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この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
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2. 背負った者たち


1.
 灰原雄という人は、普遍的な言葉で表すならば、給食の牛乳を飲んでくれる男の子だった。
 彼女は誰かに牛乳を飲んでもらった記憶はないし、一学年年上の灰原と同じ教室にいたことはない。しかし、いつか何かの小説で「牛乳を飲んでくれた同級生の男の子」というエピソードを見た時に、ああこれは雄くんだ、と思ったことを覚えている。
 彼女もその小説の主人公と同じで、給食に出る冷たい牛乳と、ご飯とを一緒に食べるのがとても苦手だった。そして彼女の通っていた小学校では、給食にお茶なんてものは当時出してもらえなかった。
 仕方なく、冷たい牛乳を飲み切ってから、乳臭さの残る口の中に温かいご飯を詰め込む。牛乳を後回しにして、温くなったそれを飲むのは更に最悪だったし、飲めなくて先生に怒られたこともあった。
 幼い頃はそれが当たり前だと思っていたけれど、「牛乳ちょうだい」と無邪気に彼女の苦手な牛乳を奪って、「コラ!」と先生に怒られる。「だって、喉カラカラだよ、センセ」 そんな風に、にっかり笑う。
 そういう人がいれば、幼い頃の彼女はいくらか救われたのだろう。ぼんやりとそういうあり得なかった記憶が脳裏に過ぎって、ああきっと、私にとっての灰原雄はそういう人だ、と思った。
 
 幼い原風景の中に現れるヒーロー。にこにこと能天気に笑ってみせることで、怖い大人から守ってくれる人。他の男の子と違って、私に愚図とかのろまとか、酷いことを言わない。「しょうがないなぁ」なんて、ただ笑っていてくれる優しい男の子。
 そういう彼女にとって都合のいい理想を煮詰めて形にしたものが、灰原雄という人間だった。



 灰原と彼女が知り合ったのは、彼らが中学生だったときだ。
 昔から他者とは違うものが見えてしまっていた彼女は、前髪を長く伸ばしてそれらを見ないように生活していたが、それでも学校というものに渦巻く感情は呪霊を産みやすい。
 その日も、その前髪越しに呪霊と目を合わせてしまって、放課後の校舎を走って逃げていた。
 日直の日誌を残って書いていたのだ。二人いるはずの日直当番の片割れは、どんくさくて陰気な彼女と一緒に何かをするのを嫌がって、何も言わずに帰ってしまった。
 そうやって嫌がられた、仕事を押し付けられた、取り残された側の気持ちを、嫌がる側の人間は顧みない。それは思春期の子どもにありがちな残酷さであったし、彼女も人並みにそういう残酷さに傷つく心の柔さを持っていた。
 前髪を切ったらいいじゃない、と家族には何度も言われた。そうしたら、そんな風に影口を言われることが減るかも。気分転換にもなって、新しい友達ができるかも。
 そう言われたが、やはり彼女にしか見えないあの『怖いもの』が、じっと彼女の目を覗くのだ。
 彼らは彼女が自分たちを見えていると知ると、にったりと笑って彼女を追いかけて、食べてしまおうとする。目を合わせなければいいのだ、と気づいたのは、どれくらい幼い頃だったのだろう。それが彼女の生存戦略だったし、そのためには目を覗かれるわけにはいかなかった。呪霊にも、誰にも。

「君、すごく大人っぽいね、カッコイイ」

 その殻を破ったのが、灰原雄だった。彼女を壁際まで追い詰めて、今にも食べてしまおうと大きく口を開けていた呪霊を、いとも簡単に蹴飛ばしてみせた彼は、床にへたって動けない彼女を覗きこんで、言った。ごめんね、と小さく言って前髪をかき分けられる。彼の眼差しは、強い光だった。はく、と小さく息を吸い込むが、形にならない。

「動ける? 難しそうだね。保健の先生も、もういないだろうし。親に連絡できる? 迎え、来てもらお」

 じっと目を見られながら、そう言われた。走って逃げ回っていたので、ぜいぜいと息が切れて、足の筋肉が悲鳴を上げている。てきぱきと話した灰原は、彼女がのろのろと自宅の電話番号を教えたのを、自分の携帯電話に打ち込んだ。校則違反のケータイをしれっと持ち込んでいることに、この人はきっと私と同じような、目を隠して俯いてじっと見つからないようにしている。そういうみじめな生き方はしていないんだ、とぼんやり悟る。
 半年後、灰原雄は呪術高専へ進学し、その一年後。同じように彼女は呪術高専に進学した。先に行って友達も作っておくし、いい遊び場所も君が好きそうな本屋も、見つけておくよ。だから安心して。
 灰原雄のその言葉に、嘘はなかった。一つだって、なかった。












 四人目の被害者は、島へ旅行に来ていた青年だった。結婚して一年も経っていない、まだニ十歳で学生結婚だという。
 彼女は支配人に「なぜ次の被害者が出るのか、何のためにあなた達を呼んだのか」と詰められた。彼の言う通りだと思う。それでも良識のある支配人はそう詰ったあとに始末の悪い顔をしたし、彼女は黙って頭を下げた。
 感情的になるのも無理はない。週刊誌や新聞、テレビなどは総監部が手を回して止めているし、SNSは伊地知が監視してこちらに不利な投稿を弾いている。それでも、その圧力にも無理があって、そろそろこの島の事件は世間の明るみに出てしまうだろう。
 そうなればメディアという別の悪意が島に押し寄せ、七海の呪霊探索はさらに難航する。そしてその悪意の矢面にまず立つのは、間違いなくあの支配人だろう。

「どうですか」

 四番目の被害者が消えたのは、客室の中だった。深酒をして二日酔い気味だった被害者は、昼過ぎまで寝ると言って部屋に閉じこもっていたらしい。昼を過ぎまでは連絡が取れており、夕方近く頃に連絡が途絶えた。寝ているのだろう、と妻は大して心配していなかったが、部屋に戻ると被害者の姿はない。20時を過ぎても連絡が付かない状態が続いたため、従業員に相談し発覚した、という次第だ。

「客室の中には、微かに残穢はありますが、やはり領域展開したほどのものとは思えませんね」
「そうですか……」

 客室の中を見分していた七海は首を振り、様子を見守っていた従業員に礼を言って客室から出る。時刻はもう、22時を過ぎていた。そのまま自分たちの客室に戻り、床いっぱいに広げた被害者の資料や島の地図、島の歴史書などを眺める。

「今回の奥さんは、少し年上でしたね」
「ええ、25歳で社会人なのだと伺いました」

 言いながら、今までの被害者の資料を見る。被害者の年齢は20〜30歳、被害者の妻の年齢も同じく20〜30歳だった。確かに共通点といえばそうだか、だからそれが何だ、という感じだ。

「とりあえず、何か食べませんか」

 朝からは「赤の女」と他の伝承について住民に聞き込みをし、日が暮れてからは島の若い人が集まりそうな飲み屋や、雰囲気のいいバーのようなところを回っていて赤女の伝承が出回っていないか、他に不思議な話を聞いたことがないか、を聞き込んでいた。付き合いで数杯のアルコールを飲んだが、ホテルへ戻ってきてからは失踪事件が発覚したため、その対応に掛かりっきりで、昼以降、まともなものは何も食べていない。
 ホテル併設のコンビニにて数日前から買い溜めておいたカップ麺を出してきて、封を切る。七海も同じようにカップ麺を一つ選んで、封を開けた。

「しまった、これ豚骨系ですね。換気しないと」
「夜遅いですし、窓は閉めておいたほうが」

 七海の言う通りだ。換気扇を強にして、ぶくぶくと沸いたお湯をカップに入れる。七海も同じように湯をカップに入れて、眼鏡を外して眉間を揉んだ。島内を動き回ってばかりいるので、互いにそこそこの疲労が出てきてしまっている。

「やっぱり、残穢が薄すぎるっていうのが、一番のネックだと思うんですよ。残穢が薄いから未だに呪霊なのか呪詛師なのかわからないし、残穢を追いかけることができない」
「そうですね」

 3分待つのも面倒で、適当に蓋を開けて麺を混ぜる。ソファの背にもたれかかっていた七海は、3分待たずに麺を啜り始めた彼女を胡乱な目で見た。

「それ、本当になかなかな匂いですよ」
「言わないでください、自分でも失敗したと思ってるので」
「領域展開もせず、残穢も残さず、どうやって部屋から被害者を攫ったのか、ですよ。防犯カメラなりなんなりに干渉したなら、それなりに残穢が出る。なのにそれもない」
「今回だって被害者が例えば自分で部屋を出て、その先で攫われたなら、廊下の防犯カメラに映ってるはずですもんね。それもないし、干渉された形跡もない。部屋は15階なので窓から脱出は不可能ですし、他に出入り口でもない限り……」

 麺を啜り終わり、残った汁をどうするか悩んでから、カロリー摂取をしておくべきだと思って、それもちびちびと啜る。七海の選んだカップ麺は、真っ赤な唐辛子入りのトムヤムラーメンだった。酸い匂いがして、彼女の方が少し咽せた。

「七海さんの麺だって、大概じゃないですか」
「あなたがなかなかすごいのを選んだので」
「えー、これ以上換気扇強くならないですよぉ……」

 そう言いながら、天井を見る。排気ダクトは天井に数カ所取り付けられており、ごうごう音を立てている。……ねじ止めはされていないため、開けられそうだ。見ていると、じんわりと脳味噌の奥が熱くなっていく。がりがりと音を立てるように、脳裏でいくつかの可能性が展開され、今の状況が頭の中を目まぐるしく回る。いける、と彼女の脳味噌は言った。

「七海さん、もし、もしもなんですけど」
「はい」
「被害者が自分で出て行ったとしたら、どうです?」
「……自分で?」

 床に散らかした資料から、ホテルの見取り図を探す。七海はさっさと麺を食べ終えると、それを部屋のミニキッチンに置きに行って、テーブルを開けてくれた。

「一番目の被害者が最後に目撃されたのは、従業員の喫煙所です。二番目の被害者は、大浴場の更衣室。三番目の被害者がトイレ。そして四番目の被害者は、客室です。
 客室は、ここと同じミニキッチン付きの部屋で、そこには……」
「ここと同じく、大きめの排気ダクトがある…と? しかし、部屋のダクトは開けられてなどいませんでしたよ」
「これ、はめ込み式の蓋ですよ。外からじゃなくても、閉められます」

 椅子を動かして、ダクトの真下に置く。その上に乗って手を伸ばそうとすると、七海に止められた。代わりに彼が椅子に登り、ダクトに向かって手を伸ばす。

「これは……当たりみたいですよ」

 ダクトの蓋を取って、スマホのライトで中を覗き込んだ七海が言う。

「内部に埃が全くと言っていいほど、ありません。このホテルは建てられてから数年経過してますし、ダクト内なんてそう頻繁に掃除しません。だというのに、ここまでメンテナンスが行き届いているのは、異常でしょう。
 つまり、埃が落ちたりダクトの開け閉めで汚れることがないので、蓋さえ閉めてしまえば、出入りをしてもわからない可能性がある」

 七海は言いながら、ネクタイを緩めて手のひらに巻き、ダクト口に手をかけてぐっと体を持ち上げた。彼女は持参してきた荷物の中から小型の懐中電灯を二つ取り出し、術式を練り込んだ符を懐に入れ、グローブをはめる。ダクト内に入り込んでから顔を出した七海に、その懐中電灯を手渡した。

「あなたはここに……」
「私も行きます」
「ここで待機してください」
「行きます」

 きっぱりと言うと、七海は少し考えてから大きく溜息を落とした。七海が伸ばした腕にしがみ付き、ぐっと体を持ち上げてもらう。

「内部は少し傾斜しています。進みやすさからして、恐らくこの斜面下部へ誘っているのだと思われますので、そちらへ進みましょう」
「了解です」

 四つ這いの状態で、ずりずりと進む。排気のダクト口なので、等間隔にある客室やリネン室の排気口を踏み抜かないように注意しながら這った。被害者たちもこのダクトを通って消えたのだろうか? だとしたら、何のために?
 ある程度進んだところで、今までは等間隔に存在していた各部屋の排気口がなくなった。今までは薄っすらとあった光源が全くなくなり、七海の持っている懐中電灯だけになる。

「止まってください。先に穴が空いています」

 言った七海は、懐中電灯でその穴の中を照らして覗き込んでいるようだった。

「全くの直角の穴ではなく、ここもわずかに傾斜していますね」
「降りろ、ということでしょうか」
「恐らく」

 大きな体を窮屈そうに折り曲げ、その穴の縁から中を覗き込んだ七海は、肩越しにこちらを振り返った。

「この傾斜の角度からして、一度下れば戻ってこれません。今度こそ、あなたはここまでです。異論は認めません」

 「いいですね?」と言い切ると、七海は彼女が何か返事をする前に、穴を飛び降りた。慌てて、その穴に取り付く。懐中電灯で照らしても穴の中は暗く、飛び降りた七海の姿はもう見えない。
 どうするのか、七海の言う通りに自分だけ引き返して待機する? それとも。
 迷うのは一瞬だった。
 自身も同じく、穴の中に飛び込む。流石に煤っぽい臭いが充満しており、傾斜は直角ではないといえど、かなりのきつさだ。足裏を使いながら滑り落ちるスピードを調節し、どれくらい滑り降りたところだろうか。足元にぼんやりとした薄い明かりが見えた。様子を伺い、足も太腿も腕も使って落ちきってしまわないように体を支えてはいるが、それにも限界はある。
 一息吐いて体に呪力強化を走らせると、落ちてしまわないようにダクトに張り付いていた手のひらや足裏を離した。体が重力に則って落下を始め、ダクトから抜けたところでパッと視界が開ける。時間にして1秒から2秒ほど。ダっと着地して上部を見上げると、彼女が落ちてきた以外にもいくつかダクトの排気口が見えた。
 周囲は岩盤をそのままくり抜いたような空洞で、どうにも、人工物ではなく自然発生した洞窟のように見える。そこに近代的なダクトの排気口がいくつもいくつもにょっきりと突き出しているのだ。異様な光景だった。
 洞窟の中に既に七海の姿はない。周囲を懐中電灯で見回すと、少し奥に小さな通路のようなものが見えた。恐らく七海もその奥へ進んだのだろう。
 洞窟の中は水気が多く、空気が湿っている。たっと何かが首筋に触れて、ぞくりとする。触れればいやにぬるりとして、懐中電灯で照らしてみればただの水だった。

「七海さん、近くにいらっしゃいますか」

 小声で聞くが、返答はない。恐らく七海は、彼女のように落下の速度調整などはせずそのまま落下し、先へ進んだのだろう。彼女たちがいた客室は5階だったし、七海の術師としての実力や、身体能力を鑑みればそれくらいのことはできる。
 じっとりと手のひらに絡む汗を服の端で拭って、懐中電灯を握り直す。七海はいない、自分だけだ。は、と短く息を吐いて、空洞から続く通路の内へ、足を進めた。






 2.
 暗闇が肌に絡んで、一呼吸先の向こうさえ見えない。ダクトから降りてきた空洞がまだほのかに明るかったのは、どこかから月の光が差し込んでいたらしい。通路に入るとそれさえなくなり、純粋な暗がりが彼女を襲った。
 暗闇は、いつも彼女に優しくはなかったが、同時に最大の味方でもあった。幼い頃から彼女を脅かした呪霊はいつも暗がりから現れたが、それでも誰もいない暗い部屋は、陰口を言われる教室よりもずっとずっと、彼女を慰めた。
 ひたり、と肩に手のひらが置かれる。
 指先は硬く、彼女の肩の薄い皮膚に冷たいぶよぶよとした何がが触れる。それが指先だ、と思ったのは、ぶよぶよとしたその細い何かが、幾本かあるように思えたからだ。
 ぎ、と一瞬体を硬直させたが、振り向くことはできなかった。彼女が懐中電灯をかざして進むのに、指は同じように肩に触れて、着いてくる。隣の「なにか」は彼女が「なにか」を知覚していると気づいた瞬間に、襲ってくるだろう。彼女の戦闘力は、ほぼ皆無だ。七海を見つけて祓ってもらうしかないが、また叱られることは確実だ。
 暗がりの通路からは、七海の気配は全くない。つん、と僅かだか鉄のような匂いがした。空気は変わらず湿っており、自分の足音だけが通路に響いている。

「七海さ、ん」

 もう一度、呼んだ。
 返答はない。
 肩に触れていた手が、ゆっくりと滑っていっている。彼女の服の襟口を越え、粟だった皮膚にかさついた指の先が触れた。冷たく、じっとりと湿っている。血、血の匂いだ、鉄の匂いではなく、血の匂いだ。
 は、っと息を吐いた。拳をぎゅっと握り、荒くなりそうな吐息を潜め、少しだけ、首を動かした。

 男の顔が。
 血走った目が。
 ぽつぽつと白く斑点の浮いた瞳孔が。
 ひび割れた唇が。
 黄色く汚れ端の欠けた歯が。
 その虚から吐き出るような吐息が。
 すべて、見開いて、こちらを見ていた。

「、ヒッ」

 思わず悲鳴を上げて飛び退き、すぐにしまったと後悔する。指、ゆび、指だ。ぶよぶよとしている、と思ったのは、こちらをさす指がどろりと腐って溶けて、肉が、とろついている。
 男が口のような虚を開く、何かを言おうとして、ひび割れが広がり、粘ついた肉がにち、にちゃ、と粘ついて糸を引いた。とろけるような、臭いがする。時間が経ったものがぐずぐずになり、細胞壁が壊れて、染み出していく。そうやってとろけたモノの、根には粘つく甘さのある、腐臭がする。
 オ、オ、オと音がした。
 男が開けた口から、洞を通って音がする。オ、オ、オ゙お、男の血走った目がこちらを見て、口を開いて何かを言おうとしていた。聞いては駄目だ、そう思うのに、ぴくりとも体が動かない。肩口からこちらを覗き込んだ呪霊は、ぐうぅ、と首を伸ばした。ばき、こき、ごきり。肩が外れて、男の首がぐぅっと伸びる。ぷち、ぷちゅ、と音がしたのは、溶けた首の筋肉が引っ張られて切れる音だった。たら、り。切れた赤黒い肉の筋が、割けた皮膚の隙間から覗く。ヒ、ぅ。吸い込んだ吐息は、悲鳴に似た音を立てた。

「何をしている!」

 質量のある風が耳元を走り抜けた。低く唸って風を切り裂いたは、過たず、呪霊にぶち当たり目の前のそれを吹き飛ばした。追って、だっと地面と蹴とばした音。彼女の目の前を走りすぎた七海は、呪霊にぶち当たって跳ね返った鉈を掴み、そのまま勢いを殺さずに呪霊を蹴り飛ばした。ぼぐ、と重く骨の折れる音がして、呪霊が吹き飛んで崩れていく。七海の一蹴りで祓えてしまえるのだから、低級呪霊だったのだろう。呪霊の残穢まで消失したことを見て取ると、七海は彼女のほうへ振り向いた。踏みしめるような足音を立てて、近づいてくる。

「来るなと言っただろう! なぜここにいる!」

 鋭く言われて、喘ぐように喉の奥が詰まる。彼女はそれでもぐっと顔を上げて、七海を見た。いつの間に変えたのか、はめ込み式のサングラスの奥の目は、怒りに吊り上がっている。

「私の返事を聞かずに行ってしまったのは、七海さんのほうです」
「危険だからです。現に今も襲われていた」
「だから一緒に行動すべきでした」
「危険だから、あなたは残れと言ったんです。あなたがそれを守らなかった」
「いいえ、違います」

 彼女はきっぱりと言った。

「当該がなぜ私と七海さんの組で、もっと言えば男女の組で任務を当てられたか、お分かりですか。
 私は万一の際のあなたのアンカー《楔》なんです。男性特攻型の呪霊だった場合、あなたの命綱として派遣されています」
「だから……」
「それを置いていったのは、七海さんです。あなたという人が、それをわかっていないはずが、ないでしょう」

 七海を睨んで見ると、彼はぐっと押し黙った。「それ、は……」 彼が何かを言おうとしたとき、洞窟の奥からヒュウ、と風を切る音がした。

「くそ、」

 七海は舌打ちすると彼女を肩に抱え、だっと走り出す。

「一体、何が……」
「『赤の女』です」

 実在していた。
 七海がそう言った瞬間に、通路脇の岩が派手な音を立てて割れた。七海は狭い通路内で体を捻り、彼女の頭を自分の胸に抱える。降ってくる瓦礫を避けながら、また七海は走り始めた。

「実在していたって……」
「アレはただの呪霊ではありません、あれは……」

 七海は彼女を片腕で抱き、反対側に持った鉈で瓦礫を払いながら進む。背後にいる七海が「アレ」と呼ぶものが、瓦礫の中から抜け出てゆっくりと、首を擡げたのが見えた。
 赤だ。赤い、赤い、赤い礫が瓦礫に混ざって飛んでくる。首だけを巡らせた女は全身を真っ赤に染めて、真っ赤に濡れた髪の裾から、確かにこちらを見た。

「『赤血操術・ 苅祓 』」

 赤く薄い血の刃が幾重にも、こちらへ向かって吹き飛んでくる。避けきれないと踏んだ七海は、振り向いて鉈をこちらに押し付けた。ぐっと片手で抱かれた背中に力が籠るのを悟って、せめて邪魔にならないように体を固くして七海のジャケットにしがみ付く。
 視界の端で七海が大きく腕を振りかぶったのが見えた。がん、と強く七海が拳を叩きつけた場所から亀裂が発生し、激しく音を立てて瓦礫が落ちてくる。もうもうと土埃が舞ったが、その合間から、あの鋭い赤が見えた。

「七海さ、」
「わかってます」

 鉈を受け取った七海は、瓦礫に流されずに飛んできた血の刃を数本いなし、だっと駆け出した。がらがらと落ちていく瓦礫の合間に、あの赤い女が見える。薄らと笑っているようだった。ぃん、しぃん、ゥん、硬い物が擦れる、甲高い音がした。

「ぐ、」
「七海さん?」

 ずぅ、と肉を断つ嫌な音がして、七海が体勢を崩す。みれば脇腹の辺りにあの血の刃が突き刺さっていた。七海はそれでも彼女を抱えたまま、足を進める。ひゅう、と血の匂いが香ったのは、そのときだった。

「 つかわせて 」

 瓦礫の向こうにいたはずの赤の女が、そこにはいた。ちゃ、ぴち、と小さく音がして、見れば七海の脇腹に突き刺さった血の刃が微かに脈動している。七海は体勢を崩して膝を地面につけたまま、奥歯を噛み締めるような顔をして眼前を見ていた。

「七海さん!」

 呼んでも反応はない。通路は狭く、背後には赤い女と、その向こうには七海が崩した瓦礫がありどうやっても行き詰まりだ。彼女は体に呪力強化を走らせると動かない七海の肩に腕を回し、ぐっと体を持ち上げる。

「『闇より出でて闇より黒く』」

 どぷん、と頭上から水気の音がする。手印を結び、腹の底に力を込めた。

「『その穢れを禊ぎ祓え』」

 洞窟の穴の上部から噴き出た帳の幕がどろりと通路に下りる。彼女の帳は特別仕様で、短時間であれば呪霊を帳内に閉じ込めることができた。戦闘に関してはからきし駄目だが、結界術と符呪についてはそこそこ才能があったのである。
 七海の意識はまだ茫々としており、視点が合っていない。彼女は七海の脇腹に刺さったまま、いまだに微かに震えている血の刃を掴んだ。持ち手などなく両側に刃が付いている。ぐっと掴んだ手のひらに刃が食い込んだが、構ってはいられない。帳の持続時間は短いのだ。

「っ、ぐ、」
「すみません七海さん、走って」

 抜いた血の刃を放り、七海の肩を支えて歩き始める。血の刃を抜かれた七海は、少し意識が戻ってきたようだった。半分七海を引きずるような形で通路を歩いていく。流石に七海を抱えて走ることは難しかった。
 少し歩いたところで、急に通路の幅が広くなった。ひゅう、とどこかから抜けてきた風に、強い血の匂いが絡んでいる。彼女は足元を照らしていた懐中電灯を通路の向こうに向けた。

「……な、」

 こぷ、と小さく音がした。壁が楕円にくり抜かれたウロの中。薄くだが、光っている。
 はじめは、幼い子どもなのかと思った。しかしそれにしては、首が異様に太く頭が大きい。それは、男だった。がりがりに痩けた男が胎児のように体を丸め、赤い膜の中に浮いている。赤い膜からは管が伸び、等間隔に小さく脈打っていた。錆のような、強い血の匂いがする。
 男の足も腕も、骨と皮だけのように細く、しかし腹だけがぽっこりと、妙に突き出ている。髪はまばらで膜の内部にふよふよと浮いており、薄く開いた口元に歯はなかった。
 はじめに子どもだろうか、と思ったのは、浮いている体の手足が妙に短く見えたからだ。体を折り畳んでいるからだと思った。しかし、それだけではない。手のひらがない、足の甲がない。腕の先にうっすらと見えるピンク色をした丸い何かは、手首の骨が露出して、つるりと見えているのだ。
 その間にも聞こえる小さな脈動。この等間隔の小さな音はつまり、この男の心音なのだと悟って、彼女は七海の体を掴んだまま吐き気を催して膝を折った。喉の奥を締め、迫り上がってくる胃の中身を飲み込む。生きた人間を、何かに利用しているのだ。生きたまま、生かしたまま!
 彼女は奥歯をぐっと噛むと、七海を支えてもう一度歩き出した。そろそろ帳が壊される頃合いだ。その前に、脱出経路を見つけるかもしくはせめて隠れなければ。通路の壁を伝っていくつもの赤い管が蔓延り、薄い発光をしながら胎動を続けている。
 通路に沿って、同じようなウロがいくつも並んでいる。中には、また同じように胎児のように体を丸めた男が浮いていた。
 初めに見つけたものから数個先に、中身のないウロを見つけた。がりん、と帳が破られた感覚がする。彼女は七海の体をそのウロの中に押し込むと、自分も同じくウロに入って七海の体を腕に抱えながら呪印を結んだ。呪霊からは見つからなくなる結界術だが、代わりにこれを張ると移動することはできない。七海の目はいまだ虚ろで、彼を抱えたままこれ以上動き回るのは下策だ。

「七海さん……」

 彼女だけでは、どうやってもあの赤い女の呪霊に太刀打ちできない。彼女は祈るように、七海を呼んだ。虚ろだった七海の瞼がぴくりと揺れ、ウロの中の岩壁に押し付けていた体が微かに動く。
 しぃん、と硬質なものが擦れる音がした。
 しゅぅん、しぃん、らん。堅い物と堅い物が擦れ合う音だ。ど、と背筋が冷たくなった。少しずつ近づいてくるその音は、先ほどまでにも聞き覚えがある。あの赤い女が、呪霊が、放った血の刃が岩と擦れあう音だ。叫び出しそうになった自分の口許を、彼女は慌てて抑えた。しぅん、ぃん、らん。刃が岩に触れて、音がする。決して早くはない速度で、それは近づいてきていた。まさか、と思った。まさか、あの呪霊はこのウロの中を一つずつ、確認しながら進んでいるのか? 彼女と七海を探して?
 ハ、と息を吐き出す。張った結界のほうに目を向けたまま、彼女は手探りで七海の体を自分の腕の後ろに抑えた。指先に彼のジャケットの素地が触れ、荒くなりそうな息を押さえながら、縋るようにそれを指先で掴む。音が聞こえる距離からして、今から逃げ先や隠れ場所を変えることは不可能だ。呪霊に見つかったのならまず自分が赤の女に捕まって、そして七海が意識を取り戻すまでの時間を稼ぐべきだった。は、は、ハ、自分の押し殺した呼吸音が耳の奥に反響する。その音がいやに大きくて、赤の女に聞こえてしまうのではないか。そう思って心臓が跳ねて、痛い。
 は、は、は。
 赤の女が立てる硬質な刃の音は、どんどん、近づいてくる。は、は、は。自分の呼吸が早くなる。ぎゅっと手のひらを握る。出ていって、結界は解かないように、そして走って通路の奥へ、そして?
 ぐっと俯いて閉じた瞼の裏に、ウロの中で生きたまま手の平と足を捥がれて、ウロの中に繋がれた男たちの姿が映る。あれは、生きている。意識はあるのか、自分も手を捥がれて足を捥がれて、それは……、あのウロの中に繋がれて、血――を――、

「高星さん」

 押し殺した声がした。
 はっと顔を上げると、サングラスを外した七海がこちらを見ていた。






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