前回読んだ位置に戻りますか?

この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
あなたは18歳以上ですか?

3.
 数日後、島主から「加茂家からの客人がある」と呼び出しを受けたのは、予想の範疇であった。
 倫也は少し考えたのち、島巫女を伴なって島主の屋敷を訪れた。彼女を無為に社屋敷に残していったとて、その間に島主の手の者が彼女に危害を加えないとも限らない。今回の事の次第によっては、島から逃げ出すべきだろう。不安そうにする島巫女の頬を一撫でして、倫也はそう考えていた。
 島主の屋敷まで来ていたのは、加茂家傍流の男であった。倫也も本家で数度見かけたことがある。気まずそうに目を逸らす島主に通された客室の一で、その男は待っていた。

「『穿血』」

 顔を見せた倫也に、その男がいの一番に狙ったのは倫也ではなく、隣の島巫女だった。倫也は呪力強化を走らせて彼女の体を押して庇ったが、代わりに自身の体はその穿血で撃ち抜かれる。血の閃光は倫也の横腹から反対側の腹へ、まっすぐに撃ち抜いた。

「四乃の言ったとおりだ。倫也は女がそばにいれば、それを庇うと」

 本家の世話役の名前を出されて、倫也は納得した。四乃の入れ知恵なら、虚をついて隣の女を狙え、と彼は言うだろう。倫也が彼の母を庇って縋っていたところを、倫也が愛した女には甘いところを、彼はよく見ている。

「それは、大儀だったな」

 倫也は言うと、撃ち抜かれた脇腹から噴き出た血に呪力を走らせた。

「『百斂』」

 指先に触れた血を手のひらの中で極小に圧縮し、貯める。分家の男は倫也を撃ち抜いたことで高揚し、部屋の奥で頬を釣り上げて笑っている。倫也は左手の親指から中指まで三本をすり合わせ、部屋奥の男へ向けた。

「『穿血』」

 指先から、通常の穿血よりも細い血の閃光か迸る。通常の穿血よりも使用する血液量を極限まで減らし圧縮することで、倫也の穿血は片手でも打てるというメリットと、そして弾速を手に入れた。血の閃光は男の脳天に直撃し、そのまま横へ薙ぎ払う。ばご、と頭蓋が割れた。男は自分の身に何が起きたのか理解しておらず、「ォあ?」と反射反応的な、不可思議な声音を上げる。倫也はそのまま穿血を振って戻し、その男の体を斜めに大きく裁断した。

「あ、ああああ、人、人殺し……!!」

 背後で島主が腰を抜かした悲鳴が聞こえる。倫也は体に呪力を走らせたまま、隣で呆然と死んだ男を見ている島巫女を抱え上げて、島主の屋敷から走り出した。血塗れの倫也と島巫女に、通り過ぎる人たちの悲鳴が上がる。行く宛などなかったが、倫也にはもうどうすることもできず、ただ島の社へ向かって走っていた。遠く、逃げてきた島主の屋敷から、怒号と悲鳴が聞こえる。
 
「倫也さん、」

 いつかそうなる気がしていた。
 あの分家の男は、四乃の名前を出した。つまり彼は、兄が、加茂家の現当主が差し向けたものなのだろう。
 兄がもうお前はいらぬと、死ね、とあの男を差し向けたのだ。

「倫也さん!」

 変わらず倫也に抱きかかえられたままの島巫女は、倫也の服を握って泣きそうな顔をしている。倫也は社までの山道を登りながら、ずくずくと流れていく血を、自分の命を思った。

「倫也さん、もう、血が」
「……ああ」

 血の病であることは、彼女には話してあった。倫也がここまで歩いてきた道筋に、倫也の血が点々と落ちている。下半身は血塗れで、もうどうにも、倫也は助からないだろう。震える足に鞭を打つように、倫也は彼女を抱えたまま山を登り、屋敷の玄関先で彼女を降ろすとそのまま床に倒れた。泣いている、彼女の声がする。

「ねえ、ねえ。いやだ、倫也さん、ねえ、」

 いつかそういう日が来ることは、わかっていた。だから倫也は島巫女を愛してはいけなかったし、島巫女に自分を好かせてはいけなかった。それでも、島巫女が倫也を見て小さく笑うから、他の男には見せないあどけない笑みで、少女のような一途さといっそ淫靡なほどの純真さと熱情で、倫也を見たから。
 おおおお、と遠くで鬨の声がした。人殺しの倫也を追って、島主たちはここまでやってくるだろう。自分の荒い呼吸の中、倫也は呆然としてその声の先に目を向ける、彼女を見た。彼女の瞳がまあるく開かれて、そして倫也を見る。透き通った、水晶のような瞳だった。

「、いやだ」

 島主たちはこの屋敷まで押しかけてきて、そして倫也に止めを刺し、彼女をどうするのだろう。わかっている。そうならないために、倫也は立ち回るべきだったのに、これでは、もう。

「いや」

 彼女ははっきりと一言いうと、倫也の体を抱えて屋敷の奥へと進んだ。社屋敷には、拝殿や幣殿といったものは何もないが、ここには地下の本殿へ通じる入口がある。地下の空間を島の人間は代々神聖だと崇めて、そこへの入口にこの屋敷を建てて巫女を置くことで奉ったのだ。
 屋敷の一番奥にある地下への開き戸を開けて、その中に倫也の体を運び込む。倫也には、もうほぼ意識はなかった。地響きの音がする。島の男たちがこの屋敷へ向かってきているのだろう。

「使わせて」

 倫也を死なせたくなかった。彼女はその一心で倫也へ言った。

「あなたの体、術式、すべて使わせて。私のものにさせて、あなたのすべてを、全部」

 彼女の術式は「借り物」だ。契約が成れば、彼女は他人のものを自分のもののように使うことができる。倫也はぼんやりと、薄れていく意識の中で彼女を見て、そして小さく笑った。

「ああ、……いいよ」

 俺のすべてをくれてやりたかった。愛も、未来も、生きる意味もすべてをこの女に差し出して、ただ女に笑っていてほしかっただけなのだ。倫也の首肯に、女の呪力がぞぉっと跳ね上がる。ぞろぞろぞろ、と女の体から付着した倫也の血がまろび出て、暗い地下の通路を駆けていく。
 暗転。
 倫也の記憶は、そこでぶつりと、途切れる。












 のったりと絡んだ闇が、行く先を見えなくして空気を重くしている。男はわざと足音を立てて自身の存在を知らすと、古びた祭壇の手前で顔を上げた女を見た。

「すばらしいね」

 男は言った。ここへ降りてくるまでの道すがらには、何人もの男が血を流して絶命していた。みな何かに穿たれるか、体を横半分に切断されたものもいた。岩肌に真っ直ぐと走った亀裂は、穿血の跡だろう。
 その奥にはまた幾人もの男が倒れており、赤い血が、大きなウロの中を廻っている。奥で呪力を使っている女の瞳はらんらんと輝き、場に踏み込んだ男を強く睨んでいる。

「それは、自分で自決してのかい? 人間のままでは呪力総量が足りない。だから自ら呪霊に堕ちて呪力総量の底上げをし、術式対象人数の拡張をした」

 ウロの中を廻った血は、数人の男たちの中をぐるぐると巡っている。男たちは血の流れによって数珠繋ぎに接続され、一番奥の呪霊の女は、最後にその血が接続された先。膝の上に大事そうに、一人の男を抱いていた。

「私はね、倫也にはそこまで期待をしていなかった。血の病だ、と聞いたときはいい縛りになり『赤血操術』にも違う流れができるのではないか、と思ってね。
 それがどうだ、蓋を開ければただ呪力量が増えただけ。倫也の術式の使い方は確かに他とは違ったが、それは術式の可能性の拡張ではない」

 女は何も言わない。

「それがどうだ? 倫也はすばらしい伴侶を見つけた。倫也の赤血操術を借り受け、そして自らが呪霊と成って島の男たちの血と体を借り物とした! 今の粗削りな状態では持って五十年だが、形を整えてあげれば君たちはいくらでも、生きていける。
 ああ、ああ! ……倫也。よかったね、君はずっと生きたがっていただろう。
 私も協力するよ、いや、させてくれ。君たちがいつまでも二人で生きていけるように、私が力を尽くそう」

 男の姿形は、既に倫也の父のものではなかったが、しかし加茂憲倫――羂索は、まるで父親然として、女と倫也に話しかけた。
 加茂憲倫、羂索の愛はいつも条件の上に成り立った。他者が彼の役に立つのか、彼のいう『面白いもの』になり得るのか。そしてそれを満たした今、欠片も興味のなかった彼の末子は、親としていく先を案じてやるべき『大事な息子』になったし、その側にいる彼女もまた、そうだった。
 心が、震える。きっと我が子の婚姻を見るというのは、こういう気分なのだろうなぁ、と。
 血に濡れた呪霊と、他者の血と体を食い潰すことでしか生きられなくなった息子を見ながら、羂索は思っていた。


 
 そうして女と倫也は生きていくことになった。島の地下で男達を倫也の体外循環装置にして、失われた倫也の血と、壊された体の代わりとして。
 血を生成するための循環装置となった男たちには寿命があるから、だから死ねば都度補填した。羂索は島民の記憶を混濁させ、島主が死んだことも加茂家との繋がりも、加茂倫也がここに来たことも、全ての記録を曖昧とさせた。
 血が、男が、人間が必要だった。
 女の凶行によって目減りした島の人間を増やすため、羂索はいくらか島に仕掛けと伝承を入れ込んだ。島の祭りもそれのうちの一つに過ぎない。やがて平成の世になって、島への観光客が爆発的に増える兆しが見えたときには、羂索はそのうちのホテルの一つに地下空洞と繋がるような仕掛けを施した。
 倫也は、呪霊となった女の呪力が混じった血を体内に巡らせている間に生きたまま、思いもかけず半呪霊化していた。それは羂索の思い望んだ『思いがけない、面白いもの』。確かにそれの内の一つであった。

 そうして彼女と加茂倫也は、生きた。百年の歳月を、暗いウロの中で、二人きりで。
 生きてきた。












 がはっと喉の奥から水を吐き出す。身をかがめて彼女を覗き込んでいた七海はほっとした表情で、彼女の前髪を払った。

「大丈夫ですか、気分は?」
「最悪ですが、命に関わるまでの不快感はありません」

 彼女はそう言って体を起こした。地下の空洞からは脱出できたようで、ここは島の北部にある浜のうちのどこかだろう。背後には、切り立った崖が見える。同じく七海は濡れた前髪をかき上げ、そしてはっと海を見た。
 海の中から人間を引きずって、ぐっしょりと濡れた女が出てきた。いや、あれは、人間ではない。あの呪霊の、赤の女だ。彼女と七海は身を硬くして臨戦態勢を取ったが、女のほうは、彼女たちに構う素振りもなかった。

「みちや、倫也さん、」

 赤の女は抱えていた男を揺すって、まるで人間のように彼に縋りついている。『倫也』と呼ばれた男は、初めは死んだようにぴくりとも動かなかったが、少しの沈黙のあと、小さく指先を動かした。

「すまない」

 か細く、謝罪の声が聞こえた。赤の女は男の胸に押し付けていた額を離し、男の伸ばした手を自分の頬にあてる。ぽろぽろと女の眦から涙が零れていった。小さく首を振る。

「俺はもう人間じゃない。だからもっと早く逝くべきだった」

 女は首を振る。

「お前と少しでも長く、生きてみたいと思ってしまった。それをあいつに、父親につけ込まれたんだ。
 だから、すべて、俺が悪い」

 女の体の端から、もろもろと体が崩れていく。女は崩れていく自分の体など意にも介さず、男の言葉に首を振ってほろほろ泣いていた。声なき声が、赤の女の口から漏れる。あなたはいつだって、そう言う。女の言葉が、彼女には聞こえた気がした。
 女は、赤の女は、多分加茂倫也を愛していただけだったのだ。愛していたから倫也に死んでほしくなくて、そのためなら方法を選ぶことはしなかった。どんな方法だって、倫也が生きていてくれるなら、それでよかったのだ。
 
 ああ。彼女は思った。
 多分自分は、赤の女と同じなのだろう。

 方法があったか、なかったか。それだけの違いで、方法があったから赤の女は加茂倫也を生かし続け、方法がなかったから彼女は灰原雄を見送った。
 燃えた後の薄い灰が崩れていくように、女の体はほどけていき、追って倫也の体もほどけていった。二人は消えてしまうその一瞬まで強く互いの手を握り、見つめ合っていた。
 朝焼けの風に乗って、崩れた呪霊の残滓が飛んでくる。彼女は思わずそれを捕まえようと手を伸ばしたが、するりと風に流れて、空へ、まだ明けきらない青い水晶のような色をした北側の空へ、抜けていった。

「いって…しまいましたね」

 同じく呆然と光景を見守っていた七海と目を合わせ、彼女は呟いた。加茂倫也と赤の女。あの二人に何があったのか、なんてことは彼女にはわからないし、それは七海も同じだろう。ただ、本当に純粋な感情の果てにあの二人がああなってしまっただけのような気がして、彼女は胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
 目を細めてこちらを見る、七海の碧玉色の瞳が光を弾いている。きれいだな、と思った。

「…………伊地知君に連絡をして、事後処理を始めましょう。私達もいつまでもここにいては、風邪をひく」

 確かにそうだった。まだ日中は暑いとはいっても、明け方の海辺は自分が濡れていることもあり、かなり冷えている。言われた途端に寒さが身に染みて、思わず身震いをした。そっと、背中に腕を回される。

「早く連絡を。島の反対側では、車での迎えは時間がかかりますから」
「は、はい」

 七海の腕が、体が海からの風を遮って、そしてじんわりと温かい。彼女は七海の腕の中で、近くの港で船をチャーターして待機している伊地知に連絡をした。伊地知は30分ほどで迎えに行けると言った。
 伊地知との電話を切ると、海が満ち引きする音だけが聞こえる。その波の音を聞きながら、彼女は眼前の七海の体を見た。厚い胸板にシャツがぴったりと張り付いて、微かに上下している。
 過去の学生だったときの七海と今の七海は違ったし、それは彼女も同じだ。そっと視線を上に向けると、七海はじっとこちらを見下ろしていた。
 灰原だけが、姿を変えず変わらず色褪せず、記憶の中で笑っている。
 どうしていくことが『正解』であるのか。
 彼女も七海も、もう、わからないままでいた。






4.
 元々七海の術式と、赤血操術では相性が悪い。長距離からでも初速があり、また発射後にも鞭のようにしなる穿血を使う赤血操術者に距離を取られば、近中を得意をする七海の術式では正攻法では太刀打ちできない。やはり水に沈めてしまうのが一番なのでは、という結論に至ったが、水に沈めてしまえばウロの中に囚われた人たちの命はない。
 だから七海が呪霊の気を引き、奥の大空洞を崩壊させるだけの術式をわざと使用させている間に、彼女が結界符をウロに貼っていく。結界符の封印は一日程度であれば持つので、呪霊を祓ってから被害者を助ければいい。
 そのために伊地知と相談をして呪専の息のかかったダイバーを手配したし、家入の本土の病院への出張手配もしてもらった。
 結果、今回の被害者の四名は無事に救出することができた。呪霊にもがれた手や足も、ウロの中で見つけることができたため、家入がそれらを繋ぎなおし、すべての記憶を混濁させて帰すことになった。幸いまだ事件は世間の明るみにはでていなかったので、島の北側の洞窟が崩れたことと合わせて、男たちはその近くに浜に打ち上げられていた、とした。
 そのままよくわからない「神隠し」というものに合ったのだ、ということにして、警察の捜査も何もかもを有耶無耶にすることにした。支配人だけはある程度の真実を知っていることになるが、彼は今後も呪専の良き協力者でいてくれるだろう。
 ただ、四名以外の老人たち、過去の被害者たちは残念ながら助からなかった。元々、呪霊が呪力で血を巡らすことによって無理矢理生かされていたような状態だった。ウロの中では生存できたが、ウロという生命装置がなければ疾うに死んでいた。
 ウロの中に入ることがなければ違ったが、今の状態ではもうウロから出て生きることはできない。彼女の結界符の効果は一日ほどなので、残された老人たちをウロから出す決断をしたのは、結局夜蛾だった。老人たちは島の北側に墓を建て、弔うのだという。
 そして彼女が地下の通路で採取した黒い染みだが、科学鑑定の結果、あれはやはり人間の血で、しかも赤血操術の術者の血だった。加茂憲紀の協力の元、遺伝子鑑定にも出しているがまず間違いなく、あれは加茂倫也の血なのだろう。
 
 あの赤の女と、加茂倫也。二人の間に何があったのかを知る術はないし、ホテルのダクトを地下通路へ繋げたのは誰なのか。地下の空洞は明らかに人の手が入っていたように見えたがあれは元々何だったのか、何をしていたのか。そういう解決できていない不明事項は、まだ浮かんでいる。
 それでも本土側で病院や被害者家族とのやり取りを請け負った伊地知と別れ、島のホテルへ戻って来た七海と彼女は、任務完了の疲労感から、そのままふらふらとベッドに倒れ込んだ。
 まだ少し、島での残務を片付ける必要がある。それでも、二人とも既にぼろぼろだった。夜通し地下に潜ることを二日続けた上に、地下から海を泳いでの脱出、そしてウロの中の被害者などの救出。地下空洞へ突入してから、日付はいつの間にかもう丸一日経っていた。七海も彼女も、シャワーを浴びることもできずベッドに沈む。ベッドに倒れ込んでからの記憶は、ない。




 島での残務を終わらせたその日は、例の島の祭りの前日だった。島内で見る観光客の数はぐっと増え、島内の住人にもなんとなく浮足立った雰囲気が見て取れる。
 支配人に残務が終わったので、明日の船で帰ると告げると、よければもう一泊して島の祭りに参加していかないか、と彼は言った。外部に漏れることなく事件を解決した七海と彼女に、支配人は大げさなほど感謝をしているようだった。

「私もお世話になったあなた方に、少しでもお返しがしたいんです。
 どうです、地元民の我々から見ても、ロマンティックなお祭りなんですよ。旦那さんともいい思い出作りになるのでは?」
「はぁ…………」

 七海と夫婦でないことは、機を逃して言い出せずにいて、そのままだ。もう事件は解決したので正直に話していいのだが、事件解決後も疲労から眠たくて仕方がなくて、とりあえず同じ部屋で寝て生活してを繰り返していたため、なんというか逆に言い出しにくい状況になってしまっている。
 支配人はそのまま呪専の伊地知にも話を通してしまい、伊地知からも夜蛾からもなぜか許可が出た。それを七海に話すと、七海まで「……まあ、いいんじゃないですか」などと言う。
 今となっては、七海と会話をして接することに何の衒いも苦しみもなかった。ありきたりな軽口を言い合って、七海が少しだけ口の中に端を曲げて笑う。
 学生のときよりも七海がよく笑うようになったのは、波に洗われた石が丸くなるように、月日が時の流れが七海の心を撫でて転がして、そうしてまろくしていったからだろう。その流れのひとつがきっと、灰原雄だった。
 
 ふと、会話が途切れる瞬間がある。
 何かを言わなければ、と思って息を吸うけれど、正しい形にならない。七海はそういうときに絶対に何も言ってくれなくて、結局はすべて自分次第の事柄なのだ、と彼女は思う。だって自分を見る七海の瞳は強く熱を入れた宝石のように煌めいていて、甘く熱く、蕩けているのだ。
 
 だから結局彼女は、祭りに出ない上手い言い訳を探すことができなかった。なので至極胡乱げな顔をしながらも、支配人が絶賛する島の祭りに出ることになったのだった。





 
 島の祭りは、『宵見面祭(よいみおもてまつり)』という。
 毎年、秋の新月の晩に行われるお祭りで、祭りに参加する人々はそれぞれが面をつけ、光源を祭り用の提灯のみに絞った島の寺社や、縁日の中を練り歩く。島中のほとんどの照明をその提灯と縁日の屋台のみに絞ってしまうので、真っ暗な中に連なる提灯と、それぞれが違うデザインの半面。
 そして、祭りに伝わる『面を外さずに愛する人を見つけられれば、長く幸せに暮らせる』という伝承が物珍しく、SNS上でも大受けした。
 彼女たちを呼んだ支配人のホテルは、この期間のサービスの一環として着物のレンタルもしているらしい。昼前にやっと起きた挙句、祭りの時間まで部屋でぼやぼやしていた彼女は、支配人の厚意というお節介により、部屋から連れ出されて着物を着せられ飾り立てられ、日の暮れたホテルの外に放り出された。スマホの電波は人がこの付近に集まりすぎているからか繋がりにくく、七海に送ったメッセージに返事はない。
 
 彼女は縁日の出店で苺飴を買って、それを齧りながらぼやぼやと歩いた。道行く人はみな様々な面をかぶって楽しそうに歩いている。しっかりと面をしたままきょろきょろと誰がを探している素振りの人もいれば、面をずらした状態で隣の恋人か家族と楽しそうに話しているカップルもいる。

――別に、私が面をしている必要はないのでは。
 
 彼女は思って、食べ終わった苺飴のゴミを側のゴミ箱に捨てると、半面を外そうとした。そのとき。

「雄、くん……?」

 面によって目元は隠れていた。けれど見間違えようもない。いつかと同じ刈られたうなじ、微笑んだ口許、まっすぐな背筋、揺れる黒髪。いつかの灰原雄が、道の向こうに立っていた。

「待って!」

 彼女は思わず声を上げて、駆けだした。灰原は人の波の中を抜けて、縁日の奥へと進んでいく。走っているわけでもないのに、灰原の進むスピードが速く追いつけない。港のほうから、もうすぐ花火が始まるとアナウンスがあった。道にいた人々が波のように動き、ますます人波に逆行することになる。

「待ってってば!」

 彼女は人を何とかかき分け、灰原を追った。彼はすいすいと進んでいき、そして道の端の鳥居をくぐる。鳥居の向こうには階段が伸びていて、灰原の姿はその頂上付近に見えた。
 灰原はいつだって、そうだ。彼女を置いていくのだ。
 じわっと涙が滲んで、慌てて拭う。着物の裾を持ちあげて、階段を登った。登り切ったところで少し開けて、神社の参道がある。その参道の奥に、小さな拝殿の前に、背を向けた彼はいた。
 
 灰原は、いつも彼女を置いて行ってしまう。追いかけるのに追いつけなくて、少し行った道の向こうで、それでも灰原はいつもいつだって、立ち止まって彼女を待っていてくれた。
 彼女はそろそろと、怯えるように、その道を進む。こちらに背を向けた彼の、服の裾を指先で握る。彼はゆっくりと振り向いた。ばくばくと心臓の音がして、煩かった。狐のような顔の半面を付けた彼は、じっと彼女を見下ろしている。

「……あなたですか?」

 聞いたとき、喉の奥までがからからに乾いていた。喘ぐように息を吸って、面の下で涙が滲む。
 彼は。
 七海は。
 自分の目元を覆っていた面を取ると、「そうです」と自嘲するみたいに苦く笑んだ。

「雄くんが、いて」
「はい」
「雄くんだと思って追いかけてきたら、七海くんだったんです」
「はい」

 七海の指が伸びて、彼女の耳殻に触れる。耳にかけていた組みひもを緩めて、七海は彼女の半面を外した。七海の大きな手のひらが、そっと彼女の頬に添えられる。涙が零れて、七海の指を濡らした。

「あなたを好きでも、……許してもらえるかなぁ?」
「私は、……灰原が許さないとしたら、私のほうです。あなたのことを好きでいたのは、灰原が生きていた頃からだったので。
 だから」

 悪いのは、私ですよ。

 七海はそう言って、彼女の目元に唇を寄せた。流れた涙の筋にそっと口づけて、至近距離で目を見合わせる。七海の瞳に、港で上がった花火の光が入り込んで輝いて、ちかちかと瞬く。鼻先をすり合わせて、ついばむようにキスをした。
 多分、そうだった。
 ずっと七海のことを、いつからか、好きだった。ちゅ、ちゅ、と数度七海は唇をすり合わせると、彼女の腰をぐっと抱く。食べられるみたいに熱い舌が彼女の唇を舐めて、薄く開いた唇の端から入ってきて、舌先が絡む。ぎゅうっと七海の背中にしがみ付いて、彼女は小さく喘いで涙をこぼした。
 『正解』なんてわからない、灰原雄という男を忘れることなんて一生ない。それでも。

 今ここでこの人が、七海建人という男がどうしようもなくて、ほしくて。そう思ってしまって。熱に浮かれたように唇を貪って彼女を濡れた眼差しで見るこの男が、どうにも。
 彼女の心をいつもいつも締め付けて、掴んで離してくれなくて、それでも一定以上を近づいては来てくれなくて。
 
 だから、欲しかった。
 それだけが多分、彼女の『本当』だった。












 ある晴れた日。
 「本土に着いたので、今から戻ります」という同級生の声を聞いて、伊地知はおや、と思った。お気をつけて、と言って通話を切った伊地知はじっとそのスマホを見る。保健室で家入とだべりながら、伊地知と家入が買ってきた饅頭を食べていた五条は、その伊地知に声をかけた。

「……エ、何その顔……、まさかくっ付いた?」
「……ええ、はい、恐らくは」
「はぁ~~~~、やっとか!!」

 五条は大げさに叫んで、座っていた椅子の背もたれに体重をかける。ぎぃっと軋む音がした。五条は目元から上を手のひらで覆って、ぐいっと髪をかき上げて家入を見る。彼女はしらっとした表情で、マグのコーヒーを啜っていた。

「エ、誰勝ち? どうなったの?」
「恐らくですが、声音からしてごく円満にお付き合いをされるに至ったのでは……と」
「エエ~! 僕、『いずれ七海がキレてあの子襲っちゃって泥沼化する』に三万かけてたのに?」
「君と七海では人種が違うんだよ、お前のようなドブクズと真人間の七海を一緒にするな」
「いやいや、ゼッタイ七海ってムッツリじゃん!
 それにそういう硝子だって、なんだっけ? 『二人とも意気地なしだから、四十近くまでこのまま』?に賭けてたでしょ」
「……ふふ」

 二人の会話を聞きながら、伊地知は思わず笑っていた。五条と家入が自分を見る。伊地知は慌てて「すみません」と謝りながら、それでも頬を綻ばせた。
 伊地知はこれでも彼女の同級生だったので、いつも一緒にいて会話する端々に、彼女が灰原雄をどれだけ好きか、自分が一番知っていると思っていた。男女の性差はあるが、今でも彼女の一番の親友は自分だと思っている。だから、同じく知っていたのだ。
 彼女が長く、かなり昔から七海を好きでいたこと。
 七海から連絡があるたびに。七海の名前を聞くたびに。少し辛そうに眉を顰めるのは、七海を好いてしまったことを灰原に対して、後ろめたいと思っているからだ。
 灰原雄はすごい先輩だった、尊敬できる人間だった。いなくなったことが惜しいと、今でも思っている。それでも。
 今を生きて彼女を思って、その彼女が思っているのは、七海建人だったから。だからいつか二人が、自分を許せればいいなと思っていた。
 灰原のいない世界でも、二人で生きていく自分たちを許せる日がくれば。

「要するにさ、伊地知の一人勝ちでしょ」

 五条が呆れ顔で言った。伊地知はもう一度「すみません」と謝って、それでもなんだか笑ってしまった。

「二人は幸せになるはずです」

 いつかの酒の席で伊地知が言った一言は、時を経て今現実になったのだ。伊地知はなんだからしくもなく、へへっと笑って勝利のVサインを五条と家入に向けた。
 
 その夜は三人で焼肉を食べに行った。賭けに勝った伊地知は珍しくべろべろに酔っぱらって、彼の胸ポケットには家入と五条からの六万が、まるでご祝儀みたく、押し込まれていたという。






一作品のボタンにつき、一日50回まで連打可能です。