流川くんがんばる。
ふっと意識を浮上させると、視界の端に白い脚が見えて、流川は微かに目を見開いた。隣の席に腰掛けていたのは赤い髪の騒がしい男ではなく、黒く長い髪を持った少女だった。その髪に混じってイヤホンのコードが垂れている。机に頬杖をついてぼうっと黒板を眺めていたが、組まれた脚の先は小さくリズムを刻んでいた。
起き上がると、体の上からぱさりと乾いた音を立てて何か紙が落ちた。「む」。小さく声を上げて拾い上げると、それは難解な文字を並べて記載した授業プリントだった。
「それ、明日提出だって」
横を見ると、雪が耳からイヤホンを外して流川を見ていた。どうも見覚えがあると思ったら、彼女が聞いていたウォークマンは自分のものだった。そのことに流川が気づいたことに気づいたのか、雪はすまなさそうに眉を下げる。
「鞄のそばにポンと置いてあったからさ、借りちゃった。ごめんね」
「別に、いーけど」
それよりもなぜ彼女がここにいるのかのほうが気になる。教師は、と思って黒板の辺りを見ても誰もいなかった。
「自習になったの。急に」
くるくるくるとコードを巻き取りながら雪が言った。そういえば教室がいつもより騒がしい。その教室の端から端へ、すうっと紙飛行機が横切っていった。
「先生の奥さん、急に産気づいたんだって」
確かに、古典の教師は比較的若い男だった。もうすぐ赤ん坊が生まれるというようなことを、授業前に言っていたことがあるような気がする。が、大して興味はなく、流川は「ふうん」と返事するだけに留まった。
「で、なんであんたはここにいんの?」
「いちゃ悪い?」
「悪かねーけど」
むしろその逆とは言えないので、流川はぐっと押し黙った。不自然に黙り込んだ流川に、雪が首を傾げる。くるりと揺れる瞳は、やはり彼女を幼く見せた。
「わたしの前の席の女の子がね」
雪はぶらりと組んでいた脚を解いて揺らした。今日は低い位置で二つに括っている髪が、同時に揺れて頬にかかる。
「自習だから、席を移動して仲のいい子とやりたかったんだろうけど、その子の周りにも友達の周りにも空いてる席はなくて。しかも、そのお友達の周りに騒がしい子たちが集まっちゃって、すごく居心地悪そうにしてたから、何だかわたしも可哀想になっちゃって。それで空いてた花道の席に移動してきたの」
肩越しに見ると、窓際の最後尾の席には、あまり見覚えのない少女が雪の代わりに座っていた。前の席の少女と何事が小さく笑いながら、プリントに文字を書き込んでいる。外見や笑い方などから、彼女たちが大人しいと称される部類に入ることが流川にも推察できた。
「花道は、ほら。晴子ちゃんのところにいるし」
雪が目線で示した先には、確かに晴子と花道が顔を突き合わせて問題を解いている。雪はそれが苦痛ではないのか、と流川は俄かに心配になって彼女を見たが、雪がそれを気にしている様子はあまりなかった。
流川の視線を受けて、雪は少し笑った。彼がずっと見たいと思っている笑い方ではなかったけれど、ほんの少し唇の端を持ち上げて、ほんの少し目尻を細めるその笑い方も好きだった。
「最近、結構楽になってきたんだ。二人を見てても。残念ながら結果は、『諦める』のほうになりそうだけど」
「……頑張ったんじゃねーの」
「そう言ってもらえると、うれしい」
雪は少し泣き出しそうになりながら、目を閉じた。そんな雪の髪を撫でて慰めてやりたいと思いながら、できない立場にいる自分がいる。そのことを流川はとてももどかしく思っていた。
俯いていた雪がふっと顔を上げて、今までの雰囲気を一掃するように、流川に話しかけた。
「そういえば、流川ってプリンス好きなの?」
なんで彼女がそれを知っているのかを一瞬考えて、それからウォークマンの中に入っていたのが彼のベストアルバムだったことに思い至った。「まあ、それなりに」。頷くと、雪はうれしそうに顔を綻ばせた。
「わたしも好きだよ、プリンス。十二歳くらいのときに、ライブに連れて行ってもらったことがあって、それで好きになったんだ」
あんまり彼女がうれしそうに言うものだから、実は父親が持っているCDを手当たり次第に借りてきているだけだとは言い出せなくなった。父親のCDの中では一番気に入っていたから、選り抜くためにアーティスト名を覚えていた程度だ。
「『アドア』とか好きだなあ」
「……どんなんだっけ」
「そのアルバムにも入ってたよ。ほら、『Until the end of time I'll be there for you ……』ってやつ」
「ああ」
思い出した、と流川は小さく呟いた。囁くような和音の連なりがうつくしい曲だ。しかしそれ以上に、雪が口ずさんだ一節のほうが耳に残った。『Until the end of time I'll be there for you ……』。ぼんやりと反復している流川を他所に、雪が小さく笑った。今、何か笑うようなことがあっただろうかと思案する流川に、雪が「ああ違うの」と言った。
「暇だったからさ、流川が起きてくれてよかったと思って。流川、授業始まる前からずっと寝てたでしょ?この席に来てからずっと、『流川起きないかなー』って、思ってたんだ」
無邪気に笑う雪に、「反則だ」と流川は思った。
「いや、行かない」
聞いたのは、確かマネージャーの赤木晴子だったはずだ。いつものように体育館に来て、結局は練習を手伝っていた雪に、パス出しの後の休憩中だった晴子が話しかけたのだ。何だかんだと毎日いるのだったら、マネージャーをやればいいのにと流川は思っていたのだが、雪のほうにはそんな気はさらさらないらしい。声をかけられない限り、雪はむっとする体育館の二階窓の隅で本を読んでいた。
「え、雪ちゃん行かないの?!」
驚いたように、声のトーンを高くした晴子に、流川はふっと目を向けた。『雪』という単語が入っていたからだ。
「うん。だって、洋平たちも行かないって言ってるし」
「水戸君たちも来てくれないの?」
「なんか、バイトしなきゃとか言ってたよ」
「そっかあ」
残念そうに声を上げて、晴子はペタンと床に座り込んだ。
「雪ちゃん、インハイの応援来てくれないんだあ」
口の中に含んでいた氷の塊を、一気に噛み砕いてしまった。いきなりガリガリと音を立てた流川に、たまたま彼の隣にいた一年生が震えた。なんで来ない。タオルを放って立ち上がろうとした流川を、しかし彩子の声が押し留めた。
「なに、雪ちゃん来ないの?折角払った部費、無駄になるわよ」
「は?」
床に座り込んでいた雪が、驚いたように目を見開いて彩子を見上げる。長い髪が揺れて露になった首筋が白く光った。
「あたしこの間、鈴木先生を手伝って、部費の会計をしたのよ。そしたら、雪ちゃんの名前もあったもの。マネージャーで登録されてたわ」
「……あの、入部した覚えがこれっぽちもないんですけど」
「でも、あったわよ。『マネージャー:一ノ瀬雪』って」
「まさか!」
叫んで雪は体育館から飛び出していった。それはこのバスケット部に所属している男子とも遜色のない速さで、そのことに流川は少し眉を顰めた。あれほどの身体能力があるなら、バスケットに限らずどんなスポーツだってできるだろうに。雪は彼女自身の才能を無駄にしているような気がしてならない。
「おーおー。速い速い。もう職員室入ってった」
体育館から飛び出していった雪を手を翳して見ていた彩子が、茶化したように言う。それを横から覗き込んだ晴子も「本当だ」と小さく同意を示した。
「つーかさあ、なんで雪ちゃんマネージャーにならないんだろーな。ほとんど毎日練習見に来てんだから、暇がないってわけじゃねーんだろ」
汗を拭いつつ言った宮城に、何人かが同意した。晴子が困ったように首を傾げて言う。
「私もそれ聞いたことがあるんですけど、なんか雪ちゃん、自分はマネージャーに向いてないって思ってるらしいですよ」
「向いてないって、どういうこと?」
今度は彩子が首を傾げる。
「わたしは彩子さんや晴子ちゃんみたいに、人に尽くせるタイプじゃないから、みたいなこと言ってました」
ぷっと彩子が吹き出した。
「あたしが人に尽くせるタイプー?!笑っちゃうわ、どこが!」
「私も、そんなの関係ないって、言ったんですけどね」
その通り、関係ないと心の中で頷いた流川と同じように、周りでも何人かが頷いた。宮城も。
「雪ちゃん戻ってきたらさあ、みんなで勧誘しよーぜ。な、花道!」
少し離れたところで黙々とシュートの練習をしていた花道が、宮城の声に「ん?」と首を傾げて振り返った。今までの騒ぎに全く気づいてなかったらしい。
「練習中だぞ、リョーちん」
「そりゃお前だけだ。な、一緒に雪ちゃんバスケ部に勧誘しようぜ」
「雪を?アイツもう、入部届け出してんだろ。何で今さら」
「ちょっと桜木花道。それどういうことよ」
不可解なことを言う花道に、彩子が詰め寄る。当の花道は、なぜ自分がそんなに問い詰められるのか理解しがたい様子だった。たじろいで一歩後ろに下がる。
「いや、だってですね。一ヶ月ほど前に、入部届け出してるんすよ。アイツ。だって、オレが直接オヤジに渡したんすから」
ますます不可解だ。彩子がさらに詰め寄ろうとしたところで、ダンと床を踏む音が体育館の中に鳴り響いた。隣にいた一年生が、再び震える。流川が彼の怯えた視線の先を手繰ると、体育館の入り口に肩を怒らせて仁王立ちになっている雪がいた。
「はーなーみーちー!」
地を這うような声で雪に名前を呼ばれた花道は、げっとカエルが潰れたような声を上げた。体力のない雪は、職員室と体育館の間を一往復しただけで、息を切らしている。しかしそんなことを気にしていないように、彼女は声を張り上げた。
「あんた、わたしの入部届け勝手に安西先生に提出しただろ!」
「な、なんだよ!わりーか!」
「悪いわボケ!この赤ボケ猿!いいように使われやがって……!」
雪は怒ると口が悪くなる。そのことを知ったのは、確か今から一年以上も前だった。怒る雪を流川は感慨深く眺めていた。
「なんで本人に確認もせずに、届け出すんだよ!っつーか、入部届けも向こうに送っただろ!」
「向こうから言ってきたんだぞ!わかるかよそんなこと!」
「だから本人に確認しろっつってんだろ!」
「知るか!」
「ざけんな!」
つかつかつかと雪が花道に近寄ると、花道は怯えたように踵を返して彼女から逃げ出した。それを追って雪も駆け出す、ということはなかった。雪は歩調を変えぬまま、傍にいた宮城の腕からボールをひとつ、ひょいと無造作に奪い取る。それを花道に向かってぞんざいな仕草で放り投げた。何の作為も感じられないほど、軽く放り投げられたボールは、しかし狙ったかのように花道の脚の間に滑り込む。当たり前だが、花道はズテンと大きな音を立てて転倒した。
「ってーなー!」
打った頭を抑えて花道が起き上がる。悪態をついたが、しかしその前に仁王立ちになった雪に、彼の表情は凍った。雪が握っていた拳が花道の頭に振り下ろされると、ゴッと鈍い音がした。「関節立てるな!」。花道が頭を抑えて叫ぶのに構わず、雪は容赦なく花道の顎を蹴り上げた。ふごっと情けない声が体育館の中に響く。
情け容赦のない雪の暴力に唖然としている部員の間を縫って、「ね、ね」と彩子が二人に近寄った。彩子はいつか、自分のことを図太いとか無神経だとか言っていたが、この人のほうこそそうなんじゃないのか、と流川は思った。
「結局、どういうことなの?雪ちゃん、ホントにバスケ部のマネージャーになってたの?」
「あー……」
雪ははっとしたように、彩子を見た。言いづらそうに髪をかきあげる。
「このバカのせいで、いつの間にか入部してました……」
雪が大きくため息を吐いた。バカはねーだろ!と花道が叫ぶ。また言い合いを始めようとした二人の横で、「じゃあ!」と彩子がいやに陽気な声を上げて手を叩いた。
「雪ちゃんもインハイに来なきゃならなくなったわけね!雪ちゃんはもう、ただのお手伝いじゃなくってバスケ部のマネージャーなんだから」
「う、それは……」
言葉に詰まる雪を他所に、彩子はにこにこと晴子を振り返って「よかったわねー、晴子ちゃん」と笑った。そして意味ありげに流川を見る。無視、と流川は彩子から目線を外したが、彩子の視線がじっと自分に注がれているのは、隠しようがなかった。
ガンとバックボートに跳ね返ったボールをキャッチして、ショットを放つ。当たり前だが、オレンジ色のボールはうつくしく弧を描いてバスケットの中に吸い込まれていった。着地すると、ザリと足裏の砂が動いた。フローリングの体育館に比べると、やはり屋外はやり辛い。
まだ日が昇ったばかりだというのに、気温は上昇を始めている。後から後から垂れてくる汗を拭いながら、流川はまたバスケットと向き合った。今日から、湘北はインターハイに向けての強化合宿に入る。愛知まで一週間遠征をし、そのままインターハイ開催地である富山に入る予定だった。
「シュートの練習するの?パス出ししようか?」
流川が頷くと、植え込みの傍のブロックに座って本を読んでいた雪は、本に栞を挟んで立ち上がった。スカートについた埃を軽く叩いて払う。流川が放ったボールを、雪は上手にキャッチした。
彼女は雨の降らない朝、こうして流川が練習する朝焼けの公園にやってくるようになった。流川が練習をしている間、ずっと本を読んでいることもあるし、今日のようにパス出しをしてくれることもある。時折、余ったからと言って軽い食事を持ってくることもあった。
「楽しみだなあ、遠征」
「……そーか」
「流川は楽しみじゃないの?」
「まあ、それなりには」
雪が放るボールを、流川はバスケットに向かって放つ。ディフェンスも何もいない状態では、外す気がしなかったが、それでも流川は手を抜かなかった。バスケットを始めた頃から、それは変わっていない。
「最初は行かないって思ってたのに、いざ行くとなると楽しみになるのは、面白いね」
「ふーん」
流川の気のない返事にも、雪は嬉しそうに顔を綻ばせてボールをパスする。あと二十五本。
「今年は優勝できそう?」
「できるっつーか、するし」
「あんたらしいね」
雪は笑う。彼女の腕から、ひゅっと風を切ってボールが飛んできたのを受け取って、流川は二十二本目のショットを放った。雪の出すパスは日に日に上達していっている。彼女が正式にマネージャーとして湘北バスケット部に入部してから、驚くべき速さで。それを考えると、やはり雪が何もスポーツをしていないのは、バスケットをしていないのは惜しいと思ってしまう流川がいた。口には出さなかったけれど。
「優勝できるといいね」
ボールをパスしながら雪が快活に笑った。
いいものがある、と言って三井が取り出したのは、R-18と記載されている、一本のビデオテープだった。
「三井サン……」
宮城が呆れたように半眼で三井を見る。てっきり受け入れられると思っていたのか、その目線に三井は狼狽した。
「な、なんだよ!景気付けだって、けいきづけ!」
「何もわざわざ持ってこなくても……」
ハアと宮城が大きなため息を吐いた。「いいもんがあるから来い」と三井に部屋の中へ連れ込まれた流川も、宮城と同じようにため息を吐いて布団の上から立ち上がった。時間を無駄にした。花道と晴子が連れ立って出て行ったから、雪に声をかけてパス出しでもさせようと思っていた矢先だったのに。流川は再度ため息を吐いた。
「待てって、流川。ぜってー、お前が一番喜ぶからよ」
腕を伸ばした三井にTシャツの端を捕まれて、流川は逃亡に失敗した。何だかんだと言っていた宮城も、悪い気はしていなかったらしく、いそいそとデッキの電源を入れてビデオをセットをしている。三井にがっしりと肩を組まれて、逃亡不可能となった流川は三度目のため息を吐いた。
宮城が再生のボタンを押すと、黒一色だった画面がぶれて、その後にホワイトアウトする。妙にファンシーな書体のロゴが現れてすかさず宮城は早送りのボタンを押した。
「三井サン、これ、どれくらい?」
「前振りはそんなに長くねーぞ。けっこ、すぐ。ほら」
慌てて宮城がボタンから手を離す。画面の中に大きく映し出された一人の女の顔に、流川の目は釘付けになった。横で三井がにやにやと笑っている。
「うっわ、この女優、雪ちゃんにそっくりじゃね?」
「だろー。この間見つけてな、これはぜひ我らが湘北のエースに見ていただかんと、とな」
雪と同じように黒く長い髪を持った女がベッドの上で、「ユキノミウ、二十歳デス」と高い声で笑う。一見完璧に見えるその笑みの中に、一瞬だが卑屈さが感じられた。だから雪ではない、と流川はその瞬間理解した。しかし、女が笑う画面から目が離せなかった。
「ハタチはありえねーな」
「せいぜい二十七ってとこだろ」
勝手なことを言っている二人を他所に、画面の中の女は早速ベッドに押し倒されていた。お決まりのようにガタイのいい男に丸い乳房を捕まれて、甘い泣き声を上げる。歌うように高い声の余韻が、いつかの雪を連想させた。そう、何かの曲を口ずさんだときだ。
「……戻っていっすか」
居た堪れなくなって、流川は言った。画面の中から卑猥な言葉が乱れ飛ぶ。三井に組まれた腕を解こうと肩をずらしたのだが、その反対側に素早く宮城が回りこんで肩に腕を回した。
「かっこつけんなって、流川。わかってる。お前も男だ」
「そーそー」
無責任に三井が相槌を打つ。殴ってやろうかと流川は拳を握り締めたのだが、「ぁあん」女が一際大きく上げた喘ぎ声に思わず目線を画面に戻していた。男の無骨な指がぎゅっとつまんだ退紅色の突起の下に、小さな黒子が見えた。こんなものは虚構だとわかっているのに、そこだけが嫌にリアルで、流川は顔を背けた。その黒子だけがビデオの中で喘ぐ女の、アイデンティティを象徴しているようだった。その黒子を見ていると、思い知らされるような気がする。あの女も画面の中でなく、流川の座っている床の延長線上のどこかに、今も存在しているのだということを。
駄目だと思った。「なんだよ」と宮城が耳元で悪たれるのを無視して、組まれた肩を解こうとする。そのとき、不意にドアが開く音がした。
「あ、やっぱり一緒にいた」
木暮だった。「赤木が……」と何かを言いかけた彼は、どうやらビデオに映っているものの存在に気づいていない。ゆっくりと首を巡らせて、それからやっとテレビの画面に映ったものを見つけた。きょとんと目を見開いて、そしてそこからはものすごい速さで、木暮の顔は真っ赤になっていった。純な反応をする木暮に、三井が「おめーも一緒にどうだ?」と笑った。
「一緒に、っていうか、やばい、やばいから消せって!」
部屋いっぱいに敷かれた布団に足を取られて転びそうになりながら、木暮は慌ててテレビのリモコンを掴もうとした。しかし、覚束ない足取りだったために、やはり途中で布団の上に倒れこむ。ぼふっという音と共に、「ぎゃ!」という悲鳴が聞こえた。それが聞こえたかのように短く足音がして、開けっ放しのドアからもう二つ、人影が部屋の中を覗いた。
「先輩?どうかしたんですか?」
今度は彩子だった。そしてその後ろから、雪が顔を覗かせた。木暮が「やばい」と言っていた理由を一瞬で理解した流川は目の前が真っ暗になるような心地を味わった。もっと早くに、逃げ出せばよかったのだ。
「うーわー……」
彩子が眉を顰めて見たテレビの中ではまだ、雪によく似た女が頬を上気させて喘ぎ声を上げていた。それを見た雪の瞳が見る見る見開かれる。流川と同じように「やばい」の理由を悟った三井が、慌ててテレビの電源を切る。嫌な沈黙が部屋を支配した。布団の上に倒れこんでいた木暮が、沈黙の中でのっそり起き上がって、申し訳なさそうに顔を赤くして俯く。
「赤木が、みんなでラーメンでも食いに行こうって言うから、呼びに来たんだ……」
木暮が小さな声で呟いた。「そ、そうか」。三井の乾いた笑いが数秒間部屋の中に響き、段々尻すぼみになって消えた。彩子の後ろから部屋を覗き込んでいた雪が、彩子の脇を通り抜けて部屋の中に入ってくる。短いショートパンツからむき出しになった白い太股が、先ほどのビデオの中の女を連想させた。ごくり、と三井が唾を飲み込んだ。
雪は部屋の真ん中辺りで立ち止まると、体を屈めて布団の中に埋もれていたビデオのケースを取り上げた。そしてショッキングピンクでレタリングされた文字が躍るパッケージをじっと見つめて、一言呟く。
「雪野みう……わっかりやすい名前」
「わ……、悪かったな!でも、AV女優なんてみんなそんなもんじゃねーか!」
顔を真っ赤にして三井が叫ぶ。それに雪は一瞬きょとんとしてから、にやりと口元を歪めた。
「三井サーン。自分の右手とイイ仲になってないで、彼女作りましょーよ」
「うっせ!」
ますます顔を赤くした三井に、雪はけらけらと笑ってビデオケースを放り投げた。
「ほら、早く隠さないと赤木先輩に見つかって大変なことになりますよ」
慌ててビデオをしまい始めた三井と宮城を他所に、雪は悠々と部屋を横切って出て行った。「あんたら、わかってんでしょーね」。冷徹な彩子の声が飛ぶ。ぎくりと肩を揺らした三井と宮城とは違い、流川はじっと雪の後ろ姿を見ていた。言語化できない違和感が彼の頭の隅を掠めていた。
「あークソッ!なんで大学入っても、赤木に殴られなきゃならねーんだ!」
「そりゃ、明日からインハイだってのに、アンタが変なもの持ってくるからでしょーよ」
「いや、オレはただ純粋に、お前らの緊張を解す手助けになれば、と思ってだなあ!」
「これ、旦那の前でも言いましたけど、余計なお世話っす」
「あんだと、コラァ!」
殴られた頭頂部を擦りながら悪態を吐く三井に、同じように頭を擦りながら宮城が切り返す。流川は、一歩後ろでそんな彼らのやり取りを見ながら、「バカばっか」と息を吐いた。勿論、自分も頭を擦りながら。
「ああ?!おめーだって食い入るように見てたじゃねーか!」
「そーだそーだ!自分だけかっこつけようとすんな!」
「おめーらさっさと帰って寝ろォ!」
後ろから赤木の怒号が飛んできた。迷惑だろうと本人は言っていたが、ホテルの廊下に響く声は赤木のものが一番大きい。はあ、と息を吐いた流川の斜め前で、「きっとこれから、没収したオレのビデオ見るつもりなんだぜ」と三井が囁く。「あり得る」。宮城が小さく独白した。
「つーかさあ、雪ちゃんっていい女だよなー」
「あー、あの切り替えしはすごかったっすね」
「フツー笑えねえよなあ、知り合いが自分に似た女のAV見てる現場に居合わせたら」
「度胸据わってんなー」
ぼそぼそと小さな声で話す二人の後ろをついて歩きながら、流川は目を擦って欠伸をした。ラーメンを食べに行って帰って来てからしばらく、ビデオの件で赤木に説教されていた。
宣告どおり、彩子の告げ口から、三井が持ち込んだビデオの存在は赤木にも明らかになった。当然、赤木は怒りに怒り、実行犯の三人はまるで、一年前のように赤木の前に正座させられて、子一時間にも及ぶ説教を受けていた。違っていたのは、花道がいなかったことぐらいだ。
「でも三井サンもう望みないだろーね。あんな醜態見せちゃあね」
「な、なんだよ醜態って!」
「そのまんまじゃん」
「……で…………オに、……が」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ二人の声に混じって、階段のほうから女の声が聞こえた。聞き覚えのある声に、流川は二人の後ろから離れて階段のほうへ近寄っていった。三井と宮城はそれに気づかなかったらしく、振り返りもしなかった。
「うん。多分間違いないと思う」
雪だった。階段脇に設置された緑色の公衆電話で、誰かと話している。隣にある自販機の光が、薄暗い廊下の中でも彼女の横顔をはっきりと見せる。その表情は、妙に真剣染みていた。廊下の角にいる流川に気づいた様子はない。
「右の乳首の下に、黒子があったし。見たことあるでしょ?」
黒子。雪が何を喋っているのかを瞬間的に悟って、流川はずるずると雪から見えない角の陰に崩れ落ちた。やはり彼女はしっかりとあれを見ていたのだ。ぜってー、許さねえ。小さく口の中で呟いて、流川は頭を垂れた。
けれど、はたと思い至った。あの雪に似た女優が、彼女に一体何の関係があるのか。どうして雪は、電話でそんなことを話しているのか。
「名前?もっかい言うよ。雪野みう。降る雪に、野原の野に、平仮名でみ、う。……わかりやすいでしょ」
『わっかりやすい名前』。三時間ほど前の雪の言葉が耳の奥でリフレインする。そう、感じていた違和感の正体はこれだった。そうやって呟いた後に、三井が『悪かったな』と言い返したら雪は、一瞬不思議そうな顔をしていた。あれは、あんなビデオを見ていたことへの当て付けではなかったのだろうか。
じゃあねと言って雪は受話器を置くと、はああと長く大きなため息を吐いてその場にしゃがみ込む。出て行こうかどうか、流川はそうとは見えず逡巡して、廊下の角から雪のほうを伺い見た。雪は、どこか焦点のあっていない目でぼうっと廊下の床を見つめている。心ここにあらずといった風情の雪に、流川は言い知れない不安を感じた。
なんだ。自問自答している間に、雪はすっくと立ち上がって、ポケットの中から小銭を取り出した。かしゃかしゃんと、自販機の金属と触れ合う軽い音がして、数秒後に缶が三本落下した。屈んで取り出し口から缶を取り出すと、履いているジャージのポケットにいくらか入れっぱなしにしているのだろう。ちゃりちゃりと小銭の音を立てながら、雪は廊下の奥へ消えていった。
「かっこわり……」
流川が小さく呟いた声は、誰にも聞こえていなかった。
インターハイなどの公式戦において、ベンチに入れるマネージャーは一人だけだ。去年の夏のマネージャーは彩子一人きりだったからよかったが、今年は雪も晴子もいる。が、二人はあっさりと応援席で応援することを承諾していた。
「だってスコアの取り方よくわかんないし」
「彩子さんはこのインハイで引退だしね」
「ねー」と声を揃えて言う二人に、いつものように腕を組んで顔を俯けていた流川は、一抹の不安を覚えた。それは流川だけではなかったのだろう。向かいで花道も微妙そうな顔をしている。彩子は廊下で声を潜めて話していたが、ドアは開きっぱなしだったために、三人のやり取りは控え室の中まで聞こえていた。
「いい?知らない人に声かけられても、ついて行っちゃダメよ」
「そんな、子どもじゃないんですから」
「そーですよう。大丈夫です」
「……だから心配なのよ」
彩子が脱力したように、息を大きく吐いた。「やっぱり、赤木先輩たちと一緒に行かせたほうがよかったかしら」。彩子の言葉に、そうかもしれないと流川も小さく同意した。三月に卒業した三人のOBたちは、明日に備えて次に当たるチームの試合を見に行っている。一戦目で負けることなど許さないという意味の行動であったので、現湘北バスケット部が一回戦で負けることは決してできない。誰も、そんなことをするつもりは毛頭なかったが。
「例え、『宮城を知ってるよー』とか『桜木知ってるぞ』とか『流川知ってます』って言われてもダメだからね!」
今一よく意味を理解していない雪と晴子に、彩子が切々と言って聞かせている。まさか、試合の前にこんな問題が起こるとは思わなかった。「まだ少し早いですが、行きましょうか」。廊下から聞こえてくる問答に、微笑ましげに頬を緩めながら、安西が言った。こうなれば、早く試合を終わらせるのみだ。流川はベンチから立ち上がり、そう決意した。
「いくぞ」
すっと宮城が手を差し出す。その手に「おう」と花道が手を重ね、周りもそれに従った。
「湘北ーファイ!」
「おおし!」
宮城が先頭に立って、控え室から出て行く。コートに向かって歩いていくと、少ししたところで廊下の隅に男が一人座り込んでいるのが見えた。「なんだ?」と一歩前にいた宮城が怪訝そうに呟いた。ゆっくりと男が顔を上げる。前髪の間から覗いた目に、既視感が流川の脳に閃いた。しかし、誰だったかが思い出せない。流川がじっと考えている隙に、ぱっと男が立ち上がって叫んだ。
「雪ちゃん!」
叫ぶと同時に、男は最後尾にいた雪に向かって駆け出した。その勢いに連なっていた部員が道を開ける。男はバッと両手を広げて雪に抱きつくと至極嬉しそうに叫んだ。
「I've always wanted to see you!
(ずっと会いたかったよ!)」
雪はとても驚いたように、ただ目を丸くしている。そんな雪から男は一度体を離して、目を見開いたままの雪の頬に、そっと手を這わせた。
「You became more beautiful than before.
(前よりもきれいになったね)」
腰を屈めて、男は自分の唇を、雪の頬に押し当てた。ひゅっと晴子が息を吸い込む。「こ、の、」。花道が拳を震わせて駆け出そうとする。しかしそれよりも前に、男の体が後ろへ吹き飛んだ。
「調子に乗るな!」
唇を押し当てられた頬を手の甲で擦りながら、雪が叫んだ。男は鳩尾の辺りを押さえて咳き込んでいる。雪が片足を中途半端に浮かしているのを見れば、どうやら雪に蹴られたらしかった。
「な、なんで……?一年ぶりの再会だろ」
「だからって抱きついてキスとかすんな!」
「向こうじゃこんなの、挨拶じゃん」
「ここは日本だ!」
言い合う二人に晴子が「知り合い?」と恐る恐る聞く。一瞬の後、「……え?」と不思議そうに首を傾げた雪に、流川は嫌な予感がした。
「知り合いって、晴子ちゃんも知ってるでしょ?ほら、沢北だよ。山王の」
床に座り込んだまま、「どーも」と言って沢北は朗らかに笑った。明らかに流川一人を見上げながら。
これは雪から直接聞いた話ではない。試合を観戦している最中に、晴子が雪から聞き出した話だ。
雪と沢北が始めて出会ったのは、去年のインターハイの後だという。アメリカ行きの飛行機の中で、偶々隣の席に居合わせたのだそうだ。普通はそれっきりの縁で終わるところが、ある人物の陰謀により、無理矢理引き合わせられて、その後時折Eメールを交換する仲になったらしい。
どうにも曖昧な助動詞に、流川は顔を顰めた。かと言って、晴子を責めるのは筋違いだった。彩子や宮城や他の部員の中に混じって晴子の話を聞いていた向こうで、雪は鬱陶しそうに沢北とじゃれ合っていた。隙あらば雪に触れようとする沢北の手を、雪が叩き落す。沢北が叩れた手で雪の手を逆に掴み返して、ぐいと体を近づけたときは鞄を放り投げてやろうかと思ったが、それよりも早く花道が沢北の頭を平手で殴っていた。
は、と乱れる息をつめて、流川は歩道の端で立ち止まった。頬を伝う汗を手の甲で拭う。赤いテールランプが尾を引いて流れていく。息を整えながらホテルの近くまで戻ってきたところで、流川はよく見知った顔をガードレールの隅に見つけた。ぼうっと尾を引いて流れる赤色を見つめている。赤い光に照らされて、彼女の長い睫がぬらりと光った。
「何やってんだ」
声をかけると、ゆっくりと緩慢に、雪は流川を振り返った。流川を見るその目は、どことなく焦点があっていない。つい昨日にも感じた不安を今日も感じた。
「ああ、流川。走りこみ?」
「聞いてんのはこっちだ」
いつもなら言い返すはずの雪は、しかし何も言い返さずに曖昧に笑った。
「なんか、ぼーっとしたくなって」
「今何時だと思ってやがる」
流川が部屋を出てくるとき、時計の針は既に九を回っていたはずだ。そんな時間に、こんな場所でぼっと突っ立っていては、誰に何をされようが文句は言えまい。流川はまだぼうっとしている風情の雪の手を掴むと、それを引いてホテルの敷地の中に戻ろうとした。「まだ、部屋に戻りたくない」。小さな声で雪がいう。流川は返事をせずに、雪の手を引いて、今自分が走ってきた道を逆戻りした。少し行ったところに、確か公園があったはずだった。バスケットゴールはなかったのでさっきは素通りしていたが、その入り口にある自販機の前で流川は立ち止まった。雪を掴んでいるのとは反対側の手で、小銭をいくらか入れると、赤く点灯したスポーツドリンクのボタンを押した。
「飲む?」
項垂れている雪を見下ろして聞くと、雪は上目遣いに流川を見て、「ミルクティー、冷たいの」と小さな声で言った。ガコンと落ちてきた缶を二つ取り上げて、ひとつを雪に渡す。公園に入ってすぐのベンチに座ると、流川は真っ先に缶のプルトップを押し上げて、中身を喉に流し込んだ。両手で缶を持ったままで、雪も流川の隣に座る。飲み干した缶を置くと、流川は雪が持っている缶に手を伸ばした。プシと軽い音と共に、缶の口が開く。「ん」。口の開いた缶を無造作に雪の手の中に戻すと、小さな声で雪が「ありがとう」と言った。
「で?」
横目で雪を見ると、雪は開いた缶の口をじっと見たままで、何も喋ろうとしなかった。流川はため息を押し殺して、木製のベンチの背にもたれ掛かる。白い光を放つ外灯に虫が集っていた。ブンと鈍い音が聞こえる。横にいる雪の頭が段々と沈んでいく。深く考え込んでいるものの答えがそこにあるかのように、雪は缶の飲み口の奥をじっと見つめていた。
「……お……たでしょ」
掠れるように小さな声で話し出した雪に、流川はそれを聞き取ることができず「もっかい」とぞんざいな返事をした。しかし雪はそれを気にする様子もなく、先ほどよりは大きな声で、けれどまだ小さな声で、ゆっくりと喋りだした。
「昨日、三井さんが持ってたビデオあるでしょ」
「……おー」
もしかして、あの女優が自分に似ていたということが、意外にショックだったのだろうか。流川は内心冷や汗を垂らしながら返事した。そんな流川の様子に気づくことはなく、雪は淡々と話を進める。
「あの女優ね、わたしのお母さんなの」
今度は返事をすることができなかった。ゆっくりと視界を巡らせて雪を見た流川を、しかし雪のほうは見ることもなく、前方の虫が集る外灯を見ていた。両の手のひらはぎゅっと缶を握り締めている。
「最近会ってなかったから、あんな仕事をしてるなんて知らなかったけど、多分間違いないと思う。今、母さんの知り合いに連絡して、確認してもらってる」
「……なんでわかる?」
搾り出すように言った流川を振り向いて、雪は少し笑った。
「流川、あの人の乳首の下に、黒子があったの気づかなかった?右だったよ」
そんなことを笑って言った雪がひどく痛ましかった。流川は腕を伸ばしかけて止める。
「それにわたし、あの人に顔よく似てるし、名前もわかりやすかったし」
「そういや、昨日もそんなことを」
「うん。三井さんは勘違いしてたけど」
流川の勘はどうやら当たっていたらしかった。しかしまさか、本名でああいう女優業をする馬鹿もいないだろう。流川がそう思っているのが伝わったかのように、雪は両手で持っていた缶を一度脇に置く。地面に落ちていた木の棒を一本拾い上げてこう書いた。
「あの名前、雪野みうだったでしょ。『ゆきのみう』」
ガリガリと地面が削れて、文字が記されていく。
「わたしの母さんの名前はね、鵜野美雪。『うのみゆき』。ほら、最初の『う』と最後の『ゆき』を入れ替えたら『ゆきのみう』になる」
成程。頷いた流川に、雪は持っていた棒をぽいっと放った。トンと軽い音を立てて、ベンチに背中を預ける。
「母さん、誰かに見つけてもらいたかったのかな。前会ったときは、そんな素振りなんて、まったく見せてなかったのに」
外灯の仄かな明かりに照らされた雪の横顔は、はっとするほど白かった。ゆるゆると目線を下げて、ベンチの上に膝を抱え込んで小さくなる。
「見たときは、そんなにショックじゃなかった。びっくりはしたけど。でも、一日経ってそのことを考えてるうちに、なんだか悲しくなってきて……」
俯いた雪の頬を涙が伝った。流川は今度こそ手を伸ばして、ぽんと彼女の頭を撫ぜた。膝に額を押し付けて、雪は「ううう」と嗚咽を漏らす。雪の手が探るように伸びてきて、流川のジャージの端を握った。
「嫌いなんだ、母さんのことなんか。だって、いい思い出なんてひとつもないし、小さい頃から蔑ろにされてばかりだった。大嫌いって、ずっと思ってた。なのに……!」
雪の手がジャージの端をぎゅっと握った。硬く、皺になりそうなほど。
「母さんがあんなことするぐらい、追い詰められてるのかと思ったら、怖くなってきて、どう、なっちゃうんだろうって、気が気じゃなくて……」
囁くように雪が言った。「怖いよ、流川」。集る虫の羽音にかき消されてしまいそうな、小さな声だった。流川は自分のジャージを掴んでいる雪の手に、自分の手を重ねた。膝に顔を埋めたままで、びくりと雪が震える。
「大丈夫だ」
確信なんてどこにもあるはずがなかった。けれど、流川はこのときこう言うしかなかった。それを雪が望んでいたのだ。涙を流すほどに。
「心配すんな。今はインハイのことだけ考えてろ。マネージャー」
一度ぎゅっと力を込めると、流川は雪の手を離した。雪がゆっくりと膝から顔を上げる。そして流川のほうを見て、涙混じりの目でこう言った。
「流川が、いてくれてよかった」
目尻が細められた瞬間に、涙が一粒零れ落ちる。ぐしゃぐしゃのはずの顔は、けれどとてもうつくしく見えた。それは、彼がずっと見たいと思っていた彼女の笑顔によく似ていた。
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