前回読んだ位置に戻りますか?

この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
あなたは18歳以上ですか?

油屋騒動


 その少年に、一番最初に出会ったのは雪だった。その日雪は、日直の仕事があって一人だけ部活に行くのが遅れたのだ。職員室にいた学級担任に日誌を提出して、さあ部活に行くかと踵を返したところで、一人の教師に呼び止められた。

「ああ、一ノ瀬さん。ちょうどいいところに」

 振り返ると、雪を呼び止めたのはバスケット部の顧問だった。温和そうな鈴木という教師は、安西に指導を任せて、あまりバスケ部の活動に口を出してこない。時折部費の会計のことなどで会話する程度だった。

「はい。何か?」

 鈴木の横には、きっちりと学ランを着込んだ背の高い少年が立っていた。生真面目そうに口元をきゅっと結んでいる。

「彼を体育館まで案内してあげてもらえませんか?」
「わたしは構いませんが」

 彼は?という語尾を曖昧にして雪はその少年を見た。背が高いと形容したが、身長は百七十五、六辺りだろうか。すらりとして細身に見えるが、案外筋肉もついていそうだ。短めの髪と利発そうな目元が、全体的に涼しげな印象を与えていた。

「清田紺といいます。中三です。湘北のバスケット部を見学させていただきに来ました」

 やはりはきはきとして、賢そうな話し方をした。中学三年生として、押し付けがましくない敬語の使い方だ。雪は彼に好印象を抱いた。

「一ノ瀬です。バスケット部のマネージャーをやっています」

 よろしくお願いしますと清田紺が頭を下げる。鈴木が「では頼みましたよ」と言ったのを機に、雪は今度こそ踵を返して職員室から出た。その後ろを紺がついてくる。

「来年は、湘北を受験するんですか?」

 少し歩調を緩めて、彼と並んで歩きながら雪は聞いた。背が高く、同年代の子に比べれば大人びた顔つきをしていたが、顎のラインや喉の辺りのラインがまだ甘く、中学生臭さを感じた。紺は困ったように笑って、「考え中です」と答えた。

「どのチームに入ったら一番いいのか、悩みどころなんです」

 さらりと紺は述べたが、つまりどのチームにも受け入れられるという自負でもあるのだろう。そしてそれは思い上がりではないんだろうな、と雪は感じた。先程からの物腰や言葉付きからして、自分に酔いしれるタイプではないと思ったのだ。

「そうですね。神奈川の有名チームは、翔陽も陵南も海南も、いいチームばかりですから」
「湘北に入れとは言わないんですね」
「わたしは別に、湘北が勝とうが、どこが勝とうが、興味ないですから」

 不意に紺は立ち止まった。雪が不思議に思って彼を振り返ると、紺は困ったように眉を顰めて笑っていた。

「変な人ですね、雪さんって」
「……下の名前、言いましたっけ?」
「言われなくても知ってますよ。あなた有名ですから」

 変な話だ、と雪は首を傾げた。花道や流川などの選手の名前を知っているならおかしくないが、一介のマネージャーである自分の名前まで知っているなんて。首を傾げている雪を「行きましょう」と紺が促した。もう体育館は見えてきている。

「清田……君は、ポジションは何をやっているの?」
「ガードっす」

 少し目を逸らして紺が言う。既視感が脳の隅で閃いたが、捕まえることができなかった。

「どこかで会ったこと、ありました?」
「いえ、お話するのはこれが始めてです」

 首を傾げる雪に、紺が予め用意していたように言う。容易に飲み下せない引っかかりに、雪は眉を顰めた。

「オレは、インハイ予選や選抜予選の会場で、雪さんを見たことがありますけど」

 どうも何かをはぐらかされているような気がする。引っかかるということは、今までの会話の中に何かヒントがあるはずだ。体育館の重い鉄製の戸を前にして、さらに眉間の皺を濃くした雪に、紺は笑いかけた。

「すぐにわかりますよ」

 意味がわからなかった。聞き返そうと紺を見上げた雪を他所に、紺が体育館の戸に手をかける。重い戸を簡単に開くと、紺は雪をおいてタッと体育館の中に駆け込んだ。先程までの礼儀正しさを捨ててずかずかと、練習中の部員の合間を縫って、奥へ進んでいく。唖然としている部員たちを尻目に、紺はまるで検察官か何かのように、高らかに呼号した。

「流川楓。オレと勝負しろ」

 体育館の中に走った動揺を他所に「うーん」と一人考え込んでいた雪は、唖然と口をぽっかり開けて驚いている晴子の横で「ああそうか」とようやく手を打った。

「海南の清田信長に似てるんだ」



 しんと静まり返った体育館の中で、最初に口を開いたのは、雪を除けば花道だった。じっと流川を睨む紺の前にずいと出て、にやりと笑う。

「誰だか知らんがな、キミ。こんなキツネに挑戦状叩きつけても、何ともならんぞ」

 誰だか知らんということを、そんな軽くスルーしちゃあ駄目だろ!と周りが突っ込んだことをこの男は知らない。どこまでもマイペースを貫く男。桜木花道。

「だって、あなたには敵いそうもないんですよ。桜木さん」
「お、オレ知ってんのか?」

 花道と同じように、紺もにやりと口の端を歪ませる。驚いたように首を傾げた花道に、紺はにっこりと笑みを浮かべた。

「そりゃあ、桜木花道さんと言ったら、神奈川随一のリバウンダーとして、とっても有名ですから」

 とっても有名、の件を強調して紺は言った。途端にへら、と花道の頬が緩くなる。

「……紺君、花道の性格よく掴んでんね」

 感心して言った雪に、ずっと開けっ放しだった口をやっと閉じた晴子が慌てて顔を向けた。

「雪ちゃんあの子知ってるの?」
「知ってるっつーか。鈴木先生に頼まれてここまで連れてきたの、わたしだし」

 いやあ、と花道が緩みきった声を上げる。自分よりも背の低い紺の背をバンバンと叩いて、よくわかってると頻りに頷いている。完璧にコントロールしてるな、と雪はまた感心の声を上げた。

「だから、感心してる場合じゃないのよ、雪ちゃん!」

 花道が「ワカル、やってみなくてもワカル。キミはいい選手だ」と紺を褒めちぎるのを背景に晴子が叫んだ。宮城がつつつ、と二人の側へ寄っていく。「なんで?」。雪は首を傾げた。

「だ、だって、部外者をあんな風に入れちゃ、怒られるわよう!」
「大丈夫だよ。見学の許可は下りてるんだし」
「で、でも……」

 つつつと寄っていた宮城が、今度は紺の肩を抱いて何事かにやりと笑った。どうやら、キャプテンの宮城までも手中に収めたらしい。あの子がすごいのか、わかり易すぎるあいつらがいけないのか。雪は首を傾げた。

「いやー、すごいね。あいつらのわかり易さといい、紺君の煽てのうまさといい」
「だ、だから感心してる場合じゃないんだってば!」

 バスケ部の主力二人をあっという間に味方につけて、紺はキッと流川を振り向いた。それまで何となく蚊帳の外にいた流川は、だるそうに紺を見返す。

「と、いうわけだ!オレと勝負しろ、流川楓!」
「ああああ、あんなこと言ってるよ、雪ちゃん!」

 晴子が雪の腕を掴んでがくがく揺らす。叫んだ紺の隣では、「負けるのが怖いんか」「いーくじなーし」などと花道と宮城が囃し立てている。人の使い方がうまい子だなあ、と雪はまた感心してしまった。

「だから、感心してる場合じゃないの!止めないと!」
「放っときなよ。わたしちょっと着替えてくるから、どうなったか見といてね」
「雪ちゃん!行かないでよう!」

 晴子の悲痛な叫びを他所に、雪は体育館を後にした。女子更衣室でTシャツとジャージに着替え、予備のボトルにドリンクを入れて体育館に戻る。ほんの十分にも満たない間だったが、体育館の中では雌雄が決されたようだった。ざわざわと騒がしい体育館の中央で、やはり紺が項垂れている。

「……クッソ!もう一回!もう一回やってよ!」

 肩で息をしている紺が流川を見上げて叫ぶ。一回やっただけであんな息が上がるのか、と雪は不思議に思っていたら、すぐ側にいた桑田が「ああ言って、もう三回ぐらい勝負してるんだよ」と言った。

「ああ。それは駄目だ」

 桑田の言葉に雪は呟いて、二人を遠巻きに見る輪の中から抜け出した。体育館の床に膝をついて頭を垂れている紺に、持ってきたスポーツドリンクを手渡す。

「紺君、今日はこの辺にしときなよ。そんなに動いたら、ぶっ倒れちゃうから」
「そりゃー、おめえだろ」

 横から流川が口を挟む。「うるさい」と睨み上げて、雪はもう一度「紺君」と名前を呼んで彼にスポーツドリンクを受け取らせた。脱力している彼の腕を引いて、体育館の隅まで連れて行って壁にもたれさせる。放心したような目で紺は雪を見た。

「……あんなに強いと、思わなかった」
「中学生と高校生じゃ、体の作りがまだ違うから。仕方がない」

 こくりと紺がドリンクを一口煽る。後ろでは晴子の指示で練習が再開されたらしく、ショーエイオウエイとまた掛け声が聞こえ始めた。

「紺君、あなた、海南の清田信長の弟でしょう?」

 雪が聞くと、紺は悪戯がばれた子どものように悲しい顔をして、「そうです」と頷いた。

「お兄さんの敵討ち?」

 先の選抜予選で、清田信長はぐうの音も出ないほどに、流川にやられていた。あれは悔しいだろうな、と端から見ていた雪でも思ったほどだ。

「違います。誰があんなヤツのために」
「何、兄弟仲悪いの」
「あんなヤツ、兄とは認めません!」

 紺はドリンクの入ったボトルをぎゅっと握り締めて、ぶつぶつと呟いた。「あんな、あんなお調子者でバカで、猿で、向こう見ずで……」。確かに、清田信長の弟というのは結構大変かもしれない。雪は彼に同情を覚えた。

「うん、ま、頑張って。わたしは応援してるから」
「……本当ですか?」

 紺が握り締めていたボトルから顔を上げて聞く。「うん」と頷こうとしたら、前触れなく後ろから頭を叩かれた。

「サボんな、マネージャー」
「いったい」

 首を捻って振り向くと、やはり後ろには流川が立っていた。流川に腕を掴まれて、立ち上がらせられる。そのままずるずると引っ張っていかれそうになって、雪は慌てて紺を振り向いた。紺が、立ち上がってこちらを睨む。雪ではなく流川を。

「オレ、明日も来ますからね!」

 堂々と宣言をして、紺は体育館から飛び出していった。去り際に、「ドリンクご馳走様でした!」の一言を忘れずに。

「かわいい……」

 呟くと、また流川に頭を叩かれた。

「どあほう」










 雪が聞いてみれば、清田紺は全中の神奈川予選で、MVPとして表彰されるほどの選手だったらしい。そのことを流川たちは知っていたようだが、雪は知らなかった。要するに、花道を除いたバスケ部の部員たちは、紺の顔をある程度知っていたのだ。道理で混乱が少なかったはずだ。晴子も、紺の名前だけは聞いたことがあるようだったから、まったく知らなかったのは雪ぐらいだった。
 宣言通り、紺は翌日も湘北の体育館に現れた。どうやら、部活見学は一週間の約束をしていたらしい。鈴木への挨拶をそつなくこなして体育館に現れた紺に、雪はまた少し感心した。

「いやー、根性あるよね」
「だから雪ちゃん、感心しないでって」

 すかさず、横にいた晴子が突っ込む。早速寄っていった宮城と花道に、晴子は「あうう」と頭を垂れた。あの二人はチーム内のムードメーカー的な存在であるために、部員の雰囲気も二人に釣られやすいのだ。早くも、練習の手を止めて宮城と花道と紺のほうへ目線を送っている者がいる。「余所見をしない!」。雪は手のひらを叩いて、興味を逸らさせた。
 最初は三人でけたけたと笑っていた宮城と花道と紺が、今度はにやにやと口の端を持ち上げて笑う。どこか集中力のない部員たちの中で、黙々と一人練習をしている流川のほうをじっと見た。「ああ、今日もなのね」。晴子が頭を抱える。雪はひとつため息を吐くと、予備のドリンクのボトルを取りに行くために、体育館を後にした。
 
 





 それから一週間後の土曜日。コンビニで昼食を買ってくるのを忘れたので、仕方がなく購買に行った。ものすごい人だった。

「……無理かも」

 誰に言うともなく、一人呟く。この壮絶な争奪戦に有利なのは勿論体格のいい男の子のほうで、その中に果敢にも飛び込んで言った女の子は予想通りもみくちゃにされてしまっていた。哀れである。
 まあ、一食ぐらい、いいか。ひどい有様の購買を前にして、雪は思った。元々食に対して執着するタイプではないし、それどころか食べることが苦痛だった時期もあったぐらいなのだ。うん、みんなにはもう食堂で食べたって、言おう。そう一人で自己完結して踵を返そうとした。

「あら雪ちゃん。今日は購買なの?」

 振り向くと、彩子がいた。彼女は夏の終わりに部活を引退してしまっていたので、久しぶりに顔を見た。

「お久しぶりです、彩子さん」
「ねえ、本当ねえ。選抜の応援で会って以来だから、二週間ぶりぐらいかしらね」
「夏までは毎日のように会ってたのに、何だか不思議ですね」

 邪魔になるので、隅に寄って話す。彩子は少し痩せたようだった。いや、やつれたと言ったほうが適当か。薄っすらと隈の浮いた目元を見て雪は思った。受験というのは、本当に大変らしい。

「あ、この隈?昨日の夜三時くらいまでゲームやってて。かまいたちの夜。怖いわね、あれ」

 前言撤回。彩子にとってはあんまり大変じゃないのかもしれない。

「で、雪ちゃんは珍しく購買ご飯なの?」

 繰り返して彩子が聞く。頷くと、「ばっかねえ」と額を小突かれた。痛い。小さく声をあげる。

「こういうときにこそ、桜木花道とか流川を使うんじゃない。この人混みの中に突入するつもり?」
「いえ……。そんな勇気ないんで、なんかもう、いいかなあ、なんて……」
「ばっかねえ」
「痛た!」

 再び額を小突かれた。悲鳴をあげて額を押さえる。手の下から彩子を見上げると、「こうすんのよ」と言って彩子がふっと後ろを向いた。きょろきょろと首を巡らせる
 「あ、そこのあんたでいいや。そう、あんた。ちょっと来て」

 まだ一年生ぐらいに見える坊主頭の男の子に声をかけると、彩子はちょいちょいと彼を手招きした。彩子のような美人に急に呼ばれたからだろう。黒く日焼けした彼の顔は、若干赤い。

「あんたも今から購買行くんでしょ?あたしたちの分も買ってきてほしいのよ。あたし、タマゴサンド。雪ちゃんは?」
「え、あ、わたしは……あの、メロンパンで……」
「じゃあ、タマゴサンドとメロンパンを一個ずつね。はい、お金。あんたみたいに体格のいいのだったら楽勝でしょう。さ、いってらっしゃい!」

 坊主頭の彼の背中をパンと叩いて、彩子は彼を人混みの中へ送り出した。彩子の言ったとおり、坊主頭は人混みをかきわけてずんずんと進んでいって、あっという間にタマゴサンドとメロンパンを勝ち取ってきた。「どうぞ」。はにかんでタマゴサンドとメロンパンを差し出した坊主頭に、彩子は「ありがとー」と笑って礼を言った。雪も小さく「ありがとう」と言った。また、坊主頭の彼の顔面温度が上昇したような気がする。

「ご飯も買えたし、じゃ、行こうか」

 彩子に促されて雪は購買に背を向けた。坊主頭の彼にひらひらと手を振る彩子は、何だかこなれている。もしかして、毎日こんなことやってるんだろうか。聞くと、案の定肯定が返ってきた。

「だって、あの中に入ってって買うとか普通に無理でしょ。ああいう体格のいいのを使わないと。今度からはちゃんと、流川か桜木花道を連れてらっしゃい」
「はい……そうします……」

 あらゆる意味で凄すぎる、と少し項垂れながら思った。何だか、ご飯を食べる前からもうお腹がいっぱいだ。これは、無駄になるかもしれない。左手に提げたメロンパンの、ファンシーなパッケージを見て思う。

「流川はどこにいるの?」
「多分体育館の辺りに……。三人で先に行くって言ってたんで」
「あんたらも、大概仲いいわねえ。そんな四六時中一緒にいて」
「いや、そんな一緒にはいないですよ」

 そう返したものの、実際は四六時中一緒にいるようなものだった。四人とも同じクラスであったし、昼休みも一緒にいるし、放課後は部活だ。一緒にいない時間のほうが短いんじゃないかってぐらい。特に流川とは。

「で、最近、どうなの。流川とは」
「どうって……」

 校舎に向かって歩きながら、彩子がにやにやとして聞く。雪は「ううう」とさらに頭を垂れながら、彩子の隣を歩いていた。彩子は苦手だ。そのときはっきり思った。

「流川ってさ、手とか出してくんの?手って、手を繋ぐレベルじゃないわよ。いや、手を繋ぐでもいいけど。どうなの?もうキスはした?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に雪は勘弁して!とばかりに廊下の角の白い柱にもたれかかった。ちょうど教室と体育館へ行く道の分かれ目で、目の前には職員室もある。彩子も立ち止まって、「どうなのよ」とさらに詰め寄る。顔に熱が集まっていることが、自分自身でも理解できた。両手で頬を包み込むけれど、あまり意味がありそうにない。雪は自分を覗き込んでくる彩子の好奇心に満ち溢れた目から目を逸らしながら、助けて!と心のうちで叫んだ。

「キ……」
「き?」
「……キスは、しました」

 というか、付き合う前からぶちかまされました。目線に耐え切れずそう言うと、彩子は俄然色めき立って「やるわね流川!」とまるで感嘆詞のように叫んだ。ちょっと、人見てるから、すごい見てるから、やめてほしい。雪は本気で思った。

「で、で!?その先は?」

 さらに彩子は詰め寄る。雪が恥ずかしさのあまり、廊下の柱の前にしゃがみ込み、その上頭まで抱え込んだ。そんな雪の顔を、彩子までしゃがみ込んで覗き込む。雪は戦慄した。

「や、ほんと、もう、勘弁してください……」
「って、ことはいっちゃったのね!やっちゃったのね!そうなのね!雪ちゃん!」
「タスケテ!」

 雪の肩を掴んでがくがくと揺する彩子に、今度は心のうちだけでなく叫ぶ。しかしその悲痛な叫びも彩子には聞こえていないようで、雪の両手を掴んで頻りに振りながら、「流川やるわね!やるわね流川!」とひたすら叫んでいた。ホント助けて!雪は彩子の暴走を誰か止めてくれないか、横を通り過ぎていく人たちに必死に助けを求めるのだが、みんな雪と彩子を興味深そうに見るばかりで助けてくれそうにない。

「ああああ彩子さん!部活始まっちゃいますし!」
「ちょっと、どうだったの!どうなの流川って!優しいわけ?!それともいつも通りにオレ様なわけ?!まったく想像がつかないんだけど!」
「そんなこと、想像しないでください!」

 まったく人の話を聞いていない彩子に、雪は真っ赤になって叫び返した。彩子の前だと調子が狂ってしょうがない。言い合ってても埒が明かない。もう、走って逃げ出そう。雪はついにそう決意して、腰を浮かせる。多少の距離を取るまで走れたら、多分こちらの勝ちだ。けれどその前に掴まったら負けだ。「優しい、優しい流川……」と呟いて考え込んでいる彩子を前に、雪はじりと後退りする。
 そのとき、不意に目の前の職員室の扉が開いた。

「……あ」
「あら」
「ああ!」

 三者三様の反応をしてお互いの顔を見比べる。そこには海南の清田信長が立っていた。

「マネージャーさん、こんちは!お久しぶりっす!」

 清田はにこやかに笑って言った。が、彼とは二週間ほど前に会ったばかりのはずだ。二週間会っていなかったら、彩子とは「久しぶり」だけれど、通う学校が違う清田とは「よく会うね」だろう。雪がそう思って首を傾げる横で、彩子が廊下の隅にしゃがみ込んだままで、清田に聞いた。

「どうしたの、今日は。何でこんなところにいるのよ」
「いや、選抜に向けて、湘北に練習試合を申し込みに来たんすけど、今、監督忙しくって湘北まで行く時間がないって言うから、部長のオレが代理で」
「はー。偉いわねえ」
「で、マネージャーさんたちはこんなトコで何してるんすか?」
「あ、あたしもうマネージャー引退したから違うわよ」
「じゃあ、マネージャーさんと元マネージャーさん?」

 首を傾げながら清田も廊下の隅にしゃがみ込む。何やってんだろう、わたしたち。雪はふと当惑した。そんな雪に構いなく、彩子と清田は顔を寄せて話している。「雪ちゃん、流川と付き合ってるじゃない」。「え、そうなんすか!」。「そうなのよ!だから、どんな感じなのか聞き出そうと思ってね」。「ちょちょちょちょちょ!待ってください!流川の一体どこがそんなにいいんっすか!」。「その流川の彼女がそこにいるんだから、今、聞きだせばいいじゃない」。「あ、それもそっすね」。
 まずい。非常にまずい。またこっちに話の矛先が向かいそうだった。雪は内心冷や汗を垂らして考える。どうする。どうしたらいい。とりあえず、こちらに話が向く前に逸らすべきか。

「あ、あの!マネージャーさん!」
「そういえば、清田君と紺君って、そっくりだよね」

 雪が清田の台詞を遮って言うと、清田は不思議そうに首を傾げた。

「あれ、なんでうちの弟の名前知ってんすか?」
「だって、今、うちのバスケ部に見学に来てるよ。知らないわけじゃないでしょ」

 と言ったものの、清田の顔は晴れなかった。それどころか、ぎゅっと眉根を寄せて、目つきが鋭くなっていく。これは、話は逸らせたけれど、タブーだったかもしれない。「オレ、それ、知らないっす」。そう言った清田を見て雪は確信した。



 多分騒ぎになるだろうな、ということは予感していたけれど、雪は誰にも言わなかった。彩子も興味を持ってはいたが、受験生という立場上、しぶしぶ図書室に引きこもりに行った。だから雪は何の違和感もなく、湘北バスケ部の中に混じって練習をしている清田を、かなり複雑な面持ちで一人眺めていた。ら、また流川に後ろから頭を叩かれたが。

「何、見てやがる」
「いや、面白いぐらい違和感ないなーと」

 土曜日だったので、清田は元から学校が休みだったらしい。いいなあ、私立。誰かが小さな声で呟いていた。

「あいつ、清田知ってんのか。弟のこと」
「知らなかったみたい。だから多分……」

 そう言いかけたところで、不意に体育館の扉が開いた。ああ来たなと思って見ると、やはり紺だった。紺は、授業を終えてバスケ部が練習を始める頃の時間になると、きっかり計ったようにやってくる。彼が通っているのは、湘北から少し離れた場所にある中学校で、その学校の位置から考えると、それはまだ授業をやっている時間から学校を抜け出さない限り、不可能だった。そんなことをしていては、もらえる推薦ももらえなくなってしまうだろうに。雪は少し心配していた。

「てめ、紺!」

 花道とじゃれ合っていた清田がキッと紺を振り向いて叫ぶ。紺はゆるゆると脱いでいた靴から目線を上げて、それからげっと眉を顰めた。

「なんでいんだよ。信長」
「そりゃー、こっちの台詞だ。なんで湘北に見学に行ってること話さねーんだよ!」
「だって、あんたには関係ないじゃん」
「兄貴に向かってあんたとか言うな!」

 どちらかというと、やはりきゃんきゃん吼えるのは兄の清田のほうであるらしい。紺は冷めた目をしてため息を吐いた。やってられないというように、首を振る。

「そういやお前、昨日学校から電話かかってきたりしてたろ。アレ、何だったんだよ」
「……それこそ、お前には関係ねえよ」

 帰ると言って紺は体育館に背を向けた。雪が追おうとしたところを、流川に腕を掴まれて、止められる。「何なんだ」と清田は訝しげに首を捻っていた。
 学校からの電話。今日はいつもより遅かったのは、きちんと授業を受けてきたからなのだろうか。「紺君」。小さな声で名前を呼ぶと、雪の腕を掴んだままの流川がちらりと雪を見た。







 紺君、と小さく呟くと自転車をこいでいた流川がちらりと雪を振り返った。雪は流川の大きな背中にこつりと額をつけて、もう一度呟く。

「紺君、今日は来なかったね」

 言うと流川は、「おー」と投げやりに返事した。そう聞こえても、実際はそうではないのだろうけれど。雪はそのことに笑みを溢した。
 一週間と少し前から湘北のバスケ部に通いつめていた紺が、今日は顔を出さなかった。雪には心当たりがあった。恐らく、紺が湘北のバスケ部に通いつめていることを、兄の清田に知られてしまったからだろう。紺が得たいものは、流川に勝つことではなく、勝ったその先にあるものだった。

「一回ぐらい負けてあげたら?」
「ムリ」
「まあそうだろうと思ったけど」
「負けてやるほうが、アレだろ」
「うん、そうだね」

 流川のいうことは間違っちゃいない。雪は流川のコートを掴んだ手に少し力を込める。過ぎていく車のライトと道端の外灯がきらきらと煌いていた。宙に跳ね返るクラクションの音。頬を撫ぜる冷たい風が心地よい。でもね、と雪は呟いた。

「わたし紺君のこと、好きだから。あの子があんまり苦しまないといいと思う」

 似ているのだ、紺は自分に。雪はそう思って顔を俯けた。紺が兄の清田信長に対して抱いている感情は、雪が母親に対して抱いている感情と似ている。だから、紺の気持ちもよくわかるのだ。
 線路沿いの少し細くなる道に入ったところで、不意に流川は自転車を止めた。キュっと擦れる音がする。雪は不審に思って顔を上げた。流川の目を捉えるより速く、覆い被される。

「浮気者に、お仕置き」

 顔色ひとつ変えずに言って、流川はまた自転車をこぎだした。雪がわっと流川の背中にしがみ付くと、表面上は変わらないものの、なんだか空気が柔らかくなったような気がした。「うわきもの?」。雪は小さく一人ごちて、指先で唇を押さえる。同じ不意打ちなのに、以前と違って少しだけ嬉しかったのは、自分への執着を見せてもらったからだろうか。ふふふと微かな笑い声が唇から漏れた。

「今日、泊まってくから」

 やっぱり前言撤回。雪は「ええ!」と悲鳴を上げて流川の背中を仰ぎ見た。

「自転車、どーすんの」
「駅に置いてく」

 覚悟しろ浮気者、と言われて、雪はたらりと冷や汗を垂らした。湘北のエースは結構やきもち焼きなのかもしれない。












 走らないのだったら、せめて歩いてこいと言われたので、雪は学校の外周をとことこと歩いている。自分の体力のなさは医者に太鼓判を押されるほどである。だから、学校の授業の体育というのは、ある程度免除してもらえている。
 最近の体育は持久走、マラソンだった。勿論雪が走れるはずも走るはずもなく、寒い寒いと周りが外周を体操服一枚で走っているなか、いつもは一人、保健室の窓から応援している。本を読みながらささやかに。
 しかしそれが今日は「たまには歩いたらどうだ」という体育の教科担の一言で、暖かい保健室を追い出され、もこもこと着込んで学校の周囲を散歩している状況にあるのだ。

「ルカワに、勝ァァつ!」

 そう叫びながら、花道がものすごい速さで道を駆けて行った。雪にも気づいていないようだ。短距離走じゃないんだから、と雪は一人ごちた。

「ルカワ、流川ね」

 雪は小さく口に乗せる。流川。雪にとって、たった一人の人間を指し示すその記号を、雪は案外気に入っている。詳しくはその人間自体を。流川。口にするだけで、脳の奥がきゅうと痺れるようだ。まるで麻薬みたい。そう思ってから、やっと自分が大分惚気ていることに気づく。バカだなあ。自嘲しながらも、わりに、不快感がないからだろう。また口にしてしまう。

「るかわ」
「なんだ」

 呟いただけだったのに、返事をされて雪は驚いた。後ろを振り向くと、流川という記号を持った人間が立っている。雪にとってたった一人の流川楓。

「もうこんなところまで走ってきたの」
「おー」

 言いながら、流川は雪の隣に並んだ。捲くった腕には薄っすらと汗が滲んでいる。並んで歩きながら、今抱きしめられたらきっと温かいだろうなと思った。

「いいの、走らなくて」
「別に、いー」

 本当はよくないんだろうけどなあと雪は思ったが、口にしなかった。嬉しくて、口元がつい綻んでしまう。「花道がね、さっき短距離走みたいな勢いで走ってったよ。『ルカワに勝つ!』って言いながら」。すると流川は「興味ない」の一言。雪はくすりと息を漏らした。

「おめーは何やってんだ、こんなとこで」
「ん?わたしはね、先生が走らないなら歩いてこいって言うから、散歩」
「そんな着込んでか」
「うん。寒いし」

 雪がいうと「手も?」と聞かれて、頷くと、むき出しの右手が不意に引き寄せられる。「わ!」。驚いて、声を上げてしまった。

「ちょ、流川。授業中だから」
「別に、いーし」

 右手をがっちり包み込まれて、引いても放してもらえない。俗に言う恋人繋ぎをされた右手の状態に、雪は少し顔を赤くした。誰かに見られたら、いやだ。そう思ったのを悟ったかのように、「まだしばらくは誰も来ねー」と流川が言った。
 観念して雪は、大人しく手の力を抜いた。手を繋いでとことこと二人で歩く。民家沿いの道は人影がなく、閑散としている。横でくあと流川が欠伸した。

「眠いの?」
「少し」

 昨日寝たの遅かったもんなあと思って、ぼっと顔が赤くなった。違う、寝たのが遅かったのは、流川のせいだ。嫌なことを思い出した。そう思って雪が流川を睨み上げると、流川は不思議そうに雪を見下ろした。ふと、流川の左手人差し指に巻かれた白いサージカルテープが目に付く。あ、と思って、雪は再び流川を見上げた。

「あの、ごめん」

 流川も再び、不思議そうに雪を見下ろす。雪が若干顔を赤くして、「指」というと、流川は合点が行ったように頷いた。

「別に大したことねーし」

 そう言うけれど、雪はもう一度「ごめん」と呟いていた。流川がどんなに一生懸命練習しているか、知っているから、口をついて出てきたのだ。ついつい顔が俯きがちになる。不意に流川が立ち止まったので顔を上げると、それより早く、「俯くな」と軽く頭を叩かれた。ぽんと置かれた大きな手のひらに、思わず笑みが浮かぶ。

「……うん。ありがとう」

 ゆっくりと顔を上げて流川を見ると、流川は少し虚を衝かれた顔をして、雪を見ていた。繋いでいた右手を放されて、代わりのように肩を掴まれる。「え?」と思ったときにはもう視界が翳って、唇に柔らかいものが押し当てられていた。
 どこかの家の塀に押し付けられて、唇は唇で塞がれている。一度離れたときに、「いやだ」と言おうとしたのだけれど、それよりも速く、再び口付けられた。今度は、さっきよりも深く。
 頬を両手で挟みこまれて、上を向かされている。崩れ落ちそうな足の間に流川の膝が滑り込んだ。ぎゅっと押されて体が震える。開いた口の中にずるりと舌が入り込んできて、溢れそうになる唾液を雪は必死に飲み込んだ。雪の舌を絡めとり、舌先で歯茎をなぞり、上顎を舐め上げ、そして再び舌を絡める。一頻り口の中を蹂躙すると、やっと流川は口を離した。
 はあ、と息が雪の口から漏れる。そのときたらりと首まで垂れた唾液を、流川が腰を屈めて舐め取った。思わず「ひゃん」と犬のような悲鳴を上げた雪を見上げて、流川は薄く笑った。泣きそうだった。

「……こんなとこで」

 雪は泣きそうになって呟いた。いくら人がいないっていったって、住宅街なのに。流川は雪を壁際に追い込んだままで、首や鎖骨の辺りに唇を押し付けてくる。時折歯を立てられて、雪は居た堪れなくなって流川の黒い髪を掴んだ。男の子の髪にしては少し細く頼りない。
 胸元のかなり深い部分を強く吸われて、「んぁ」と頭の悪そうな息が口から漏れた。こんなの、誰かに見られていたら。そう思って流川の頭越しに向こうを見る。と、一人の少年と目が合った。

「「……あ」」

 清田紺だった。小さく声を上げた雪に、流川もそちらを振り返る。紺は少し顔を赤くして、踵を返してだっと駆け出した。雪はいつの間にか肌蹴られていた首元のマフラーやらシャツやらをかき集めて叫んだ。

「紺君!」

 しかし振り返ることなく紺は行ってしまう。呆然として雪は言った。

「紺君、……逃げた」



 学校の近所の神社の敷地内で、やっと紺を捕まえたとき、雪の息はぜいぜいと上がっていた。目の前にちかちかと星が飛んでいる。思わずふらついたところを流川に支えられる。それでも掴んだ紺の首根っこは離さなかった。

「流川、大丈夫」

 そう言って雪は流川から距離を取った。まさか、ないとは思うが、こんなところで手を出されたら敵わない。微妙に警戒している雪を、流川は不思議そうに見た。「当たり前だろ」。紺がぼそりと呟く。

「……で。紺君は平日に昼間から何でこんなところにいるの」
「サボり」
「わたしもあんまり人のこと言えないけどさ、サボっちゃ駄目じゃん」
「うん、ホントに。平日の昼間っから住宅街でいちゃこいてる人に言われたくない」

 案の定、憎まれ口を叩く紺。「ほら見ろ!」とばかりに、雪は流川を振り返った。まだ不思議そうな顔をしている。あまりのマイペースさに眩暈がした。

「雪さん、大変だね。こんな彼氏持って」

 紺が心底哀れそうに言う。そうか、そんなにか。雪は一瞬話を取り違えそうになった。違う、そうじゃない。慌てて首を振る。

「そうじゃなくて、紺君、本当に受験危なくなるよ。こんなことばっかりして」

 逃げる様子がないので、雪はとりあえず、掴んでいた紺の制服の襟から手を放した。回りこんで、地面の上にぺたんと足を投げ出して居座っている紺の前にしゃがみ込む。この体勢なら、やすやすと紺も逃げ出せないだろう。流川は、少し離れたところで、背中を林立する木の幹に預けて立っていた。

「雪さん、パンツ見えてるよ」
「見えない。スパッツ履いてるし。誤魔化さないで」

 紺はちぇっと口を尖らせてそっぽを向いた。雪はため息を吐いて、紺の頬に手を伸ばした。両手で頬を挟んで、ぐいと少し乱暴にこちらを向かせる。驚いたのか、紺は大きくを目を見開いていた。

「紺君。ちゃんと学校行きなって」

 雪が紺の目を覗き込んで言うと、紺は一度目を下げた。一瞬逡巡するようにしてから、また目を上げる。

「雪さんに関係ないじゃん」

 キッと鋭い目で見られても雪はたじろがなかった。「紺君」。雪は紺の目を覗き込んで呼ぶ。その奥が一瞬ゆらりと揺れたのを雪は見逃さなかった。

「湘北に来なよ」

 足が痛くなってきたので、地面に膝をついた雪を、紺はきょとんと見上げた。雪は紺の頬を掴んだままで続ける。向こうで流川が欠伸した。

「わたしは湘北でプレイする清田紺が見たい」
「……前は、オレがどこに行こうと興味ないっつってたじゃないすか」
「気が変わった。わたしは清田紺が欲しい」

 言うと、紺は少し顔を赤くして目を逸らした。「雪さん、あんまりそういうこと、言わないほうがいいっすよ」。ぼそりと言う。「よくわからないけど、そうする」。雪は顔色を変えずに言った。

「どうして気が変わったんすか。オレがMVPプレイヤーだって知ったからですか」
「違う」

 なぜそんなにも紺は自虐的であるのか。その理由に雪は心当たりがあったし、雪自身体験したことがあった。もしかしたら今でもそうかもしれない。
 紺は自分に自信がないのだ。

「紺君が紺君だから。湘北のバスケ部の中に紺君みたいな子がいたら、面白くなるんじゃないかなって、思ったから」

 雪をずっと睨み続けていた紺の目から力が抜けていく。雪が紺の頬から手を放すと、紺は顔を俯けた。腕を伸ばして、膝立ちのままの雪の腰を掴む。そのまま引き寄せられて、雪はわっとバランスを崩した。

「ありがとうございます」

 バランスを崩して、紺の肩に手をついた雪を気にも留めず、紺は言った。雪の臍の辺りにつむじを押し付けている紺の声は、少し震えていた。雪は肩についた手を、背中まで伸ばしてそっと撫でてやる。し慣れない動作はとてもぎこちなかった。

「完璧な答えです」

 臍の辺りにつむじを押し付けたままで紺が言った。よかった、正解だった。雪はほっと嘆息しながら思った。木の幹に背中を預けたままで、眠たそうにこちらを見ていた流川が、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「オレ、湘北に入ります。多分、一般受験することになるけど、頑張ります」
「うん、頑張って」
「雪さんのために」

 紺は不意に顔を上げて、雪をじっと見た。あまりにじっと見るので、雪も見返す。なんだろうと首を傾げたところで、紺の体が後ろに飛んだ。

「そこまで」

 流川が紺の襟首を掴んで、後ろに放り投げたらしい。「痛ってえ」と打ったらしい後頭部を抑える紺を他所に、流川は地面に座り込んだままの雪の腕を取って立ち上がらせた。

「もうすぐ、五限終わる」
「あ、ほんとだ。早く帰らないと、捜索隊出される」

 腕時計を見ると、もう二時近くだった。雪は制服のスカートについた土埃を払って、紺に向き直った。

「じゃあ、四月に待ってるから」

 それだけ言って踵を返した雪の後ろで、「てめーにゃ負けねーからな!」とどこかで聞き覚えのある台詞を紺が叫んだ。それをすっかり無視して、流川が雪の隣に並ぶ。いつか、似ていることはマイナスだけではないということに、紺が気づけるといい。雪はそう思った。
 そしてわたし自身も。












一作品のボタンにつき、一日50回まで連打可能です。