歩するので、そのことが目付役の女は少し意外なようだった。

「だって、私は浅賀にいたときは屋敷からは基本的に出してもらえなかったので。
 こうして話には聞いていた、民の作る畑を自由に見ることもできなかったし、一度自由に外を歩いてみたかったのです」

 そう言うと、目付役の女は少し同情的な目つきをして「気持ちはわかります」と言った。
 初めは彼女が散歩をしていると大げさに頭を下げて顔を隠すような素振りをしたり、木の陰にさりげなく隠れていた村人たちも半月ほど経って、ちらほらとそのまま仕事を続けるようになった。
 立ち止まってその様を見ると彼らはまた手を止めて隠れてしまうので、彼女はゆっくりと道を歩きながら人々が村の仕事をする様を眺めた。営み、というものを見てみたかったのである。

「本で読んだり兄から話に聞いたりはしていましたが、畑を耕すというのはあんな風に鍬を振るものなのですね」
「そうですね、私も幼少の頃は手伝ったことがありますが、こう、土が重いのです。皆大変な重労働ですよ」
「やってみたいです」
「おやめください。私が押都に、とんでもなく叱られます」

 彼女が「何かしてみたい」と言うと、大抵は目付役の女は「押都に叱られる」と言って止める。そういう断り文句なのかと思ってたが、一度二人で散歩中に雨降られたことがあり、濡れ鼠で雑渡の屋敷に戻れば件の押都が偶々来ていて「天候も読みとけんとは何事か」と、本当に叱られていた。

「押都様は、あなたの父親か何かですか?」
「父は別におりますが長く戻っておらず。しかし私を忍びとして仕込んだのは押都ですので、もしかしたら、師匠という言い方のほうが近いですね。
 よく父親と馬鹿な娘、とは言われますが」
 
 やはり言われるのか、と彼女は思った。庭先の洗い場で、林の中で摘んできた山菜を洗っているところであった。屋敷の者は彼女たち以外には壮年の夫婦と通いの娘が一人いるだけで、世話を焼くにも彼らの主人である雑渡は、あれから一度も帰ってきていない。
 別に彼女は元々自分の世話はいらぬと言ってあったし、自分の身の回りのことをどうすればいいのかは、この目付役の女が教えてくれた。彼女は身の回りのことができるようになると、次に屋敷の仕事を手伝いたいと言い出した。
 彼女にできるのはそれでも、散歩の折に林で少しの山菜を摘んできたりそれを洗ったり、摘んできた草花を生けたり、そういう他愛ないことのみであったが、彼女はそれだけでも十分に面白く感じていた。

「あの林に茂っているキノコは、村では栽培しないの?」
「キノコをでございますか? 聞いた事がございませんね」
「あの倒れた木にも茂っていたでしょう。腐敗した樹木でもいいなら、必要な栄養がさして多くないのでは。
 今度樹木ごと拾って、持って帰って来てみましょう」

 彼女がそういうと、目付役の女は少し虚をつかれた顔をしてから、しょうがないものを見る目つきで笑った。とそのとき、村の向こうのほうで微かに騒がしく、人の悲鳴と誰かを呼ぶ声が聞こえる。

「何かしら?」
「見て参ります」
「私も行くわ」
「しかし」
「行く」

 彼女が言うと、目付役の女は諦めたように溜息をついた。屋敷の者に騒ぎの様子を見に行くと言って、丘を下りる。騒ぎは林の少し手前にある、畑に水を引くための川の近くであったようだった。

「何があったんですか」

 集まった村人に目付役の女が聞くと、隣にいる彼女の姿を少し気にしながらも村の女が「川に渡してあった橋が痛んでいたみたいで、急に落ちたのさ」と教えてくれた。確かに、かかっていた橋が落ちて川の水に浸かっている。

「困っているのは、もうすぐ田植えの時期だからね。牛を向こう岸に渡して、唐鋤で田起こしをしなければいけないのに、橋がなければ牛が向こう側に渡れないよ」
「落ちた橋に堰き止められて水の流れが弱まっているのに、牛は渡れないんですか?」

 彼女がその村人の女の聞くと、女は一瞬怪訝な顔をして目付役の女に目を向けた。目付役の女が目線で頷くと、村の女は彼女に向き直り「無理なんですよ」と続けた。

「村の牛は、水を怖がるんです。逃げ出さないように、そう躾けてあるから」
「へえ。では水に浸かることも嫌がるのですか?」
「ええ、恐らく」

 いつもは、橋の上を強く引いて無理矢理渡らせるらしいが、橋が落ちてしまった今は恐らく水に浸かってまでは渡れないだろう、と村の女は言った。事実、今も男に手綱を引かれた牛が嫌がって、川のこちらの岸で後ずさりをしている。

「水を怖がるようにするとは、どうしてです?」
「村から牛が逃げないようにするためですよ。村の際にはこうして川が流れていますから、牛舎から抜け出しても川より向こうへ行くことができません」
「水を怖がらせるために、どういう躾を?」
「さあ、私は詳しくないですが、聞いたところですと増水した川に連れて行って、わざと溺れさせるとか……、ですよね?」

 目付役の女は話ながら、ちら、と村の女を見る。村の女は肯定はしなかったが、喋りすぎだとでも言うように、少し目付役の女を睨んで見せた。
 その話を聞いて、彼女は少し考えるとそのまま怖がっている牛のほうへ歩いていった。目付役の女が「雨露子様」と慌てて追いかけてくるが、気にせずそのまま牛のほうまで進む。
 牛は、周囲を警戒して仕切りに体を動かし、尻尾を振っていた。嫌いな水のほうへ無理矢理連れていかれそうになったからだろう。牛の視線は、きょろきょろと何度も川のほうへ向けられている。

「……何か布、牛の視界を覆えるような大きな布はないですか?」
「は、布ですか?」

 彼女の後ろにぴったりと付いていた目付役の女が聞き返した。

「聞いた話ですと、この牛が『水を怖がる』というのは溺れることを怖がっているのでしょう。多くの水に体が浸かることが怖いのです。
 しかし今のこの川は落ちた橋によって水嵩が減っており、濡れたとしても牛の足元のみの一尺ほどで済むでしょう。しかしこの牛には今、水嵩の多い少ないなどは判断がついていないのでは?」
「だから視界を覆ってやれば、渡れるかもしれないと?」
「もしかしたら、ぐらいの話ですが」

 彼女が目付役の女の言葉に頷くと、近くで話を聞いていた牛飼いの男は少し考えてから、近くの別の男に指示をして大きめの布を持ってこさせた。それを牛にかぶせ、視界を遮ってから体を叩き少し落ち着かせる。

「耳も塞いでやってはどうですか。牛は、とても耳がいいと書物で読んだことがあります」

 彼女が言うと、牛飼いは牛を落ち着かせながらその背中に乗り、視界を覆う布の上から両耳の辺りを押さえた。牛の忙しなかった動きが落ち着いたところで、別の男が手綱を引きゆっくりと川のほうへ進んでいく。
 牛は大して嫌がる素振りもなく、浅瀬を向こう岸まで渡り切った。

「本当に渡れた……。牛の目と耳を塞げばいいなんて、よくご存じでしたね」
「牛は耳と目がとてもいい、と読んだことがあったのです。
 あとは、今回は渡れてしまいましたから、牛が『この川の水は怖くない』と学習してしまう前に、早めに橋を修繕したほうがいいでしょうね。この川では溺れぬと、一頭の牛が渡って行ってしまっては、他の牛もつられて同じように川を渡ってしまいかねない」
「伝えておきます」

 目付役の女は言って、少し笑った。

「快刀乱麻の解決ぶりでしたね。お見事でございます」
「やめてください」

 冷やかす素振りの目付役の女の言い方に、彼女は少し気恥ずかしくなって顔を背けた。牛が川を渡れたので、村人たちも自分の仕事と橋の修繕にと、作業に戻っていく。同じく彼女も雑渡の屋敷のほうへ戻る道を辿りながら、それでも、少しだけ清々しい気持ちになって彼女は青い空を仰いだ。






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