雨とウソハキ、泣き虫子虫のスタートライン
ううう、と雪は唸り声を上げて、腫れぼったい自分の瞼を押さえた。指先に熱が伝わる。瞼が熱を持っている。眼球は赤く血走っていて、十分に潤んでいるはずなのに、なぜか視界が霞んだ。
「……はあ、しゃあないか」
雪は大きく息を吐くと、一度ケースにしまった眼鏡を再度取り出した。いつもは下ろしている前髪を、ねじりあげてピンで止める。少し濃い目にマスカラをつけると、普段は家でしかしない眼鏡をかけた。ブラウンのセルフレームの眼鏡は気に入っていたけれど、こんな形で使うのは嫌だった。泣きすぎて腫れた目を隠すために使うなんて。まあ、コンタクトを入れるのが辛いのもあるのだけれど。
時計の短針はついさっき七を指したばかりだった。けれど雪は制服に着替えると、学校へ行こうと駅へ向かった。普段は花道や洋平たちと一緒に登校している。が、ちゃんと約束をしているわけではなく、大体それぞれが何時の電車に乗るかを知っているという程度なのだ。つまり、その時間に雪が電車に乗っていなくても、それを言及されることはない。しかし、この目で花道や洋平に会えば、きっと何か勘繰られるだろうし、高宮には「なんだ雪。泣いたのか?」とからかわれるかもしれない。特に後者が許せなかった。
心持顔を俯けて、雪はマンションのエントランスから出た。外は雨が降っている。しとしと降る雨は、少し肌に冷たい。むき出しの腕をそっと撫でて、雪は傘を広げた。これは、目が腫れていようとなかろうと早めに家を出て正解だったかもしれない。多分今日は、電車が混むだろう。
予想に違わず、車内はいつもより混みあっていた。ドアが開くと、どっと人がホームへ溢れ出した。雪はそれにずるずると巻き込まれながら、同じ進路を取って歩いていく。あとほんの数分の我慢だ。唇を噛み締めて、足を縺れさせないように流れに沿って歩いていくと、前方に見覚えのある黒髪が見えた。あの身長で、白いカッターシャツにスポーツバッグに黒髪で、さらにふらついているとなればよく似た他人では済まされない。昨日の今日でそれは避けたい、と雪は彼に見つからないように少し歩調を緩めて距離を取ろうとした。しかし人の流れがそうはさせてくれない。どうにかならないのかと段々近づいていく距離に焦りを覚えながら、雪は周りを見渡した。体格のいい彼は、人の波に流されることがなく、ふらふらと歩いている。対して雪は、せかせか歩く雪リーマンに押されて半ば早足で歩いていた。せめて視界の外にいれば、と雪は彼の視界から死角になりそうな位置を探す。きょろきょろと周りを見渡していると、ドンと何かにぶち当たった。
「った……」
余所見をしていたせいで、目の前の人にぶつかったらしい。慌てて謝ろうと目を前に向けると、大きな白い背中が目の前にあった。
「あ……」
雪がぶつかったのは、まさに見つかりたくないと思っていた張本人だった。背が高く、学生服を着てスポーツバッグを肩から提げている。彼が後ろを振り向くと、癖のなさそうな黒髪がさらりと揺れた。
「お、おはよう」
こうなったら覚悟を決めるしかないと、雪は寝ぼけ眼の流川を見上げて愛想笑いをした。そんな雪に挨拶も返さず、「メガネ……」と流川はぼんやりした様子のまま呟いた。目が赤いのがばれたかもしれない。昨日の今日でこれは絶対まずすぎる。絶対ばれる。雪は逃げ出すことに決めた。
挨拶もそこそこに、彼の横を通り過ぎようとした雪を、しかし流川は止めた。いつかのようにがっちりと掴まれた腕を、雪は冷や汗をたらしながらゆっくりと見下ろした。流川が防波堤になっているせいで、人の波に乗ることもできない。何か用かと流川を睨み上げたいのだけど、腫れた瞼がそれを許さなかった。
「悪ぃけど」
流川はいやにゆっくり話した。とろりと伏し目がちの彼の目は、いつも見る不遜な雰囲気とは違っていて、雪はうっと息が詰まる。誰か、晴子だとシャレにならないから、いつか嫌がらせを受けたこの男のファンクラブ会員でいい!変われ!雪の叫びを他所に、流川はとろとろとした声で続けた。
「学校まで連れてって。ぜってー、乗り過ごす」
なぜこんなことに、と雪は憤然としていた。向かいでは流川が首を揺らして、器用にも立ったまま寝ている。口から涎が垂れていないのが不思議なぐらいだ。右手だけはしっかり吊革を吊している銀色の棒を掴んでいた。雪は微かな揺れに、反射的に彼のシャツの裾を掴みながら、花道も一緒に電車に乗ると、こうやってあの棒に掴まっていた、と思った。
乗り換えの後、電車に乗るのはたった三分ほどの間だ。「~本町駅」とアナウンスをされて、雪は掴みっ放しだった流川のシャツの裾を引いた。
「流川。流川起きろ。駅着いた」
けれど彼は起きない。もう一度裾を引くが、その間電車はぐんぐんスピードを落としていった。どうするか、雪は焦って考えた。このままでは自分も乗り過ごす羽目になるかもしれない。こんな雨の日の混んだ電車に、これ以上乗っているのは嫌だった。雪は仕方がない、とため息を吐くと「起きろ!」ともう一度鋭く囁きながら、ローファーの踵で流川の大きな足を踏みつけた。
「って」
小さく悲鳴を上げて、やっと流川は目を開けた。ぼんやりした目線で雪を見て、不思議そうにしている。雪はため息を押し殺して、「着いたから」と囁いた。電車がゆっくりと停車し、間抜けなアラームと共にドアが開いた。人を押しのけてドアへ進む。これでまた寝たならもう知らんと、雪は決して後ろを振り向かなかった。
やっと人の中をすり抜けた。そう思った安心したら、今度は黄色い点字ブロックの上で足を縺れさせた。雪は、こんな雨に濡れた地面に転ぶのは嫌だった。勿論、晴れた日であってもだ。しかし、かといってバランスを取り戻せそうにもない。痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じると、不思議なことに下半身への痛みはなかった。変わりに、二の腕の辺りを強く掴まれている。恐る恐る振り向くと、流川がいつもの不遜な目で、雪を見下ろしていた。
「どあほう」
雪がバランスを取り戻したのを見ると、流川はぱっと腕を放した。そのまま雪を置いて、さっさと行ってしまう。電車の中で、立ったまま本気で寝入るヤツに言われたくない。雪はまた憤然としたのだが、その雪をふと流川が振り向いた。
「傘、入れて」
そういえば、流川は傘を持っていなかった。
二人の男女が、ひとつの傘の中で肩を寄せ合って歩いていると、まるで恋人同士か何かのように見えるのは、互いが互いのパーソナルスペースを侵害しているからだ。「四十五センチ以下、容易に接触」どころか、肩が触れ合うような距離なのだ。もっとも、雪と流川の場合は身長差があるので、肩と二の腕だったが。
厄日だ、と雪は駅から学校までの道のりを歩きながら嘆息した。朝から雨は降っているし、瞼が熱っぽく重たいからまさかと思って鏡を見れば腫れているし、昨日泣いたせいで心なし喉の調子が悪いし、雨のせいで電車は混んでいるし、腫れた目を花道たちに見られたくないからと早い電車にわざわざ乗ってみれば、花道以上に会いたくなかったやつに会うし。
そんなことをつらつら思いながら、再び嘆息した雪を、流川は何なんだと横目で見下ろした。同じように横目で彼を見上げながら、雪は小さな声でもう一度、「厄日だ」と呟いた。歩いている歩道の横を、車が水を勢いよく跳ね上げながら走っていく。ふと、流川に傘を持たせたのは自分だったけれど、車道側を選んで歩き始めたのは流川のほうだったと気づいた。だからといって、何だということもなかったのだけど、少し意外だった。昨日の夜のことも。雪は言葉を選びながら口を開いた。
「昨日の夜、帰り道わかった?」
「なんとか」
簡潔に答えた流川に、雪はそれ以外に言うことがあるはずなのに、と少し俯いた。茶色いローファーの革は、降りしきる水を弾いて玉にしている。雪が歩く毎に水は揺れて、零れたり形を変えたりした。
「流川はいつも、ああやって試合の後も練習してるの?」
「おー」
「ふーん。すごいね」
当たり障りのないことを聞いたら、当たり障りのない返事しかできなかった。こんなことが言いたいんじゃない、と雪は小さく首を振る。雨に煙った視界の向こうに、灰色の校舎が見えてきた。
「すごくねえ。すげーのは、あんたのほうだろ。昨日の、とか」
一瞬何のことかわからなかったのだが、その後に流川が小さく「バスケ」と付け足したので、昨日の夜のヤケクソシュートに至るまでの、一連の流れのことだと理解した。この会話が続くとは思ってもみなかったので、雪は少し驚いて、彼を見上げた。流川がこんな風に会話を発展させたことが、今まであっただろうか。あったかもしれないけれど、少なくとも雪は聞いたことがなかった。そんなに付き合いが長いわけでもないのだが。
「それこそ、すごくないよ。わたしは、人の真似するのがちょっと得意なだけ」
「そういうのを、すげーって言うんじゃねーの」
流川は意外にゆっくりと喋る人だった。普段はほとんど単語しか発しないならわからなかったけれど、彼の少し掠れた声は、雪の耳には心地よかった。窓の中から聞く、雨の音に似ている。
「全然、すごくないよ。そんなに一生懸命になれるものを、見つけれる人のほうがすごい」
ついうっかり本音を言ってしまったら、流川は今度こそ押し黙ってしまった。こんなの朝からする話題じゃないと、雪は慌てて「そういえばさ」と違う話題を振ろうとした。けれどそこで見上げた流川は、あまりに真っ直ぐ雪を見ていた。今度は雪が押し黙ってしまった。
「ねーの?あんたには、一生懸命になれるもの」
いつの間にか、歩道の真ん中に二人は立ち止まっていた。流川が差した女物の傘は、二人で入るにはやはり小さい。流川の肩は濡れてしまっていた。けれどそのことに雪はまだ気づいていない。たた、と柔らかな音を傘は奏でた。
「ねーの?」
「……ない」
重ねて聞く流川に、雪は思わず口を開いていた。それも馬鹿正直に。しまったと思ったときはもう遅く、流川が微かに眉を顰めた後だった。
「あの、あほうのことは?」
花道のことを聞いているのだということは、すぐにわかった。流川も、晴子と同じことを聞く。雪は首を振りながら思った。
「なれないよ。夢中になんて」
「なんで?」
「なんでって」
そりゃあ、と言いかけてまた、目頭が熱くなってきた。駄目だと、雪は手を伸ばして瞼に触れる。眼鏡のフレームが邪魔だった。瞼は相変わらず熱い。
「なんでって……」
阿呆のように同じ言葉を繰り返すばかりで、続きが出てこない。自分はそんなに馬鹿ではなかったはずなのに。雪は小さく息を吐いた。熱い息だったと思う。
「流川こそ、なんでそんなこと聞くの?」
あんたには関係ないと言外に込めて言うと、それはちゃんと彼に伝わったようだった。唇に冷ややかな微笑を浮かべる。それは彼を嘲笑ったのではなく、自嘲だった。何にも変わってやしない。時間なんて形のない曖昧なものが、簡単に人を変えれるわけがない。流川は「別に」と顔を背けて、また歩き出した。雪もそれに続いた。
ああ、と雪は薄墨色の空を見上げる。自分はいつも、誤魔化して受け流してばかりだ。後ろめたさを感じた雪は、そっと斜め前にいる流川の背を見上げてやっと、流川の肩が濡れていることに気づいた。罪悪感が強く胸を締め付けた。
息が止まるかと思った。
やっと日が昇ろうという頃に、早々と目が覚めてしまった。雪は、何となく読みかけの本の表紙を開くこともできず、着替えると外に出た。まだ日が昇ったばかりの町は静かで、清閑な匂いが心地よかった。吹く風はほんの少し肌に冷たい。樹木の緑色に反射する朝日を眩しく思いながら、雪は近所の公園に向けてゆっくりと足を進めた。時々花道がバスケットの練習に使っている場所だ。まだ朝早くで、きっと誰もいないだろうと思っていたのに、タンタンタンとボールが跳ねる音がする。花道がいるんだろうか。入り口からひょいと覗き込むと、思ってもみなかった人物がそこにいた。
流川楓だった。しなやかな彼の腕がヒュっと空気を切って、ボールはバスケットへと吸い込まれていく。彼の頬を汗が伝って、きらりと朝日に輝いた。息が止まるかと思った。
一瞬の後に、雪は慌てて引き返そうと踵を引いた。しかしそこに砂利が溜まっていたのか、ザリと大きな音がした。はっとして流川が雪を振り向く。雪は変に眉を歪めて、小さな声で「おはよう」と言った。
正直言って、会いたくなかった。あの雨の日の罪悪感に対して、雪は結局何の行動も起こせていない。けれど流川は、何も言ってこなかったし、その前の晩に雪が「花道が好きだ」と言って大泣きしたことも、誰にも言わなかった。そのことに、雪はさらなる後ろめたさを感じていた。あの日のあの切り返しは、流川に対しての手ひどい裏切りだった。
「なんで……」
流川はまた挨拶を返さずに、些か呆然とした声で言った。一拍置いて、「そういや、あんたん家この辺だっけ」とひとり言のように付け足した。
「うん、目が覚めちゃってさ。流川は自主練?」
「おー」
何事もなかったかのように会話を続けるのが、ひどい苦痛であった。けれど同時に、流川と一緒にいることは雪にとって、とても心地よいことでもあった。なぜなら彼は、雪の心の弱さを知っている。
「ちょっとここで見てていい?邪魔しないから」
「……勝手にすれば」
そう言って流川はまたバスケットを向き合った。雪は、公園を覆っている高いフェンスを潜ってすぐ横の、背の低い柵にもたれかかった。流川が激しく動くと、彼の体から汗の玉が飛び散って、それが朝日に瞬く。バスケットをしているときしか見られない彼の鋭い視線は、一心にボールとバスケットだけに注がれていた。
ここにいるのがわたしじゃなくて、晴子ちゃんだったらいいのに、と雪は思った。何となく、自分がこれを見ているのは勿体無い気がする。雪は、最近まるで何かの陰謀のように、流川によく会うことを晴子には言っていなかったし、言ったところでどうにかなるとも思っていなかった。そう思っていたのだれど、そのことを晴子に告げるのはやっぱり悪いような気がした。多分彼女は、「いいなあ」と羨ましがるだろう。「私も早起きして公園に行こうかなあ」というだろう。でもきっと、結局は行かない。最近の晴子は、流川のことを諦めかけているような節があった。流川を見る目に、熱情だけでなく哀愁や感傷が混じっている。比例して、そういった悲しみを帯びた晴子の目線は、ますます温度を上げていっているような気がしていた。例えば、冷たいものを触った後、熱湯に浸かるかのように。流川を見つめる最近の晴子は、とてもうつくしかった。
そして、わたしは一体どうしたいのだろう、と雪は思った。晴子が流川を諦めるかもしれない。そうしたら、花道の思いが届くかもしれない。本当にそうなったら、自分はどうするのだろうか。手放しで喜んで、応援する?それとも、邪魔をする?雪は本当に、本気で、花道が幸せになればいいと思っている。嘘じゃない。大切な人だからこそ、幸せになってほしかった。きっと、晴子は花道を幸せにすることができるだろう。初めてできた同性の友人である晴子も、きっと花道と一緒なら幸せになれるだろう。雪は晴子のことも大切に思っていたから、そうなればとても嬉しい。
けれど同時に、どうしても花道を手放したくないと思う自分もいるのだ。花道にとって一番近しく親しい異性は自分でありたいと思っていたし、隣を歩いていけたらと思っている。それはできないとわかっているのに。
人に必要とされ、そして期待されるような人間になれと言ったのは、花道の父親だった。自分の両親にも負けていないほど駄目な親だった。けれど彼が雪の父と違ったのは、短所とも取れるほどの優しさだった。小説家だった彼の本が、雪の本棚には並んでいる。ふと思い出しては読み返すけれど、何度読んでも彼の書く小説は、優しさに満ち溢れていた。
彼の書く小説は一見ほの暗く、読んでいるとまるで自分の心の深淵まで潜り込み、その暗き淵を覗き込むような途方もない恐怖に襲われる。彼の小説がそのようであるのは、彼もまた深淵に薄暗いものを持っているからであったと思う。その暗い影は常に彼について周っていたのだろう。それは、彼の書く小説にまでも。それでも、彼の小説がそこで終わってしまわなかったのは、一重に、彼の気の弱さの裏打ちされた優しさであった。どんなときであっても、人の顔色を伺うような人だった。そのことを雪は本気で忌々しく思ったこともある。けれど、人のことを気にするからこそ、優しくもできるのだと彼に教わった。自分のことしか見ていないヤツは、優しくなんてできない。
彼から与えられたほの暗い闇は、読み終わる頃には消えている。深淵から掬いだされている。そのことを酷評した評論家もいた。雪も、文学的に見るなら、ちゃちな救いなどないほうがいいに決まっていると思う。けれど、その救いこそが彼の優しさなのだ。彼の優しさは、いつも中途半端だった。いつも、どこかずれていた。してくれないほうがマシじゃないかという優しさの表し方を、いくつも知っている。この深淵からの掬い上げも、あるいはそうなのかもしれない。
そんな人が言ったのだ。人に必要とされ、そして期待されるような人間になれと。天邪鬼な雪は勿論、「あんたなんかに言われたくない」というような趣旨のことを、それはもう汚い言葉で言い返したし、花道は鼻で笑っていた。けれど、そんな反応をしてしまったその言葉は、雪と花道の中で、まるで星のように輝いている。今も。
どうしたら人に必要とされて期待されるのかわからない。どうしたら人に大事にしてもらえるのかわからない。雪は人と上手に付き合っていく方法がよくわからなかった。受け流したり、誤魔化したりする方法はいくらでもわかる。けれど、誰かを傷つけないように、大事にしていく、されていく方法がわからなかったのだ。
幸せになってほしい。そして一緒にいたい。でも一緒にいたら幸せになれない。それでも一緒にいたい。でもやっぱり、幸せになってほしい。堂々巡りのアンチノミーは、永遠に答えを出すことはなく、そのまま心の暗い部分へ沈んでいくのだと思われた。この瞬間までは。
ガァンと強い音が朝焼けの公園の中に響き渡る。流川は息を吐いて、バスケットから転がり落ちたボールを拾い上げた。
鋭い目。それしか知らないように、真っ直ぐ前を見る目。それは雪に馴染んだ花道と似ていたし、まったく別のものでもあった。けれど共通しているのは、自分にとって大切で夢中になれるものを見つけているところ。
「……わたしね、逃げ出すのが得意なの」
ふっと口を着いて出たのは、そんな言葉だった。汗を拭っていた流川が顔を上げて、雪を見る。
「前、晴子ちゃんにも言われたことがある。いつも誤魔化してばかりって。ほら、体育館でケンカしたときも言われてた」
ああ、と流川は回想するように首をもたげた。
「あんときは、すっげえ驚いた」
「わたしも驚いた」
雪は小さく笑った。
「誤魔化さないでって、晴子ちゃんは本気で怒ってたなあ。最近はあんまりしないように、気をつけてるんだけど。すっごく昔からやってたことだから、体に染み付いちゃってて、なかなか離れない」
空を仰ぎ見ると、薄い青色がどこまでも遠く透き通っていて、その高さを感じられた。もたれかかっている鉄製の柵は冷たく、ツンと錆臭かった。
「でも今度こそ、逃げ出さずにいたいの。花道のことを好きな気持ちをどこかに押し込めて、見ない振りするんじゃなくて、ちゃんと消化したい。頑張るでも諦めるでもいいの。ちゃんと結論を出したい」
「いいんじゃねーの」
何とはなしに無造作に、流川は言ったのだけど、その言葉はすっと雪の心に染み入るようだった。彼の言葉に隠れた熱情が見えたわけでもない。また流川にしてみたって、そんなものを込めた覚えも、果ては理由もないだろう。けれどその一言が、雪にはとても嬉しかった。
「流川って、いいヤツだね」
笑って言うと、彼は微妙そうな顔をした。
「何、不満?」
「別に……」
ぷいとそっぽを向くと、流川はぼそりと言った。
「腹減った」
こういうことは同性である晴子に相談したほうがいいような気がしたのだけど、相手が流川だという時点で彼女に聞くのは憚られた。彩子に聞いてもいいのだけど、彼女に聞くとからかわれそうで何か怖いと思った。花道は論外。三バカトリオも論外。となれば、残るはもう一人しかいなかった。
「で、オレに聞くわけ?」
煙草を吹かしながら、洋平は器用に眉を片方だけ持ち上げた。声はもう既にからかいを帯びている。雪は怒り出したいのをぐっと我慢して、洋平から目を逸らした。ここで怒ったりすれば余計洋平にからかわれるだけだ。ひょっとすればそれ以上に、話すだけ話したのに、アドバイスももらえなくなるかもしれない。それだけは避けたかった。
「いいから。どうしたらいいのか、答えてよ」
「雪さあ、晴子ちゃん以外にも友達作りなって。女の子の」
「今はそれは関係ないでしょ」
「関係あるって。友達いないから、オレに相談してんだろ?」
洋平にはあまり詭弁が通用しない。誤魔化しが効かないというほうが適当か。雪はうっと言葉に詰まりながら、「いいから」ともう一度洋平からの答えを催促した。
ぽっと、洋平が煙を吐く。ふわふわと宙に浮かんで、やがて霧散した。手持ち無沙汰になって雪は、「わたしにもちょうだい」と洋平に向かって手を出したのだけど、洋平はダメと笑うだけで、いつものようにパッケージごと放ってはくれなかった。
「なんで」
「オレとお前が仲睦まじく煙草なんか吸っちゃってると、嫉妬するヤツがいんだよね」
「誰だよそれ」
「そのうちわかるだろ」
彼女でもできたのかと雪は洋平に聞いたのだけど、当の洋平はにやにや笑うだけで何も言わない。やはり人選を間違えたか。雪はため息を吐いた。
「にしてもさあ」
洋平は靴の踵で短くなった煙草を踏みつけて火を消した。そしてポケットの中からくしゃくしゃになったパッケージを取り出す。一本咥えて火を点けた。彼の吸う煙草の銘柄は決まっていない。今日は青色の弓矢を象ったパッケージデザインのホープだった。ショッポと今でも略されるその煙草を、雪も何度か口にしたことがある。今はもうそこまで吸いたいとは思わないけれど。
「短期間にそこまで頻繁に会うって、何か必然性を感じねえ?」
「感じない。まったく、これぽっちも」
あっそとつまらなさそうに洋平は言った。面白がっている。雪は相談相手に洋平を選んだことに、本気で後悔を覚えて始めていた。というか、そもそも誰かに相談しようと思うことが間違っていたのだ。やっぱり一人で解決したほうが……と思いかけて、けれど自分一人ではどうしたらいいのか全くわかりかねているのだと、さらに思い直す。雪は「ああもう!」と首を振った。
洋平が小さく笑う。それを雪は睨みつけたのだけど、まったく説得力がないことは自分でもわかっていた。音楽室から、混声合唱の歌声が微かに漏れ聞こえてくる。妹よ、と嘆き悲しむ歌のもの哀しくも美しい旋律は、けれどよく晴れた七月の空には浮いて見えた。今夜は雨が降っていて、お前の木琴が聞こえない。
「この歌さ、中学のときに聴いて、花道号泣してたよな」
「ああ、そういえばそんなこともあったね」
花道は、結構涙もろかった。お涙頂戴系のドラマや映画を見ては必ずと言っていいほど泣いていたし、こういう岩河三郎の合唱曲だとかも、彼の涙腺を大いに刺激するようだった。
「教室でこれ聞いて泣いてたら面白いよな」
「後で晴子ちゃんか誰かに聞いとけよ。花道が泣いてなかったかどうか」
「聞いとくよ」
そう言って、雪はふと口の端を歪めた。
「泣けるヤツのほうがすごいんだよな、こういうのって」
「そうだよな、オレもそう思うよ」
妹よ、と洋平の唇が旋律を運ぶ。洋平には妹がいる。口には出さないけれど、彼が三つ年下の妹のことを結構大切にしているのを、雪は知っていた。損得抜きで、大切なものがある人。それを雪は羨ましく思うのと同時に、ひどく遠い存在にも感じた。暗い家の中でもお前は。
「戻るわ、わたし」
居た堪れなくなって、雪はその場から立ち上がった。咥え煙草のままフェンスから身を乗り出して歌を口ずさんでいた洋平は、意外そうに雪を振り返った。
「相談事はもういいのか?」
「うん、いいや。やっぱ、自分で考える。さっきの話は忘れて」
多分そうはしてくれないだろうけど、とりあえず雪は言うだけ言った。フェンスに背中を預けて、洋平がにやりと笑う。
「まあ、頑張りな。応援してっから」
「いいよしなくて」
最後までからかい口調だった洋平に、雪はぞんざいな返事をして踵を返した。やっぱり、「練習中の体育館に押しかけて花道が好きなのって泣いて家まで送ってもらって、その癖次の日会ったらあんたには関係ないとか言って、その後さらにというか今日の朝、まさに今朝、公園で練習していた流川に、やっぱり逃げずに頑張るなどという戯言を聞いてもらったりしたのだけど、お礼もしくはお詫びをしたほうがいいのだろうか」なんて、聞かなければよかったと思った。
背中で洋平が小さく口ずさんでいる。おまえが地上で木琴を鳴らさなくなり、星の中で鳴らし始めてからまもなく、町は明るくなったのだよ。
「みんな変わってくんだなあ」
ひとり言のように呟いた洋平を、雪は一度だけ振り向いた。彼はまたフェンスにもたれかかって、煙草を吹かしている。変わらないものがないということが、洋平にとっては悲しみなのかそれとも喜びであるのか。雪は推し量ろうとしてやめた。後ろ手にタンと屋上へのドアを閉めると、今まで明るい場所にいたせいでほの暗く見える階段をゆっくり降りていく。ドアが閉じる瞬間に、洋平もまた彼女を振り向いたことを雪は知らない。その目がたった一縷の悲しみを帯びていたことも。
私のほかに、誰も知らないけれど。
翌日、あの朝焼けの公園で昨日と同じように自主練をしているだろう流川に、雪は会いに行った。手には包みを二つ携えて。雨が降らない限り、朝はあの公園で練習をしてから登校するということを、先日聞いたのだ。
おはようの挨拶もそこそこに、詳しいことは何も言わず「ん」とビニールで包装されたシャツを差し出すと、流川は不思議そうな顔をした。
「何」
「シャツ。前わたしが吐いたから、一枚ダメにしちゃったでしょ」
「……もらっていーの?」
「うん。そのために買ったの」
ドーモと小さく言って、流川はビニールに入ったままの新品のカッターシャツを受け取った。よしと雪は心の中で小さく言って、もうひとつ提げていた包みを彼の前に差し出す。
「で、これはあげる。開けてみて」
興味深そうに、流川は雪から受け取った紙袋の中身を覗き込んだ。がさがさと紙が擦れる音がして、中から取り出されたのは三角柱の形をしたアルミホイルの包みだった。流川が首を傾げるのを見て、雪は些か俯きながら言った。
「おにぎり。昨日、お腹空いたって言ってたから、作ってきたの。海南で練習試合があった日その他諸々のお礼」
流川の視線がじっと自分に注がれているのがわかる。らくないとは、わかっていた。でも、そういう意地っ張りな自分を少しずつでも変えていこうと思ったのだ。だから、お礼をちゃんと言いたかった。ゆっくり顔を上げると、流川と目が合った。強い朝日が彼の頬に落ちる影の陰影を濃くしていて、瞳は一層黒く、潤んで見えた。
「……ありがとう。それから、ごめんね」
雪のそれはとても小さな声で、流川に聞こえたかどうかはわからなかった。けれど、ちゃんと言えた。言えたけれど、慣れないことをしたもんだから顔が赤らんでいくのが自分でもよくわかった。羞恥心で涙が滲みそうになる。雪は唇を噛んで俯いた。流川は、一体どんな顔をしているんだろう。驚いて目を丸くしているだろうか。それとも、訝しげに雪を見ているだろうか。前髪の隙間からそっと覗くと、流川がぼそっと何かを言ったのが聞こえた。その声は早口で小さく、雪は聞き取ることができなかった。思わず「え」っと、雪は疑問符を口にして彼を仰ぎ見る。その雪のほうこそが、意外なものを目にした。
流川楓は微かに微かに目尻を下げて、ほんの少しだけ口角を上げて、笑っていた。優しい微笑だった。
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