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この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
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タソガレドキ🌇忍の五条さんに、恋をしてしまったくのたまちゃん


 恋とはどんなものかしら、と思ったことがないわけではない。
 
 級友たちは結婚や婚約が決まったと言ってどんどん学園を去っていくし、対して自分は帰る場所がない。学園を卒業したら、一応生家にお伺いを立ててから、恐らく後は自分一人で身を立てていくことになると思うが、なんだか現実味がなかった。
 優しい六年の兄さんたちも、同級生たちも「当てがなかったら面倒みてあげるよ」というようなことを言うし、学園の先生も「どうにもならなかったら、学園で働いたら?」と言ってくれる。
 ただみんながそうして優しくしてくれることに、彼女はどうしても子ども扱いを感じてしまって、素直に喜びきれないのであった。
 だから、一人の女性として婚約をして結婚をして、学園を去っていく級友や先輩たちが羨ましかった。
 彼女たちは、そうして女性として迎えられて誰かの妻として生きていくのだろう。
 好いている男がいるのに嫌だ、と泣く子もいたし、そういうものよね、と澄ました顔で去っていく子もいた。
 でもきっと、彼女たちは恋を知っていて、そしてこれからも知ることがあるのだろう。だって彼女たちは自分のような、子どもっぽい、女として見られていない子どもではない。

 羨ましいな、と思っていた。
 まさかその「恋」が、こんなにも脳味噌をじかじかと焼いて掻き混ぜて、私が私でなくなってしまうような。
 恥ずかしくて、どうにもしようにもない感情だなんて、彼女は思ってもみなかったのだ。



 シナ先生はくのたま教室から放り出した彼女がトボトボと戻ってきたのを見て、おや、と思った。

「ミヨシちゃん、課題のほうはどう?」

 進捗なしであれば、もう一度放り出そうかしら。それとも連れて町にでも行ってみようかしら、とシナ先生は思ったが、彼女はぼやぼやとシナの顔を見、そのままボボボ、と顔を真っ赤に染め上げた。

「あらあらあら、まあまあまあまあ」

 シナ先生はすぐに理解した。これは彼女に「口吸い」をしてくれる殿方が現れたということであるし、彼女はその殿方に口吸いをされて「男性として」意識をしてしまったということだろう。

「課題は終わったみたいね」

 シナが言うと、彼女は顔を真っ赤に赤らめたまま小さく頷いた。随分しおらしい仕草である。シナは根ほり葉ほり聞きたいのをぐっと堪えて、「誰にしてもらったのかしら?」と教員の口調で聞いた。

「最近学園に時々いらっしゃる、タソガレドキ忍者の、ご…五条さん、です……」

 彼女が顔を真っ赤にして、俯けたまま消え入りそうな声で言う。確かに最近よく学園長にお届け物と言って、大した物でないものや情報をタソガレドキ忍軍の組頭は送ってくるというし、彼女は出会いの縁故もあってその忍者と話をしていたり食べ物をもらったりするところも見る。
 しかし少し年が離れているので、どうかしら、と思っていたところだった。

「そう、よかったわね。課題は合格よ」

 シナはしっかりと頷いて言った。彼女はぺこっと頭を下げて、そのままトボトボとくのたま長屋のほうへ歩いていく。シナは恋こそが女を女にする、などと思っているわけではないが、恋を知れば「しおらしさ」は生まれる、と思っていた。
 羞恥、という意味でのしおらしさを知った今であれば、彼女はもう少し別の、女の子としての実習に出すことも可能だろう。
 シナとて、彼女がかわいい。
 親に見捨てられた、育ててもらえなかった一人の少女が、どうにかこの先も生きていくすべを身に付けてほしい。
 そう思っているのは麗しいシナ先生の、親心である。






=== ここから クソ雑導入RTA ===


 タソガレドキ忍者さんと口吸いの訓練をしたせいで、まともに五条さんの顔が見れなくなってしまった夢主氏!!
 好き避けがひどく、五条さんの顔を見るとピャっと猫のように跳ねて逃げる夢主氏に、内心ではさめざめ泣いている五条さんと、それを見て「やっとタソガレドキ忍者の怖さがわかったか」と満足そうな潮江と食満(にぶい)! あれは何かあったな…と口に出さなくてもなんとなく察している伊作と仙蔵と長次と小平太!!!
 そんな中、シナ先生はくのたまちゃんに新しい課題を与える。それはタソガレドキ領の隣の領で、彼女と同じ年くらいの女の子が幽霊に攫われるという事件が発生しているので、その調査をすること!
 話を聞きつけた一年は組の良い子たちも行きたいと言い出し、彼女は一年生との合同の大所帯で、その幽霊騒ぎに乗り出すことになったのだった……。
 まあお約束通り、わる〜い城主が娘たちを攫って自分の嫁探し(笑)のハーレム(笑)を作ろうとしていたわけで、は組と彼女はどうにかその城に忍び込むためにわざと攫われる作戦を立てるのだが、間の悪いことに彼女だけ全然殿様と関係ない、別のお侍に気に入られてしまい……?!?!
 あわやテーソーのピンチ!!どうなるくのたまちゃん!!!!
 

=== クソ雑導入RTA ここまで ===







 自分の上にのし掛かって、腹や、もっと言いたくないところを触られて、荒く気持ち悪い息を吹きかけてきた目の前の男が、ガゴ、などという荒っぽい音を立てて吹き飛んでいった。
 そのとき目の前に立っていたのは、灰赤色の忍服を着た、頭巾から少しだけはみ出たうねりのある髪。
 彼女の大好きな、いつも優しいお兄さんの五条さんが酷く冷ややかな顔をして、御御足を上段にぶん回して男を蹴り飛ばしたところだった。

「……大丈夫ですか?」

 五条は自分の蹴りで吹き飛んでいった男が昏倒してすぐに動かないところを見て取ると、その男に無体を働かれそうになっていた彼女を見て、聞いた。
 彼女は小さくこくりと頷くが、着物の襟は強く引かれて破れ、ちらりと胸元の晒しが見えてしまっている。
 五条は恐らくこういう連れ込み部屋として機能しているだろう部屋の、衣紋掛けに適当にかけてあった派手な女物の羽織を取ってくると、それを彼女の体にぐるぐると巻きつけた。

「少し待っていてください」

 ぐりぐりとした大きな目で、五条に着物を巻かれるままになっている彼女に短く言って、蹴り飛ばした男の様子を見に行く。男は蹴り飛ばされて壁にぶつかった際にそのまま目を回したようで、ぐんにゃりとして伸びていた。
 そのままにしても良かったのだが、まあ一応、嫌々と男の体勢を整えて気道を確保してから、彼女のところへ戻る。

「気を失っています。もう大丈夫ですよ」

 五条がなるべく落ち着いた声で言うと、ぐりぐりした大きな目で五条をじっと見ていた彼女は、きゅっと眉を顰めて、ぼたぼたと泣き始めた。
 ひんひんと言いながらこちらへ手を伸ばすので、五条もつられて彼女のほうへ手を伸ばした。

「こ、こわ、怖かったぁ……!」
「はい」
「き、気持ち、悪くて、怖くて、やだった……!」
「そうですね、怖いし気持ち悪いし、嫌だったですよね」

 彼女が五条の忍服の襟を掴んで泣きつくのに、それをそのままにさせて慰めの言葉をかける。彼女の涙やら鼻水やらが五条の着物についてしまっていたが、ビィビィ泣く彼女があまりに哀れで、五条はそっと彼女の髪を優しく撫でた。
 撫でてから、しまったと思って手を引こうとするが、もっとと言うように彼女が五条の胸元に頭を押し付ける。
 女の籠絡方法は教わっても、女の子の慰め方なんて、教わっていない。
 つくづくと思いながら、五条は数度彼女の髪を撫でてトントンと背中を叩いてやった。

「か、感触が残って、てぇ……」
「はい」
「さっき、触られたとこが、気持ち悪くて」

 少しだけしがみついてくる腕を緩めた彼女が、五条を見上げて言う。ぎゅうぎゅうと五条にしがみついていたせいで、巻きつけたはずの着物が少し肌蹴てしまっていた。

「五条さん、同じとこ、触ってください……」
「…………は、」
 
 大真面目な顔で泣きながら彼女が言う内容に、思考を止めない男がいたら教えてほしい。
 五条は冗談だろ…と思って自分を見上げる彼女を見下ろしたが、彼女にその冗談の気配はない。それもそのはず、冗談ではないのだから。

「ここと……」

 彼女が五条の左手を取り、自分の腹に持っていく。彼女は腹は驚くほど薄っぺらくて、五条はその薄さに空恐ろしくなった。握り潰してしまう。

「ここ、」

 着物の袂に五条の右手を導き、鎖骨と、少しだけ膨らんだ胸元の辺りに彼女が五条の手のひらを押し付ける。ささやかであっても柔らかい感触に、五条はじっと彼女の胸元を見てしまった。

「五条さんに触られても怖くないのに、気持ち悪くないのに、なんで……」

 べしょべしょと泣く彼女は、自分が言っている言葉の意味をわかっているのだろうか? いや多分、わかっていない……。
 五条はもう一度「冗談だろ……」と内心で呟きながら、少しだけ彼女の腹に当てた左手を動かした。くすぐったかったのか、彼女が「ン」と小さくうめき声をあげる。
 彼女が涙交じりの瞳で、五条を見上げた。目元は濡れて赤くて、頬も、口許も紅をさしたように赤い。
 その艶々とした唇がいかにも柔らかそうで、触ってみたいな、と五条は思って、彼女の顔を見ていた。

「エ、何、やってんの……、君たち……」

 そのときした第三者の声は、まるで呆れ返っていた。はっとして彼女から手を離して部屋の入り口を見ると、明らかな呆れ顔の組頭がいつの間にか、立っていた。

「は組の良い子たち、悪巧みを解決してもう帰ろうかって言ってるんだけど……」

 お邪魔だった?と聞かれて、慌てて彼女も五条も大きく首を振る。雑渡にしらじらと言われたことで、ようやく自分たちが何をしていたのか、我に返ったのだ。

「……弾」
「はい、組頭……」

 わらわらと部屋に入ってきたは組の良い子たちに彼女は揉みくちゃにされて、口々に「大丈夫だった?」「嫌なことされなかった?」「怖くなかった?」と聞かれている。
 彼女は呑気そうな表情を装って、「ぜんぜん、お姉ちゃん強いもん!」と笑っていた。彼女もやっぱり、曲がりなりにもくのたまなんだな、と思った。

「責任、取りなさいね」
「……はい」

 こちらを見もしないで言った雑渡の言葉に、五条は項垂れて頷いた。状況に流されたとはいえ、年端もいかない少女の体に触れたのだ。
 そんなことはするべきでないと、五条はしっかり言ってあげるべきだった。それをしなかった、彼女が泣き止むならそれでいいか、と思ってしまった。
 子どもたちがわらわらわらと、悪巧みの城を抜けて、ページの向こうへ帰っていく。






 さてしかしこれは夢小説なので、これで終わりにはならない。
 巻末のおまけとして共有されるような類の情報から、整理していこう。
 
 タソガレドキ忍軍は、もちろん今回の件を把握していた。
 隣領の城主が馬鹿馬鹿しくも娘を攫って、ハーレムなんぞを作ろうとしていることはかなり早めから彼らは把握していたし、なんなら自領――タソガレドキ領の娘にも被害者がいることを把握していた。
 第二話の、商人の話である。良い子たちには相応しくないので先生からのお話にはなかったが、ようは城主が主導して娘を攫い気に入ったものはハーレムへ、それ以外の娘は人買いに売り渡していたわけである。
 タソガレドキ忍軍はその人買いたちが自領に入り込んでいることを知っていたし、勿論城主の黄昏甚兵衛へも報告していた。
 その上で、甚兵衛は言った。
 「ちょうど良いので泳がせよ」と。

 黄昏甚兵衛は何がしたかったのか?
 彼は、娘たちを攫って私腹を肥やす隣領の城主の元へ、攫われた娘たちの親が、住んでいる村の者たちが押しかけて乱が起きることを待っていた。
 そしてその村人と領主が揉めている間に、タソガレドキにも被害があったとして、黄昏甚兵衛は諸手を上げて隣領を攻める口実にするつもりであったのである。
 これが戦好きの、黄昏甚兵衛の謀略である。

 娘たちは、は組の良い子たちに助けられて村へ帰っていくが、五条たち黒鷲隊が蒔いた隣領城主への不満はやがて芽吹く。
 五条や雑渡が、この城に潜んでいたのはそういう顛末であった。
 忍術学園の先生たち、――学園長先生もそれは理解しており、状況をかき回すために彼女と、そしては組の良い子たちを派遣したわけであるが、今回はタソガレドキ忍軍の、黒鷲隊の仕込みに軍配が上がりそうである。
 怒りに燃えた村民たちは、そんなに簡単には止まらないだろう。
 その後、黄昏甚兵衛はまんまと隣領の一部を我が物とすることに成功した。
 「やってくれたな」というやつであった。



 そんな顛末をご存知もない彼女はと言えば、その後とんと五条さんが学園に姿を見せないことに、ソワソワとしていた。
 嫌われたのかしら、と思ってまでいたが、五条は単に戦の準備に多忙を極めていただけである。
 彼女は学園の庭の端っこで、ぼんやりと塀の向こうを見ながら、あの優しくて自分の話を辛抱強く聞いてくれて、そして優しく髪を撫でてくれた甘い顔つきの忍者が忍んでくることを待っていた。

「まるで、大人しくなって」

 庭の端っこでぼんやりしていた彼女に声をかけたのは、七松であった。
 いつも元気で騒がしい彼は、今はまるで仕方のない妹を見る兄の顔つきで、彼女を見ていた。

「私、多分嫌われるようなことをしたと思うんです」
「さあ、それは、聞いてみないとわからんのではないか?」

 七松はあっさりと言う。「そんなことはない」とは言わないところが、ひどく彼らしい物言いであった。
 彼女は七松の言葉にきょとん、と目を開いてから、小さく笑う。妹を心配する兄は、しかしいつの間にか少し大人びた妹を膝に乗せることなく、庭の石に腰掛けた彼女の隣の地面に、どかっと腰を下ろした。

「私はあのタソガレドキ忍者を知らんから、何も言えないが。
 誰かを好きになって、もし、それを恋しいと思うなら。言葉にしないと伝わりはせんと、思っている」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」

 七松ははっきりと言い切ると、彼女のほうを見てにかっと大きく笑った。

「安心しろ。もし失恋したら、私が夜通し鍛錬をつけて、失恋のことなんて考える暇もないぐらいにしてやるからな!」
「小平太先輩のそれは、私、死んじゃいますよぅ……」

 言いながら、彼女は七松の気遣いを思って微笑んだ。
 さや、と風が二人の間を過ぎ去って、青くさい、初夏になりかけの爽やかさを運んでいく。






 さて一方の五条さん。
 バキバキ進行のデスマーチの最中であった。
 タソガレドキ城内の黒鷲隊の詰め所では、「アレの仕込みは誰が担当してるんだ?!」「ここ一帯の村には誰が出向いたんだ、報告上がってないぞ!!」などの怒号が駆け巡り、お控え目に言って地獄の真っ最中である。
 黒鷲隊は役柄上、戦が始まる前までが一番忙しい。戦前の情報収集や敵側への情報操作、事前に敵側に入り込んでおくことが必要なため、緻密なやり取りをいくつもいくつも着実に積み重ねることが重要で、その集大成とも言える設計図は、主に黒鷲隊の小頭である押都の頭の中にある。
 
 その小頭の押都はここ数日、五条がいつ見ても、席で何か仕事をしているか、城主の黄昏甚兵衛と組頭の雑渡と共に小難しい会議に赴いているか、部下からの報告を聞き指示出しをしているかで、寝ているところなど見たことがない。
 あの雑面の下で、実は寝ているのだろうか……。いやでも、書き物をしている手元は止まっていないし、いつ誰が話しかけてもぼんやりとしていることはない。
 そんなこと思いながら、五条は一度落ちた。ゴン、と嫌な音がして文机の上で頭をぶつける。痛い、と額を押さえる気力さえなかった。

「五条」
「……はい」
「半刻ほど、仮眠をとるように」
「承知いたしました」

 押都に言われた通り、机を立ちのろのろと詰め所を出る。出たところで同僚の椎良とすれ違い、抱き枕に、と言って組頭人形を貸してもらった。

「あ。いいところに、五条」

 その組頭人形を抱えて仮眠室までをとぼとぼ歩いていると、廊下の端でその組頭本人と出会った。「え、お前もその人形集めが趣味だっけ」と聞かれたので「椎良が、抱き枕に貸してくれました……」とふらふら答える。

「寝に行くところ呼び止めて悪いけれど、例のあの子。
 嫁取りの許可出たから、伝えておこうと思って」
「……は、…はい?」

 なんの話だ。五条は半分落ちかけていた意識を無理矢理起こして、目の前の雑渡を見る。雑渡は頬に手を当てて「あれ?」と首を傾げた。

「責任取りなって、言ってあったでしょ。忍術学園のくのたまの、例のあの子」
「そ、そうですが、……」
「元々出自は調べてあったんだけれど、あの子。播摩の向こうの、ソコソコヤクニタツンダ城の城主の、正室との末娘でしょう。
 城主自体は自分の役立たずの娘なんてもう知らぬって雰囲気だけど、御家的には家臣が多い方だから。いずれのことを考えて、血筋としてもらっておくのは悪くないって、殿と話していてね」
「は、はあ……」
「だからこの戦が終わったら、嫁取りの方向であの子にも話をするように。いいね」

 じゃ、と言って雑渡は暗がりの廊下を去っていった。五条は一体何の話をされていたのか、ほぼ全く理解しておらず。
 とりあえず寝よう……と組頭人形を抱えて、またとぼとぼと廊下を歩き始めた。
 そして五条が半刻後に起きてからすぐ、先輩忍者のとんでもねぇやらかしが発覚し、黒鷲隊総出でその処理を巻き取っていく必要が出たためドタバタとタソガレドキ城を出ることになり、そのまま開戦し。

 結局五条がその雑渡の話を思い出すのは、今回の戦が終わってやっと一息ついてから、であった。
 ――マァ。頭を抱えた。
 
「じょ、冗談だろ……」
「『御冗談』は、お前の名前だろ」

 借りた組頭人形に寝こけて涎を垂らしたことがバレてから、椎良は五条に少し辛辣なのであった。






 春が終わって夏が来た。
 タソガレドキとその隣領では戦が始まり、そして終わったようだった。タソガレドキの人たちはその戦のことで忙しいのか、組頭の人もあまり最近保健室に顔を出していないようで、伏木蔵が寂しそうにしている。
 彼女は半袖のくのたま忍服の首元に変わらず灰赤色の頭巾の布を巻いたまま、そこそこ元気に忍者の修行を続けている。
 シナ先生はあの例の悪いお侍に彼女が襲われた事件の後、彼女の育成方針を少し変えたようだった。今は五年の忍たまに混じって諜報の訓練を行うことが多い。
 以前よりも少しだけ落ち着きが出たというか、怖い思いをした故に許容範囲が増えたようで、子供っぽいミスをすることは少なくなった。
 
 久々の授業も任務もない休日、彼女は学園の庭先で保健委員の包帯洗いのお手伝いをしていたが、ふと、どこからか猫の鳴き声が聞こえる。におにお、にゃおにゃおと何度も鳴いて、まるで助けを呼んでいるようだった。
 首を巡らせて周りを見れば、どうも学園の塀の外からせり出した木の枝の上から、猫の鳴き声がする。下りられなくなったのかしら、と思って彼女は塀を登り、そのせり出した木の枝を覗き込んだ。
 猫はその枝にしがみ付いて、におにおと哀れに泣いている。まだ子猫で、どこかから登って下りられなくなったのか、それともカラスにでも襲われてここまで連れてこられたのか。
 どちらにせよ、下ろしてやろうと思って、彼女はその枝に足をかけた。あまり太い枝ではないが、まあどうにかなるだろう。怯えて木の枝に爪を立てて抵抗する子猫を抱き上げ、木の枝から地面に下りようとする。そのとき。
 ずる、と少し足が滑って、その衝撃で細い木の枝が折れた。バキバキバキ、と嫌な音がして、彼女はそのまま体勢を崩し地面に叩きつけられることを覚悟した。しかし、いつまで立っても衝撃はこない。

「…………何をされてるんです」

 恐る恐る目を開けると、少し焦った表情の五条が、そこにいた。横抱きに彼女を抱えて、軽い足取りで地面に着地する。
 彼女の腕の中にいた猫は、地面が近くなったとみるとぎにゃあぉ、と大きく鳴いて彼女の腕から抜けて逃げていった。薄情な猫である。小松田が、向こうで猫を追いかけていく声が聞こえる。

「ご、五条さん……」
「お久しぶりです」

 ずっと見たかった顔が、会いたかった人がそこにいて、彼女は思わずくしゃっと笑った。
 五条は最後に会ったときの彼女は、無体を働かれたときの泣き顔だったため、そうして彼女が健在で笑っていてくれていることにほっと安堵する。
 五条が、横抱きにしていた彼女をゆっくりと地面に下ろすと、彼女は手を伸ばせば触れられそうなその距離から逃げることなく、花のように微笑んで、五条を見上げた。

「ずっと、お会いしたかったです」

 ずわ、と風が吹いた。夏の風はからりと乾いていて、昼過ぎの暑い空気をさらさらと、攫っていく。彼女は少しだけ髪が伸びたようで、絹糸のようにも見えるそれが、ゆらゆらと風に揺れていた。

「あ、」
「あの……」

 言いかけたのは、二人とも同時だった。
 同じく口を開きかけたことに少し気まずく思って、彼女は少し恥ずかしげに頬を染めたし、五条はやりづらさを感じてかぶっていた頭巾を外して間も持たせた。
 彼女はどうにか

「私は、あなたが好きみたいなんです、でもどうしたらいいかわからないんです」
ということを伝えようとしていたし、五条のほうは

「学園を卒業したら、私のところへ嫁に来ませんか」
と、言おうとしていた。



 ざらざらと、熱い空気がじれったく、二人の間でたゆみ絡まっている。
 吸い込んだ二人の呼吸に、熱に、二人その視線の間に。夏風が二人の間を駆けて、走って、過ぎ去っていった。

 触れてしまったのであれば、その後ちゃんと責任を果たせ。
 それは今も陰で見守っている、組頭の雑渡昆奈門の教えである。






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