前回読んだ位置に戻りますか?

この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
あなたは18歳以上ですか?

一階でも二階でもない夜


 あの日、海に行こうと言い出したのは雪のほうだった。薄曇の日曜日で、その日の部活は午後からだった。涼しくなってきたから、流川は日が昇ってしばらくしても公園でバスケットをしていて、少し離れたところで雪は本を読んでいた。海が出てくる話だった。それで、急に海が見たくなったのだ。

「流川。海を見に行こう」

 言うと流川は怪訝そうに雪を振り返って、Tシャツの端で汗を拭った。

「今から?」
「うん」
「いーけど」

 彼があっさり頷いたのには、そろそろ子どもたちが公園に遊びに来るような時間だったから、という理由があった。人気のない朝ならいざ知らず、流川のような高校生が日中までバスケットゴールを使っていたら、近所のお母さんたちに怒られてしまう。それとももう、怒られたことがあるのだろうか。雪は知らなかった。

「歩いていこう」

 そう言うと、流川は素直に頷いて、持っていたボールを自転車の脇にぽんと放った。盗まれやしないか、と雪は一瞬思ったけれど、まあいいかと次の瞬間には自分も持っていた文庫本をそこに置いていた。
 陵南高校の隣を通って海岸まで出る。シーズンオフの七里ヶ浜は人影が少なく、雪と流川は線路沿いを、腰越方面に向かってとろとろと歩いた。走っている車もまだ少ない。しかしもう三十分も経てば渋滞ができるだろう。
 ふわと流川が欠伸をした。眠たそうに目を擦っている。この男はいつもそうだった。起きているのは、バスケットをしているときだけなんじゃないかってくらい。

「今日は富士山見えないね」

 雪が言うと、流川はこっくりと眠たそうな緩慢な仕草で頷いた。こんなに眠たそうにされては、連れ出した雪のほうが後ろめたく思ってしまう。「やっぱり帰る?」。立ち止まって聞くと、しかし流川は首を振った。
 本人がいいと言うならまあいいか。雪は思い直して、またとろとろ歩き出した。日差しはないが、気温は暑くもなく、寒くもなく、過ごしやすかった。道路に沿って十分ほど歩くと漁港に出る。日曜日の漁港には面白いぐらい人影がない。まだのろのろ歩いている流川を置いて、雪は港を突っ切った。そして小動岬を囲うように並べてあるテトラポッドを臨む。履いていたキャンバス地のスニーカーを脱いで、テトラポッドの硬いコンクリートにそっと足を置く。「落ちんぞ」。少し向こうで流川が言った。「落ちない」。雪は振り返らずに叫んだ。
 いざ降り立ってみると、案外テトラポッドと海面は離れている。ひんやりと硬く冷たいコンクリートの感触が足の裏に伝わった。細かな砂がざりざりとする。両手を広げてバランスを取って、危なくなさそうな程度の、ぎりぎりのところまで行って、海を覗き込む。風が髪を揺らした。塩の臭いが強く、ツンと鼻の奥が痛くなる。ふっと、水の中に引き込まれそうになった。

「落ちる」

 流川がもう一度言う。雪が脱いだスニーカーの横に、ぼおっと突っ立っている。雪は踵を返すと、バランスを崩さないように、また両手を広げながら、テトラポッドの上を歩いた。

「流川」

 雪は流川を呼んだ。雪のスニーカーの脇に腰を屈めた流川は、「なんだ?」と聞くように雪と目を合わせた。「流川、あのね」。

「母さん、見つかったって」

 口にすると、さらに嬉しさが広がっていくようだった。雪自身、そのことはとても意外だった。母親のことなんて大嫌いだとずっと思っていたし、「わたしを生んだことを後悔している?」なんて聞きに行ったこともあるくらいなのに。

「お金に困って、やってたわけじゃないんだって。そのとき付き合ってた男の人が、ああいうビデオの監督で、や、それもあんまいいことじゃないけどさ、でも、お金に困ってて追い詰められてたわけじゃないって」

 一息に言うと、流川は「そーか」と気のない返事をした。けれど、その目は優しく笑っていた。雪はますます嬉しくなって、破顔した。

「うん」

 テトラポッドから流川がしゃがみ込んでいるコンクリートによじ登って、雪はそこに腰掛けた。薄い雲の切れ間から、柔らかい陽光が降っている。本当によかった。雪は心からそう思った。考えないようにはしていたけれど、ずっと引っかかってはいたから、それがすっと外れて開放されたような気分だった。
 ぶらりと足を揺らすと、海水の飛沫が足裏にかかって少し冷たかった。今はいいけれど、そのうち寒くなるかもしれない。テトラポッドの上を歩くという試みはもう終えたのだから、靴を履いておこうと雪は段々冷えてきた足先を見て思った。

「流川、そこの靴取って」

 彼の向こう側にある靴をとってもらおうと雪は声をかけた。けれど流川が取ってくれる様子はない。返事がないのはいつものことだが、怪訝に思って雪は自分の足先を見ていた顔をもたげた。隣の流川を振り向いた。その瞬間だった。
 何か温く柔らかいものが唇に触れる。それは考えられないくらい優しかった。きっとくっ付けるという形容が一番似合っている。そこ以外には、どこにも触れられていない。そのことに物足りなさを感じた。
 急激に近づいた距離に、少し汗の匂いがして、それ以上にすっとする匂いのシャンプーが香った。さらりと髪が揺れる音が、至近距離で聞こえる。自分の髪が揺れた音ではなかった。何の前触れもなく、そして一方的に押し当てられた唇は、離れるときも前触れなく、一方的だった。雪が目を瞑る暇などなかった。
 なんで。
 雪は目を見開いて流川を見た。どうして。まるで嘘のようで、けれど嘘ではないということを、ほんのり、唇の先に残った熱と感触が証明していた。
 距離が開く。あの、バスケットボールを見つめるのと同じ、鋭い視線。それが今は雪にも注がれていた。胸の奥がぐっと苦しくなって、雪は手のひらを握り締める。殴ってやろうかと思ったけれど、できなかった。あまりに真っ直ぐに、流川が雪を見ていたから。ふざけてないのがわかっているのに、「ふざけるな」なんて言えるはずがなかった。

「……なんで」

 喉の奥から零れ落ちた声は、きっと泣きそうだった。なんで、こんなことになってしまっているの?そう自問したけれど答えは出てこない。流川が射抜くような視線のままで言った。

「好きだ」







 最後の一軒のポストに新聞を投函すると、洋平はうんと伸びをした。目がしぱしぱする。学校に行くまでに三十分ほど眠れそうな時間だった。大きな欠伸をひとつして、自転車のペダルに足をかける。車も人も通らない道路をのろのろ走りながら、洋平はもう一度欠伸をした。

「お?」

 路駐されたトラックを追い抜かしたところで、人影がひとつ白色の中央線上に浮かび上がった。長い髪を海風に遊ばせて、ゆっくりと朝焼けの道路を歩いていく。道路の中心を悠々と歩いていくその影は、何にも干渉されない存在に見えた。そんなものあるわけないのだが。

「おーい、雪ー」

 洋平が後ろから声をかけると、人影は髪を揺らして振り返った。「洋平」。少し驚いたような顔をして、雪が名前を呼んだ。

「何やってんの?新聞配達?」
「おー。お前も見習えよ、脛齧り」
「耳に痛いね」

 少し首を傾げて雪が笑う。最近こいつはよく笑うようになった、と洋平は思った。以前は、人をバカにするように口の端を持ち上げるぐらいのことしかしなかった。それが今はきちんと目を細めて笑う。変わるもんだなあと、感慨深い。

「お前は何やってんの?こんな朝っぱらから」
「なんか目が覚めちゃって」
「最近また眠れてねーのか?」
「ううん、そんなこともないんだけど」

 言いづらそうに雪は顔を俯けた。化粧をしていない肌は、顔色が悪いようには見えない。雪は眠れなかったり食べれなかったりすると、すぐ顔に出る。しかし今日は特に調子が悪そうではなかった。

「昨日は何時に寝た」
「洋平、母親みたい」
「いいから」

 笑うようになったのと同時に、ちょっとした立ち振る舞いや言葉遣いが柔らかくなった。昔の雪ならきっとこう言っていた。「洋平、母親みてー」。多分、今の雪が本来の雪なのではないかと洋平は思う。花道の傍にいたときは、少し無理をしていたから。

「一時、二時くらいには寝付けたと思うよ」
「三、四時間ってとこか。まあマシなほうだな」
「最近、五時くらいに起きてたから癖がついたんだね」
「癖?」

 朝起きて学校に行くだけに、そんなに早く起きる必要はない。「起きてた」ということは、目が覚めたのではなく、その時間に起きるようにしていたということだろう。またどうして。洋平は怪訝に思って眉を顰めた。

「お前、朝起きて何かやってんの?」

 洋平が重ねて聞くと、雪はしまったというように目を逸らした。誤魔化すように、白い中央線の上を選んで歩き出す。雪は最近、誤魔化すのが下手くそになった。

「雪」

 呼ぶと、雪は困ったような顔をして洋平を振り向いた。

「流川」

 雪の口から一言だけ発された単語に、洋平は理解が追いつかず、眉を顰めた。

「るかわ?」
「そう流川。わたし、最近、流川と一緒にいたの。流川が朝、近所の公園で練習してたから」

 雪の言った台詞に、困ったような顔に、洋平は一瞬時間が止まったかのような心地を味わった。恐らく、自分はショックを受けたのだろう。洋平はまだ上げていない前髪をぐしゃりとかき乱す。

「それはまた、いつの間に?」

 喉の奥から押し出した言葉はちゃんとからかいを込めることができていただろうか。片手で自転車を支えながら、洋平はスラックスのポケットを探って、キャスターの潰れたパッケージを取り出した。風上に背を向けて火を点ける。雪は今日は、「わたしにもちょうだい」と言わなかった。今なら喜んでわけてやるのに。洋平はそう思った。

「前、洋平に相談したことあったでしょ?流川に話を聞いてもらったって。あれ、朝早くに目が覚めて、散歩してたときのことなんだ」
「で、それから足繁く通ってるわけか」
「だって……」

 叱られた子どものように雪は俯いた。多分、自分の声に嘲りや苛立ちが混じっていたからだろう。洋平はいらいらとして、まだ長かった煙草を黒い道路のコンクリートの上に落として踏みつけた。他でもない、自分自身へ苛立っているのだ。

「寂しんぼうだもんなあ、雪チャンは」

 今度はちゃんとかからかいを込めて言うことができた。嫌らしく唇の端を曲げて言ってやる。雪ははっと顔を上げて、それから見る見る顔を赤くした。

「ち、違うし!」
「説得力ねーなあ」

 二本目の煙草に火を点けながら洋平は笑った。雪と違って、洋平はまだ誤魔化すのが上手いままだ。雪は頬を赤く染めたままで、ふいと洋平から顔を背けた。後ろ手に腕を組んで、雪がとつとつと白線の上を歩き出す。着ていた白いワンピースの裾が、海風にはためいていた。

「……洋平さ」

 延々と続く白線の上を選んで歩きながら、雪は小さな声で呟いた。彼女を追い越してしまわないほどの速さで自転車を漕ぎながら、洋平は「ん?」と返事をした。

「前、洋平とわたしが仲良くしてたら、怒るやつがいるっつってたじゃん」

 とんとキャンバス地のスニーカーの踵を揃えて雪が振り向く。白線上の人。朝風にひゅうと雪の長い髪が煽られた。黒いパーカーのフード。揺れる、飾り気のないワンピースの裾。前髪の下から覗く、薄い色の瞳。ごうと音を立てて朝風が吹き渡る。煽られる雪の髪は、それ自体がひとつの生き物のようだった。彼女を世界で一番うつくしく見せるためだけのための。

「それって、誰のことだったの?」
「流川楓」

 始まりで終わりのときが始まったのだと、その名前を口にした瞬間、洋平は悟った。なぜなら『女』の顔を、雪はしていたからだ。






 間抜けなチャイムの音と共に開いたドアの中に、どっと人が流れ込む。それに押されて同じように車内に流れ込む。私たちは決して液体ではない。
 押し流されそうになる足をぎゅっと踏ん張る。しかしその直後に人の波が緩和され、そしてふっと翳った視界に、晴子は首をもたげた。斜め後ろに、目を瞑りながら歩いている人物を見つけて、唇の端を綻ばせる。

「おはよう、流川君」

 そう声をかけると、流川は晴子を見下ろして「おー」と小さな声で言った。そしてまた、とろりと目を細める。眠そうに揺れる流川は、車両間を繋ぐドアの前にするりと滑り込んで、背中を預けた。そのままずるずると脱力してしまうそうな動作に、晴子は苦笑した。

「流川君、今日は電車なの?いつもは自転車でしょう?」
「昨日、パンクした」

 簡潔な流川の答えに「あらまあ」と晴子は目を丸くした。それで今日はこの時間の電車に乗っているわけか。

「直りそう?」
「たぶん……」

 眠たそうに流川の頭がこっくり揺れる。晴子は話しかけるのをやめた。ピーッと騒々しい笛の音が鳴り響いて、電車が動き出す。ガタンと揺れた車内で人が流動する。斜め前にいた女性の体に押されて、晴子の足は覚束なくなった。わっと吊革に手を伸ばそうとして、しかし空回った。転ぶ!そう思ってぎゅっと目を瞑る。

「どあほ」

 しかし晴子は転ばなかった。手首の辺りを流川に掴まれている。晴子がバランスを取り戻したのを見て、流川は「こっち」と晴子を引っ張った。それまで自分が凭れていた通路のドアの前に移動させてくれる。

「あ、ありがとう……」

 晴子は若干顔を赤くして俯いた。掴まれた手首はもうとっくに離されている。けれど、じくじくと痛むように熱かった。きゅっと胸の奥が締まって、泣き出しそうになる。晴子は顔が上げられなかった。

「あいつ……」

 流川が小さい声で呟いた。晴子は、上げられないと思っていた顔をゆっくりと上げる。流川は吊革を吊るす銀の棒を掴んで、車窓から流れていく景色をじっと追っていた。

「一ノ瀬。最近、元気?」

 さっきとは打って変わって、空虚さが胸の中に広がっていく。晴子はツンとする鼻の痛みを堪えて、微笑んだ。

「少し、元気ないかな」
「そーか」

 それっきり流川は黙って目を閉じた。眠っているのかどうかはわからない。晴子は後ろのドアに背中を預けて、顔を俯けた。背後には、自分と同じ空虚な空間が広がっている。満員電車の中、唯一誰もいない車両間通路。






 雪のすっと背筋に走る線がとてもきれいだと思った。それから、無駄な肉はないのにどこか柔らかそうな二の腕の線。一度締まって、それから膨らんでいく腰の稜線。そういうものをじっと見ていたら、脱いだTシャツをぽいと脇に放った雪が、「何?」と少し困ったように微笑みながら振り向いた。

「ううん、なんでもないの」

 晴子は笑って、自分も汗にまみれたTシャツを脱いだ。すっとする空気が蒸れた胸の辺りに入ってくる。じっとりとする肌をタオルで拭くと、べたつくのが緩和されたような気がして気持ちよかった。

「まだ動くと暑いなあ」
「そうね。朝晩は大分冷えるようになったけど」

 インターハイが終わって彩子が引退してしまったときは、これからどうしようかと途方に暮れたものだが、いざ始まってみれば、結構何とかなっている。一人っきりじゃなかったお陰だと、晴子は感じている。雪がインターハイ前に、正式なマネージャーとして入部してくれたから。

「あー。朝、登校する前とか寒いよね。わたし最近毎朝のように、ジャケット着ようかどうか、考える」
「えー?そこまでは寒くないよ」
「寒いって」

 くすくす笑い合いながら晴子は荷物をしまっているロッカーを開けて、制服のシャツを取り出した。そんな晴子を見て、雪が柔らかく微笑む。「どうしたの?」。晴子が聞くと、雪は「ううん」と首を振ってから言った。

「何だか今日の晴子ちゃんは元気なかったみたいだったから、ちょっと気になってただけ」

 気のせいだったねと雪は笑ったけれど、それは気のせいではなかった。シャツを手に持ったまま、晴子は雪に向き直った。雪は履いていたジャージを脱ぐと、傍のベンチの上にまたぽいと放った。くるぶし丈の靴下も同様に放る。それからやっと、ロッカーの中から制服のシャツの下に着る黒いキャミソールを取り出した。

「雪ちゃんって、流川君と付き合ってるの?」
「……ええ?まっさかあ」

 雪はキャミソールの肩紐に腕を通しながら笑った。しかしその笑みはどことなくぎこちない。また誤魔化すつもりだと晴子は些か憤然としてシャツを羽織った。

「だって、最近よく喋ってるし、それに私、今朝、聞かれたんだもの。流川君に。『一ノ瀬は元気?』って」

 晴子は雪のほうを見なかった。きっと雪は晴子を見て困ったように笑っていることだろう。晴子は履いていたジャージを脱いで、乱暴な仕草でロッカーの中に突っ込んだ。向こうが何か口を開くまで、晴子は絶対に何も言わないと心に決めていたのだ。けれど、あまりに反応が遅い。スカートと取り上げながら怪訝に思って見ると、雪はスカートに足を通そうとしたままの、言ってみれば間抜けな状態でぽかんと晴子を見上げていた。雪の長い髪が肩から落ちて揺れる。制服のスカートが、ゆっくりと雪の手から落ちた。

「……晴子ちゃん、わたし、どうしたらいいんだろう」

 雪は突然へなへなとその場に崩れ落ち、頭を垂れた。意外な雪の反応に、晴子は驚いて自分もスカートを取り落とした。

「ど、どうしたの?!」

 床の上にへたり込む雪に、晴子も屈みこんで顔を覗き込んだ。垂れた髪の隙間で目が合う。雪はへにゃりと眉を歪ませた。

「キス、されたの。流川に」

 途端、雪の頬が見る見る赤くなっていく。仕舞いには、髪の間から覗く耳の先まで赤くなっていた。雪はまた俯いてしまって、晴子からは表情が見えない。

「されたって、でも、付き合ってるんでしょう?」
「だから、付き合ってないんだってば」

 雪は「うー」と唸り声を上げた。

「る、流川は、友達だと、思ってたんだ。なのに……」
「で、でも、あの、……山王の沢北さんにもされてた、じゃない」
「頬だったら、時々は、するけど、口になんて、したことなかったもん」

 雪は膝を抱え込んで顔を隠してしまった。「うううう」とまた小さく唸り声が聞こえてくる。そうか、そういうことだったのか。晴子は今更ながらに納得した。この様子じゃ、雪は流川の顔が見れずに、避けているのだろう。それで流川は晴子に聞いたのだ。「雪は元気か」と。付き合っていていざこざがあったわけではなかったのだ。晴子は「なあんだ」と声を上げていた。

「な!『なあんだ』、じゃないってば晴子ちゃん!」

 俯けていた真っ赤な顔を上げて、雪が叫んだ。

「す、すっごい重大なことじゃん!なのに、『なあんだ』って!」
「わ、ごめん、ごめんって、雪ちゃん」

 体を乗り出して叫んだ雪に、晴子は慌てて謝った。その顔はどうしても笑顔になってしまったけど。

「ううう……」

 雪は唸りながらまた膝を抱える。真っ赤になった目元が可愛かった。いつもの「きれい」なのではなくって。
 すごいなあ、晴子は中てつけではなく純粋に思ってしまう。流川は、雪を一人の女の子にすることができてしまうのだ。孤高で、近寄りがたくて、頭もよくて、男の子と喧嘩するぐらいの度胸もあって、笑うといえば人を見下すような冷笑しかしなかった雪を、こんな風に顔を赤らめる普通の女の子にしてしまえるのだ。それはすごいことだと、感慨深く晴子は思った。

「……晴子ちゃんに、こんなこと話すのはよくないって思ってたんだ」
「どんなこと?」
「だから、流川に、キス、された、とか」

 雪の言葉尻は段々と掠れるようになっていく。よっぽど恥ずかしいのだろう。目に薄っすらと涙が滲んでいた。

「でもわたし、晴子ちゃん以外に女の子の友達っていないし……。誰にも喋れなくって、辛かった」

 雪はまた膝に顔を埋めた。晴子は腕を伸ばして、そんな雪の頭をよしよしと撫でてやる。

「私のことはもういいのよ。今日、流川君に雪ちゃんのこと聞かれたときも、流川君と雪ちゃんが付き合ってるって思ったから落ち込んだわけじゃないの。雪ちゃんが私に黙って流川君と付き合ってるって思ったから、落ち込んだのよ」

 本心を言えば、雪に対する嫉妬がなかったとは言い難い。流川に触れられれば、馬鹿みたいに頬は熱を持つ。けれど、それ以上に、晴子は悲しかったのだ。雪が自分に何も喋ってくれなかったことが、悲しかったのだ。結局それは自分の杞憂に終わったけれど、それで理解してしまった。きっと、晴子は雪と流川が付き合い始めたと聞いても、そんなにショックを受けることはないだろう。

「私のことは気にしないでね。だからちゃんと、自分と向き合ってね」

 晴子の言葉に、雪は「うん」と小さな子どものように頷いた。それから一瞬逡巡したような間があって、「でもね」と付け足す。

「こ、こわいの、流川が」
「怖い?」

 晴子が怪訝に聞き返す。まったく喋ったことがないのならともかく、雪と流川は晴子が嫉妬するぐらいに仲がよかった。あの流川に物怖じせずに話しかける雪と、雪といるときは少し雰囲気を柔らかくする流川。端から見て、流川は雪に特別優しかったはずだ。それがどうして。晴子は首を傾げた。

「流川に見られると、泣きそうになる。逃げ出したくなる。顔が見れない。怖いの、ずっと。あの、キスされた日から、ずっと」

 雪の指がぎゅっとむき出しの肩を掴む。柔らかそうな皮膚が歪んだ。晴子は「大丈夫よ」とその手を解いてやりながら、ひっそりとエールを送った。頑張れ、流川君。多分、もうちょっと。

「どうして……」

 雪の悲痛な声がしんとした更衣室に響いた。







 衝動的だった。けれど作為がなかったとは言いがたい。彼女の唇は少し冷たかった。吹き付ける海風に冷えたのかもしれない。ただ一方的に押し付けただけの唇を離すと、雪は目を見開いて流川を見ていた。ぎゅっと彼女の拳が握られる。殴られるかもしれない。襲ってくるだろう衝撃に、しかし流川は身を引かなかった。雪はコンクリートの上で拳を握ったまま、持ち上げようとしない。雪の瞳が、泣き出しそうに歪められた。

「……なんで、」






 ガラリと教室の戸を開けると、窓際に座っていた少女がびくりと震えた。窓の外を見ていた視線を、恐る恐るというようにこちらに向ける。流川は小さく舌打ちして彼女の視線を無視した。乱暴に教室の床を歩いて、席ひとつ挟んだ自分の机の中から薄っぺらいノートを取り出す。

「サボんな」

 低い声で言って睨むと、雪は怯えたように顔を歪ませた。

「体調悪ィから帰ったんじゃねーのか」
「今から、帰るところなの」

 雪は言って、流川から視線を逸らした。机の上に置き去りだった鞄を掴んで、出口に向かう。流川の横を通るときに、雪が一瞬逡巡したのを流川は見逃さなかった。

「一ノ瀬」

 敷居の手前で雪は肩を揺らして立ち止まった。先程流川の横を通り抜けたときの素早さは欠片も見当たらないような、至極ゆっくりとした動作で、こちらを振り向く。雪は打って変わって、冷ややかに流川を見ていた。

「何?」

 つっけんどんな言い草は少しだけ懐かしいものだった。少し昔の雪は、こういう話し方をする女だった。人を見下すような冷笑をする女だった。その頃の雪には、これぽっちも興味が湧かなかったのに。しかし流川は、雪がそれ以外の笑い方もできることを知ってしまったのだ。

「返事。聞いてねえ」

 こないだの、と付け足すと雪は少し首を傾げて、唇の端を持ち上げた。しかし目は笑っていない。昔に戻ったような冷笑だった。

「そんなことしてる暇、あるの?もしかして、わざわざそれを聞きに戻ってきたの?」
「ちげえ」

 流川はたじろがなかった。「マネージャーが、明日当たるっつーから取りに来た」。薄い英語のノートをひらひらと揺らしてみせる。「ふうん」と雪は白い目で息を漏らした。

「で、返事」
「しなきゃなんないわけじゃないでしょ」

 そう言いきって、雪は流川に背を向けようとした。その態度にかっとなる。流川は衝動的に腕を伸ばしていた。たった二歩で追いつくと、ぐいと彼女の腕を引いて振り向かせる。「痛った」と雪は非難するような声を上げて、流川を睨み上げた。

「今まで散々逃げたくねえってほざいてたのは、どこのどいつだよ」

 掴んだ腕を押して戸の横の柱に追い込むと、雪はそれまでの勝気な態度を捨てて、ひどく怯えたように流川を見上げた。とても悲しいことだと流川は思った。築き上げたものが崩壊したのだ、と。しかし手は放さなかった。
 雪が「放して」と小さな声で、掴まれた腕を振る。俯いて顔は見えないが、声は泣き出しそうだ。もし誰かに見られたら、言い訳のできない状況だと思った。する気など毛頭ないが。

「逃げてんじゃねーよ」

 今にも崩れ落ちそうな雪の足の合間に膝を差し入れて、彼女のほうへ一歩踏み込む。顔を覗き込もうとすると、いやいやというように首を振られた。

「やだよ、やだ。流川、放してよ」

 雪の声はもうほとんど泣いていた。ひっとしゃくり上げたのと同時に、涙が一粒敷居の上に落ちた。ぱたりと音を立てる。

「なんで、友達のまんまじゃ、だめなの。なんで急に、キス、なんか、すんの」

 掴まれていないほうの手で雪は涙を拭った。後から後から溢れてくる涙を堪えようと、必死に瞼を擦るのだが、あまり意味がない。「擦んな」。流川はもう片方の手のひらも掴み上げる。やっと雪が顔を上げた。
 透明な涙が雪の白い頬を流れていく。潤んだ瞳は流川の嗜虐心を煽った。頬に伝った涙を舐め上げると、雪は「ひっ」と肩を揺らした。雪は流川を見上げて、怯えたように肩を竦ませている。「オレは」。掴んだ手に指を絡めながら、ゆっくりと流川は口を開いた。

「オレは、あんたのことを、友達とか、そういう風には見れねー。触りてえなとか、思うし、あんたに似た女のAVとか見たら、ふつーに勃つし」

 雪は恥ずかしそうに顔を俯けた。蒼白だった頬に赤みが戻ってきている。一方的に絡んでいた指に少しだけ力がこもった。

「わたしも、流川のこと、好きだよ。いいやつって思ってる。それじゃ、ダメなの?」
「ダメっつーか、オレがあんたに、そういうことすんの、受け入れてくれるんなら、いい」

 そうじゃねーなら、流川はそう続けた。俯いていた雪がそっと顔を上げる。頬を染めて、目は潤んでいる。きょとんと上目遣いに見つめられて、流川はずっと掴みっぱなしだった雪の両手を放した。これ以上掴んでいたらどうにかしてしまいそうだった。

「そうじゃねーなら、悪ィけど、前みたいには一緒にいられねー」

 雪が息を吸い込んで目を見開く。物足りないと空っぽの手のひらを握り締めて思った。






 晴子に対しての後ろめたさ以上に恐らくは、自分の女性性の問題なのだろうと雪は考えていた。拒食のほうの摂食障害を持っているぐらいだ。雪は心のどこかで、自分が女であるということを拒絶している。
 今まで誰かに、好きだと言われたことがないわけではなかった。自分の容姿が人並みを超えていることを雪は理解していたから、この容姿に釣られてみんな自分のことを好きだと言ってくるのだと思っていた。そして雪はいつもそれを侮蔑していた。わたしのことなど、何も知らないくせに、と。
 けれど、今回は少し事情が違った。少なくとも流川は、雪のことを何にも知らないわけではないのだ。思い出すだけで恥ずかしくなるけれど、雪が流川の前で泣いたことは、かなりの回数に上る。雪自身でも思っていた。正直、自分というのは結構面倒臭い女なのだ。それを、ひどい顔とか何とか言いながら、流川は泣く雪の側にいてくれた。そのことに、段々と自分の心が開かれていったのは、事実。実際、雪は流川のことが好きだった。急に傍からいなくなってしまうと思ったら、悲しくなる程度には好きだった。それが恋愛感情かどうかはわからなかったけれど。
 あの海辺でキスをされたとき、雪は流川に裏切られたと思った。いい友達だと思ってたのに、急にこんなことをするなんて、ひどいと。でも実際に、ひどいことをしていたのはどっちだったのだろう。利用していたのはどちらだったのだろう。まだ木々が瑞々しい色を宿していた頃に、晴子は雪に言った。
 『むしろ本気で気づいてないほうが、性質が悪いわよ!』
 あれはこういう意味だったのだと、雪は今更になって気がついた。今の雪に、晴子を責める資格はない。優しさに甘えていたのは、雪のほうだったからだ。それを失いたくないのであれば、雪は向き合わなければならなかった。






 踊り場というのは、まったく以って中途半端な場所である。しかし一階と二階を階段で繋ぐためには必要不可欠であり、そういうものは周りに結構たくさん存在していたりする。一階でも二階でもなく、しかし階段というものを機能させるために存在するこの空間。まるで今の自分たちのようだと雪は思った。
 踊り場に嵌った窓の向こうでは、日が傾き始めて、金色の光を溢している。日が落ちるのも随分早くなった。気温も段々肌寒くなって、雪はもう制服のシャツ一枚では外を歩けなくなった。部活で遅くなって帰るときは、カーディガンを羽織っていても寒いときがある。十月を待たずに一人だけジャケットを着ることになるかもしれない。窓から吹き込む風に、そう予感した。
 要するに寒いのだ。しかし、それでも窓を閉める気にならなかったのは、窓の向こうに溢れている金色の陽光がとてもうつくしかったからだ。手入れの行き届いていない学校の窓は、まるで磨ガラスのように曇っている。閉めてしまえば、ガラスに隔てられた陽光は幾分かうつくしさを失うだろう。それはきっと、今のようなはっとするうつくしさではなくなってしまうはずだ。

「おい、サボり魔」

 階下に目を向けると、制服のままの流川が、ぶすっとした表情で立っていた。ぶすっとした、というけれど、この男は大体においてこういう表情をしているので、特に怒っているわけではない。

「今から行くところなの」

 雪はそう言ってふいと顔を背けた。
 そう、女性性の問題なのだ。自分が彼を受け入れられるのかどうか。雪自身が自分を女だと認めることができるのか。花道に対して恋愛感情を持っている自分を肯定するために、雪は母親のところへ「自分を生んで後悔しているか」と聞きに行った。馬鹿みたいな質問だが、自分と母親は違う人間であるということを確認したかったのだ。自分は母ではないから、花道に対する感情も、きっと押し殺してしまえると信じたかった。
 流川がトントントンと階段を上ってきて、雪の前に立つ。背が高い彼を見上げて、雪の胸はぎゅうと苦しくなった。流川と目が合うと、訳もなく泣き出しそうになる。流川の手が自分に触れることを思うと、触れられた場所から壊れてしまいそうで、逃げ出したくなる。そんな感情を、雪は今まで感じたことがなかった。

「そっちこそ、なんでまだこんなところにいんの」
「小池に呼び出された」
「また宿題やってなかったの?」
「おー」
「馬鹿だね」
「うるせー」

 開け放した窓からひゅうと風が吹く。雲で陰っていたのが晴れたのか、金色の陽光が強く差し込んだ。窓と向かいあうように立っていた流川が眩しそうに目を細める。もう限界。雪は寒さに身を竦めて、磨ガラスのような窓を閉めた。途端日差しが弱くなる。

「行こっか。晴子ちゃんに怒られる。『遅いよ!』って」
「あんただけな」

 飄々と流川が言う。「なんで」と些か憮然として言い返すと、「オレはサボりじゃねーし」と流川が言った。「うっさいな」。雪はふんとそっぽを向いた。

「あ、鞄、教室に置きっぱなし?」
「おー」
「わたしも」

 薄暗くなった踊り場から、二階へ続く階段のほうに足を向ける。並んで歩くのは、それまでと変わらない何でもない距離だった。けれど階段に足をかけたとき、雪はほんの少しだけ右手を伸ばした。こつりと手と手の甲が触れ合う。触れて、離れたと思ったらもうその次の瞬間には捕らわれていた。「冷てえ手」。流川がぼそりと呟く。「ぬっくい手」。雪は小さく微笑んで言った。繋いだ手を引かれて、二人の距離は少しだけ近くなる。知らなかった。触れられるということは、苦しくなったり、泣き出しそうになったりするだけでなく、こんなにも幸福だったのだ。
 二人はゆっくりと階段を上った。












一作品のボタンにつき、一日50回まで連打可能です。