前回読んだ位置に戻りますか?

この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
あなたは18歳以上ですか?

3.

「 つかわせて 」

 七海建人の誤算は、役目を与え彼女を呪霊から引き離したところにあった。
 彼女と行動を分けたのち、彼はそのまま通路を奥へ進み例の『赤の女』――呪霊を始めに見つけた奥の大空洞を目指した。道中にも空のウロを一つ見つけたが、今のところ次の被害者が出たという話は聞いていない。ざっと見て、この通路には十以上のウロがあったし前回の戦闘時に横目でみた限りでは、同じような通路が奥の大空洞の反対側にもあるように見えた。この発光する管がそちら側にも伸びていたのだ。
 呪霊は、やはり奥の大空洞の中にいた。一番奥のウロの前に佇み、じっとそれを見上げている。なんとなく眼差しが彼女に似ているな、なんてことを思って、すぐに取り消す。万一留めを刺す前にあの呪霊に彼女の面影を見てしまって仕留め損ねたなんてことになれば、目も当てられない。
 七海は少し悩んでから、そのまま大空洞の中へ足を踏み入れた。気配を殺しもしていない、普段どおりの仕草だった。
 赤の女は緩慢な動作で七海を振り返った。

「そのウロの中には、何がいるんですか? 加茂倫也ですか」

 呪霊に話しかけるなど、普段であればしない。しかしこの呪霊は何故か、何かの目的があってこの機構を動かしているのではないか、そう思っていた。
 女はしらっとした顔で七海を見返したまま、何も言わない。言葉の通じる呪霊のほうが少ないし、言葉の通じる呪霊などは総じて等級が高い。女がすい、っと手のひらを動かしたのと同時に、七海も地面を蹴った。
 しぃん、きり、らん、しゃん、
 刃と刃の触れ合う甲高い音が空洞内に響いている。女は両側に刃のついた、二枚刃の手裏剣のようなものを周囲にいくつも浮かせると、指先でそれを払って投げて寄越した。走ってそれを避け、そのまま呪霊のほうへ突っ込んでいく。
 奥のウロに近づかれるのは困るのだろう。女もそのまま七海のほうへ向かって、突っ込んできた。赤血操術は近中長のどのレンジにも秀でた術であるが、行灯袴のような長い袴と、長い羽織を着た女では近接戦闘が得意にはどうも見えない。初回に戦ったときから、女は先ほどの刃を投げて寄越していたのだ。
 七海は接敵の瞬間に踏み込み、そのまま拳を女に叩きつけた。見目が女であるためやりづらいが、地割れするほどの力で地面に叩きつけられてもぎろりと剣呑な目で睨みつけてくる女は、やはり見目の通りのものではない。パン、と女が両手を打ち鳴らしたのを見て、七海は上体を反らした。赤い閃光が女の打ち鳴らした手のひらから迸る。穿血だ。
 すれすれ鼻先を掠めた血の迸りは、そのまま鞭のように撓ってこちらへ降ってくる。体を回転させてそれを避けると、そのまま走り出した。崩れて落ちてくる岩を足蹴にし、空洞の中をぐるりと走る。ややあって血の閃光が止み、七海は首を巡らせた。女の位置を視認するためだ。
 そのとき。

「 つかわせて 」

 女の声がした。前回、自身が女の攻撃によって自失状態に陥ったのは術式がどういうものかはともかく、あの血の刃を受けたからだ、と七海は考えていた。実際、その認識に間違いはない。事実、彼女が血の刃を引き抜いてから徐々に七海の意識は回復したし、それからは意識の混濁はなかった。ただ、回復の理由はそれだけではなかった。
 つまり、赤の女との間に帳や結界術という障壁が展開されたため、一度チャンネルが切れたのだ。赤の女の側から繋ぎなおすには再度アクセスをかけなければならないが、彼女が側にいたため七海も意識を持ち直したことがそれを邪魔した。

 要するに、彼も彼女も赤血操術という目に見えるわかりやすい術式に気を取られ過ぎたのである。

 『赤の女』にとって、あの血の刃は受信機であった。そして、血の刃は血であるからこそ、七海の体内に残っていても誰にもわからない。それこそ、術者にしかわからないのだ。
 彼女は家入硝子の術式をうつした符で、七海建人の体を修復した。、傷を閉じた。
 血は、そのまま七海建人の体を廻り、駆けている。今この瞬間も。

「 つかわせて 」

 膝を折って崩れた七海を前に、赤の女はうっそりと笑った。七海には、彼女が、高星晶が見えていた。甘く微笑む彼女は口の端を曲げて、七海に囁く。赤の女は近づく、彼女が七海に近づき、耳元に唇を寄せる。赤い、甘い、焦がれた唇を。

「 つかわせて 」

 薄れる意識の中で、七海は思った。ああ、だから愛しい女のいる男ばかりが狙われたのだ、と。赤の女は、その者が愛した女に化けて、囁くのだ。悲しそうに、苦しそうに、もどかしそうに、甘く、優しく、愛を滲ませて。男はどうしても、焦がれた女のその表情には弱いから、だから、頷いてしまうのだ。

「 つかわせて 」
「……ああ」

 目の前の彼女は、七海の返答に至極うれしそうに顔を綻ばせた。甘く、甘く、甘い。とろけるような微笑みだった。七海は彼女のその笑みを知っている。初めて彼女を灰原から紹介された春の一日、満開の桜の下で、灰原の姿を見つけた彼女は、とろけるように微笑んだ。それがその笑みが、七海のこの報われない、許しがたい、罰されるべき恋情の始まりだったのだから。
 女は、赤の女は、祓除を恐れて大人しくしていたわけではない。ウロが空いていても、見過ごしていたわけではない。あのウロは、既に誰が入るのか決められていた。理解するべきだった。
 七海という獲物が、戻って来て餌にかかるのを、待っていただけだったのだ。












 七海が戦闘し赤の女の注意を引いている間に、中に人が入っているウロすべてに符を貼っていく。貼り終わるまでに七海が赤の女を祓い終えればそれでよし、もしそうでないのなら。
 少し前から、奥からの戦闘の音は止んでいた。甲高く刃物が擦れる音、岩が崩れる音と、鈍い殴打音。そして硬く鋭いものが岩を抉る音。
 これだけ枝分かれした道があるのだから、奥からの戦闘音を頼りにすれば、奥に繋がる道すべてを探せるのではないか? 彼女が隠れていた通路以外にもウロが並ぶ通路が恐らくある、それが探せるのではないか、と言った七海の言は正しかった。
 彼女はもう一筋あったウロの並ぶ通路も見つけ出し、無事に符を貼ることができた。しかし七海からは祓除完了の連絡はなく、奥からの戦闘音はもう止んでいる。七海は祓除が完了したら真っ先に彼女に知らせると言っていた。
 七海は、約束を違えるような人ではない。では何か。約束を守れなかいような何かイレギュラーが発生したか、もしくは。
 彼女は符をいくつか握ったまま、そろそろと通路を奥へ進んだ。通路奥には七海が話していたように大きな空洞があり、その奥には同じく話の通り大きめのウロがある。赤の女はそのウロの前にいた。そして、七海は。

「七海さん!」

 思わず何も取り繕うことができず、彼女は叫んだ。体にいくらかの戦闘の跡を残した七海は、赤の女から少し離れた場所に倒れている。
 赤の女が、ちらりとこちらに目線を寄越した。ぐっと体を固めるが、女は興味がなさそうにふいっと視線を戻し、またウロを眺める。なんというか、彼女には興味がなさそうだった。そろそろと空洞を横切り、赤の女を刺激しないように静かに七海に近寄る。移動しながらもじっと観察していた赤の女は、ウロから視線をそらさなかった。
 ウロの中には、一体何がいるのか。
 彼女はじっと目を凝らした。暗闇の中で、一番奥のウロだけが発光がひと際強く、逆光で中身が見えない。じりじりとだが駆け寄った七海は、虚ろな目をしていた。体を抱き起して頭を膝に乗せて支え、彼の手のひらを握る。目立った外傷はないが、この虚ろげな状態は以前の戦闘時に血の刃を受けた後と全く同じだった。
 赤の女は、何も反応しない。彼女は顔を上げて、きっと女を睨んだ。そして、その奥のウロ。かなり近くまで近寄ったことで、ウロの中身が見えるようになった。その中には。

「男性……?」

 他のウロと同じく、内部には男性がいた。年の頃は二十代中頃だろうか。目を閉じていて目鼻立ちはわかりづらいが、目元に小さなほくろが見える。

「それ、まさか、加茂倫也さん、ですか……?」

 彼女は呆然として聞いた。赤の女はちらりとこちらを一瞥したが、大した反応はしない。ウロに手をかざしじっとそちらを見る。口許は動かなくても、会話をしているように見えた。
 その表情が、ウロに触れた指先が、眼差しが。
 彼女には、何となくだが伝わった。この女は加茂倫也の娘とか、子孫などではない。ウロの中の加茂倫也を見つめる女の目は、見覚えがある。灰原雄を見ていたときの自分の目、うっそりと、蕩けるような眼差し。彼女は思わず、掴んでいた七海の手のひらを強く握った。

「あなた、加茂倫也を愛していたの」

 手のひらの中の七海の指が、ぴくりと震えた。彼女がはっとして七海を見たのと同時に、女が動いたのが視界の端で見えた。彼女は顔を上げて、七海を胸に抱き込んだまま符に呪力を込める。展開された結界が、女の放った血の刃を弾いた。
 彼女は展開された結界符を七海の上に置き、だっと駆け出した。血の刃は彼女を追ってくる。だから七海から離れれば、七海には今は危害を加えるつもりはないのだろう。それなら。
 
「七海さん!」
 
 走りながら、叫んだ。七海はやはり、外部からの彼女からの呼びかけに反応するのだ。以前同じ状態だったときも、彼女の声が聞こえたと言っていた。

「七海さん、起きて!」

 戦闘はからきしだった。いつもいつもいつも、伊地知と二人で低級呪霊に吹き飛ばされて転がされて殺されそうになって、散々な目にあってきた。毎回死ぬかと思っていた。しかし、だからこそ。
 逃げ足だけは、磨かれなければ生き残れなかった。
 赤の女が放つ血の刃を走って避け、それはいくつもいくつも背後の岩壁にぶつかっていく。パン、と甲高く音を鳴らして、女が両手を打ち鳴らした。穿血、彼女は何枚目かの結界符をを展開すると、瞬間に赤い閃光が走った。閃光は結界の上を滑り、それもまた岩壁を抉っていく。

「七海さん!!」

 もう一度叫んだ。結界の中の七海は動かない。彼女は走りながら、女に向かって符を投げる。女は軽くそれを払い、薄く笑った。嘲りの笑みだった。それでも、繰り返し走って逃げて、符を投げる。

「起きてよ、守ってよ、ねえ、」

 叫んで、喉が痛い。ぜえぜえと息が切れる。それでも走ることを止めたら、女に捕まってしまう。七海との約束が果たせなくなってしまう。

「七海くん!!!」






4.

「七海くん!!!」

 霞む意識の端で、名前を呼ばれた。
 ゆうくん、と甘く彼女が灰原を呼ぶように、彼女は七海を「七海くん」と呼んでいた。伊地知のことも同じく「伊地知くん」と呼んでいたので、なんというか、ある程度親しい友人はそう呼称していたのだろう。
 学生時代、彼女がそう自分を呼ぶのが、なんとなくくすぐったく思ったことを思い出した。べそをかいて呪専に入ってきた彼女に、七海はどうして彼女を呪専に誘ったのか、と灰原に聞いたことがある。彼女はどう見ても、守られる側の人間に見えた。

「ンー、だって一緒の学校じゃないと、側にいれないだろ」

 至極当然のように言ってのけた灰原に、七海は彼の捻じ曲がった独占欲を見た。灰原は彼女の命が危険にさらされることよりも、彼女を確実に手に入れる方法を選んだのだ。灰原が妹には絶対に呪専に来ないよう、言いつけていることを知っていた。灰原は身を守るすべが呪術を学ぶことだけではないことを理解している。だから、猶更だった。

「大丈夫だって、僕が守るからね」

 愚かな、浅はかな考えで、約束だった。七海は今でも思う。浅ましい征服欲で、独占欲で、灰原は彼女を呪術の世界に引き入れて、守れもしない約束をして彼女を縛った。それでも、七海にはそれを選んだ灰原の気持ちが、理由が、わかってしまったから。だから何も彼を批難することができなかった。
 七海も同じだった。彼女に呪術界から離れるように言うことはできなかったし、思い出させるように彼女に連絡を取って、死んだ灰原を、そして自身の存在を彼女に何度も、何度も、思い起こさせた。
 自分が守るから、だから大丈夫だ、なんてお為ごかしの嘘を言い続けて。
 だからせめて、自分たちの嘘を真実にしなければいけない。彼女を自分のものにしたくて縛り続けてきたのだから、せめて「守る」と言ったその嘘だけでは、真実にしなければ。

「七海くん!!!」

 叫んだ彼女の声に、がっと目を見開く。朧気な意識の中の彼女はずっと甘やかに七海を呼んでいたが、それ以上に赤の女と対峙して、涙声になりながらも倒れず立っている彼女が、何よりも美しい。

「こちらへ!」

 七海は起き上がって一番に彼女へ手を伸ばした。涙目だった彼女は、意識を取り戻した七海を見るとぎゅっと奥歯を噛みしめる顔をして、同じように手を伸ばす。彼女の体を抱えると、鉈を握って七海は走った。赤の女の穿血が、空気を切り裂いて唸る。岩壁を蹴ってそれを避けると、鞭のようにしなるそれは岩肌をがりがりと削っていく。

「符は?」
「張れました。ここの岩壁にも、七海さんの術式の符を幾らか散りばめています」
「承知しました」

 抱き込んだ彼女に小声で聞くと、彼女は七海の首に抱き着いたままそう返事した。気分が良かった。十年ぶりに彼女が自分を「七海くん」と呼んだからだろう。三度走ってきた穿血をまた身を捩ってよけると、七海は淡く微笑んだ。
 呪霊は気づいているだろうか。七海がなぜこんなに余裕を持って呪霊の攻撃を避けられるのか、なぜこの先どうするか、という焦りを見せないのか。
 七海は彼女が散らしたという符の位置と、空洞内に走った赤の女が付けた幾筋もの攻撃の跡を見て、ぐっと踏み込んだ。

「『十劃呪法』」

 七海の術式は、対象に対して七:三の分割を施し強制的に弱点を作り出す。その対象は人間や呪霊だけではなく、無機物も対象になる。
 がん、と鉈を叩きつけた。
 女にではなく、空洞の岩壁、壁面に。ぼご、と鈍い音がして、七海そのまま彼女の体を抱き込んで、駆けだした。ぱき、ぴきり、岩が割れていく嫌な音がする。がき、がら、ご、

「早く逃げたほうがいいですよ」

 七海は呆然として崩れていく岩壁を見つめる、赤の女へ言った。赤血操術の術者なら、穿血を使用することは想定内だった。そして、その穿血が岩壁を抉るほどの威力があることも、これだけ地下に潜り、岩壁が湿っていて水気があるのであれば、この外には海水が満ちているのであろうことも。
 古くから使用されている術式のメリットは、先人が既にある程度の研鑽を重ね、使用方法の確立がなされていることだ。そしてデメリットは、弱点についても研究されつくされていること。

「『赤血操術』の弱点は、水、でしたね。御存知ありませんでしたか?」

 ごう、と岩壁から噴き出した大量の海水を呆然と見る、赤の女に囁いた。赤の女が周囲に展開していた血の刃が解け、ぐずぐずと海水に溶けていく。呪霊は徐々に空洞の中に溜まっていく大量の水を見て、キッとまるで人間の女のように七海を睨むと、そのまま一番奥のウロへ向かって走り出した。想定していなかった反応に、一瞬虚をつかれる。

「七海さん、水が」

 鈍い音を立て岩肌は水圧で割れていき、噴き出る水の量が増えていく。もう、七海の腰の辺りまで水で浸かっていた。

「岩壁の穴付近まで水が溜まれば、そこから脱出します。いいですね」

 彼女は大きく頷き、ぎゅうっと七海のシャツを握りしめる。鉈を背中に戻し、両腕で彼女を強く抱えながら、頼る相手が自分しかいないというのは、なんて気分がいいのだろうと思った。
 彼女は強く強く自分を抱きしめてくる七海にしがみつきながら、彼の背後のウロを見ていた。赤の女は縋るようにウロを見上げている。もしあの内部の人物が本当に加茂倫也なのであれば、100歳をゆうに超えているはずだ。しかし先ほど見えた内部の人物は、どう見てもまだ二十代半ばの青年だった。

「そろそろ行きますよ。息を吸って」
「あっ、はい」

 七海の言葉に、慌てて息を吸いぐっと七海の首元に、肩口に顔を押し付ける。その瞬間、見えた気がした。
 ゆっくりと、ウロの中の男が目を開き、ウロの外から自分を見る『赤の女』を愛おしげに見るところを。
 瞬間、視界は大量の水に、海水に塗れた。体を押し潰すような水圧と、自分をかき抱く七海の腕の力の強さに上も下も何もわからなくなって、彼女はただ七海のシャツを握った。
 縋るように手を差し出すのは、あの女も自分も、全く同じなのだと思った。






一作品のボタンにつき、一日50回まで連打可能です。