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4. あなたを待つ


1.
 加茂家は、島の領主の縁戚。ひいては島巫女である彼女も、加茂家の血筋を僅かながらも引いてはいた。それは家系図を広げれば数代前に加茂家の傍流から島主に嫁いだ女の三男が島巫女と夫婦になった、という程度の話だ。それでも呪力を扱える血筋は確かに存在し、彼女の中にもそれは宿っていた。
 加茂倫也をこちらの島へ寄越す、大した術師ではないが曲がりなりにも本家の血筋、行方の掴めないところに放り出すわけにもいかぬ、と言われた島主は大層困ったようだ。
 要するに、島流だ。ここを倫也の監獄としろ、と言われたのだ。加茂家の手前、倫也を無碍に扱うことも、知らぬ存ぜぬと放り出すこともできず、島主は結局すべてをいつもの通り、彼女に押し付けたのだった。
 加茂倫也は見目のいい男だった。島の朴訥とした男たちと違い、少し長めの前髪をさらりと流し、目元には小さな黒子がある。彼を見た島の女たちは、その前髪の隙間から見える斜視気味の目つきに色めきだっていた。
 倫也は良く言えばこだわりが少なく、悪く言えば無関心だった。数年前に父と母が相次いで他界し、最近までは一人で住んでいた島社の屋敷は確かに広く部屋は余っているが、日がな一日ぼんやりとしているだけの男を細かく世話する余裕は、彼女にない。島の住民は些細なことでも島巫女である彼女を呼び出すので、倫也の生活に構える時間など限られていたが、彼は文句の一つも言わなかった。むしろ、例えば朝の水汲みを忘れていたり足りていなかったりすると、汲み足しておいてくれるような始末で、島流という本家の扱いにも不平を言わない。
 変な男だ、というのが彼女の中の倫也への、第一印象だった。

 一方の倫也のほうはと言えば、ほぼ全くの見ず知らずの他人である自分の世話を押し付けられた島巫女の女に、彼は一種の気味の悪さを感じていた。
 なんというか、自分というものがないのだ。
 島主は日に何度も彼女を呼びつけて失せ物探しから、よくわからない祈祷から、果ては自分の肩を揉めだとか。
 島主の態度は、娘ほど離れた年の彼女を案じたり可愛がっていたりするようなものではなく、倫也から見ればどう見ても汚い男の欲が絡んだ目つきであったが、彼女は都度律儀に出かけて行っては、島主の用事を片付けてくる。
 かと思えば今度は島の住人が訪ねてきて、やれ海から戻らない旦那の行方だとか、嫁が働かなくて困るから怠け癖に利く薬をくれだとか、隣村の年若い女を嫁にしたいから恋愛成就のお守りをくれだとか。
 日がな一日あれこれと言いつけられては、特に嫌な顔もせずに依頼をこなしていく。島巫女とは、つまり自分と同じ呪術師だと思っていたのだが、どうもそれだけではないらしい。

「それは、お前の仕事じゃねぇんじゃないのか?」

 一度そう聞いたことがあった。
 問われた島巫女は、至極不思議そうな顔をして「どちらのことですか」と言った。そのときの彼女は、なぜか島主の娘が数か月後に産む赤子の産着を縫っていた。島巫女が縫ったほうが霊験あらたかで、子どもも健やかに成長できるのでは?と言われたらしい。意味が分からない。
 明治の世になり、東京や大阪の都会では欧米からの合理主義や科学という学問が世相を風靡し、どちらかと言えば今までの日本人の根底にあった怪異・呪霊への恐れのようなものや、いわゆるアミニズム的な信仰が薄れてきている。倫也は、京都の加茂本家から派遣されてそういった都会にも何度か足を運んだため、なんというか、こういう土着信仰の中にずっぷりと浸かったままでいるこの島の住人の文化を見ていると、なんと時代錯誤な、という感覚に陥ってしまう。
 倫也にとって呪術師は呪術師で、呪霊を祓うものそれ以外の何者でもなかったし、それ以外のことを求められたこともなかった(最もこれは倫也が本家の息子だったため、そういう信心深い人たちからの声というのは、周りの別の人間が露払いしていたのもあるが)。
 その倫也にとって、島巫女は、纏う呪力も、持っている術式も、持ち込まれる厄介事の中でも呪霊の祓除を最優先とする判断力も、その実力も。どう見てもそれらは呪術師のものであるのに、それ以外のインチキ霊能者のような振舞いを断りもしないところ。
 そういったところが、どうにも理解できず、そして断るという選択肢を考えもしない島巫女のことをなんとも薄気味悪く思うのだった。






 まあそう言った生活の最中、島巫女が過労で倒れるのも無理はなかった。
 明け方、起床しても家の中からはコトリとも音がしない。いつも、いつ寝ているのかと思うほど、島巫女は早々と起床して家の中の雑事をしていたが、その日の朝は倫也が起きても何の音もしなかった。
 不審に思って井戸で顔を洗ってから、彼女の使っている部屋を見に行く。部屋の中で彼女の上に覆いかぶさる、どす黒い影のようなものが見えた。
 低級の呪霊が彼女の布団の上から圧し掛かって短い脚を揺らして、腰を擦り付けている。倫也はその醜悪さに気分を害して眉を顰めた。

「おい」

 声をかけるが、布団の中の島巫女はうなされる声を上げるばかりで、呪霊を祓いもしない。滑稽に彼女の布団に腰を押し付けていた呪霊は、倫也を見てにんまりと笑った。その笑みがあまりに下卑ていたから、倫也も頭の奥が迸るように怒りが湧く。手のひらに呪力を貯めて、そのまま手刀で薙ぎ払った。呪力を無為にぶつけられた呪霊は首が落ち、もろもろと崩れて霧散していく。

「おい、気味の悪いものを見せるな。まさか、楽しんでんのか」

 部屋の中にずかずかと踏み入り、島巫女の布団を無遠慮に捲る。布団の下で赤子のように丸まっていた彼女は、苦し気に眉を顰めて荒い息をしていた。浴衣から覗いた首筋が、汗でじっとりと濡れている。倫也は膝を折って島巫女の首筋に、指の先で触れた。熱い。そのまま額に触れれば、どう見ても発熱していた。

「クソが」

 倫也は舌打ちすると、彼女のかぶっていた掛布団を戻し、どかどかと部屋を出ていく。向かった先は厨で、手桶と手ぬぐいとを用意して、水甕の中の水は井戸から汲み足す。それを携えて島巫女の部屋に戻ると、水に浸した手ぬぐいを硬く絞った。彼女の体勢を整えて、前髪を払った額にそれを乗せてやる。布団からは甘く籠った女の匂いがして、倫也はこの島巫女にここまで近づいたのはこれが初めてだった、と今更ながらに思った。
 倫也は深々と息を落とすと、部屋から出て厨へ戻った。島巫女は気づいていないが、忙しさのあまり島巫女自身が食事をするのを忘れていることも多いので、倫也は自身の食事を用意したことは何度もあったし、島のシャーマニズムを一手に行き受けている彼女が幾らかの薬草や漢方もどきを常備していることも知っている。
 厨で病人食の煮炊きの準備をしながら倫也は少しだけ、幼い頃の郷愁に浸るのだった。



 父の何番目かの妾として加茂家に入った倫也の母は、哀れな人だった。
 元々が血の病持ちの血筋だ。母を嫁にもらおうとする家はなく、嫁き遅れた女というものに世間の当たりは強い。その中で現れた加茂憲倫による妾囲いの話は、母の生家の者からすれば渡りに舟だったのだろう。母は生贄のように加茂憲倫へ差し出された。
 息子の自分から見ても、母は美しい女だった。いつも少し背筋を猫背気味にしていて、髪は柔らかく、結ってもはらりと一筋垂れる。その髪を払いながら、母は倫也の言葉に耳を傾けた。柔らかい髪を撫でる細くて白い指先と、優しく耳朶を打つ母の声が好きだった。
 しかし、加茂家とは結局の家だったので、そんな母を慰み者にして弄んで扱う男たちがいることに気づいたのは倫也がまだ幼い頃であったし、父親の憲倫はそのことに全く関知しなかった。憲倫は、倫也にも母にも、何も興味がなかったのだ。
 倫也は加茂家の男たちに慰み者にされる母に、何もしてやることができなかった。やがて心労から寝付いた母は、ますます加茂家の中では厄介者の扱いになり、屋敷の隅の粗末な離れ小屋に倫也と二人で押し込められた。
 倫也はそのとき十になるかならないかの子どもだったが、それでも優しい母が少しでも楽になれば、とせっせと家事をして母の看病をしたし、その甲斐があって母は数年はその後も生きた。たった、数年だ。
 十二になる頃、倫也は既に一人ぼっちだった。加茂家相伝である赤血操術は発現していたが、自身の血の出血を止めることは、そも、凝固させることができないのでかなり難しく、ただ術式を行使しただけで数度死にかけた倫也を、加茂家の者たちは冷血な眼差しで見ていた。
 それでも、十二の頃には倫也はごく少量の出血による赤血操術でも、十も二十も年上の男たちを圧倒するような強さを見せていたし、そもそも、倫也の呪力総量であれば術式に頼らなくてもある程度の祓除ができる。体術面にも才はあり、また血液の体内操作による赤燐躍動は体質的にも問題なく使用できたので、つまり加茂家の中で倫也よりも強い男はいなかった。当主である、加茂憲倫を除いて。
 父親の加茂憲倫は、術式発現直後の倫也にいくらか人体実験のようなことをしてから完全に興味をなくしたようで、それからは一度も会話をしていない。憲倫が母を加茂家に連れてきて子どもを産ませた理由は、明らかだった。
 血の病と赤血操術が組み合わさったとき、どういうことが起きるのかを実証したかっただけだ。そして、その結果は憲倫が思うような『面白いもの』ではなかった。だから、興味をなくした玩具に憲倫はもう構いもしない。
 憲倫は数年前に出奔し今は生きているのか死んでいるのかもわからず、特に憲倫の私財だった例の寺に残された呪胎九相図については、場の穢れもあって扱いにかなり難儀しているという。倫也が放逐される前の噂では、東京地下に眠る天元大師の膝下に持ち込まれるやもと言われていた。加茂の恥を外に持ち出せるか、と長兄は怒り心頭であったが、今の加茂家にはもう父の残した穢物を管理できる人間はいない。
 加茂憲倫の築いた加茂家一代の栄華は、父という絶大で法外な術師が去ったことで、斜陽を迎えようとしていた。兄は愚かな男であったから、それを理解していない。この島へ放逐されたことにしても、遠からず加茂家を出奔しようかと思っていた倫也にとっては、実は願ってもみない話であったのだ。



 数日熱に魘されてやっと起きてきた島巫女は、縁側で煙管をふかしていた倫也に深々と頭を下げた。

「加茂様には、大変なご迷惑をおかけしたようで、お詫びのしようもございません。罰はいかようにも、お受けする所存でごさいます」
「いらん」

 倫也がすげなく言うと、島巫女は伏していた顔を上げて、ぱちくりと目を瞬いた。島巫女は、自分で言うのもおかしいが、倫也の献身的な介護を覚えていないのであろうか。そんなことを言いつける人間が、あんなに甲斐甲斐しく面倒をみるものか。

「しかし……」
「ではその『加茂様』というのをやめよ。むず痒くて敵わん」
「では、ええと、」
「倫也でいい」
「倫也様?」
「様はいらねぇ。いつの時代だ」
「倫也……さん」

 島巫女は小さく言って、そう言ってから口許を抑えた。その隠した着物の手元の先で、眦がゆっくりと下がり頬がほんのりと染まる。
 あまり表情の変わらない人形のような女だと思っていたが、どうして、なかなか。
 そうして島巫女が小さな少女のように微笑む様は、倫也の心をまるで来たばかりの春のようにまだらに淡く、軽やかに染めていってみせるのだった。






 明け方の空から鳥が数羽飛んできて、彼女の撒いた粟や稗を啄んでいく。倫也は濡れた髪をぐっと手のひらでかき上げながら、その光景を見た。
 生家にいたときからの習慣だった早朝の鍛錬はここへ来てからも結局やめることができず、続けている。噴き出した汗を敷地の端の井戸で水を被って流し、いつの間にか用意されていた手拭いで拭いつつ屋敷のほうへ戻れば、先達ての光景に行き当たったのだ。
 餌を啄む数羽の鳥に向かって、彼女は腕を差し出す。そのうちの一羽が顔を上げ、つっとその腕に止まった。

「あなたの目を、借りてもいい?」

 彼女が聞くと、鳥は数度首を巡らせてから「ピィ」と鳴いた。ずる、と彼女の呪力が吹き出て、鳥に絡みつく。術式の行使をしたのだ。
 鳥はパッと彼女の腕から飛び立ち、飛んでいく。彼女の呪力は、鳥と彼女の瞳に宿っていた。

「お前のそれは、鳥獣操術か?」
「倫也さん」

 彼女がほのかに笑んで言った自分の名前に、何となくむず痒い気分になりながら、倫也はそれでも表情を変えなかった。島巫女は空を見上げて、遠くを見る素振りをする。

「いえ、私の術式は操術などではなく、『借り物』です。先程のように『借りてもいいか』『使ってもいいか』と聞いて、肯定が戻ってこれば相手の一部を借りて使うことができます」
「今は?」
「あの鳥の視界を借りています。山の中に呪霊が湧いていたりすると、山菜取りの者に被害が出ますから。定期的に見て回っているんです」
「ふうん」

 倫也はなるべく興味なさげに聞こえるように、息を吐いた。

「倫也さんのように使いようのある術式ではなくて、恥ずかしい限りです。相手の承諾がなければ使えないので、鳥のように賢い動物ぐらいしか言葉が通じません。まして人様相手には、とても使えませんし……」
「……そうか」

 倫也は頷いた。
 使いようのない術式などではない。彼女の術式は、要するに人間相手にこそ価値を発揮するものだ。鳥程度の知能の動物へも効力があるのであれば、恐らく、やり方はどうあれ対象者に承諾させ契約してしまえばいいのだ。そしてそれは、人間相手だからこそ逆に言葉が容易に通じ、更には言葉で「騙す」こともできる。
 こんな田舎の島にいるから見つからず安穏と暮らしているが、加茂の本家や他の御三家、よからぬことを企てる輩などに見つかればこんな使い勝手のいい術式は、いいように使い潰されるだろう。それこそ、自分の父親のような者に。
 倫也はそこまで考えて、苦虫を噛んだような顔をした。

「…………その術式のことは今後、誰にも漏らすな」
「そうですよね。こんな情けない術式、馬鹿にされてしまいますよね」

 少し眉を下げて彼女が言う。倫也が言いたかったことはそうではないが、彼女自身がこの術式の価値を理解していないのであれば、そのほうが都合がいいのかもしれない。
 倫也はあえて否定も肯定もしなかった。話題を変えて誤魔化すように、手の中の手拭いを見る。

「ああ、手拭い、助かった。持ってくるのを忘れていた」
「あ、いえ。お役に立てたのなら」

 礼を言われた彼女は少し嬉しそうで、はにかみながら髪を耳にかける。ちらりと見えた耳殻が文字の通り貝殻のようにまろく色白で、朝の日差しに血の赤が少しだけ透けていた。噛んだら、その薄い皮膚は甘いのだろうか。噛まれて痛がって、泣くだろうか。倫也はそんなことをふと思い、次の瞬間には我に返って頭の端からも追い出す。
 
 倫也さん、今朝は昨日採れたこごみがありますよ、などと呑気に言うこの島巫女と暮らすのは、なかなかに苦労の多いことだった。






2.
 そうして島巫女が体調を崩したり過労で倒れることを数度繰り返し、いく月かを過ごしてから、倫也はついに我慢ならないといった調子で

「俺に対する世話が足りぬ。何よりも俺を優先せぬとはどういうことか? 俺とて加茂家の男だぞ。島主は加茂本家を愚弄する気だと、兄様にもお伝えせねばならぬか?」

 などという脅し文句を、島主相手に憚らずに言い出した。
 島主は平身低頭で島巫女に、倫也の言いつけを一番に聞くように、と言い。その倫也はといえば、島社の屋敷の縁側で寝転びながら「そこに座ってろ」だとか「天気がいいから読み物をしろ」とか「山に登って花見をするから着いてこい」などと言うので、島巫女は日の半分は倫也の側にいて、彼と同じく日に当たってぼんやりしたり倫也が取り寄せた読本を読んだり、二人で山中の山桜を見に行ったりなどした。
 
 さすがに倫也が彼女のためを思って、島主からの言いつけや呼び出し、つまり仕事を減らしてくれたのは理解したが、倫也がなぜそんな風に取計らいをつけてくれるのかは、未だわからないままであった。
 そのときになってみれば、島巫女はどっぷりと倫也という男に惚れていた。はじめは変な男、変わった男だと思っていたが、要するに彼は島主を含めた他の島の男達のように、彼女の価値を軽んじるような、ぞんざいな扱いをしないのだった。
 彼女をそんな風に扱ってくれるのは、死んでしまった父と母以来で、そう気づいたときに彼女は喪った両親の姿を倫也の中に見つけた気持ちになって、思わず泣いた。
 倫也は、普段は飄々した物言いと皮肉げな表情を変えないのだが、彼女が突然泣き出したときは流石に驚いたようで、目を丸くして慌てる様がおかしくて、少し笑ってしまった。倫也は罰の悪そうな顔をしたが、彼女をそのことで詰ったり怒ったりすることはなく、笑う彼女から気まずげに目を逸らして、空の月を見ている。
 月見がしたいと倫也が言ったので、二人で山へ登ってぼんやりと月を見ていた。父母が死んでから、花見をしたり縁側の日向で寝転んだりゆっくりと他愛ない話をしたり誰かと食事をしたり。そういった時間を持つことを、彼女は今までしてこなかった。こんなことは久しぶりだ、と彼女がいうと、倫也も「俺もだ」と小声で言った。倫也と二人だけの、か細く小さな秘密のようで、胸の奥が熱かった。
 
 きっとこれが、誰かを慕わしいという感情なのだろう。
 
 島巫女は思ったが、口には出さなかった。倫也がここにいるのは生家を放逐されたためで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。だから、過分な感情は見ないふりをしなければならなかった。

 
 されど倫也のほうでも、しまったなという後悔を押し込めないままでいた。
 島巫女に「倫也と呼べ」と言ったのは、加茂という生家の名前で呼ばれることが嫌だったから、それ以外に他意はないはずだった。
 しかし、島巫女は倫也と二人だけのときに、ほのかに微笑んで「倫也さん」と彼を呼んでくる。島主や他の人間では、立場の手前「加茂様」と他人行儀に呼ぶのに、だ。
 
 堪らなかった。
 
 島巫女は倫也を名前で呼ぶとき、少しだけ恥ずかしそうな顔をする。普段は無礼なほどに慇懃な態度を崩さない女だというのに、倫也の前でだけは普通の女らしい顔をするのだ。倫也とて、他の女と遊んだり睦言をした経験がなかったわけではない。ないのだが、それまでの女遊びと、島巫女が頬を染めて自分を呼ぶのとでは、決定的に何かが違っていた。
 だから、しまったな、と思っていたのだ。彼女に自分を「倫也」と呼ばせるべきではなかった。彼女を自分の特別にするべきではなかったし、彼女にも自身を特別に思わせるような言動は慎むべきであった。
 倫也は加茂家を追われた放逐者であったし、そもそも、自身の血の病のこともある。どれぐらい自分が生きられる身の上なのかも、わかっていないのだ。だから、島巫女をどうこうしよう、などという考えは慎むべきであった。
 しかし。それでもこれはもう、手遅れであった。
 倫也はそれをつくづくと、思い知ることになる。






 島巫女が島主の屋敷を訪ったのは、少し前に生まれた島主の娘の子ども、島主の孫の加減が悪いと呼ばれたからだ。訪ねてみれば、生まれて数か月の赤子の側には蠅頭が数匹たかっていた。
 生まれたばかりの子どもは特に生命力が強いが穢れに弱く、また母親は常に子どもが死ぬことに怯えているので、こういうものを引き寄せがちだ。仰々しくならない程度に蠅頭を祓って、他にも調子が悪いという屋敷の使用人の様子を見て回った。
 島主の部屋に呼ばれたのは、一番最後だった。
 倫也には日が暮れる前には帰ると言ってきたが、時刻はもう夕刻だ。島主の周りにも数匹の蠅頭がたかっていた。こちらは島主に昔からたかっている呪霊で、祓っても祓っても寄ってくる。それを今回も数匹祓除したが、島主はじっとりとした目を彼女に向けるばかりだった。

「加茂様とは、どうだ」
「はい。島主殿のお取り計らいのおかげ様で、つつがなく御過ごしになられているものと存じております」

 そう言って彼女は頭を下げる。いつもであれば島主はある程度満足そうに「そうか」と言うのだが、今日は何も言わなかった。不思議に思って、そっと頭を上げる。と、そのとき、島主の太い指が彼女の頬を掴んだ。

「加茂様にはもう抱いてもらったのか?」

 そのままぐい、と顔を持ち上げられて、島主の濁った目が自分を舐める。言っている意味がわからなかった。島主は舐めるような目線のまま、ぐっと引き伸ばされた彼女の首筋を見ている。島主は力任せに彼女の体を畳に押し付けると、巫女服の襟ぐりを大きく開いた。

「おやめくださいませ、」

 大声を上げようとしたが、それよりも前に頬を強く叩かれる。愕然とした。島主の濁った目が、襟を広げられて晒された彼女の胸元をじっとりと見ている。

「いいではないか、どうせあの加茂の出来損ないにも毎夜抱かれているのだろう。儂にも少しぐらい、おこぼれをくれんか」

 島主は下卑た笑い方をしながら、下腹部を彼女の腰に擦り付けた。ぞ、と背中に怖気が走るが、彼女は何も言うことができない。そうだった、倫也といて忘れていたが、彼女は島の中でこういう扱いをされる人間だったのだ。
 島主の太い指が胸の晒しを力任せに破いて、ぐにぐにと乳房を揉みしだかれる。どうして忘れていたのだろう、どうにもならない。彼女はいつも、いつだってこういう立場のはずだった。母だって。

「お前の母は、盗られたからなぁ。儂が先に目を付けておったというのに、兄のいうことも聞けぬ馬鹿な弟だったわ」

 島主が母に懸想していたことは、知っていた。じっとりと暗い目で母を見ることが、幼心に怖くて仕方なくて、島主に会いに行くたびに泣いてばかりいた。可愛げなのない子どもだ、とたびたび打たれた。
 島主の目が、いやな湿度を孕み始めたのはいつからだろう。少しずつ体が成長していくたびに、島主の目は湿り気を帯びて、どんどん嫌なものになっていった。昔、どこかで聞いた怖い昔話の、大きくなったら食われるために買われる少女の恐怖とはこういうものだろうな、と思ったことがある。違うのは、少女は勇気と機転で飼われた部屋を逃げ出したが、彼女は恐らく逃げられないだろうということだけだった。
 ああ、食われるのだ。今、ここで。
 彼女は思った。忘れていた、この恐怖と逃げることのできない絶望を、倫也がいたから、忘れられていたのだ。
 だから。

「何してる」

 音を立てて部屋の障子が吹き飛んでいった。外から「おやめください!」と制止する声が聞こえるが、障子を吹き飛ばした張本人の倫也は意にも介さず、ずかずかと土足のまま座敷に上がった。
 冷えた目線で彼女の上にのしかかった島主と、服を肌蹴られてあられのない恰好の彼女を睥睨すると、島主の首を掴んでそのまま座敷の奥へ投げ飛ばす。部屋の奥までもんどりうって転がった島主は、緩んだ下帯にもつれて絡みながら、苦々しく倫也を見た。

「何をなされる! 加茂様!」

 倫也は何も言わず彼女の着物の合わせ目をぎゅっと閉じ羽織でくるむと、そのまま横抱きに抱え上げた。彼女は倫也の着物の端を握り、強く瞼を閉じて彼の胸に額を寄せた。

「さすがにこの狼藉、本家にもお伝えさせていただく!」

 そう言われても、倫也はぴくりとも表情を変えなかった。腕の中に彼女を抱え、そのまま座敷から降りる。わなわなと震えて倫也を見ている島主を一度だけ振り返ると、よく通る声でこれだけを言った。

「死ね」






 倫也に抱えられて島社の屋敷までの道を戻ったが、途中でどうにも体の震えが止まらず、見かねた倫也は山中の木の根元に彼女を降ろした。

「おい、しっかりしろ」
「も、申し訳ございませ、」
「息をしろ、少し落ち着け」

 言われた彼女は歯を食いしばって震えを止めようとしたが、島主に圧し掛かられた恐怖は簡単には薄れなかった。じわじわと涙が目元を濡らして、垂れていく。すん、と鼻を鳴らした彼女を、倫也は痛ましげに見た。

「すまない、もっと俺が気を付けるべきだった」

 彼女が体調を崩したところを初めてみたとき、布団の中の彼女にいやらしく腰を擦り付けていた呪霊は、今見れば島主の妄執から生まれたものだったのだ。あの呪霊を見ていたのに、むざむざ彼女を一人で行かせた。思わず謝罪した倫也に、しかし彼女は慌てて首を振った。

「違います、倫也さんのせいじゃ、」
「……すまん」

 それでも、倫也は後悔が抜けないのだった。自分が彼女にもっと冷たく、何事もないように接していれば島主がああして暴走することを防げたのではないか、もっとうまく自分が立ち回っていれば彼女が謂われなき誹りを受けることもなかったのではないか。
 島巫女はそうして小さく謝罪する倫也に、何度も違うと首を振った。違う、違う、きっと私が悪いのだ。

「違うんです、きっと私が倫也さんを好いて、懸想したから、島主が怒って……」
「……だから、」

 そうやってお前を篭絡したような、俺が悪い。

 倫也は呟いて、そのまま腕の中で泣いていた島巫女の首に片腕を回し、唇を吸った。んぅ、と彼女は小さく声を上げたが、さして抵抗することもなく、倫也の着物を握っている。一度擦り合わせればもうやめることなどできなくて、倫也は甘く彼女の唇を噛んだ。舌先で口をこじ開け、怯えるように縮こまった彼女の舌を唇で食んで吸う。舌先が触れると、脳髄が痺れるように甘く震えた。
 木の幹に彼女の体を押し付けて、髪を乱しながら唇を吸う。ちゅく、ぴちゃ、と淫靡な水音が聞こえ、ずくずくと腹の奥までが重く痛む。は、と一度息を吐いて口を離すと、同じように息を吐いた彼女は甘ったるく瞳を閉じていて、そして少しだけ瞼を持ち上げた。
 その濡れた眼差しに、ぞくぞくと背筋をよろしくない快感が走っていく。

「……帰るぞ」

 言った倫也に、彼女は指先で倫也の着物を掴んで「はい」と頷いた。






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