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お風邪を引いた五条さん/お怪我をしてしまった五条さん


 小頭の押都は、一番初めに会って彼女が五条の看護をするという段取りを付けてから、五条が寝込んでいる黒鷲隊の医務室を一度も訪れていなかった。
 五条はいつも、あまり自分の話をしない。学園で会っていたときからそうだったが、大抵彼女がこんなことがあった、と話して聞かせて五条はそれを聞いてにこにこと笑っている。元々は彼女も幼かったので、自分の話を聞いてくれるお兄さんに対してのそういう態度を、タソガレドキに来て結婚してからもとり続けた形だ。
 
 しかし今回こんなことになってから初めて、押都が五条の上司というだけでなく、親代わりだったと知った。
 彼女自身も両親や血縁とは疎遠で忍術学園を卒業するときも、お伺いも立てなかったし、五条のほうも、ずっと黒鷲隊の宿舎暮らしで家など初めて用立てた、と今住んでいる家に連れて行かれたとき、聞いた。
 家族がいないことなど、珍しいことではない。けれど、夫となった人の側にそんな親代わりのような人がいるのに、自分は嫁入りの挨拶さえまともにしていなかったのか、と自分自身の不甲斐なさに彼女は少しだけ泣いた。忍術学園を卒業してタソガレドキに来てから数年が経ち、少しだけ大人になり作法というものを学んだ彼女は、自分の至らなさを今更になって痛感している。
 押都についてへの思いも、その範疇の一つであった。
 
 だから、気づいたのはそうして心の端のどこかに、押都についてのことが引っかかっていたからである。彼女自身、自分が忍びとしてはあまり出来のよくないほうだ、という自覚は持っている。

「………………押都さま」

 厨の水瓶で桶の水を汲みかえて戻ってくると、日も暮れた暗い部屋の中に人影があった。蝋燭の明かりだけにぼんやりと照られて、顔のように文様の描かれた雑面が白く浮かび上がっている。
 その様にびくりと肩を震わせてから、彼女は小声でその男の名前を呼んだ。

「まだ目覚めぬのか」
「……はい。申し訳ございません」
「いや責めたのではない。あなたはよくやってくれていると、反屋からも椎良からも、聞いている」

 そう言ってから、押都は少し黙った。彼女は汲んできた水桶の中で手ぬぐいを濡らし、固く絞ったそれを五条の額に乗せたものと交換する。五条が目覚めない原因の一つである、熱の高さは少し下がってきているようにも思うが、やはり相変わらず辛そうなのだ。
 五条の首元の汗をまた拭ってやろうと見るが、いつもの如く、それは拭われたあとだった。

「このまま目覚めぬのであれば、相応に何か手立てをせねばならぬ」
「手立て……」
「このまま五条の面倒を見させるためだけに、あなたをここに留め置くわけにもいかぬ。
 五条とは離縁し、別の男へお嫁ぎいただくことになるだろう、と考えている。
 現状での候補は、反屋になるだろう」
「………………」
「反屋も、椎良もだが。悪い男ではないよ」
「存じております」

 言って、五条が寝込む褥の前から押都のほうへ向き直った。

「五条さんだって、同じく、押都さまがお育てになられたのだと」

 このまま、五条の側に置いておいてほしいと、心の底から思っている。目覚めなくてもそれでもいいから、五条の側にいたいと思っていたし、世話をするのだって苦にしない。
 これから先を五条と生きていく覚悟でタソガレドキに嫁に来たのだから、たとえ彼が目覚めなくたって、同じように五条の側にいられたらそれでよかった。
 けれど、それは許されないのだろうと、自分がタソガレドキに来ることを五条への嫁入りを許されたことの経緯を思えば、許されないだろうと、わかっている。
 タソガレドキの中で身を立てていずれ生家の中の古い家臣たちと連絡を取るときに、彼女は表だって出て行かねばならない。その時に彼女の立場が例えば目覚めもしない旦那の嫁として、などとは、タソガレドキとて、とても言い出せるような内容ではない。

「今すぐのことにはしない。
 けれど、その心つもりはしておくように」
「……はい」

 それだけを言い置いて、押都は部屋を出て行った。押都がどういう顔をしてその話をしているのか、雑面に隠れていて彼女は知らぬし、この後も知ることはないだろう。
 けれど、いつも決まって彼女はこの時間に桶の水を替えに行って、戻ってきたときに五条の体の汗が少し拭き取られて、綺麗になっている。反屋や椎良は都度顔を出してくれるし、高坂も物言いはぶっきらぼうだけどそんな回りくどいことはしない。諸泉にもそうする理由はないだろう。
 だから自然と、他にはそんなことをする必要がある人、――つまり彼女には姿を見せず、五条の様子を都度見にくる必要がある人は、きっと押都くらいしかいないのではないか、と思っていた。

 離縁を、という話をされるたびに、嫌だ、と心が裂けそうなほど思う。
 けれどそれは押都もきっと同じくで、まるで我が子のように育てた部下の怪我の様子を満足に心配することも敵わず、ましてその嫁を勝手に離縁させ、他の息子に宛がう。
 そんなことを画策せねばならぬ、その親の気持ちとは如何ほどに辛いだろうか。そんなことを思い、まだ寝付いて目を覚まさない五条の手のひらを、傷に障らぬようにそっと握った。
 いつもなら、どうしたの、と聞いて優しく手を握り返してくれた目の前の男は、まだ何も答えてはくれない。
 唸るような、自身の泣き声だけが部屋に響いている。




 諸泉から「善法寺の居所がわかった」と知らせが来たのは、五条が傷を受けて帰ってきてから十日と少しばかりが経った頃だった。
 意識がないせいで満足に食事が取れていない。だからこのまま意識が戻らなければ、傷が治るどころか飢え死にしてしまう、と薬師に言われた矢先の出来事だった。知らせを持ってきてくれた諸泉によれば、昨日学園からの便りで善法寺から文が届いたとあり、近頃は若狭のほうにいる、と書いてあったそうだ。
 高坂が雑渡に掛けあい早馬を出す許可をもらって、今朝方の早くに若狭へ、善法寺を探しに発ったそうだった。

「ミヨシさん自身も、だいぶ顔色が悪い。
 きっと高坂さんは善法寺くんを連れてきてくれるだろうから、彼が来たら君も少し休まないと」
「私のことはいいので、五条さんを…………」
「君があまりに無茶をして、体を壊すようなことがあれば。
 本当に離縁させられて、引き離されてしまうぞ」

 反屋にしては珍しく、叱るような声音で言ってきたことに、彼女ははっとして反屋を見上げた。見れば反屋は、少しの焦りを瞳に滲ませて彼女を見下ろしている。
 先日押都がしていた、彼女の次の嫁ぎ先として誰が目されているのか。その話を反屋も聞いたのだろう、と思った。
 では、じゃあ、どうしたら……、と思ってまた視界を涙が汚した。また彼女を泣かせたことに、さらに焦った顔をする反屋から、隠れるようにして俯く。
 そのとき後ろから、「う……、」と微かな呻き声が聞こえた。

「五条さん?」
「五条」

 慌てて二人で五条の枕元に駆け寄り、その顔を覗き込む。唸って眉を顰めていた五条は、ややあってから眩しそうに瞼を瞬かせてから、それを開いた。呆けたような眼差しで彼女と、反屋の顔を見比べて、「なんで……」と小さく呟く。

「ごじょうさん、」

 熱い涙が、目から滲んで大きくぼたりと、落ちた。なかないで、と五条が呟く声が聞こえる。反屋は「この馬鹿」と一言呟いてから、薬師を呼べ、と部屋の外へ向かって腹から大きく声を上げて、叫んだ。

「五条の目が覚めたぞ! 薬師を呼んでくれ!!」





「ウン、だいぶ体力は落ちてしまったようだけど、傷の治りも悪くないし熱も下がってきている。
 食事も食べられているなら、快方に向かっていると言っていいんじゃないかな」
「本当ですか、伊作先輩」
「うん。聞く限りでは、初期の手当がかなり迅速で的確だったようだし、その後もミヨシが看護して清潔を保っていたからね。
 五条さんがタソガレドキの人で、本当に良かったよ」
「ありがとうございます」

 五条の傷の様子を診て、回復に向かっていることを確かめながら、伊作は頷いた。高坂は本当に驚くような速さで馬を走らせて、伊作を探し出してきた。そして連れて戻ってきたときには五条は目を覚ましており、嫁に柔らかく煮た粥を甲斐甲斐しく食べさせてもらって、でれでれと甘えていた。
 その為、以前の宣言通りに高坂は五条を一発ぶん殴ろうとしたが、まだ怪我人だから、と彼女が高坂にしがみ付いて止めたので一旦は殴ることを保留にしたようだった。
 伊作は五条がかなり危ない状態だ、と聞かされて若狭からタソガレドキまで連れてこられたのだが、実際に五条は目を覚まして満足に動けはしないけれど、食事ができるようになり傷も治り始めている。
 森の中で傷を負った場合などは、その後高熱を出して最悪死に至ることもあるのだが、この様子であれば何とかその危険は潜り抜けたようだった。

「僕が最近よく作っている傷薬と、その作り方。置いていくから、ミヨシが作って五条さんに塗ってあげてね」
「ありがとうございます、先輩。本当に色々と……」
「雑渡さんには僕もたくさんお世話になったし、何より後輩のお願いだからね。
 ミヨシは僕らにとって可愛い妹みたいなものだし、呼ばれて来ないわけがないよ」

 雑渡のところへ挨拶へ行く、と言った伊作を途中まで送りながら、重ねての礼を言った。伊作は何でもないことのように笑って、また何かあればすぐに呼びな、と言って手を振ってから反屋に案内されて雑渡のところへ向かって行った。
 来た廊下を戻り、五条の待つ医務室に戻れば、部屋の中で五条は体を起こして、彼女の戻りを待っていたようだった。

「善法寺さんには、ご迷惑をおかけしました」
「また何かあれば、すぐに呼んでって。伊作先輩が」

 そんな話をしながら、五条の床の横に座って、彼の額や首元を触る。まだ少しだけ熱はあるようだが、もう高熱にうなされることもなく、食事もほぼ通常と同じものが食べられるようになった。
 切られた側の腕は傷の引き攣りがあり動かし難いようだが、傷が完全に塞がれば元通り動かせるようになるだろうというのが、タソガレドキの薬師と伊作の共通の見立てだった。

「治ったら、皆さんにお礼を言いにいかないと。
 ミヨシちゃんにも」
「私は、五条さんのお嫁さんだから。
 だから、五条さんが無事にいてくれれば、それでいいの」
「うん。……心配をかけて、すみませんでした」
「ウウン。五条さん、お仕事だもの」

 五条は忍びだし、彼女だって奥方様付だから危険は少ないとは言え、同じように忍びだ。
 漠然と、きっと五条はいつでも無事に自分のところへ帰ってきてくれるのだと思っていたけれど、今回のことでそんな簡単な話ではなかったのだ、とよくわかった。

「……反屋にも椎良にも、大分叱られました。
 私に何かあれば、君を娶ることになるのは二人のうちのどちらかになるだろうから、と」
「……はい」
「仕事がら、絶対なんて言えません。
 私にまた万一のことがあれば、あなたは私のことなど気にせず、組頭と小頭の指示に従ってください」
「ねえ。五条さん」

 五条の首や頬を触っていた手はそのままに、反対の手で彼の手のひらに触れる。いつかのように泣いている彼女にも握り返してくれなかった、あの夜のようでなく、しっかりと五条は彼女の手を握り返してくれる。

「大好きだから、ずっとお側にいたいんです。
 だから、絶対なんて言わなくていいから、約束して。私のところまで帰ってきて、私を五条さんの以外の人のところになんか、お嫁にやらないで」
「……うん」

 五条は一度頷いてから、ほろ、と小さく目元から涙を溢した彼女の額に自分の額をすり寄せて、もう一度確かめるように頷いた。

「うん。わかりました。
 君は、ミヨシちゃんは私の嫁なので。だから誰のところにも、やりませんから」
「うん」
「……帰ってくるから」
「……うん」

 小さく彼女が、約束、と呟いたその言葉に、五条は頷いた。いつまでも少女っぽくて細っこくて、守るべき可愛い娘だと思っていた嫁が、自分がこうして怪我をして寝付いている間に他の者の手を借りながら、自分の面倒を見てくれていた。
 あの子が寝る間も惜しんで傷の具合を看て、四六時中側にいてくれてなかったら、きっと死んでいたぞ、と反屋に言われ、そうなのだろうな、と思う。学園にいるときから、彼女は頼りなくて心配してばかりいたはずなのに、いつの間にか五条のほうが彼女に心配をされる側になっている。
 
 五条を失ったらきっと彼女は泣くだろうけれど、同じようにもし自分が彼女を失ったら。果たして正気でいられるだろうか、と。すり合わせた鼻先に、口吸いを強請るようにそっと目を閉じた彼女を見て、思った。
 合わせた唇は、幸福と、そして互いの涙の味がした。誰かが愛しくて恋しくて、それでこんな風に滲むみたいに涙が出るなんて、五条も彼女も知りもしなかった。
 はじめて、知った。






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