お風邪を引いた五条さん/お怪我をしてしまった五条さん
駆け込んだ室の中では、人のざわめきと強い酒の匂いがした。部屋の奥には敷かれた畳の上に彼が寝かされており、周囲に誰がいるかなんて見もしないまま、駆け寄る。
「五条さん!」
呼んだその人は、意識がないようだった。人をかき分けて枕元まで行き、覗き込んだ彼はふうふうと荒く息を吐いて、顔を赤くしている。着物を剥かれた肩には裂傷が見え、きつく巻かれた白い包帯にはもう既に血が滲んでいた。
五条が任務先で怪我を負って帰ってきた、と連絡を受けたのはつい先ほどのことだった。長く任務に出ていて、会えないのは今に始まったことではない。忍術学園にまだ彼女がいたときからだって急に現れなくなるときはあったし、タソガレドキに彼女が嫁いできてからも「しばらく任務で帰れない」と聞かされることは、何度も何度もあった。
あまり危ないところには行かないのだ、だから大丈夫、と五条は不安がる彼女に何度も言った。俺は黒鷲の忍びだから、情報を拾って戻ることが一番の本分だから、だから何としても戻るよ、だから大丈夫。
何度も何度も繰り返した、明日からしばらく帰れなくなるから、という夜更けの閨の中で五条はその言葉を何度も繰り返して、そして帰ってきて、彼女がほっとして彼にしがみ付くのを受け止めてくれる。だからきっと今回もそうだと、どうして無為に信じていたのだろう。
「奥方、聞きなさい」
呼ばれて、初め自分のことを呼ばれているんだなんて思わなかった。彼女を城主の奥方様のところまで呼びに来てくれた反屋に、肩を叩かれる。
見れば黒鷲隊小頭の押都長烈が、雑面の下からこちらを見ていた。
「おくがた…………」
「あなたですよ、五条の女房だ。朝顔……、いや今はもう五条ミヨシさんか。
あなたのことです」
呼ばれて、ようやく自分が部屋の中の男たちの衆目を集めていることに気づいた。いつもであれば、他の男たちの目線から彼女を隠すようにしてくれていた五条は、今は意識がなく呻いている。
「五条は愚かにも接敵し、袈裟懸けに斬られて負傷。その後なんとかタソガレドキの領まで帰り付き、合図を出して倒れているところを他の黒鷲の者に見つけられ、ここまで戻ってきた。
傷は深く、手当はしたが薬師が言うにはどうなるかわからない。傷の深さもだが、そこから病の元が入って、傷が塞がってもその入り込んだ病で死ぬかもしれぬ、と」
「……………………」
「傷が塞がったとて、腕がまともに動くかどうかはわからない。
薬師などは、いっそこのまま楽にしてやるのも一つの手では? などと言う」
「…………楽にしてやるって」
「我々の手で、これ以上苦しむ前に殺してやる、ということです」
揺れもしない雑面の下からそう言われて、彼女は思わず庇うように立膝をつき、両手を広げて五条の前に塞がった。曲がりなりにも、城主の奥方様付きをしている。だから懐には刃物が入っているし、仙蔵に作り方を教わった鳥の子も入っている。みすみすそんなことをさせるものか、の気持ちであった。
そうして構えて、じっと押都の雑面を睨む。ややあってから、押都はふっと緩く息を吐いた。
「我らとて、薬師などの言う通りに五条に留めを刺してやる気など、毛頭ない」
「………………、」
「……あの、小頭。ミヨシさんはそういう質の悪い冗談には、慣れていませんから」
それでも睨むのを止めなかった彼女に、反屋が間に入ってそう言った。じっと押都の雑面を見る彼女を肩越しに振り向いて、「ミヨシさんも」と反屋が言う。
「俺たちだって、こんなことで易々とコイツを失っていいと思えるほど、そんな軽い関係じゃない。
小頭はあなたの気持ちを試すために、あんな言い方をしたんだ」
「試す……?」
訝しげに聞き返した彼女に、反屋は頷いた。その向こうで、押都もこちらを見ている。
「熱が高く、傷口が膿んで病の元になるかもしれぬ。良くない病が入り込んで、暴れるかもしれぬ。
それでも絶えず横について、看護をする者が必要だ」
「…………私、五条さんの側にいます。私が看護します、だから……」
「あなたがそう言ってくれる女房なのかどうかを、見極めていた」
その言葉を皮切りに、部屋の中の空気が少し緩んだ。薬師だという男が部屋の外から入って来て、今の五条の状態と看護するのに何をしたらいいのか、を彼女に手際よく教えていく。
その横では押都が城主の奥方様に向け書面に書付をして、しばらく彼女は旦那の看護のためお付を離れさせてほしい旨を記す。それを反屋が懐へ仕舞い、奥方様のところへ駆けていった。
「要らぬ心配ですよって、俺は言ったんですよ」
彼女が薬師に教わりながら五条の傷に薬を塗り込み、傷に当てた布と包帯を新しいものに取り替えるのを手伝いながら、椎良が言った。
「あなた達が俺たちから見ても、仲睦まじい夫婦だって知っていたから、わざわざそんなあなたを試すような真似をしなくても、と俺は言ったんですけれど。小頭は重要なことは、ご自分の目で鼻で耳で、確認をされたい方なので」
「押都様とは、私はあまりお話をしたことがないのですが……。
どういうお方なのですか?」
部屋の反対側の片隅の机に陣取って、奥方様のところから戻ってきた反屋と何がしかのやり取りをし、その間に出入りする別の黒鷲隊の忍びにも何やら指示を出している。『小頭』というのは、隊の纏め役なのだ、と薄々理解してはいたが、どういう役目を負った人で、五条や椎良や反屋にとってどういう立場の人なのか、彼女は知らなかった。
「いうなれば、俺たちの親代わりのような人ですよ。あなたにとっての山本シナ様のような。
俺たちが十の頃から忍びとしての修行を始めたときに、師として我々を導いてくださったのが、小頭です」
「そうなんですね……」
「だから、小頭があなたを『どれだけ献身的に五条を支えてくれる方なのか、図る』と言ったのを、俺も反屋も止められなくて。
俺たちはあなたが五条と本当に仲がいいのを知っているし、あなたの人となりを知っていたけれど。あなたが小頭を知らぬように、小頭もあなたを知らなかったから」
椎良の言いたいことは、何となくわかった。いうなれば押都が彼女にした物言いは、押都なりの五条への親心のようなものだったのだろう。
薬師から五条への看護の仕方を教わって、よくわかった。寝る間を惜しむほど側にいて様子を見て、甲斐甲斐しく傷の手当をして清潔を保つ。柔らかく煮た粥や果物を汁を根気よく与えて食事を取らせ、体を清めて側にいる。
そういう生活を、幾月も幾月も、終わりが見えぬまま続けなければいけないのはわかった。そして看護役の彼女が万が一にでもそれを蔑ろにすれば、五条の命はないことも。
「ミヨシさん。奥方様からは、五条の具合がよくなるまでの休暇の許可をいただいてきました。
奥方様からは『こちらのことは気にしなくていいので、旦那様をきちんとお支えするように』とのことです」
押都への報告を終えた反屋が、こちらに戻ってきてそう伝えてくれた。五条は、椎良に手伝ってもらって傷に薬を塗り終わり、新しい当て布をして包帯を巻き終えて寝かせてある。傷口から熱を持ったのが体中に回ってしまっているようで、水で濡らして固く絞った手拭いで首元を冷やして、浮き出た冷や汗を拭ってやる。
「ありがとうございます」
「五条の看護には、この部屋をこのまま使ってもらって大丈夫です。
黒鷲隊の医務室で薬師は常駐はしていませんが、呼ぶことはできますし、詰め所の中なので私も椎良も空き時間に様子見や、お手伝いに来れますから」
「はい」
部屋の中にわらわらといた他の男たちは、彼女が五条の看護のやり方を教わっている間に、静かに退室していた。今この部屋の中にいるのは反屋と椎良と、寝かされた五条と彼女のみで、小頭の押都も、彼女が五条の包帯を変えるのに手間取っている間に退室したようだった。
「私も椎良も、五条が抜けた分の任務をせねばなりません。あなたにはご苦労をお掛けすることになると思いますが、何卒、よろしくお願いします」
「反屋さん、椎良さんも。お顔を上げてください。
私こそ、至らずお二人にはご迷惑をお掛けすると思います。
何か足らぬ部分があれば、すぐにお叱りください。私は学園でも、皆さんに迷惑をかけ続けていたので…………」
言いながら、じわ、と目元に涙が滲む。自分一人でちゃんと五条の看護をして彼を戦線に復帰させることが、黒鷲隊の反屋や椎良や、小頭の押都のところへ五条を戻してやることが果たして自分にできるのかどうか、不安で仕方なかった。
唇を噛んで俯いた彼女を、反屋と椎良は慌てて慰めようとしてから顔を見合わせて、差し出した手を黙って引っ込めた。
同僚の、そして友人の奥方である。その旦那が寝ついているのに、寝ついているからこそ、自分達が今の彼女に無意味に触れるわけにはいかぬ、と二人で顔を見合わせて思ったのである。
ややあって彼女は一人で自分の目元を擦って、ぐし、と鼻を鳴らしてから顔を上げた。擦られて赤い目元と、潤んだ瞳が如何にも哀れである。五条ならきっと大騒ぎして、どうしたの、とか言って叫んで彼女にあれこれと世話を焼くに違いないのに、その五条本人が、彼女を泣かせて意識もないまま、高熱と怪我に魘されている。
五条が起きたら、絶対にぐだぐだと管を巻いて彼女を泣かせた自分の至らなさを愚痴るんだろうな、とか。それでも側にいてくれる選択をした彼女を、五条は一生大事にし続けるんだろうな、とか。
そういうことを反屋は少し考えて、それから泣いた彼女の奥にいる、寝付いて目を覚まさない自分たちの旧友を見た。
泣かないで、と椎良が人形越しに彼女を撫でて慰める、その声だけが聞こえる。
一番初めの十日ばかりが、一番つらかった。
五条は依然として意識がなく、熱から汗の滲む彼の体を拭き清め、清潔な布に水を染み込ませて唇を湿らせて、喉を詰まらせないよう、少しずつ水分を取らせる。意識がないままでは食事もできないので、ほとんど白湯のような状態の重湯と、果実の汁を絞ったものを同じく布を使って少量ずつ、流し込んだ。
初めの頃に数度、組頭の雑渡の看護をしていた諸泉が訪ねてきてくれた。怪我人の看護のやり方を少し教えてくれて、彼女の不安の聞き役もしてくれた。
忍術学園で顔を合わせていたときは土井に突っかかっているところしか見たことがなかったが、土井がいないときの話しぶりはいつも冷静で落ち着きがある。
諸泉は、一番重要なのは、焦らないこと、そして万一焦ったとしても、こちらの焦りを怪我人には悟られないことだ、と言った。熱を出したまま、五条の意識は戻らない。
「尊奈門さん、近頃も学園には行かれていますか?」
「組頭のお付でなら」
「もし伊作先輩に会うことがあれば、五条さんの様子を見に来てほしいと。お伝えいただけませんか?」
「……伝えよう」
伊作であれば、組頭の雑渡からの信頼も厚い。きっとタソガレドキの領地の中まででも、連れてきてもらうことは可能だろう。
祈るようにいった彼女に諸泉は少し目を伏せ、覚悟はしておいたほうがいいぞ、と小さな声で言った。
「どれだけ手を尽くしても、どうにもならないことはあるんだと思う。
私は幸いにも、組頭のお世話を無事に終えることができたが、今思い返しても、何が良くて悪かったかもわからぬし、一歩間違えば組頭ともども、私も死んでいたと思う。
二度と、あの時には戻りたくない」
「…………はい」
「だからお前も、五条さんがどうなろうとそれが天命なのだと、そう心に刻んでおけ」
暗に、お前が責を負う必要はないのだ、と言われていると悟った。彼女がタソガレドキの五条の元に嫁いできたのは、第一に彼女の生家との渡りをつけるためだ、と彼女とて聞かされている。
嫁入り前の体に五条が触れてしまったから、とかそういう理由は付随していたけれど、男たちの戦仕込みの一つとして自分の存在があることは、いくら学園では落ちこぼれをしていた、くノ一としての経験も足りない彼女とて、わかっている。
そしてまだ、彼女はその役割を果たしてはいない。これから彼女の故郷であった土地をタソガレドキが盗っていくその時に、彼女は古い家臣たちと連絡を取って内乱を起こすように唆さなければならない。
それが済む前に五条に万一のことがあっても、彼女にはその責を負うと言って一緒に死ぬことが許されず、誰か他の男に嫁がされるのだろう。それにはきっと、嫌だという一言さえもいえないのだろう。
諸泉もそれがわかっているから、どうにもならぬことはある、と先んじて言うのだ。
辛いのは、一人では碌に何もできないことだった。
煮炊きをして重湯を作り、手に入れてきてもらった果物を絞って食事を用意してやることはできる。
けれど五条は意識が戻らぬまま、大して食べることもできないし、体を清めて汗を拭いてやるにも、五条の男の体は小さい彼女には、一人では抱えて起こすこともできない。結局一日に二度、大抵は任務前と任務帰りの反屋と椎良が手助けにきてくれて、五条の体を抱えて支えてくれている間に背中を清めて、床ずれしてしまわないように体勢を変えてやり、薬を塗り直して当て布と包帯を替える。
反屋も椎良も、五条が抜けた穴は大きいようで大抵疲れた顔をしているのに、文句ひとつ言わずに五条の看護を手伝ってくれる。
何度も重ねて彼女が謝罪とお礼を言うと彼らは、そんなことはない、言わないでほしいと言っては、もの言いたげな顔で彼女を見て、五条を見る。
一度、時折学園にも雑渡のお付として来ているところを見かけたことがある、高坂という男も五条の看護の手伝いに来てくれた。
反屋と椎良が戻りの遅い任務に出ており、手伝うことができないから、という理由だった。
反屋とも椎良とも、諸泉とも、五条とも。今まで会ったタソガレドキ忍者の誰とも、少し雰囲気の違う高坂はむっつりと黙ったまま五条の体を支えて包帯を替えるのや、体を清めて体勢を変えるのを手伝ってから、まだ意識の戻らない五条を見下ろして、小さな声で「意味はあるのか」と言った。
「未だに意識の戻らない男にお前のような娘がこうして尽くすことに、人手を使うことに。
意味はあるのか?」
「……意味が、必要なのですか」
「なくてもしてやれるほど、我らに余暇があるとでも」
食い扶持を稼げぬ者に、生きる資格などない。
そういう意味合いのことを、きっと高坂は言いたいのだろう。そんなこと、わかっていた。
意識が戻るかどうか、生き残るかどうかわからぬ人間にこうして手をかけて看護をして、戦に忙しい男たちの手を借りる。
彼女一人で五条の面倒が見れたなら、そんなことは言われずに済んだはずだった。
「…………もし意味がないと言われ、人手を寄越すのが駄目だと言われるなら、私一人でやれるようになります。
私が至らぬせいで、皆様にお手間を取らせているのは、重々承知しております」
涙目を隠すように前髪を垂らして俯いた彼女がそう言うと、寝込んで意識がないままの五条を見下ろしていた高坂は、大きく大きく溜息を落とした。
「…………俺は、腹が立っている。
いつまで寝ているつもりだ、この阿呆は、と思っている」
「………………?」
「いつも軽薄な顔をしてへらへらしている癖に、こうして肝心なときに眠りこけて、皆に心配をかけて。
起きたら一度殴ってやらないと、気が済まない」
どうにも、五条がこうして皆の手を借りながら生死の縁を行ったり来たりをしていることに、文句があるわけではなさそうだった。高坂の言った、「意味はあるのか」の言葉の意味合いを図りかね、じっと彼を見上げる。
高坂は少しの間、未だに目を開かない五条の顔を眺めてから、ぽつりと言った。
「面倒を見ることに意味がない等と。
側にいるお前のような娘がもし思っているのなら、さっさと離縁させて他に嫁がせた方がいいだろうと思っていた。
しかしお前はこうしてこの男の面倒を見ることの意味は、理由は、問わぬのだな」
ああ、押都と同じく図られたのか、とその時ようやく彼女は合点した。
思わず顔を上げると、彼女が目に涙を溜めて泣く寸前だ、とは高坂も思っていなかったようだった。顔を上げた途端にぽろ、と落ちた涙と彼女の顔を見て、ぎょっと少しだけ肩を揺らし、それから気まずそうに目を逸らす。
「泣かせるまでのつもりはなかった。申し訳ない」
「…………あ。いえ」
ぽろぽろと、子どものようによく泣く自分が悪いのである。慌てて目元の涙を擦って払うと、高坂が懐から手拭いを取り出して、こちらに渡してくれた。
ぶっきら棒な物言いをするし酷いことも言うけれど、心根がきっと真っ直ぐな人なのだろうと思って、高坂を見た。まだ気まずそうにこちらを見ない高坂の目線は、睨むように未だに起きない五条の顔を捉えている。
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