前回読んだ位置に戻りますか?

この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
あなたは18歳以上ですか?

パパママごめん


 流川花世子は「はあ」と大きなため息を吐いた。吐きながら、鮮やかな緑色をしたフリルレタスを、ぶちぶちと千切っていた。心なし、いつもよりも細かくなってしまったような気がする。花世子は再度ため息を吐くと、千切ったレタスを放っていたボウルから水を空け、レタスはプラスチック製の白いザルの中に入れた。軽く水を切ってから、白いザルを透明なボールの中にはめ込む。その上からザルと同じ白色の蓋をして、飛び出た突起をぐっと押し込んだ。透明なボウルの中でザルだけがぐるぐると回転し、遠心力でレタスに付着した水が吹き飛んでいく。三、四回ほど突起を押して回転させてから、花世子は蓋を外し中から白いザルを取り出した。遠心力でレタスはザルの端に寄ってしまっている。きちんと水が切れていることを確認してから、花世子はレタスを銀色のボウルの中に空けた。その上にキュウリを乱切りにして放り、パプリカを刻んで入れる。白色のマッシュルームをスライスしていたところで、玄関が開くがちゃがちゃとした音が聞こえた。

「楓」

 玄関まで迎え出てみると、そこにいたのはやはり息子の楓だった。楓は花世子の顔を見て、一瞬考え込むような仕草をした。恐らく、「ただいま」と言うか「おはよう」というか迷ったのだろう。

「ただいま」
「おかえり」

 結局そう言って、楓は靴を脱いで脇に寄せた。こういう細かな行儀作法は、楓がまだ女の子と間違われるくらいに小さかった頃から切々と言い聞かせてきたので、しっかりと身についている。人を指差さない。目上の人は敬う。戸やドアは音を立てて開けない、閉めない。靴は向きを揃えて脱ぐ。食事中はなるべく席を立たない。箸を持ったままで他のものを持たない。当たり前のことだが、花世子はそれをきっちりと躾けてきた。子どもは一人しか産めないとわかっていたから、その分母親としてのすべてを楓の注ぎ込もうと思ったのだ。しつけも教養もお金も愛情も何もかも。その成果もあって、楓はすくすくと健やかに、親として申し分のない、たった一人の息子に育った。バスケットに出会ってからは、健全にスポーツに明け暮れる日々。あんまりバスケット一色なので、母親としては少し物足りないような気がしていた。が、最近になってそれは変わった。

「朝ごはんはどうするの?」
「食べる」

 楓はスポーツバッグの中から、使い終わった後のタオルやTシャツの入ったふくろを取り出して、風呂場の脱衣所近くの洗い物の籠の中に放り入れた。

「風呂、入っていい?」
「ええ、いいわよ」

 着ていたTシャツをがばっと脱ぎながら、楓は脱衣所の奥に消えていった。汗をかいたからだろう。着ていた黒色のシャツにはまだらにしみが浮いていた。はあ、と再び大きなため息を吐いて花世子は楓が廊下の端に置き去りにしたスポーツバックを掴む。教科書もいくらか入っているのか、一年生の頃を思うと少し重たくなった鞄の中を覗いて、ふと花世子は不審に思った。リビングのソファの上に鞄を置いて、中を覗き込む。中に入っていたのは、綺麗に折り畳まれた制服の黒い学生ズボンだった。取り出して、膝の上でまじまじと見てみる。きちんと折り目に沿って折り畳まれたそれは、かなり几帳面な人物が畳んだことが推察できた。恐らく、息子の楓が畳んだのではないことが。



 「そういえば、楓。昨日藤沢の駅の近くを一緒に歩いていた子は、この辺りの子なのか?見覚えがあるような気がしてならないんだが、思い出せないんだ」

 家族三人が揃う朝食の席で、夫の流川柊平が聞くと、楓は珍しくぎょっとしたように顔を上げた。バスケットをしているとき以外は、いつもどこかぼうっとしている楓にしては、珍しいことだ。

「昨日、慶応のSFCに呼ばれてね。そのときの帰りに見たんだ」
「あら、珍しいわね」

 花世子が聞くと、柊平も少し笑って答えた。

「あそこに看護医療学部があるだろう。そこで出張講義をしてくれと頼まれたんだ。実際の臨床についている医師からの視点がほしいと言われて」
「確か、藤沢のキャンパスは最近できたばかりだったでしょう?」
「最近と言っても、もう、四、五年は経つんじゃないか?」
「そうだったかしら」

 花世子が首を傾げている斜め前で、楓はそっと目を逸らした。先程の質問は、あまり聞かれたくないことだったのかもしれない。

「それで、楓。どうなんだ?」

 重ねて柊平が聞く。この夫は、頭脳の割りにどこか人の気持ちを読めない人であるから、楓が聞いてほしくなさそうにしているのも気づかなかったのだろう。それはときに美点となる。

「腰越の辺りに、住んでる」

 ぼそりと言った楓に、花世子は珍しいなと思った。楓は昔から物覚えが悪いというか、興味を持つものの範囲が極端に狭い子であったから、そんな細かいことをいちいち覚えているのは、珍しいことだった。

「そうか。じゃあ、小学校かどこかで見たんじゃないな。どこで見たんだか。一度見たら忘れられないくらい、きれいな子だったろう?きれいな、髪の長い」

 女の子なの?花世子は声に出さず狼狽した。うすうす感づいてはいたけれど、やはりそうなのだろうか。最近妙に外泊の多い楓が、泊まっている場所は、その髪の長い少女のところなのだろうか。

「楓。昨日泊めていただいたお友達というのは、その子のところなの?」

 花世子が話に割ってはいると、「花世子?」と柊平が驚いたようにこちらを見た。花世子は普段、そんな性急さで誰かに物を尋ねるということをしないから、驚いたのだろう。しかし今は夫に弁明しているときではない。じっと楓を見る。楓は花世子がじっと見ているのを他所に、パンの最後の一切れを口の中に押し込み、コーヒーで流し込んだ。

「そう」

 短い肯定の言葉に、目の前がくらりとした。「あなた、ねえ」。深い意味のない言葉が思わず口から零れ落ちる。

「その子のお家の方に何も言われなかったの?」
「あいつ、一人暮らしだから」

 空になった食器を重ねて、楓が席を立つ。食器をシンクの中に置き、冷蔵庫の中から牛乳のパックを取り出してコップに注いだ。

「父さんは?」
「もらおうかな」

 白い牛乳がなみなみと入ったコップを両手に、楓が席に戻ってくる。「楓」。花世子はまだ混乱している頭を抑えながら話した。

「その女の子とお付き合いしているの?」
「してる」

 言い放ってから楓はごくりとコップを煽った。隣の柊平も同じようにしている。ふと、花世子は疎外感を覚えた。彼女の皿にはまだトーストもレタスもターンオーバーの目玉焼きも残っている。しかし手をつける気にはならなかった。柊平も楓も食べ終わっているというのに。もう食べられないだろう。食器をそっと脇に寄せた。

「名前はなんていうんだ、その子は」

 楓が牛乳を飲み終えるのを待って、柊平が聞く。楓のことが気になるというよりも、その女の子自体に興味があるように、花世子には感じられた。

「雪。一ノ瀬雪」
「ふーん、一ノ瀬さんか」

 一ノ瀬、一ノ瀬と口の上で転がして、柊平は考え込む。「柊平さん」。花世子はため息を吐いていった。それどころではないだろうに、柊平は「んん?」と不思議そうに首を傾げた。美点は得てして欠点となる。

「楓、聞きなさい」

 花世子が脇に寄せた皿から、レタスやタマゴを手でつまんでは口に入れる楓に、花世子は言った。行儀が悪いといわれると思ったのか、トーストを掴んでから乗り出していた体を元に戻す。行儀が悪いとは、今日は言わなかった。

「お母さんはね、高校生がそうやって、一人暮らしの女の子のうちに泊まりに行くのは、いいとは思えないわ」

 トーストを口の中に放り込んで、楓が不思議そうに首を傾げる。隣で柊平も同じようにしていた。花世子は大きく大きくため息を吐く。まただ。疎外された気分になる。そんな細かいことを気にしているのは、お前だけだと。実際、楓は母親に向かってそんなことを思わないだろうし、柊平にしたって心根の優しい人だから、そんなことは思ってもみないだろう。けれそ花世子は、それを時折感じてしまうのだ。

「あなたが女の子と付き合ってることをどうこう言うつもりはないけれど、もう少し節度のある、真面目なお付き合いをしなさい」

 花世子の言わんとすることを理解したのか、楓がぎゅっと眉根を寄せる。その不満そうな顔のまま、不承不承頷くのかと思ったら、楓が口を開いたので花世子は驚いた。

「真面目に付き合ってるつもりだけど」

 憮然とした顔で楓が言う。花世子は驚いて、答えるのに一瞬間ができた。まさか、楓が、こんな風にいうなんて。

「あなたがそういう不真面目な子だなんて、思ってないわ。けれど、学生なんだから、もう少し健全なお付き合いをしたらどうかしらと言ってるのよ」
「健全って、何?」

 眉をぎゅっと顰めたままで楓が聞く。花世子は答えることができなかった。

「手だけ握ってれば健全?キスもセックスもしないのが高校生の付き合い?」
「セッ……!」

 楓がぽんと言い放った言葉に、花世子は絶句した。まさか、楓の口からセックスなんて言葉を聞く日がくるなんて。それは、年頃の男の子の母親なのだから、ある程度覚悟はしていたし、それらしきものの片鱗を見たこともある。けれどこんな風に言われるとは、思ってもみなかったのだ。

「まあ、そのぐらいにしておきなさい」

 今まで会話に参加してこなかった柊平が、不意に言った。楓も気まずそうに顔を背ける。あの子自身、そんなことを急に言うつもりはなかったのかもしれない。花世子は思った。

「僕は楓が真剣にその子と、一ノ瀬さんと付き合っているなら、それでいいと思うよ」

 柊平の言葉に、花世子はぱっと顔を上げて言った。

「けれど、何か間違いがあってからじゃ、遅いでしょう」
「何が間違いで何が正解だったかは、後になってみないとわからないものだ。それに、楓がそれを、つまり避妊を怠るほど愚かではないと、僕は信じている」

 そうだろう?と問われて、楓は小さく頷いた。けれど、と花世子は思ってしまう。何かがあってからじゃ、遅いのだ。傷つくのは当事者二人で、そうなってしまったら親である自分は何もできない。そういうものを花世子は見たことがある。

「でも確かに僕も、最近の楓は少し心配ではあったよ。外泊が多いから、悪い友達でもできたのかと思っていた。違った様でそこはよかったと思っている」

 そこで一息ついて、柊平はコーヒーを啜った。もう冷めてしまっているだろう。「新しいの、持ってきましょうか?」。花世子が聞くと、「お願いします」と柊平は頷いた。「楓は?」。同じように頷く。花世子はカップを三つ持って席を立った。ウォーマーの上のデカンターからまだ熱いコーヒーを注ぐ。ゆらゆらと白い湯気が立った。

「はいどうぞ」

 若干猫舌の柊平は至極熱そうにコーヒーを啜る。対して、楓は何でもないようにコーヒーを飲み込んでいる。花世子も一口啜って、少し焦げているなと思った。

「ねえ楓。一度その一ノ瀬さんを、家に連れてらっしゃい」

 花世子が言うと、楓はカップから立つ湯気越しにこちらを見た。

「今度の土曜日なんて、どうかしら。柊平さんも夜は家にいるし、学校もお昼までだから、部活もそんなに遅くまでやらないでしょう?夕食でも一緒にどうですかって、一ノ瀬さんに聞いてみて」
「そうだね。一度家に連れてきたらいい。楓が真面目に付き合っているというなら、尚更」

 柊平も口添えしたので、楓は嫌とは言えなくなってしまったようだ。ため息をひとつ吐いた。あまり気が進んでいないようだ。

「……わかった」

 ご馳走様でしたと言って楓は席を立った。足元のスポーツバックを取って、「行って来ます」とぼそぼそした声で言う。リビングダイニングから出て行く楓の背中は、もう花世子のものよりもずっと大きくなっていて、ふと、知らない男の子のようだと思った。花世子の知らない楓のようだと。女の子と付き合っているということを、知ってしまったからだろうか。

「コーヒーお代わりください」

 そんな感傷に浸っている花世子に、柊平はまたも人の気持ちを読まずに言い放った。







 土曜日の部活が終わってからお邪魔します、とその一ノ瀬雪という少女は言ったという。花世子が実際に聞いたわけではなく、楓からの伝言であるので、本当はもっと粗野に言ったのかもしれないし、それは花世子にはわからなかった。楓が雪のことをあまり話さないので、花世子は雪という女の子がどういう子なのか、今一掴めずにいる。もう随分楓の試合も見に行ってないので、バスケ部のマネージャーだと言われても、ひとつ年上の先輩だった彩子のことしか思い浮かばない。
 ただその伝言を花世子に伝えたとき、少し考えてから楓はこう言った。

「あいつ、元々あんまり食べないから。食べなくても、料理が口に合わないとか、遠慮してるとかそういうことじゃないから」

 恐らく花世子が間を持たせようと、食事を勧めることを見抜いて楓は言ったのだろう。いつからだろう、と花世子は考えた。一人っ子で、気をつけてはいたけれどどこか自分本位というか、あまり周りを見渡さない子だった楓。それが、こんな風に周りに気を遣える子になったのは。
 いつからだろう?
 「花世子?」

 名前を呼ばれて、花世子ははっと顔を上げた。時計の針はもう七時を差している。雪を迎えに行くと言って楓が出て行ってから、もう一時間も経っていた。

「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてて」
「体調が悪いのか?」
「ううん、違うの。ごめんなさい」

 花世子はリビングのソファから訝しげに自分を見てくる柊平の目から逃れようと、ガステーブルの下のオーブンの覗き窓を、腰を屈めて覗き込んだ。赤い光がじりじりとチーズの表面を焦がしている。自分も焦がされるようだと思った。
 なぜ今、こんなことを思い出すのだろう。自分が子宮内膜症だと知ったのは、もう二十年近く前のことだった。確かに人よりも生理痛がひどいとは思っていたけれど、若い頃はそれが病気によるものだなんて、考えてもみなかった。花世子はそれによる不妊で、だから必死に不妊治療を行った。その結果、やっとあの子を、楓を身ごもることができた。楓がお腹の中に宿ったことを知ったとき、花世子はとても嬉しかった。楓が生まれたとき、花世子は嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。
 楓。わたしの楓。まだ小さな赤ん坊だった楓を抱きしめて花世子は思った。たった一人のこの楓に、わたしは母親としての全てを注ぎ込もう。子どもを産んだ喜びも不安も痛みも全部ぜんぶ何もかも、この子だけのもの。そう思った。
 その楓が今日、女の子を連れてくる。もしかしたら一生大事にするかもしれない、楓にとってただ一人となるかもしれない、女の子を。
 子離れができてないんだな、と花世子が自嘲した。なまじ楓があまり反抗しない子だったから、余計に。楓は話に聞く思春期の子のように口を利いてくれなくなったり、母親である花世子のことを「ババア」と呼んだり、ましてや暴力をふるったりするなんてことは、決してなかった。だから余計に、いつ離れたらいいのかわからなくなってしまっているのだ。
 だからいい機会なのかもしれない、と花世子は思った。行動の端々から感ずるに、楓が大事にしているのであろう女の子に会うということは、楓から子離れしていくいい機会なのだ。
 コーンと鳴ったオーブンのチャイムを合図に、そう決心した。




 一ノ瀬雪は確かに、一度見たら忘れられないほどの美少女であった。いや、もう美少女という形容は不適応だった。彼女は既に女として完成していたから。

「はじめまして。一ノ瀬雪です」

 すらりと礼をした仕草は、ごく自然で、身のこなしの所作について厳しく教育されたことが窺い知れた。顔をあげてふわりと笑う。笑いすぎず、かといって硬くもなく、完璧な微笑をした。揺れた髪から銀色のピアスが覗いた。

「楓君とお付き合いさせていただいてます」

 雪がそう言ったとき、彼女の後ろにいた楓が小さく身じろぎした。雪はそれに知らん顔をする。何となく二人の仲を見せ付けられたような気に、花世子はなった。

「やあ。本当に美人さんだななあ」

 リビングに通すと、ソファで一人仕事していた柊平が少し驚いたように言った。

「楓みたいな口下手が、よくこんな美人さんを捕まえられたなあ」

 あんまりしみじみと柊平がいうので、花世子は噴出して笑ってしまった。雪もつられたように少し笑う。楓だけが憮然とした顔をしていた。

「そんな、楓君こそすごい人気ですよ。親衛隊まであるんですから」
「だめだめ。モテることはモテるのに、まったく女の子の扱い方を知らないんだから。いつも邪険にしちゃって」

 花世子が言うと、楓はさらに憮然とした顔になった。「だって、うるさいし」。ぷいと顔を背けた楓に、花世子はもう一度笑った。

「さあ、食事にしましょうか」



 雪は実に知識の豊富な少女だった。些細な話をしているだけで、その片鱗が見え隠れする。恐らく頭の回転も速いのだろうなと花世子は思った。切り返しも紋切り型でなく、多彩な変化を見せる。
 ただ、彼女の皿の料理はあまり減らなかった。少しずつ口に運んでいるのだけど、そのインターバルが長い。

「へえ、じゃあ今お父さんはアメリカにいるの?」
「はい。もう、八年ぐらいです。向こうのほうが性に合ってるみたいで、帰りたがらないんです」
「さみしくはないのかい?」
「どうでしょう?昔から家を空けることが多い人だったので、一緒にいたら話題が見つからなくて、逆に困ってしまうかもしれません」

 雪が笑って言う。そしてホタルイカとアボカドを合えたものを一口、口に運んだ。それでやっと彼女に取り分けた分の皿が二皿ほど空になったぐらいだ。楓などは、もうほとんど食べ終わりかけている。

「すみません。ちょっとお手洗いをお借りしてもいいですか?」

 恥ずかしそうに雪が言う。もちろん、と言って花世子はトイレの位置を教えた。申し訳なさそうに雪が席を立つ。

「……お父さんのことを聞いたのが、気に障ったのかな」

 珍しく柊平が人のことを気にして言う。鈍感な彼にしては、よく気がついたほうだった。できれば、聞く前に思いとどまってほしかったが。

「いや」

 しかし楓がそれを否定した。それまで会話に一度も加わらず、黙々と料理を口に運んでいた楓が、皿から顔を上げて雪が出て行ったリビングのドアを見る。そして徐に席を立つと、そのまま何も言わずに出て行ってしまった。
 突然のことに、花世子はぽかんと口を開けていた。元から口数の少ない子ではあったけれど、こんな突拍子もないことをする子だっただろうか。自問して、やっと口を開けっ放しだった自分に気づく。

「ちょっと見てきます」

 そう柊平には言い置いて席を立つと、花世子は楓の後を追った。「楓?一ノ瀬さん?」。名前を呼びながらトイレのほうに向かうと、ぼそぼそと話し声がした。楓の声だった。

「いいから、吐いちまえ」
「でも……」
「楓?」

 覗きこむと、トイレの側で真っ青な顔をして蹲っている雪と、その腕を取って立ち上がらせようとしている楓の姿があった。「あ、」。花世子の顔を見た雪がゆっくりと目を見開く。そして悲しそうに、くしゃりと顔を歪めた。「ごめんなさい」。彼女の口から、なぜか謝罪が漏れる。

「どうしたの?」

 花世子も屈みこんで雪の顔を覗くと、雪は何も答えず、代わりに楓が答えた。

「食いすぎ」
「食べすぎ?」

 花世子は怪訝に思って、聞き返す。そんなことを言っても、雪は前菜が少しずつ乗った皿を、二皿しか食べていなかったはずだ。そう思ったのがわかったのか、「だから、こいつ食わないって言っただろ」と楓が言った。家で聞くのとはまた違うぶっきらぼうな口調に、馴染みのなさを覚える。「とりあえず」。花世子は雪の背に手を回して抱きかかえながら言った。

「気持ちが悪いのなら吐いてしまいなさい。楽になるから」

 言うと雪はまた「ごめんなさい」と謝った。「ごめんなさい、ごめんない」と何度も何度も謝る。「謝る前に吐きなさい」。背中を擦りながら花世子は再度言った。

「楓」

 咳き込む雪の背中を擦りながら花世子は肩越しに振り向く。「何?」。全く表情を変えずに楓は聞いた。この調子なら、楓の前で雪が吐いてしまうことが、以前にもあったのかもしれない。だから部屋を出て行った雪がどうしているのか、すぐに合点がいったのだ。

「柊平さんに、雪ちゃんの様子を伝えてきて。何だか、熱も少しあるみたい」

 そのことには楓は気づいていなかったようで、少し目を見開く。

「お願いね」

 花世子が言うと、楓は「ん」と返事して踵を返した。足音が遠ざかるのを確認して、花世子は雪の肩をぽんぽんと叩いた。

「ほら、楓は行っちゃったから、吐いても大丈夫よ。ごめんね、気の効かない子で」

 雪は小さく頭を振るが、嫌だったのは事実だろう。誰も、好きな男の子の前で嘔吐したいとは思わないだろうから。長い髪が邪魔にならないように、後ろで持ってやる。やっとえずき始めた雪の背中を擦りながら、何がそんなにこの子を追い詰めているのだろうと花世子は思った。雪は吐く間中もずっと「ごめんなさい」を繰り返していたから。



 「単なる体調不良だと思う。聞いたら、あんまり眠っていないっていうし」

 寝室から出たところで柊平が言った。

「妊娠ではないって。生理も二日前に終わったばかりらしい」
「……聞いたの?」
「お医者さんとしてね」

 眉を顰めた花世子に柊平はさらりと言った。仕事のこととなると、この人は驚くほど気が回るし、怖いぐらいに患者の気持ちを読み取ってしまうのに。家にいるときとはひどい差だ。

「主治医もいるっていうから、とりあえず明日にでも、その人のところへ行くように勧めたよ」
「わかったわ」

 花世子はひとつため息を吐いて、柊平と入れ替わりに部屋の中に入った。ミネラルウォーターのボトルとコップを乗せた盆を、ベッドのサイドテーブルに置く。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

 掠れた声で雪がベッドの中から言った。花世子は小さく微笑んで見せて、「いいのよ」と囁く。

「あなたの都合も考えずに、急に家に呼んだわたしたちが悪いんだから。とりあえず今日は泊まっていくといいわ。お家には誰もいないんでしょう?」

 聞くと、雪は小さく頷いた。

「じゃあ、もう夜も遅いし、余計に帰すことはできないわね。大丈夫よ。わたしも隣の柊平さんのベッドで寝るから、ゆっくり眠るといいわ」
「そしたら、あの……」
「柊平さんは書斎で寝るって言ってるから。そこにもひとつベッドを置いてるの。あの人、遅くまで仕事していることがあるから」
「すみません」

 重ねて雪は言った。そのとき、こつこつと扉を叩く音が聞こえた。多分楓だろうなと思ってドアを開けると、案の定そうだった。

「入っていい?」

 奥にいる雪を見越して楓が聞く。母親のことはまるで眼中にないんだなと花世子は少し笑ってしまった。どうにも、楓は本当に雪にベタ惚れらしかった。

「雪ちゃん。楓、いれてもいい?」
「あ、はい」

 ベッドから起き上がりながら雪が言う。

「寝てろ」
「寝てなさい」

 花世子と楓の声が重なって、雪は一瞬きょとんとしてから、「すみませんでした」ともう一度謝って、布団の中に潜り込んだ。花世子は楓と目を合わせて、少し笑った。

「雪ちゃんが着れるシャツか何か取ってくるから、その間、お願いね」
「ん」

 今度は楓と入れ替わりに部屋を出た。何だか、家族総出であの子に振り回されているなあ。花世子はそう思ったけれど、悪い気はしなかった。何だか娘ができたようで嬉しかったからかもしれない。
 二階の寝室から階下に降りると、バスルーム脇のクローゼットから長袖のTシャツとコットンパンツを取り出す。花世子は少し手持ち無沙汰になって、それを両手にリビングに入った。雪の着るシャツを取ってくるというのは、半分あの部屋を空けるための口実で、今戻ったら確実に邪魔をしてしまうだろう。
 先に寝室を出た柊平は、てっきりリビングにいるものだと思っていたのだが、しかしそこには誰の姿もなかった。どこにいってしまったのだろう。その思いながらも、深くは考えず、お茶でも入れようとテーブルの上に着替えを置こうとした。そのとき、不意にリビングのドアが開く。少し驚いて振り向くと、柊平だった。

「花世子、ちょっとおいで」
「どうしたの、柊平さん」

 らしくもなく、何だか慌てている様子の柊平の後を追って、花世子は再び階段を上った。寝室に行くのかと思ったらそうではなく、柊平が書斎として使っている部屋に入った。雪の着替えを手にしたまま、花世子もその後に続く。久しぶりに入った柊平の書斎は相変わらず汚かった。そこら中に医療関係の書籍やら書類やらが散乱している。ぎゅっと眉を顰めた花世子をやはり柊平は無視して、「見てごらん」とパソコンのディスプレイを指した。

「雪さんの顔と名前にどうしても覚えがあったから、探してみたんだ。そしたら、これ」

 見ると、どうやらアメリカの大学内に籍をおいている研究チームの中に、ローマ字表記にした彼女の名前があった。「同姓同名じゃないの?」。花世子は再び眉を顰める。

「もうひとつ。これを」

 ぐしゃぐしゃになった新聞紙を一枚渡される。随分昔のものらしく、黄ばんでいた。「未整理の写真を、ずっとこれで包んでいたんだ」。恥ずかしそうに柊平がいう。まだそんなものを隠していたのか。些か憤然として、花世子は指差された記事を見る。見出しは「米国在留邦人、十一歳の天才少女」。そして一ノ瀬雪という名前と、冷えた目線でどこかを見る少女の横顔を映した白黒写真があった。

「IQが二百近くって……」
「まだ幼い頃のことだからね。今測定すれば、そんな数値はでないだろうが、このときギフテッドに認定されている。どうやら彼女が映っているこの写真も、専門の私立校のようだ。花世子。もう一度、インターネットの記事を読んでみてくれないか」

 柊平に促されて花世子はもう一度、今度はきちんと最初からその記事を読んだ。アメリカの大学内のグループがチームを組んで、様々な障害を持った恵まれない子どもたちを「研究」する、というものだった。つまり、障害のために孤児院でも持て余されている子どもたちを、研究する代わりに保護もするというプログラムらしい。支援はアメリカの高名なメディカルグループになっていた。その研究員の中に、雪の名前も混じっている。開始は一年後。最後にそう記されていた。

「一年後って……このこと楓は知っているの?」
「わからない。けれど、このインターネットの記事が本当に雪さんかどうかもわからない。君の言ったように、同姓同名の別人かもしれない」

 今更そんなことをいうのか。花世子はへなへなと備え付けの椅子に崩れ落ちた。ぎいと椅子が鳴る。

「ただ、この新聞の記事を読んでからでは、強ち同姓同名の別人とも思えないだろう?」
「……思えないわ。少し話しただけで、あの子がすごく頭の切れる子だってことはわかったもの」

 花世子は頭を振って、椅子から立ち上がった。

「でも、こんなことをわたしとあなたが二人でうだうだ言っていても仕方ないじゃない。楓と雪ちゃんが二人で解決する問題だわ」
「その通りだね」

 柊平は頷いた。マウスを操作してウィンドウを閉じる。そのまま電源も切ってしまった。

「わたし、雪ちゃんに着替えを渡しに行かなくちゃ」

 花世子がずっと抱えたままだったシャツとコットンパンツを掲げて言う。「そうだね」と柊平も頷いた。

「……楓に話す?」

 書斎から出て、花世子は彼を見上げて聞いた。柊平は少し考えるようにしてから、「いいや」と頭を振った。

「当人に任せよう」
「そうね。それがいいわね」

 花世子は頷いて、寝室のほうに足を向けた。とんとんとんと規則的な音がして、柊平が階下へ下りていく。ノックをしてドアを開けると、柊平のベッドに腰掛けて、ぼそぼそと何かを喋っている楓がいた。

「楓。着替え持ってきたから」

 花世子が言うと、楓は「ん」と返事をして、何気なくベッドに伸ばしていた手を戻した。

「じゃあな」

 それだけ言って柊平のベッドから立ち上がる。さっきまで楓が手を伸ばしていた辺りに、雪の白い手が覗いた。もしかして手を握ってたのかしら。そう思って少し気恥ずかしくなる。「おやすみ」。すれ違い様に声をかけると「おやすみなさい」といつも通り素直なあいさつが返ってきた。彼女がいても、それは変わらないのか。そう思いながらベッドの中の雪を覗き込むと、雪も少し笑っていた。

「お母さんとお父さんの前だと、何だか素直でかわいいですね」
「そうなの?」

 くすくすと雪が笑う。その瞳は熱のためか潤んでいた。「ちょっとごめんね」。手を伸ばして雪の額に触れる。さっきよりも少し熱くなっている気がする。まだ上がるようなら、解熱剤を飲ませたほうがいいなと花世子は思った。離れていく花世子の手を雪の目がうっとりとした面持ちで追う。やっぱり熱が上がってるのだと花世子は確信した。

「雪ちゃん、ちょっと起きれるかしら。着替えを持ってきたの。わたしのもので悪いんだけど」
「すみません、気を遣っていただいて……」

 恐縮したように雪は言って、体を起こした。背中を支えて起きるのを助けてやると、雪が不思議そうに花世子を見た。ああ、と合点して花世子は言う。

「わたし、看護婦をやっていたのよ。これでも、昔は」
「道理で。何だか手馴れてみえるなあと思ってました」

 息を吐くように雪は言った。もたもたと着ているワンピースのボタンを外そうとする。花世子はその雪の手を遮って、ボタンを外してやった。雪が着ている黒地に小花の散ったシフォン素材のワンピースは花世子も好みで、もし自分に女の子がいたら、多分着せたいと思うような類のものだった。するりと彼女からそれを脱がせて、下に重ねてきていた白い飾り気のないワンピースも同様に脱がせる。露になった白い胸元に、ちらちら散った内出血の跡からは目を逸らした。雪も花世子が目を逸らしたことに気づいただろう。気まずい沈黙が部屋を支配した。

「じゃあ、わたしはお風呂に入ってくるから、先に寝ててね」

 着替え終わった雪に布団を被せて、花世子は言った。雪の着ていた服はハンガーにかけて吊るしておく。こうして見るとひどく甘い感じがするワンピースなのに、雪が着ていたからだろうか。初めて見たときはとてもシックに見えていた。

「おやすみ」

 そう言って花世子はドアを閉めた。



 ふと目が覚めたのは、「お母さん」と呼ばれたからだ。ベッドから体を起こして周囲を見渡す。いつもとは視点が違って、一瞬知らない場所にいるかと思った。朦朧とする頭で考えて、それからやっと雪のことを思い出す。いつもは自分が眠っているベッドのほうを見ると雪も起き上がって花世子のほうを見ていた。

「雪ちゃん?」

 不審に思って聞く。暗闇に目が慣れると、その暗さの中でも、雪がぼたぼたと涙を垂らしているのがわかった。

「雪ちゃん?」

 もう一度聞く。するとどこか視点の合っていない目で花世子を見ていた雪は、はっとしたように花世子から目を逸らした。「すみません」。謝って、目を擦る。

「熱で、ぼうっとしてたみたいです。すみません」

 重ねて雪が謝る。「雪ちゃん」。今度は疑問符をつけずに雪の名前を呼ぶ。ベッドの上をにじり寄って、彼女の額に触れる。熱は大分下がったようだった。手を下げて、雪の頬に触れる。そして首筋に。肌は涙に濡れてしっとりとしていた。「もう少し寝てなさい」と言って雪をベッドに寝かしつけながら、花世子は雪の髪をかきあげてやる。さらさらとして触り心地のいい髪だった。

「何か怖い夢でも見たの?」

 髪を梳きながら花世子が聞くと、雪はうっとりとした目で花世子を見上げた。この目つきは熱のせいではないのかもしれない。花世子は思った。

「子どもの頃の夢を見ました……」
「子どもの頃の夢?」

 小さな声で雪が言う。声音は甘く、今にも眠ってしまいそうだ。

「お母さんが、帰ってくるって言ったのに、帰ってこなかったときの夢。雪が寝たら、一回お出かけするけれど、朝には戻ってくるからねって」

 とろとろとした喋り方は、多少の熱のせいか退行したような幼さを見せた。雪は布団の中からぼんやりと花世子を見上げる。

「夢の中で、朝起きても、お母さん帰ってきてなくて、すごく怖かった。怖かったの」

 すぐ側にあった花世子の手に雪は子どものように顔を寄せた。幸せそうに目を閉じて、「よかった」と呟く。

「夢で、よかった。お母さん、帰ってきてくれて……」

 そのまま雪は再び眠りについたようだった。花世子は雪の白い額をするすると撫でてから、布団を彼女の首元まで引き上げて、柊平のベッドまで戻った。すぐには眠れそうもなく、時計を見たら既に四時三十分を示していた。これはもう眠れそうにない。花世子は憚ることなくため息を吐いて、ブラインド越しに明けていく空を見つめる。
 何となく、両親とうまくいっていないことは雪の言葉の端々から感じ取れたけれど、ここまでとは思わなかった。朝まで置き去りにされたというのは、一体いつのことなんだろう。ベッドの上で膝を抱えて、花世子は考える。雪の口調からして、小学校の低学年、いやもっと下か。五歳、四歳、ひどければ三歳。さすがに二歳の子どもを朝まで放って出かけたとは考えたくない。けれど、ギフテッドに指定されるぐらいだったなら、かなり早熟であるはずだから、恐らく三歳前後。アインシュタインのような例を考えない限り。
 はあ、ともう一度ため息を吐いて花世子は髪をかきあげた。そんな小さな子どもを放置するなんて、考えられない。雪の母親はその恐怖を考えたことがあるだろうか。三歳や四歳の子どもが夜中に一人きりで目覚める恐怖。朝起きても、家に誰もいない恐怖。父親も家にあまりいなかったというから、その朝目覚めたとき、彼女は人の気配を感じられない家に一人ぽっちだったのだろう。火の気も人気もない部屋。明るい日差しの中で、雪は恐ろしいほどの寂しさを感じたのではないかと思う。
 花世子はベッドから下りるとクローゼットを開けて着替える。五時過ぎになれば、楓も起きだして公園に行ってくるというだろう。たまにはそれを見送るのもいいかもしれない。チェストの引き出しをそっと閉めながら思った。
 部屋を出る前に、一度雪の髪を撫でてやる。すやすやと眠っている顔は、実年齢よりも少し幼く見える。こんな子が自分の娘だったら、一生をかけて大切にするのに。女の子として一番幸せになれるように、花世子の全てを注ぐのに。そう思ってから実子の楓のことを思い出して、少し苦笑した。雪が自分の娘だったら、楓が困るか。






 どこだここは。目を開けた瞬間に雪は思った。まるで知らない天井が目に映る。ゆっくりと起き上がると、信じられないくらい体が軽かった。時計を見ると、七時前を差している。こんな遅くまで眠っていたのは、随分久しぶりのことだった。すっきりと頭は冴えているのに、ここがどこなのかがまるで思い出せない。ベッドから降りて部屋の中を見渡す。クローゼットの戸にかけられた黒地に花柄のワンピースを見た瞬間に、全てがフラッシュバックした。

「お、思い出した……」

 一人で呟きながら、ずるずるとその場に崩れ落ちる。なんてことをしてしまったのか。雪は後悔の嵐に苛まれながら思った。初めて流川の家に来たというのに、出された料理にほとんど手もつけず、あまつさえ吐くなんて。有り得ない。小さく呟いた。いくら緊張してしばらく眠れなかったからって、いくらそのせいで体調が思わしくなかったからって、こんな、こんな。
 しかも熱のせいか、変な夢を見た。母親が帰ってくる夢。なんで今更こんな夢を見るかなあ。雪はほとほと自分自身に呆れて、頭を振る。
 とりあえず、着替えて流川のお母さんに謝りに行こう。ご迷惑をお掛けしましたって。
 そう決心をして、雪は着ていたTシャツを脱ぎ、昨日着ていたワンピースに腕を通した。普段ほとんど無地のものしか着ない雪にとって、このワンピースを買うのは一大決心だった。かわいい。確かにかわいいとは思うのだけど、何となく着こなせる自信がなかった。けれど、折角家にお邪魔させてもらうのに、いつもと同じ無地のものではシンプルすぎるかと思って、思い切って買ったのだ。絶対に似合うわよ!という晴子の太鼓判にも押されて。流川は、雪が何を着ていようと特に気にしていないようだから、これが正解だったのかどうかはわからないままだ。
 ワンピースに着替え、貸してもらったシャツとコットンパンツを畳んで持って階下へ下りていくと、トントントンとリズミカルな音がした。コンソメのいい匂いが鼻孔をくすぐる。これもまた随分久しぶりに食欲を感じた。家に戻ったら、久しぶりにスープでも作ってみようかなと思った。

「おはようございます」

 リビングのドアをそっと開けて中を覗き込むと、すぐに流川の母である花世子がこちらに気がついて、駆け寄ってきた。見るからに優しそうで同時に知的そうで、奥さん・お母さんににしたい人ランキングだとかの、上位に食い込みそうな人だ。「ちょっとごめんね」。断ってから雪の額に花世子の手が触れる。人の温さがして心地がよかった。わたしの母親とは対照的だなあと雪はぼんやり思った。

「熱は下がったみたいね。もっと寝ててよかったのに」
「いえ。普段よりも寝すぎたくらいです」

 軽く言ったのに、なぜか花世子はぎゅっと顔を顰めた。雪は少したじろいで、首を傾げる。すると花世子ははっとしたように、雪の顔を見て、それから雪が手に抱えていた洗濯物を見た。

「あ、ごめんなさいね。わざわざ畳んでもらっちゃって」
「こちらこそ、ありがとうございました」

 手渡すと花世子はにっこり笑って、「どういたしまして」と言った。じゃあ、お暇させていただきますと雪が言おうとしたところで、それよりも早く「お茶、入れるわね」と花世子が畳み掛けた。

「楓、もうすぐ帰ってくると思うし、柊平さんももうすぐ起きてくるから、一緒に朝ごはんにしましょう」

 そう言われて、雪は慌てて首を振る。

「そんな、これ以上ご厄介になれません」
「いいのよう。もう作っちゃったし」

 どこか間延びした花世子の喋り方に雪は聞き覚えがあった。どこでだ。そんなの、考えなくてもわかる。毎日のように会っている女の子なのだから。

「ね。食べていって?」

 自分よりも少しだけ背の低い花世子は上目遣いに雪を見てくる。雪はこの上目遣いにとてもとても弱いのだ。だから雪はもう、頷くしかなかった。

「すみません、ご馳走になります」



 砂糖とミルクの両方を入れた雪を、花世子はじいっと興味深いものを見るように見た。不思議に思って雪が首を傾げると、花世子は少し笑って、「うちの家族ってみんなブラックだから、珍しくて」と言った。

「流川、……楓君もブラックなんですか?」
「ええ」
「なんか、ちょっと意外かも……」

 いや、それともイメージ通りなのか。混乱して雪はまた首を傾げる。雪のマンションで何か飲むときは、ほとんど紅茶だったからわからなかった。でも確かに、紅茶には何も入れてなかったと思う。

「というか、雪ちゃんって楓のこと、苗字で呼んでるのね」

 カップの中のコーヒーを一口啜って花世子が言った。柔らかい朝日に照らされて、髪が甘い栗色に輝いている。流川の整った顔立ちは、どちらかといえばこの花世子似だったけれど、髪の色や目の色は父親の柊平似なのだなと雪は思った。

「ずっとそうやって呼んでたから、今更変えるのが、何だか気恥ずかしくって」
「かわいいわねえ」

 花世子に笑われて、雪は居た堪れなくなって顔を俯けた。流川は、まだ帰ってこないのか。柊平は、まだ起きてこないのか。まだほかほかと湯気を立てるカップに口をつけると、熱くそしてほろ苦い味がした。アメリカに行く前はよく飲んでいたような気がする。父とシオドアは紅茶党だったけれど、母はコーヒーのほうを好んだから。

「ねえ雪ちゃん」

 名前を呼ばれて、雪はコーヒーのカップから顔を上げた。カップの中ではまだ普段あまり口にしない、黒褐色の液体が揺らめいている。

「お母さんのことって、覚えてる?」
「母、ですか?」

 雪は再びカップの中に目を落とした。よくよく見ると、カップの中の液体に自分の顔が映っている。とても情けない顔をしていた。

「花世子さんとは正反対の人でした」

 それから。そう繋げてから、自分が何を言おうとしたのかを見失って、雪は途方に暮れた。「それから」。子どものように繰り返す。しかし子どもではないのだから、早く答えなければ。そのとき不意に脳裏に浮かんだのは、昨夜見た夢だった。

「それから例えば、夜にわたしを一人家に放って、どこかに出かけてしまうような人でした。父がいない夜だって、電話がかかってくれば平気で出かけてしまうんです。大丈夫、朝には帰ってきてるからねって、わたしを寝かしつけて。でも、朝になっても母は家の中にいないんです」

 そのときの恐怖を雪は忘れたことがない。この体験による恐怖が、後に不眠症として表面に現れたのだろうと雪は思っている。きっかけはそれだけにないにしろ、原因の一端ではある。眠った後、一人きりで目覚めるのが怖いのだ。
 でも昨日見た夢。カップの中に映る自分を見つめながら、雪は思う。昨日見た夢では母が帰ってきていて、雪の隣で眠っていた。いつもの通り母が帰ってこない夢を見た雪の髪を撫でて、側にいてくれた。雪が眠りについた後に、額を撫でてくれていたような気がする。

「ごめんね。昨日の夜、というか明け方なんだけれど、わたし雪ちゃんの寝言聞いちゃったのよ」
「へ?」

 間抜けな声を上げてカップから顔を上げた雪を、花世子が申し訳なさそうに見ていた。え、なに、どういうこと!頭が混乱していて働かない。

「ふと目が覚めたら、雪ちゃんが布団から起き上がって泣いてたから、大丈夫よって言って寝かせたの。そのときに」

 え、なに、あれ夢じゃなかったのもしかして!瞬間、頬が熱を持ったのがわかった。カップを置いて、両頬を押さえる。

「ゆ、夢だと思ってました……」
「うん、ごめんね」

 花世子が謝る必要はないのに、花世子は至極申し訳なさそうに言った。「それでね、」。言葉を花世子は続ける。

「もしかして、雪ちゃん何か、心身症を患ってるんじゃないかと、思って。もしそうなら、わたしも柊平さんも、知り合いにそういうの診てくれる人知っているから」
「大丈夫です。もう、大分治りかけてるんです」

 雪は少し泣きそうになりながら言った。どうしてだろう。この人はどうして、こんなに自分のことを心配してくれるんだろう。「本当?」と心配そうに顔を上げた花世子を見て、雪は思った。恨まれていても仕方がないと思っていたのに。

「お察しの通り、不眠症と摂食障害を持ってたんですけれど、大分よくなってたんです」
「でも、眠ってなかったんでしょう?」

 柊平から聞いたのか、花世子が言った。これをいうのは、恥ずかしいのだけど、けれど背に腹は変えられない。嘘を吐くのは嫌だった。

「緊張してて、寝れなかったんです。流川の家にお邪魔するってことを、考えると」

 目を逸らしながら言う。一瞬間抜けな間があって、それからぷっと花世子が噴出した。

「そ、そんな寝れないくらい、緊張してたの?」
「結構、繊細なんです。これでも」

 憚らず笑う花世子に、雪は目を逸らしたまま言った。すると余計に花世子が笑う。

「ごめん、ごめんね。ほんっとあなたたちって、互いにベタ惚れなんだなあって、思って」
「最近よく言われます……」

 春先にケンカしたときのことを思い出して雪は言った。あのときもたいがいベタ惚れベタ惚れと言われて、しばらくからかわれた。苦い記憶だ。
 カシャンと表で自転車の止まる音がする。流川だ。雪は確信してぱっと立ち上がった。立ち上がってから「あ」と思い至って花世子を見る。花世子はソファにもたれたままでまだ笑っていた。

「い、いいわよ。迎えに行って、あげて」

 笑い混じりに言われて、雪は苦笑いを溢しながらも玄関に向かった。廊下に出たところで、きちんと身支度を整えた柊平と顔を合わせる。

「あ、おはようございます」
「ああ、雪さん。おはよう。体調はもう大丈夫かい?」
「はい。おかげさまで」

 入れ替わりに柊平がリビングの中に入る。「柊平さん。聞いて、聞いてよ」。リビングの中で花世子が声をあげた。「柊平さん」なんて、花世子のほうだって十分いちゃついてる癖に。少し拗ねていると、玄関のドアが開いた。

「雪?」

 訝しげに名前を呼ばれる。雪は流川に向き直りながら、「おはよう」と笑った。眩しそうに流川が目を細める。柔らかい陽光の中で、雪は未来を夢想した。












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