3. 熱い目
1.
甲高く、靴の音が廊下に響く。荒い自分の呼吸音と、飲み下せない唾液が口の端から流れて、ひどく鬱陶しかった。
小さな段差に足を取られてもつれるように転んで、強かに顔を打つ。痛かったが構ってなどいられなくて、起き上がってまた駆け出した。
霊安室は呪専の地下にあり、彼女は今までここにそんなものがあるなんて知りもしなかった。いや、嘘だ。知ってはいた。ただ自分には、何も関係のないことだと思って、頭の隅に追いやっていた。見ないふりをした。
増える呪霊、怪我をして帰ってくる先輩たち、違うんだよあの人たちが規格外だから、と慰めるように言う同級生の顔も、呪霊に甚振られた跡で青黒く腫れている。彼女は、彼女だけだった、そうして逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて。逃げて回って。
それでも彼女が逃げて泣いて怖がって呼んだその先で、いつもいつだって、灰原雄は、助けに来てくれた。まるで、ヒーローみたいに。
転げるようにドアにぶち当たって、ドアを開ける。光量を落とした室内には、中央には細長いベッドのようなものがあった。ドラマの手術室で見るような無機質なその台の上には、白い布で覆われた人型の何かがある。
走ってきた勢いはもう、ない。喉の奥が燃えるように熱い。飲み下せない唾液が、喉に引っかかって、ガンガンと殴られるみたいに頭痛がする。白い布を摘まんだ指先は、震えていた。
「見ないほうがいい」
背後から、声がした。動きの鈍い体を動かして肩越しに後ろを見れば、入口近くのパイプ椅子に座った七海が、俯いて垂れた前髪の隙間からこちらを見ていた。目が合うと、七海はまるで責められたみたいな顔をして、視線を床に落とす。違う、そうじゃない、七海のせいだなんて思ってない。じゃあ、なんで?
灰原のような、灰原みたいな、彼女を救って他者を救って、これからもたくさんの人を救うはずだった人間が死んだのは、じゃあ、なんで?
誰のせいで、灰原雄は死んだの?
震える指で、布を持ち上げる。丸い額、意志の強そうなまっすぐな眉毛、いつも絶対に嘘を言わなかった瞳は瞼に隠れて見えなかった。
「ゆう、くん」
呼んでも彼は、ぴくりとも動かない。大きく、息を吐いた。嗚咽が喉に詰まるみたいに押し寄せて、何も出てこない。あ、と小さな声は、喉が絞り出した絶叫のかけらだった。
膝から力が抜ける。灰原が寝かされているベッドの足に当たって、いやな音を立てる。「大丈夫ですか」 七海が後ろで言って、立ち上がる気配がする。
「ゆうくん」
灰原の、底抜けに明るい笑顔が好きだった。
いっぱい食べる子が好きと聞いて、無理をして食べる量を増やそうとしてお腹を壊した彼女を笑って、馬鹿だなって言ったときの顔。ふしくれだった指。遠くから間延びして、彼女を呼ぶ声。
灰原に、好きだと言ってしまったのは事故みたいなものだった。言うつもりなんてなかったのに、灰原がいつもいつも彼女に優しくて親切だから怖くなって、意気地なしだったから、もう構ってほしくないなんて本心とは真逆のことを言った。
灰原は彼にしては怒ったみたいな顔で、なんでそんなことを言うの、誰かに何か言われたの、そんなのは誤解だよ、大丈夫だよ俺が一緒に言ってあげる、なんていつもの通り優しいことをいうから。もっともっと好きになってしまうから、勘違いしてしまうからやめてほしいと言ってしまった。
灰原は驚いた顔をして、それから勢いこんでせっつくみたいに、「僕もだよ」と叫んだ。「僕も君が好きだよ!」 逃げる暇なんて、なかった。
そうして付き合い始めてからもその前と変わらず、七海が一緒にいたし、どこかに出かけるにも大抵三人だった。
七海は「二人で行けばいい」と嫌そうな顔をたびたびしていたが、灰原は彼女を連れ出すことと同じくらい、七海を部屋から連れ出すこともにも執心していた。灰原は七海や彼女のような質の人間を放っておけないタイプだったし、七海と彼女はどうやったって、灰原のようなタイプの人間に弱かった。
だからだ。
灰原が死んでから、灰原と過ごした場所、時間、空間、人間、つまり七海。それらを見るたびに灰原についての思いが胸を掻きむしって、ずたずたに切り裂いて、彼女を壊してつくしていく。灰原がいたから呪専に来た、灰原がいたから呪霊から逃げられた、灰原がいたから生きてこられた、灰原がいたから。
泣いて泣いて泣いて、それでも何夜経っても体の震えも呼吸ができなくなるほどの怯えも、涙も、止む気配がない。そんな彼女の様子を見て、時間を置いたほうがいいと言ったのは、夜蛾だった。
「少し時間を置こう。今ここにいるのは、きっとお前にとっていいことではない」
だから彼女はまた逃げ出した。灰原のいない呪専から、未だに傷を作って帰ってくる伊地知から、規格外だと言われながら目の下に濃い隈を作って笑う先輩たちから。
いつも何かを言いたげな、心配そうな顔をして、それでも顔を見るたびに彼女が壊れそうなほど泣くからいつの間にか遠巻きにしか姿を見せなくなった。七海建人から。
全部全部ないがしろにして、放り投げて見ないふりをして、また自分だけ。逃げ出した。
加茂家からの聞き取り調査はやはり難航した。
それはそうだろう。加茂家にはそもそも呪術界最悪と呼ばれた術師を輩出した過去もある。御三家にように歴史が長ければその間に関わる関係者は多くなるし、母数が大きければその分含まれる因子も多い。この島との関わりは記録にない、というのが加茂家からの返答だった。
予想はしていた。
なので彼女はあの地下への出入り口があった場所、廃屋に昔何があったのか。その記録から探ることにした。登記制度が制定されたのは明治19年、明治元年と言えどたった150年前の話だ。伊地知から総監部越しに管理する市町村の役場へ問い合わせをかけてもらった。ら、やはり出た。
「島の巫女?」
「そう、よくあるワダツミ信仰の守り手…語り部みたいなものですね。ただ実際は祈祷や呪詛返しに祓い、つまり術師の役割を果たしていた家系にようですが。
そういう家系が代々住んでいたのが、あの廃屋のようです。あの山自体は現在は市有地になっており、島のインフラは山とは反対側、つまり島の南側にまとまっているため、現在においてもほぼ手つかずの状態でした。整備はされておらず、現在のところ予定もしていないようです」
「しかしその島巫女の住んでいた家は朽ちており、現在のこの島にそういう信仰の文化は残っていない。
……とすると、何らかの理由でその巫女が不在になったため、島巫女の文化は絶えた。その『何らかの理由』こそが、あの赤の女であると?」
「ええ。つまりあの赤の女は、術師だった島巫女が呪霊に堕ちたものではないか?という考えです。
そしてもし島巫女が加茂家の血を継いでいたのなら、彼女が『赤血操術』の使い手だったなら、あの呪霊が『赤血操術』を持っていることにも説明がつきます」
「しかし……、言っては悪いですが。
もし島巫女に加茂家の血筋が入っていたとして、あの加茂家がこんな僻地の島巫女に、相伝の『赤血操術』の使い手を据えたままにしておきますか? 即刻本家に攫って戻すのでは?」
「そこなんですよぉ、……」
彼女はタブレットを掴んだままへなへなとソファに座り込んだ。多少の睡眠を取って身支度をし直した七海はしゃっきりとして、向かいのソファにかけている。彼女はあのまま伊地知や総監部、そして受付を始めた市役所の窓口や島役所の窓口とのやり取りを続けていたため、寝そびれていた。七海が水を吸って生き返った青菜なら、彼女はそのまま放置されて萎びたモヤシだ。
「あなた、直接聞いたらどうですか」
「え?」
「やはり加茂家の内情からの探りができないと、情報が完結しません。先ほどの話に出た加茂家の嫡男、あなたは京都校で補助監督として何度か会話しているのでは?」
「それは、そうですが……。私が聞いて答えてくれますかね?」
「少なくとも、私や五条さんが聞くよりも、あなたや伊地知君のほうが聞き出せる確率はあるかと。北風と太陽の話です」
「それって、なんだかなあ」
言外に威厳がないとか、無害そうとか、警戒心を抱かなくてもなんとかなりそう、という意味合いのことを言われた気がして、腑に落ちない。彼女はそのまま現在の勤務先である京都校の補助監督室に電話をかけると、電話口に授業中だった加茂憲紀を呼び出してもらった。
電話口に出た加茂は、大して親しくはない補助監督からの電話にかなり怪訝そうであったが、彼女の説明を聞くうちに考え込むような素振りに声音を変えた。
「それは……、概要は理解しました。その島と加茂家との繋がりは、私は寡聞ながら存じませんが、お話を聞いて少し思い当たることがあります。
少々、調べるお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「それは勿論構いませんが、……よろしいのですか?」
加茂憲紀は加茂家の嫡男、次期当主とはいえ、彼の立ち位置が盤石というわけではない。彼は加茂家現当主とその正妻との間の子ではなく、いわゆる庶子――妾の子だ。彼の母は加茂家を出て一般社会に戻って久しいし、家系や家柄という意味で、御家政治的に立場が強いわけではない。五条家の現当主である五条悟や、禅院家の直哉などと違って、家の中で好き勝手ができる立場ではないのだ。
加茂家の内情の一端を彼が探っていると知ったら、快く思わない者が必ずいるだろう。受け合ってくれたことはありがたいが、心配になって聞けば、加茂はふっと電話越しに笑った。
「高星さんはそうして、いつも私の家での立場について案じてくださる。家の者にも受けのいい任務を充ててくださっているのも、あなたでしょう。歌姫先生に聞きました。
だから、私もできればあなたの役に立ちたいと思うんですよ。任せてください」
「それは……、すみません。ありがとうございます」
加茂に自身の電話番号を告げて通話を切る。七海は向かいのソファで「言った通りでしょう」というような顔をして、彼女と加茂の通話を聞いていた。
「ほら、うまくいきました。
伊地知君もあなたも、いい意味で似た者同士ですから。他人の懐柔は君たちが一番上手なんですよ、昔から」
「はあ……」
なぜか七海がものすごく誇らしげに自分と伊地知を褒めるので、彼女は困惑と腑に落ちない気持ちを抱えたまま頷いた。とりあえず伊地知に進捗として、加茂憲紀が加茂家内部から情報を探ってくれるという報告メールを入れておく。加茂家には伊地知側でも問い合わせをかけているはずなので、なるべく加茂憲紀の動きが目立たないように伊地知が立ち回ってくれるだろう。
「さて、あなたは少し寝たほうがいい。さすがに目が虚ろです」
「ですが」
時刻は午後四時、日没まであと二時間ほどだった。寝ている間に七海はまた一人で地下に行き、自分は置いていくつもりでは? その疑念が顔に出ていたのだろう。七海は柔く笑って、大丈夫ですよ、と言った。
「大丈夫です。あなたを置いていったりなんかしません。あなたは私のアンカーでしょう?
私が今まで、あなたに嘘を言ったことがありますか?」
「……あり、ません」
脳裏に浮かぶのは、いつかの灰原だった。灰原は彼女に嘘を一つだってつかなかったし、それは七海も同じだった。灰原と七海は、似ていないようでとても似ていた。他人に真摯であろうとするところ、他者を受容しようとするところ。
着ていたジャケットを脱いで、ベッドに横になって目を瞑る。七海は、加茂憲紀の担当をするため、彼女が以前に集めた赤血操術の資料をタブレットで読んでいる。
午後の明るい日差しが瞼に刺さって、痛かった。この胸の痛みは、その日差しが原因なのだ、ということにしておきたかった。七海がタブレットを指先で叩き、小さく身じろぎする音がする。
それがこんなにも心地よく安堵するものだなんて、誰かに守られて安心するなんて、もう、知っていたくはなかった。
忘れていたかった、十年ぶりの安堵だった。
2.
加茂憲紀からの着信があったのは、午後七時。二時間ばかりの仮眠を終え、日も暮れたのであの廃屋から再度地下へ潜ろうか、というときだった。廃屋まで、今度は借りたレンタカーでやって来た彼女と七海は、自分たちが早朝にここを立ち去ってから異常がないかを確認し、そろそろ地下へ潜ろうと、伊地知に突入開始の連絡をしている最中だった。
電話を取った彼女は、付近の探索をしていた七海を呼び戻し、通話をスピーカーにする。
「行方のわかっていない加茂家の男がいる?」
「そうです。島に赤血操術の術者がいると聞いたとき、まずその話が浮かびました。
彼の名前は、加茂倫也。あの『御三家の汚点』『史上最悪の呪術師』と呼ばれた、加茂憲倫の息子です」
加茂憲倫の名前は、呪術界にいるものなら一度は聞いたことがある名前だ。希代の天才呪術師で革新的な術式をいくつも発明したが、同時に彼に人の道徳というものは与えられなかった。他者を実験材料としてしか扱わない所業は、今もいくつもの特級呪物を呪術界に残しており、加茂の言ったように『御三家の汚点』『加茂家の恥』として語られる。
「加茂倫也は妾腹の子で、加茂憲倫が四十歳の頃の子どもと言われています。加茂憲倫の子どもには憲倫ほどの才はなく押並べて凡才だったため、多くは語られていません。しかし倫也は、加茂家の歴史にも個人として名前が残されている、珍しい人物です」
「なぜ、名前が記されたのですか」
加茂の言いぶりからは、倫也が才人だったから名前が残されたわけではない、ということは読み取れた。
「加茂倫也は、憲倫がある家系から娘を連れてきて産ませた子どもです。その家系とは、血友病の家系でした」
「血友病……?」
「血の凝固がされなくなる病気だそうで、原因は遺伝子自体の突然変異のため、該当遺伝子の保因者の親から子へ、受け継がれます。
発症するのは主に男子です。X染色体に血の凝固のための因子があるため、XX染色体の女性よりXY染色体の男性のほうが発症しやすいという仕組みのようです。
この病は明治初期に日本国内でもはじめて報告が上がりました。そして『血』に対する病のため、赤血操術の術者だった加茂憲倫は目を付けました」
「ではわざわざ、その血友病の因子を持った家系の娘と、子どもを作った、と……?」
「その通りです。加茂倫也は、憲倫の目論見通りに凝固因子を持たずに生まれてきました。そして発現した術式は、赤血操術です。
高星さんは、赤血操術の仕組みを御存知ですか?」
加茂の問いに、彼女は頷いた。
「ある程度は、です。自身の血液を操作し、流れや指向性、硬度も操作できると」
「そうです。我々は時に流体として、時に固体として血液を操作しますが、その際には基本的には血液の凝固反応はオフにしています。
わざと凝固させ防壁にする術もありますが、凝固後は液体には戻せないので、使い方としては限定されている。赤血操術の強みは流体にも固体にもなることです。いちいち凝固させてしまっては、操作性が悪い」
「では加茂倫也は……」
「彼も問題なく赤血操術は、行使できました。凝固させることができない、という縛りから呪力総量の底上げもあったようです。
ただ、流した血を止めることができなかった」
加茂はそこで少し言葉を切った。
「現代、例えば私は戦闘には事前に保存した血液パックを持ち込みます。そして必要に応じてその場で流血し、操作する血液量を多くすることもあります。しかしそれは、私が血液を凝固させることができ、傷口を塞ぐことができるから。失血死の心配がないから、できるのです。
血液パックを使用する以前は、赤血操術の術者は自身に傷をつけ、そこを常に凝固防壁で覆って生活していたそうです。いつでも戦うことができるように」
「加茂倫也には、それができなかった……?」
「そうです」
電話の向こうで、加茂は大きく頷いた。
「加茂倫也はどんな低級呪霊との戦闘も、彼が赤血操術を使う限り、命がけの戦闘になってしまう。もし少しでも限度を超えて血を流せば、彼にはそれを止めるすべはないのだから。
そしてこれは現代もですが、加茂家には祓除できない人間に居場所はありません。加茂倫也は成人してからもしばらくは文字通り命をかけて術師を続けていたようですが、何度目かに死にかけた際、加茂家を放逐されました。
その指示をしたのは、そのときの当主――加茂憲倫の長男であり、加茂倫也の腹違いの兄だったと言われています」
「…………」
「そして彼が放逐されたことについて、加茂家の由来書にはこうあります。『加茂倫也を放逐した』『島へ流した』と」
「ではその、倫也が放逐された先が、この島だと……?」
「その島は伊根の沖合でしょう? 丹後は京都から、加茂本家からも近い。その周辺地域に加茂家の息のかかった集落や島があっても、おかしなことではないですよ。だからその赤の女はもしかして、倫也の娘ないし、子孫ではありませんか?
同じく行方がわかっていないという点では加茂憲倫も同じですが、彼は失踪した際にはもう年を取りすぎています」
加茂はそこまで話をすると、「自分の心当たりはここまでです」と言った。礼を言って、通話を切る。切り際に「十分にお気を付けて」と彼が言ったのは、最悪の呪術師と呼ばれた加茂憲倫の名前が絡んでいるからもあるのだろう。
「どう思いますか?」
横で同じように話を聞いていた七海は、難しい顔をしている。
「加茂憲倫の名前が出てきたことには驚きましたが、……あの赤の女が倫也の娘だというのは、多少疑念があります」
「どうしてですか?」
「勘、と言えばそこまでですが。
術師の血筋と因子保有の血筋を組んで生まれ、恐らくは苦しんだ男がそんな簡単に自身の血筋を残そうとしますか? 自分を苦しめた父親と同じ方法で、同じように苦しむ人間を増やして呪霊にする。そんな父親と全く同じ所業を、父親のいないこんな果ての島で、果たしてするでしょうか」
「では赤の女の赤血操術については、加茂倫也ないし加茂家は関係がないと?」
「……うまく言えませんが、別の方法ではないか、という話です。倫也がこの島に来たかもしれないということに関しては、違和感はない。
むしろ由来書にああいう書き方をしたなら本当に『島』は存在したのでしょうし、地理的にここがその『島』でもなんらおかしくはないと思います。ただ、私はやはりあの赤の女、私が意識をなくしていた間に見た夢についてが引っかかります」
七海は意識をなくしていた間、夢を見ていたと言った。それは、彼女の夢だったと。
「ええと、その。私が出てきたとのことでしたが……」
「そうです。先ほどもお話した通り、あなたがずっと何かを聞いてくる。そしてそれに頷いてはいけないと、なんとなくだが思う。そういう内容の夢です。
夢の中で何かを聞いてくるあなたとは別に、恐らく現実であなたが私を何度か呼んだから、頷かずにいられたのでしょう。そういう意味であなたの役割は確かにアンカー、命綱で間違いない」
「はあ……」
大真面目に言う七海に、なんとなく気恥ずかしくなって気のこもらない返事をする。七海のほうは、彼女のそんな様子を気にもしていないようで、淡々と話しながらジャケットを脱いで車内に放った。外したネクタイを拳に巻き、シャツの袖を捲る。
島へ来て数日、調査で睡眠時間も削って島のあちこちを動き回り、食事の時間も惜しんでいる。昨夜は夜通し地下に潜っていた上に、睡眠時間は短く休息も十分ではない。それらのことから、七海は現状を『超過勤務』と認識しているようだった。彼女が観測できる分だけでも呪力の総量が上がっており、ぞっと怖気が背筋を走る。
「これ以上情報は増えないでしょう。赤の女が何なのか、加茂家とどういう接点があるのかは不明のままですが、仕方ありません。行きましょう」
「はい」
頷いて、地下への入り口を潜る。そう言えば、ここから出てきたときに彼女が見た、あの男の幻影は誰だったのだろう。そんなことを今更ふと、思った。
洞窟内はやはり湿っぽく、陰気だった。階段を降り、前回とは逆にあの黒い染みを追って洞窟の奥へと進む。彼女は少し考えてから、その黒い染みを少し削って小型のピルケースに採取した。洞窟の中は枝道が多く前回は気づかなかったが、傾斜していた。全体を通して坂道だから、無駄に体力を削られて集中力も落ちるのだ。この黒い染みがなければ確実に迷っていただろう。
今回は彼女の呪符でマーカーをしながら進んでいるし、時折現れる低級呪霊は七海が速攻で祓ってくれる。前回と同じような底冷えする恐怖は味わってはいないが、それでも闇に沈んだ洞窟内の雰囲気はいいものではない。
「止まって」
どれくらいか歩いたところで、七海が言った。前方には薄っすらとした燐光が見える。あのウロのある辺りまで戻ってきたのだろう。ここからは七海とは別行動になる。懐に入れた符が確かにそこにあることを確認すると、彼女は七海を見上げた。七海も同じように、彼女を見下ろしている。
「では、この後は先ほど打ち合わせた通りに」
「はい。……お気をつけて」
彼女が言うと、七海は口の端を曲げてふっと笑った。
「あなたこそ、気を付けてください。何もないようには立ち回るつもりですが、万一のことがないとは言い切れない」
「七海さんは……」
そこまで言いかけて、口ごもる。彼女が何を言おうとしたのか、七海はその表情から何となく悟ったようだった。背中の鉈を手に取り、「気にしないでください」と彼女から目を逸らした。
「あいつの、灰原とあなたが約束したことを私は横で聞いていました。あなたも覚えているでしょう」
「……はい」
「私は、灰原とはありふれた言葉ながら親友だったと思っています。だから、あいつの『やり残し』を片付けるのは、私個人の勝手な弔いのようなものです。だからどうか、見逃してもらえませんか」
「…………」
「私が灰原の代わりにあなたを守ることを、許してもらえませんか」
許すとか許さないとか、そういう話ではなかった。
十年も前の、彼らがまだ学生だったときの話だ。任務とはいえ呪霊に立ち向かうのが怖い、こんな世界で生きていける自信がない、と泣き事を言った。入学したばかりの彼女は呪術界の右も左もわからなくて、中学時代からの延長で小さな子どもにするように優しく彼女を甘やかしていた灰原に、その日も泣きついたのだった。その日は初めての課外任務で、伊地知は呪霊に吹き飛ばされてまだ保健室で寝ている。
「なら、僕が君を守るよ。どんなときも、絶対に」
そうやってべそをかいていた彼女に、灰原は至極なんでもない調子で言った。もちろん一年生と二年生の授業は一緒ではないし、灰原は灰原で任務へ赴かなければならない。そもそも呪専は、呪術を学び呪術師や補助監督を育成するための機関だ。守られていなければ何もできない人間など、いてはいけない。
だというのに、灰原はそう軽い調子で言うのだった。彼女だけではなく、灰原に引き止められて隣にいた七海も、ひどく胡乱げな顔をした。
「何を言っている、灰原。そんな安請け合いするものじゃない。事実、彼女と一緒の任務に行って授業内容を代わってやることなんてできないんだぞ」
「それはわかってるけどさ、七海。そういうことじゃなくて」
七海の眼差しはその頃今よりももっと鋭くて、はじめの頃の彼女は七海を怖いと思っていた。そのときも七海がそうすげなく言ったので、まるで自分が叱られたみたいに思って、体を小さくした。
「そうじゃなくてさ、なんていうかな……。僕はね、君が助けを求めてたら何があっても絶対に行くよ、本当に。怖くて怖くて死んじゃいそうなとき、僕を呼んだら絶対に行くから。
だから、いざとなったら助けに来てくれる人がいる、絶対の味方がいるって思ったら。少し怖くても苦しくても、頑張ってみようかなって思えない? 駄目なら俺が、迎えに行くからさ」
そう言って彼女の手を握った灰原は、真摯で、「ね?」と重ねられた問いかけを聞きながら、彼女は灰原の深い眼を覗いていた。単なる慰めでも、ご機嫌とりでもいい加減なあやし言葉でもなくて、灰原は本気でそう言っていた。彼女が灰原を呼んだら、本当に彼はどこにいようと駆けつけるつもりでいるのだ。
彼女は何も言い返すことができず、ただ頷いた。隣で七海も、二人のその会話を聞いていた。
「決まりね。大丈夫、どんなことがあっても、僕が君を守るよ。絶対に!」
「絶対なんて、馬鹿げた約束でした」
七海が言う。ぼんやりと過去の思い出の中の七海と、今の七海が重なって、ああ確かにあのとき横で呆れ顔で話を聞いていた少年は、今のこの七海と地続きの同じ人間なのだ、と思う。同じような呆れ顔をして、それでも七海はそういう灰原を好いていた。彼女も同じく。
「これは灰原雄の『やり残し』です。あいつは、あなたのことが本当に、好きだった。だからアイツのした馬鹿げた約束でも、叶えてやりたいんです。それは私の単なる我儘です」
「……我儘なんて、七海さんにはあまり似合いませんね」
彼女は否定も肯定もせず、そう言った。七海は口の端だけで自嘲するみたいに笑うと、鉈を左手に持ち直して右手を差し出した。
「すみませんが、少しだけ握ってください。あなたの体温を、あなただと思うから」
彼女は言われるまま、手を差し出した。触れた七海の手のひらは熱くて、骨が太くてずっしりとしている。十年前の灰原の手のひらとは、何もかもが違った。
七海は何も言わず彼女の手を握ると、確かめるように親指の腹で少しだけ、彼女の手の甲をなぞった。小さく彼女が身じろぐと、さっと手を離してしまう。
「では、行きます。何かあれば呼んでください。絶対にあなたを、守りますから」
七海はそれだけ言うと、彼女が何か返事をする前に通路を一人で進んでいった。七海が行ってしまってから、ばくばくと跳ねる心臓を押さえて、彼女は深く深く息を吐き出す。
七海の眼差しに、優しさに、声音の甘さに、勘違いをしてはいけない。
彼はただ親友だった灰原の、その恋人だったというだけの自分に、親友がいなくなってしまったからこそ、何かしたいと思っているだけなのだ。彼の厚意に甘えてはいけない。彼には彼の人生があるし、彼は灰原ではない。
それでも七海はいつも、痺れるくらいに熱を込めて彼女を見るから、ああして建前をつけては彼女を特別扱いするから、だからいつも勘違いしそうになる。
七海建人が、私を好きでいるんじゃないかなんて。
そんな愚かな勘違いを。
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