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三、雑音

1.

 長次と小平太に代わる代わる背負われて山を下りた文次郎は、忍術学園の医務室にて安静を言い渡されて、もう一週間も暇を持て余していた。
 山中の薬師の家まで文次郎を迎えに来たのは、力がある長次と小平太、そして医術の心得のある伊作だった。薬草を見るのに仙蔵や、文次郎の不始末を笑うのに留三郎も来たがっていたようだが、流石に大勢で押しかけるのはよろしくないと学園長先生が止めたらしい。
 文次郎は家主である薬師の男と、その娘への挨拶もそこそこに、小平太に負ぶわれて山を下りた。伊作は彼女が使っていた薬草や治療の内容を聞くのに少し残って話をしたようだが、文次郎はそれきりだ。

「何、文次郎。元気ないじゃないか」
「もう一週間も外に出ておらんのだぞ、腐りもする」

 授業を終えて医務室に戻ってきた伊作は、不貞腐れた表情の文次郎を見て言った。伊作と校医の新野先生に医務室に文字通り縛り付けられ、日がな一日天井を眺めて兵法書を読んでいる。
 大人しくしていることを文次郎が是としていないことは、伊作にも勿論わかりきっていた。その上で、こう言っているのだ。

「今日、仙蔵と一緒に月ヶ峰に行ってきたよ。学園長先生から、今回の件のお礼のお使いに」
「えっ、そ、……そうか」
「山ノ辺殿が、足が治ったら文次郎もまた来なさいと言っていたよ」
「……ああ」
「……ふうん、気もそぞろだね。文次郎」
「ああ、…………ああ?」

 伊作の話を上の空で聞いていなかった文次郎が、伊作の言葉に胡乱な声を上げる。そういうところが「気がそぞろ」だと思うんだけど、と伊作は思って、文次郎のいる床の前に座った。

「あちらの娘さんも、心配していたよ。君にしては随分仲が良くなったんだね」
「……別に、そういうわけじゃ」
「このことに関しては、随分君らしくない態度じゃない。文次郎」

 伊作のからかうような言いぶりに、文次郎は嫌になって顔を背けた。月ヶ峰の薬師――山ノ辺の家から、忍術学園までは文次郎たちの足でも一日程度の距離であった。そしてそれは彼女の父親、山ノ辺薬師の足でも大して代わりはない。
 しかし、山ノ辺薬師は忍術学園に行き、戻ってくるまでに六日を要した。別件の用事が彼にはあったからだ。

 結論から言えば、山ノ辺薬師は元々は『さる方』に雇われた忍者であった、という話だ。しかし『さる方』は都での権力争いに敗れ没落、山ノ辺薬師はひっそりと忍者の職を失い薬師として生活を続けていた。
 そこに一年ほど前、どこからか山ノ辺薬師の存在を聞きつけた使者が現れたのだという。使者は近江の更に向こうからやってきた。なんでもその城の殿様は、ダイジョウ峰の山に薬草園を作りたいのだと話をした。
 山ノ辺薬師としては、願ってもいない話であった。彼は戦で焼け出された子どもの頃に『さる方』に拾われ、その後とある寺院に入り込んだ。初めは坊主として修業の傍ら隠士として活動していたが、その寺の中で調薬に目覚め、その後は寺を出て月ヶ峰の山中で毒薬研究、調薬研究をしながら生きてきた。
 寺から放逐されたのは、坊主としての修行よりも調薬に身が入りすぎたせいだ。幸運だったのは山ノ辺薬師には本物の才能があったため、隠士として役立たずであったとしても処分されず、それどころか『さる方』からの庇護が続いたこと。
 それも『さる方』の没落後途絶えたが、今度はダイジョウ峰での大規模な薬草園作りに呼ばれた。これは尾州の殿様が言い出したことで、貿易に強いその殿様は舶来の薬草の苗や種子も取り寄せてその山で育てることができないか、研究がしたいのだという。
 山ノ辺薬師はぜひとも、薬草の宝庫と名高いそのダイジョウ峰の山へ行きたい、そこで見たこともないような南蛮薬草の育成研究に自身も携わりたいと思ったが、彼には足の悪い娘がおり、遠い土地に彼女を連れていくことも、置いていくことも難しい。
 どうしたものか、と考えていたところに現れたのが、山中で倒れていた文次郎だったというわけだ。
 
 山ノ辺薬師は、山と谷を越えた先にある学園の話を思い出した。拾った男は、その学園の生徒だという。山ノ辺薬師はその拾った男の安否を届けがてら、学園の大川平次渦正を訪ねた。
 曰く、自分には大きな城への伝手がいくつかあり、薬師としての実績も研究もある。それを渡して身を立ててやる術はあるから、だから誰か、娘の面倒を見てくれるのにふさわしいような、いい忍者の卵はいないだろうか、と。
 つまり、学園の生徒への縁談の持ち込みである。これに学園長先生は大喜びした。元々愉快なこと、変わったものが大好きなお方だし、学園長先生にしてみれば、方々への伝手も手に入るのだ。これを断る道理は何もない。
 山ノ辺薬師と学園長先生はすっかり意気投合し、卒業間近の六年生から誰かを見繕うのがいいだろう、という話になった。

 これが、彼女の父が山を下りて六日間も戻ってこなかった顛末である。
 これを帰りの道中で聞かされた文次郎は呆れ、もはや言葉もなかった。六年の他の忍たま達はこの話をすっかり面白がって、文次郎を迎えに行くのにも揉めた。
 結局は役割的に長次と小平太、伊作が来たのだが、その後も文次郎が医務室に監禁されている間に、みな一度は山ノ辺薬師の家を訪ったのだと、文次郎は床の上で聞かされた。

「今日は向こうの家の薬草園を娘さんに案内してもらったんだけど、彼女は忍たまでもないのにとても薬草に詳しいし、医術への造詣も深いんだね。
 仙蔵も、炸裂弾に入れて目つぶしに使えそうな薬草をいくつか教えてもらっていたし」
「それは、そうだろうな」

 文次郎は煮え切らない調子で言った。確かに彼女と話をしていて、伊作と話が合いそうだと思ったことは数度ある。そして仙蔵は中身の豪胆さの割に昔から線が細く優男風で、任務内でも町の娘に話しかけるのはもっぱら仙蔵の役割だった。
 だから、彼女も文次郎と話すよりも伊作や仙蔵と話すほうが話しやすいだろう。ただそれだけのことなのに、何か胸の奥がつっかえるようで、自分のいないところで彼女に会ったという同級生たちを見ると、もやもやとする。
 この釈然としなさを断ち切るためにも、ぜひとも池に飛び込んで鍛錬したいものだが、伊作と新野先生のよって文次郎は文字通り床に縛り付けられているため、それも敵わない。

 結局文次郎は足の骨がくっつき、歩行訓練を始めてもいいと言われるまでの間、悶々としながら医務室の天井を眺めて過ごした。そうして学園へ戻って十日ほど経ち、骨折の癒合が始まってからようやく自室へ帰された。
 随分久しぶりに見る自室の天井は、いつの間にか仙蔵が火薬の調合をしたのだろう。また少し煤けていたし、寝てばかりいたから鈍った体は重い。
 無茶は厳禁だ、と伊作には言われたが、伊作とて文次郎を部屋に帰せばまた鍛錬を始めることをわかっていただろう。とりあえず走り込みで体力や、衰えた筋力を元に戻さなければいけない。
 あの山へ世話になった礼をしに行くのはそれからだ、と思った。

 それはとても文次郎らしからぬことだった。
 文次郎は彼にしては珍しいことに、彼女と六年の誰かとの縁談という『問題』を、先送りにして直視しようとしなかった。彼女へ会いに行く機会や期限というものを、あろうことか引き延ばしたのだった。













 潮江を迎えにきた男たちのうちの一人、善法寺伊作と名乗った男はいつも大抵へにゃへにゃとした笑みを浮かべている。
 潮江の怪我の様子を伝え、忍術学園へ連れ帰ってからは彼が潮江の看護をしていたようだが、善法寺は元々薬草や医術に興味があったらしい。
 彼女の父に教えを請いに来るがてら、潮江の様子を何度か教えてくれた。潮江の骨折は驚異的な速さで癒合を始めたようで、今は潮江は失った体力と筋力を戻すことに専念しているのだという。

「また池の中で寝起きしているみたいなんですよ。
 太腿に傷に悪いからって叱ろうと思ったら、まさかもう塞がっていて」
「あの……、皆さんが潮江さんの迎えにいらっしゃる前の日に、一度傷が開いてしまっていたと思うのですが」
「僕もそう聞いてましたし、診てもいたのであいつの頑丈さには、本当に驚かされます」

 善法寺は軽く笑って言うが、本当にそんな軽く笑っていい話なのだろうか。なんとも人間離れしているように思って、彼女はまさか目の前のこのふにゃふにゃとした男もそうなのか、と思わず見る。
 善法寺は彼女がそんな風に恐々として見ているなどとは思ってもみないようで、忍術学園へ売る分の薬草の種子を麻袋に入れ、紐で括っていく。

 この一、二週間で彼女を取り巻く環境は様変わりを始めていた。
 父は山を下りて出かけることが多くなり、代わりに忍術学園から誰かがやって来ることが多くなった。忍術学園の生徒は十歳ごろの子どもからおり、善法寺がよく一緒に連れてくるのは保健委員会の子たちだ。
 父と二人で生活をしていたときよりも俄然騒がしくなったのだが、それでもあれから潮江が一度も顔を見せないことに、彼女は少し気落ちした心を隠せないでいた。
 潮江も一人の忍者なのだから、彼自身の鍛錬が最優先だろう。しかし、怪我が治って動けるようになったら会いに来てくれるではないか、などと淡い期待を抱いていた。
 それは潮江を傷の手当をしながら過ごした日々が、きっと彼女にとって心地いいものだったからだ。そして潮江も少なからず、そう思っていてくれるのではないか、と思っていた。
 けれど、きっと潮江はそうは思っていなかったのだろう。だから体がある程度動くようになっても、潮江はこの山へ来てはくれない。

「僕も何度か文次郎にはここへお礼に来るようには言ったのですが、まだ山を登れるほど体力が回復していないの一点ばりで」

 気落ちした様子の彼女を見て、善法寺もそうは言ってくれたが、逆に彼に慰められているということに落ち込んでしまう。善法寺がそういうからには、潮江は全くここへ来ようという気配がないのだろう。
 日暮れ前に帰るという善法寺を見送って、家の中に戻る。父も、他の誰もいない家の中は広すぎて、がらんとしていた。
 
 父がよく山を下りてどこかへ出かけるようになって、しかし彼女はどこへ父が行っているのかを知らない。父を訪ねてくる人はこれまでにも時折あったが、ここ数年は随分頻度が減っていた。
 しかし一年ほど前に見たことのない、聞いたことのない訛り言葉でしゃべる人が父を訪ねてきて、父は彼女を家から出して随分長く話し込んでいた。
 それからも父はそれまでと変わらず、黙々と薬を作り町へ売りに行き、売った金で雑貨を買って帰ってくるということを繰り返していたが、ぼんやりと明るい月を見上げている時間が多くなったように思う。
 
 父が月の兎の話をしてくれたことがある。海の向こうのミンの国では、月には兎がいて、薬を作っているという言い伝えがあるのだという。父はその話を、彼女の母から聞いたのだと話した。
 母は彼女が幼い頃に亡くなったと聞かされており、彼女自身に母親の記憶はない。父も、母についてはあまり話すことがないので彼女は自分の母親についてを何も知らないのだが、ただ唯一と言っていい母の記憶は、父が溢した『月の兎』の話だった。
 だから父が月を見上げているとき、きっと母について何か考えているのだろうな、と思っていた。実際に聞いたことはないし、聞いたとしても父は答えてくれないだろう。
 がらんとした家の中で、ぼんやりと囲炉裏の側に置いた鉄鍋を見る。鍋は彼女が片手で持つには重たくて、動かすにも難儀をしていたのだが、潮江はこれを軽々と持ち上げていた。
 腕の太さも体も厚さも、抑えたように滔々と喋るところも笑うと眉間の皺が取れて幼くなるところも、全部が自分とは違っていた。あの嵐の夜のことを、今でも思い出す。
 ふしだらだった、と今にして思う。
 男の体の上に乗り上げて、退かなければとも思えなかった。潮江はもしかして、そういうふしだらな自分に嫌気がさしたのだろうか。
 もう、ここへは、来てくれないのだろうか。
 
 そんな詮無いことを考えながら、彼女は夕暮れが差し込む家の中に、一人佇んでいた。かなかなかな、と遠くからひぐらしの鳴き声だけが、聞こえている。






2.

 文次郎がようやく月ヶ峰の薬師の元へ顔を出したのは、彼が山を下りて一月が経った頃だった。実習授業も出られるほどに怪我は回復し、これ以上同級生たちからの「ちゃんと礼をしに行け」という突き上げに抗えなくなったのである。
 文次郎とて、早く礼を言いに行かなければ、という気持ちがなかったわけではない。しかし彼女へ会いに行って、文次郎のいない間に例えば伊作といい仲になったのだ、などと聞かされるのはごめんだった。
 この感情を教師陣に知られれば、「それは立派に忍者の三禁に囚われている」と指摘されただろうが、幸か不幸か文次郎の態度はいつも通りに忍者の鍛錬に打ち込んでいるだけにも見えたし、文次郎の微妙な機微を理解できる仙蔵は、逆に面白がって何も言わなかった。
 そうしてずるずると彼女へ会いに行くのを引き延ばしたのだが、つい先日に六年生が集まった実習の場で、伊作が「いい加減にお礼を言いに行かないと、失礼になる」と文次郎を叱り、留三郎も仙蔵もその言葉尻に乗った。
 長次と小平太は元々この件についてあまり興味がなさそうではあったのだが、普段の言動によらず礼儀にはしっかりしている小平太に伊作と同じことを言われ、かたや長次は頷いた。
 こうして六年生の全員から方々こき下ろされ、文次郎は観念して「次の休みに行く」と言った。そして文次郎の性格上、言ったからには実行しなければいけない。
 
 麓で彼女への土産にする団子を買い求め、山道を登っていく。足の悪い彼女や、普通の市井の人が上り下りするには難儀する道だろうが、忍者にはそうではない道だ。
 礼を言いに行くのだ、と決めた文次郎の歩みには、もうためらいはなかった。ざくざくと山と登っていけば、木々の隙間に隠れるようにされた、山ノ辺薬師の家がある。
 目隠しのための枝を折らないように気を付けながらかき分けて潜り、獣道から家の庭先に出ると、薬草園で座って何かをしていた彼女が、はっと顔を上げた。

「潮江さん!」

 顔を上げた彼女が、ぱっと顔を輝かせたように見えて、思わず文次郎も表情を緩めた。そして慌ててぐっと奥歯を噛む。忍者とは耐え忍ぶものだ。女や色事にうつつを抜かしては、務まらない。

「遅くなって申し訳ない。礼をしに来ました」
「いえ、そんな。きちんと治ったようで、よかったです」

 彼女は笑って言い、薬草園から立ち上がって茶でもどうか、と家の中に誘った。一か月ぶりに見た山ノ辺薬師の家の中はなんだかがらんとしていて、味気ない。茶を沸かすという彼女に、よければ食べてくれと言って土産の団子を渡した。

「お父上は……」
「また町のほうへ行くと言って、数日戻ってきていません。今回も、いつ戻ってくるやらで」

 彼女の言いぶりでは、ここ最近山ノ辺薬師は不在が続いているようだった。

「なら、何か困りごとや不便はないか」
「そうですねぇ。最近は善法寺さんや保健委員会の子たちがよく来てくださるので、今はそこまで不便はないのですか……」

 伊作が委員会の子らを連れて最近よく出かけていると思ったら、ここへ来ていたらしい。喉の奥がつっかえるようだった。文次郎はもらった茶を啜り、ぐっと飲み干す。
 その飲みっぷりにきっと喉が渇いていたのだろうと思った彼女は、そんな文次郎を見てほのかに笑った。美味しそうに飲んでくれるので、嬉しかったのだ。
 しかしそれは、文次郎からしてみれば伊作の名を出したから微笑んだように見えた。
 文次郎は出された湯飲みを置くと、頭を下げた。

「知らなかったとは言え、父上も伊作もいない家に上がり込み、申し訳ない」
「え、……え?」
「無作法をしたのは俺だ。伊作はこんなことでは怒る男ではないと思うが、奴には俺からも謝っておく」
「あの、潮江さん? 何を……」
「助けて介抱していただいた恩は一生忘れません。
 もしこの先、私に何かできることがあれば、伊作へ言ってください。なんでも致します」

 それだけを言うと、文次郎は通された囲炉裏間から土間へ抜けた。

「潮江さん!」

 慌てた様子の彼女が、框の前で腰を浮かせている。慌てた素振りだからか、髪がはらりと頬に垂れてこちらを見る目にはなんだか焦りと、そして困惑が浮かんでいる。
 その縋るような表情でこちらを見る彼女は、率直に言って、誰よりもうつくしかった。
 そして彼女をそうして見たときに、文次郎はようやく悟った。ああ確かに自分のこれは、感情は、恋であったのだ、と。

「……お元気で」
「潮江さん、待って!」

 家を出た文次郎を、彼女の声が追いかけてくる。文次郎は足早に庭をに抜け、獣道に入った。彼女の足では、到底追いつけまい。そう意地悪く思う自分がどうにも薄汚く思えて、文次郎は道を駆けて走りながら硬く拳を握った。
 強く噛んだ唇からは、血錆の味がしていた。身一つでびゅうびゅうと風を切りながら走り、耳元では心臓の音が煩い。頭が、脳みその奥が、がんがんとする。

「俺は、馬鹿か」

 道とも呼べない山の中を走り谷を抜けて、行く先の崖の大きくせり出した木の枝の上で、文次郎はようやく立ち止まった。眼下の崖からは、川のうねりが見える。
 例えばここから身を投げて、遠くの海に辿り着くだろうか。決して自殺願望があるわけではなかったが、すぐに学園に戻るつもりになれないのは確かだった。
 しかしそうも言っていられない。戻ったらまず伊作に謝らなければいけないし、二人の縁組を祝福してやらなければいけない。伊作は不運だが、気のいい奴だ。きっと彼女を大切にするのだろう。
 そんなことを思いながら崖下の川を見ていると、その川べりに具足を付けた五人ほどの足軽が見えた。男たちは地図のようなものを眺めながら川で水を汲み、周囲を見回している。どの足軽も丈の長い棒を持っているので、山狩りでもしているのだろうか。
 文次郎は目を凝らして足軽たちを見ていたが、ややあって男たちが遠くを指さした方角へ、文次郎も同じく目を向けた。それは、文次郎が来た方角からだった。
 細いのろしが上がっている。何かを見つけた、という合図だろう。

 何か、とは『何』か。
 足軽たちはどこの城の者なのか。
 文次郎は枝を蹴って駆け出した。足軽たちがこの辺りをうろつくには、理由がある。一か月前に文次郎たちはこの山の近くの城に忍び込み、山の中へ逃げ込んだ。そして近頃は、忍術学園からこの山への行き来がある。
 そうして人の往来があるのであれば、逃げた間者は山の中にまだいる、と考えるのも妥当なのではないか?
 文次郎はそこまでを考え、ぎり、と奥歯を強く噛んだ。

 山ノ辺薬師の家は滅多に見つからないように、隠されている。それでも万一とは限らない。
 あの「のろし」は何を見つけた合図なのか、足軽たちは何を探しているのか。
 文次郎は走りながら、喘ぐように息を吐いた。「さよなら」なんて、言うのではなかった。今さらながらに、後悔をした。






3.

 彼女が家の中から庭へ出たとき、そこに潮江の姿はもうなかった。ただ潮江が初めに抜けてきた山道の枝ぶりが、かすかに揺れている。彼女は深く考えることができないまま、その枝の向こうに体を潜らせた。
 一人で山道に分け入ることは父からも口酸っぱく禁じられていたし、彼女が今までその言いつけを破ったことはない。しかし、今はそんなことは頭からすっかりと抜け落ちていた。

「しおえ、…潮江さん!」

 息を大きく吸い込んで、名前を呼ぶ。しかしそこはもう森の中で、潮江の気配はどこにもない。
 潮江が何を急に怒り出したのか、彼女にはまるでわからなかった。というよりも、潮江が家に来たことを善法寺が怒る、というようなことを言ったが、なぜ善法寺の名前が出てくるのかもわからない。
 
 結局、自分はいつも蚊帳の外なのだ。
 彼女は薄っすらと滲んだ涙を拭い、顔を上げた。潮江の返事や気配は一向にない。きっと彼はもう山を下りていってしまったのだろう。
 善法寺や保健委員会の子たちは、数日中にまた来てくれるかもしれない。そのときに、潮江のことを相談してみよう。彼女はそう思い、木の幹に手を付いて来た道を戻ろうとした。

「おいお前、こんなところで何をしている」

 全く知らない、他人の声がした。ひゅっと胸の奥が冷たくなる。声がしたほうを見れば、数人の具足をつけた男が藪を払ってこちらを見ていた。
 慌てて逃げようと足を踏み出すが、山中の獣道のような足場の悪さでは、満足に杖もつけない。もつれて転ぶと、その間に男たちはこちらまで近づいてきて、彼女を押さえた。

「杖をついている。足の悪い女が、どうしてこんなところにいるんだ」
「近くに隠れ家か、何かがあるのかもしれない」
「おい、女。どこから来た、言え」

 口早に言われて、彼女は何も言うことができずに唇を噛んだ。父の薬草園には、毒草がいくつも植わっているし、家の中には父が作った毒薬も保存されている。
 父がいつも過剰なほどに身の回りに気を遣っていたのは、望まない来訪者を無為に薬草園や家に近づけないためだ。家の位置や彼女がどこから来たのかを、言うわけにはいかない。
 
「……おい、少し向こうに木が開けた場所があっただろう。そこまで連れて行こう」

 彼女が何も言うまいとしたことが、男たちにも伝わったのだろう。男たちは暴れる彼女を担ぎ上げると、木立を抜けて移動をし始めた。男たちの言う通り開けた場所に出て、乱暴に木の根元に下ろされる。

「年頃の娘じゃねぇか、身なりも小ぎれいで、とても浮浪者や城の女中が逃げてきたにも見えない」

 まとめ役のような男は、彼女の顎を掴んで顔をじろじろと見た。彼女の取り囲んだ男たちは五人ほどで、野卑な視線でこちらを見ている。
「のろしを上げておけ」 まとめ役の男が言ったのに、別の男が枯れ葉を集めて火を起こした。

「なぁお嬢さんや、俺たちもな。別に乱暴がしたいわけじゃないんだ」
「そうそう。知っていることを俺たちに教えてくれたらいいだけさ」

 まとめ役の男に代わって彼女の取り囲んだ二人の男が、口々に言った。少し向こうでは先ほどのまとめ役の男と別の男が「売るならいくらになる」「わからんが、俺の近所に人買いの伝手がある男がいるぞ」などと話をしている。
 恐ろしさにぎゅっと目を閉じた。「おしゃべりしてくれないと、乱暴しちゃうかもよぉ」 目の前にいた男に、着物の襟口を掴まれたのがわかった。
 大声で笑う、男たちの下卑た声がする。ぐっと襟を引かれた、そのとき、

「あぐ、ぁ、」

 喉が潰れたような男の悲鳴がして、それから追って殴打音がした。はっとして目を開くと、一人の男はその場で崩れ落ち、別の男は腹を押さえて木の根元で蹲っている。
 覆面をし、暗緑色の服を着た男が、いた。男は驚くべき速さで地面を蹴って飛び上がり、そのまま三人目の男を踵で蹴り飛ばした。頭を蹴られた男は吹き飛び、地面に転がる。

「お、お前、なんだぁ?!」

 彼女の目の前にいた二人の男は震える声で叫んで、持っていた棒を構える。三人目の男を蹴り飛ばした暗緑色の男は、右手に持っていた小刀のような刃物を後ろに、左手を前に構えて腰を落とすと、そのままだっと切りかかった。
 「あああ!!」と大声を上げて打ちかかった男の棒を軽くいなすと懐に入り込み、得物を持った方の腕を振りかぶる。
 ゔ、と鈍い悲鳴を上がて男は崩れ落ち、その間を狙って暗緑色の男を殴打しようと棒を振り上げていた最後の男に、彼は足元の土を蹴って目くらましをした。
 最後の男がひるんだ隙に男の鳩尾に得物の柄で一撃を食らわせ、五人の男たちを全員昏倒させた暗緑色の服の男は、そのまま近くの木の幹にもたれかかっていた彼女を抱き上げた。

「あ、あの……」
「黙ってろ、すぐに増援がくる」

 彼は言葉少なく言うと、彼女を左腕一本で抱き上げ、地面を蹴って走り出した。足場の悪い山中を走るのに、彼女が体を起こしていては邪魔なのだろう。無言で顔を彼の首に押し付けられて、彼女は身を硬くした。

「…………ここまでくれば、いいか」

 どれだけか走って、男がやっと立ち止まったのは周りに藪が生い茂って見通しの悪い、木の陰だった。

「あの、」
「ん、ああ、すまない。俺だ」

 そう言って顔を隠していた覆面を下ろしたのは、潮江だった。

「俺を追ってきた山狩りだな、すまなかった。学園に戻ってここには近づかないように手を打つから……」

 そう話す潮江の服には、小さな枝や葉がいくつも絡まっていた。どこかで山狩りがいるとわかって、走ってきてくれたのだろう。彼女は堪らなくなって、潮江の着物の襟を掴んで、顔を押し付けた。

「あ、おい、何を、」
「うゔゔ、怖かったぁ、」
「……ああ、そうだな」

 潮江はそのままゆっくりと腰を下ろすと、膝の上に彼女を抱き上げたまま、幼子にするように背中をさすった。潮江の着物を濡らしながら一頻り泣いて、彼女はようやく顔を上げた。
 潮江はしょうがないものを見る目で、彼女を見下ろしている。彼女はしょぼしょぼと、顔を俯けた。

「すみません、きっと潮江さんは、私のこういうはしたないところがお嫌いなんでしょう」
「…………何の話だ?」
「だって、先ほども怒って家を出ていかれましたし、中々会いに来てくださりませんでしたし。
 きっと私がふしだらではしたない女だから、お嫌いになったのでしょう」
「いやそれは、そうではなく……。そもそも、あんたのどこが、ふ…『ふしだら』だと言うんだ」
「だって、前も潮江さんの上に圧し掛かって、今もこうして恥知らずに膝の上に座り込んでいて、」
「こ、これはすまない、俺が……!」

 やっと今の体勢がどういうものかに思い至った潮江が、慌てて密着した体を離そうとしたが、ぐずぐずと泣いている彼女の顔を見て、ふと思い直したような顔つきになる。

「あんたのことを嫌いなんかじゃない、そうじゃないから、逃げて帰ったんだ」
「? ……どういう、」
「伊作と、夫婦になるんだろう。なのに俺はあんたに懸想してしまったから、だからあんたの顔が見てられなくて、逃げて帰ったんだ。
 すまなかった、あんな真似をして、驚いただろう」
「……? いえ、待ってください。驚いたは驚いているのですが、えっと」
「なんだ」

 潮江は気まずげに、きょとんとした表情の彼女から目線を逸らした。

「まず私が善法寺さんと夫婦になるって、どういうことですか?」
「……我々忍術学園の六年生のうちの誰かから、婿を取るのだろう」
「……何の話です? 確かに忍術学園の六年生と仰られる方は、善法寺の他に立花さんという方と、食満さんという方がお越しになりましたが、一度きりしかお会いしていません」
「しかし伊作は、近頃ここによく来ると」
「はい。忍術学園へ薬や元になる薬草を卸す契約を結びましたので、その荷の引き取りに来られます」
「……伊作と最近仲がいいのでは?」
「まあ善法寺さんは柔和な人柄ですけれど、別に夫婦とかそういうことは、何も」

 そう聞いて、潮江はへなへなと体を木の幹に預けた。なんということだ、全くの自分の勘違いだったのではないか。こんな阿呆な顛末を知られたら、仙蔵などは向こう三年は笑ってからかい倒すに違いない。
 そんなことを思って深々と息を吐いた潮江だったが、先ほどの話の流れで「懸想がどうの」と言ったことを思い出した彼女のほうは、頬を赤らめて俯いた。
 今さら意識してしまったが、先ほどまで彼女の背中を撫でていた潮江の手が、彼女の腰に当てられている。反対の手のひらで顔を覆ってもだえている潮江はまだ気づいていなかったが、彼もようやく自分の先ほどまでの言動を反芻し、そのまま固まった。
 そろそろと手を離して彼女を見れば、彼女も顔を赤らめて、自分の膝の上で恥ずかしそうにしている始末。ぎゅん、と胸の奥の心臓が強く跳ねて音を立てた。

「あ、あ、…では、俺は……」

 彼女は顔を赤らめて俯いているばかりで、膝から下りたいとは言わないし抱いている手を離してほしいとも言わなかった。ごくり、と唾を飲んだ。今度は、潮江が唾を飲んだ音だった。

「あ、あんたがどう思っているのか、聞かせてもらえないか」
 
 そう聞くと、彼女は顔をくしゃ、と歪めて、また泣きそうな顔をした。彼女のほそっこい指先が、潮江の着物の裾を摘まむ。

「し、潮江さんに会えなくて、寂しかったし急に行ってしまわれて、悲しかったです」
「…………」
「あなたが他の男を家に上げるのを『ふしだら』だと言うなら、もうしませんから。
 その代わり潮江さんが、私に会いに来てくださいますか? 家に上がって、一緒に過ごしてくださいますか?」

 自分に対して、女の貞淑を守ると言ったのだ、彼女は。燃えるような思考の中でそれを理解して、潮江はぐっと奥歯を噛んだ。このままここで、無碍に彼女を押し倒してしまいそうだった。

「…………承知、した」

 潮江は奥歯を噛みながら、ようやくそう言った。彼女はふにゃ、と笑って潮江の胸に頬を寄せる。帰りつくまでに、奥歯が割れて砕けることを、潮江はこのとき覚悟した。






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