1. 知ること、沈黙すること、やり過ごすこと
1.
「事の発端は、ホテルの従業員が失踪したことでした。
この一人目の被害者は、二十代の男性。元々は島内で生まれて育ちました。大学進学以降は島を出ていましたが、数年前に出身地であるこの島に戻ってきてホテルの従業員として勤務しています。勤務態度は優秀で、家庭内不和もなし。近々、島内に身重の妻を呼び寄せる予定でした。
窓の聞き込みでも周囲からは彼への恨み辛み不満等はなく、心配をする声が多く出ています。彼はホテルの喫煙室での他の従業員との会話を最後に、現在に渡るまで発見されていません。
二人目の被害者は、島へ観光旅行に来た三十代男性。島へは妻子を伴なって来訪しており、こちらも家庭、職場ともに失踪を後押しするような不穏な気配はなかったとの報告が上がっています。この島への来訪は、今回が初めてとのことです。
次にこの島について。お手元の資料の内、三ページ目をご覧ください。
島内の人口はおよそ8000人弱。近年、島への観光誘致が進み、島内には複数の宿泊施設が建設されました。今回、呪専へ話を持ち込んだ依頼者も、そのうちの一つのホテルの支配人です」
「失礼。
資料を見ると随分建築費用の嵩みそうな、立派なホテルに見えますが、こちらは島の外から来た企業が新しく作ったものですか?」
「いえ……、資料内の後ろから二ページ目などにありますが、こちらの支配人は元々島内出身の方です。彼は元々島内で宿泊施設を経営しており、十年前、施設の立て直しに伴った提携企業の誘致に成功しました。
ですから、このホテルは誘致した企業と資本提携の形で保持されてはいますが、この依頼者自身は島内の出身です。ホテルの建物や経営自体も、提携企業との関係性的にみれば、依頼者の意向がある程度反映されたもののようです」
「わかりました。すみません、話の腰を折りました」
「いえ、……続けます」
目の前の七海一級術師は、彼女がそう言ったので再度手元のタブレット端末に目を落とした。
手元が暗くなるからか、あの特徴的なサングラスは外しており、切れ長の目元がよく見える。訝しむように目線を上げられて、彼女は慌てて視線をタブレットに戻した。
今回七海に担当してもらうことになった島での失踪事件は、事の持ち込みこそ島のホテルのオーナー支配人からだったが、合わせて政界からも当件の解明を急ぐように、と後押しがあったらしい。島は、近年SNS上で写真が出回ったことを皮切りに観光客が大幅に増えたところだった。
しかし、もし今回の行方不明事件が同じようにSNS上で出回ればその人気にも、形成されつつあるブランディングにも影が差す。まだどんな呪霊がいるかもわからない状態で七海という一級術師の派遣が決まり、その指示をしたのは総監部だというのだから、さもありなんというものだ。
「現地を視察した窓からは残穢を感知したと報告が上がっています。ごく少量のため、呪霊のものか呪詛師のものかは不明ですが、『何か』が存在するのは確実に思われます」
「攫われた被害者二名に共通点はあるのですか?」
「現在のところ、行動やバッググラウンド共にこれといった共通点はありません。……ただ、島には伝承があるようです」
「伝承?」
「はい。支配人も彼の父から聞いた口伝のため正確な年代は不明ですが、同じことが以前にもあった、と。
そのときも男が何人も立て続けに行方不明になり、みな若く二十代から二十代半ばの年齢、そしてほとんどの男は結婚したばかりの仲睦まじい夫婦だった、と支配人は聞かされたと言っています」
「今回攫われた二人も?」
「年齢は二十代から三十代、そして既婚者です」
「なるほど」
そこで彼女はぐっと押し黙り、隣の伊地知を見た。彼女の隣で同じようにタブレット端末を見ながらブリーフィングに参加していた伊地知は、その視線を受けて七海を見る。
「ここからは提案ですが、今回の派遣にあたり七海さんには被害者の共通点、つまり術式の条件となり得る要素を持っていただくのはどうかと、意見が出ています。もちろん強制ではありませんので、断っていただいても結構です」
「つまり、私に既婚者のふりをしろということですね。伊地知君」
「仰る通りです。今回の任務は補助監督として高星が同行しますので、彼女と夫婦であるという触れ込みで島へ行っていただき、まずは調査にあたってはどうか、という提案です」
同期とはいえ、役職としては上司の伊地知に同席を依頼したのは、この説明を自分でしたくなかったからだ。彼女は訥々と説明する伊地知とそれを聞く七海の顔を見ることができず、じっと向かいのソファを見ていた。
提案者は依頼主の支配人からで、彼は「二十代で既婚者の男性術師を派遣してもらったほうがいい」と持ち掛けてきた。そう提案するということは、その共通点について何かしらの論拠か、もしくは別の含みがあるのだろう。
七海は少し考える素振りをしてから、「わかりました」と頷いた。膝の上で握っていた拳をぎゅっと力を込める。
「けれど、彼女のほうはいいのですか? 私と夫婦役などして」
「問題ありません。仕事ですので」
七海の喉元の辺りに視線を向けて、はっきりと言い返す。気を張っていないと、喉がからからに乾いて咳き込みそうだった。じっとりと、目尻と米神が熱い。七海は少しこちらを見てから、諦めたように目線を反らした。
「では、当件は七海一級術師と高星補助監督のお二人に担当していただくということで、私のほうでも処理を進めます。
お二人とも、どうぞよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
頭を下げて、顔を上げる。ふ、と見れば七海がこちらを見ていた。ぐっと喉の奥が詰まって顔を背けたかったが、いくら何でもその態度は社会人失格だ。か細い声で「よろしくお願いします」ともう一度言えば、彼は少し口の端を曲げて同じように「お願いします」と言った。
「別に七海さんのことが苦手なわけじゃないですよ。ただ学生時代に色々あったし……。どういう顔をして話せばいいのか、今もわからないままなだけなんです」
島までの公的な交通手段は周遊船での移動のみだ。このフェリーでおよそ二時間の距離で、デッキには他の観光客の姿も少なくない。島がSNSでバズったきっかけにもなったお祭りが、数日後に控えているからだ。
窓から見える濃い藍色の海を見ながら、彼女は電話先の伊地知に向かって言葉を重ねた。
「だから伊地知君がそんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
今は上司である伊地知は、呪専時代からの同級生だ。途中で京都校へ移ったので一緒の教室にいたのは一年にも満たないが、彼から一学年分遅れて同じ補助監督になった彼女に、伊地知は少し過保護だ。今も、今回の補助監督任務を担当して本当に大丈夫なのか、と何度目かわからないほどに繰り返し聞くので、彼女は少し辟易していた。
七海は、向こうの横並びの客席で静かに本を開いている。彼女は「でも」とか「けれど」とか言う伊地知の声を聞きながら、ぼんやりと窓から差し込んだ光が彼の高い鼻梁にかかり、反対の頬に影を落とすのを見ていた。ふ、と七海がこちらの視線に気づいて、小首をかしげて微笑む。
「今からでも遅くないので追加の補助監督の手配か、もしくは私が…………」
「伊地知君は五条さんの面倒みなきゃでしょ。大丈夫だから。島に着いたらまた連絡しますね」
「あ、高星さん、」
返事を聞く前に通話を切り、大きく息を吐く。七海はまた手元の文庫本に目を戻しており、彼女は少しぼんやりとしてから七海のいる席に戻った。「夫婦役」なのに船の座席を別々に取るのはおかしいので、予約したシートも隣り合った二席だ。
「伊地知君ですか」
「あ、はい。彼はいつもその、少し私に対して過保護なので」
そう言うと、七海は否定はせず小さく笑ってまた視線を文庫本に戻した。鞄からタブレットを取り出して、島の地図を眺める。
島は、ざっくりと分ければ北側がこんもりとした山で、南側に港、その付近にはレジャー施設や宿泊施設、そして海からは少し離れた山の麓の島の中央部に商業地域や住宅地がある。山は死火山のため、山の裾野までは、いくらか住宅地があるようだった。
「支配人の『既婚者』という指定、あなたはどう考えていますか?」
「可能性として『支配人が黒幕で何らかの目的がある』が三割、『純粋に調査がしやすくなるのでは』という気遣いが二割、残りが『外部からの術師が事件のターゲットになってくれれば無関係で無力な被害者が減るから、餌として呼んだ』ですかね」
「大体同じ考えですね。任務を私に振った学長も伊地知君も、恐らく同じ考えでしょう。だからわざわざ『既婚者ではない』私を選んだ。
『既婚者』という要素は、何を以て測るのか。社会的な扱いなのか、紙面の契約なのか、それ以外の呪術的要素か。それを測るためでしょう」
七海は軽く頷き、読んでいた文庫本を閉じた。船の中は船の走行音とモーターの音が大きく、周囲に会話を聞かれる心配はあまり無さそうだった。
「…………あなたに補助監督を担当してもらうのは、これが初めてだと思いますが、あなたの戦闘力は学生時代と変化していない、という認識でよろしいですか?」
「そう、ですね。すみません」
「いえ。術師と補助監督では、仕事の内容が違いますから。
ここまでの手配も現地の下調べも資料作成も、とてもわかりやすく丁寧で助かりました。これから現地にある種の『餌』として入ることに不安もあるでしょうが、私が守りますのでご心配なく」
白く飛沫を立てて過ぎていく波の跡を見ながら、七海はごく軽い調子で言った。ぼんやりとその横顔を見て、彼女は目の前の精巧に造られた彫刻のような男が、いつかの少女時代に灰原の隣にいたあの少年と地続きなのだと思い知る。
灰原が俺が守るよ、と軽い調子で言ったとき、彼も、七海建人も確かにそこにいたのだ。
何も言い返せない彼女を見て、七海は視線を背け、横顔で小さく笑った。自嘲のような笑みだった。うまく息ができない。七海から目を逸らしてぎゅうと目を閉じながら、七海建人という人のこういうところが苦手だ、と思う。
何も言うことのできない彼女に不審な顔をするでもなく、何も言ってくれず自分が悪かったのだ、という顔をする。
この世に存在するものの中で一番、七海建人が彼女を甘やかす。そうされることがどうしても、苦手だった。
港で出迎えたホテルの支配人は、恐縮しきりの態度で彼女と七海を出迎えた。いかにも人が良さそうに見えるが、これで腹に一物あるのであればそこそこの狸だ。
「今回はわざわざ東京からご足労いただきまして、恐縮でございます」
「その後、被害のほうは?」
「新しい失踪者の情報は今のところございません。
が、一人目と二人目の失踪者は未だに見つかっておらず、手がかりも何もない状況が続いています」
困りきった顔で支配人は言い、彼女と七海を迎えの車に案内した。この支配人にも七海と自分は「術師と補助監督の夫婦だ」と伝えているので、ここからは本格的に夫婦のふりをしなければならない。彼女の持っていた鞄を自然に七海が取り上げてトランクへ載せるのに、小さな声で「ありがとう」と言った。
「島の伝承の資料などは? 追加で見つかりましたか?」
「そちらも芳しくなく……。しかし、うちの父が少し体調を持ち直してきていまして、調子がよければお話していただくことも可能ではないかと」
「それはありがたいですが……、お父様にご負担では?」
「父もこの島とこの家業のために生きた人です。認知症になる前、事業提携が決まったときにもとても喜んでいました。父が元気だったなら、私以上に今回の事態をどうにかしようと走り回っていたでしょうから」
支配人はそのまま「折角ですから」と言って島の外周を少しだけ走ってから、ホテルへ車を向けた。車窓にきらきらと水面の光が切り取られ、まるで一枚の絵のようだった。窓を開けてもいいか、と聞けば快く了解が戻ってくる。少しだけ開けた窓からは、つんと潮の匂いがした。
依頼者の経営するホテルは山の裾野を少し登った場所にあり、眼前には海が開けてよく見える。支配人が集めた島の風土史の書籍を受け取り、翌日以降に支配人の父親と面会する手筈とレンタカーの手配をし、一旦借りたホテルの部屋に荷物を運び込んだ。長期滞在になるかもしれないので、彼女も七海も、荷物はそこそこに多い。
「わかってはいましたが、やはり同室ですか」
「夫婦という設定なので、仕方ありません。別室を依頼して下手に怪しまれるのも、困りますし」
溜息を落として眉を顰めた七海に、そう言って返す。そのいかにも呑気そうな口調が気に入らなかったのか、「本気か?」という目線を七海は彼女に送って寄越した。
「いやでも……別に一緒に寝るのなんて、初めてのことではないじゃないですか」
「…………は?」
「えっ、だって昔、一緒に寝たことあるじゃないですか」
「待ってください、記憶にありません」
更に突拍子もないことを言い始めた彼女に、七海は慌てて記憶を巡らせた。どう考えても、彼女のいうような『間違い』はないはずだ。酒の場で記憶をなくした、なんてこともない。
「覚えてませんか? ほら、呪専時代にみんなでゲームしてて、寝てしまって」
「…………それは伊地知君も家入さんも、なんなら五条さんや灰原や、夏油さんもいましたよね?」
「? はい。みんなで五条さんの部屋で寝ましたよね。楽しかったです」
きょとんと不思議そうな顔をして、彼女は七海を見た。七海はそんな彼女の様子を見て、両手で顔を覆い首をもたげ、ふーっと大きく息を吐き出した。自分の思い違いなどはなかった安堵と、「そうだった。彼女はこういうところがあるんだった」という、やり切れない懐古に気が遠くなる。ふっと窓の外の、伸びやかに空を飛んでいく鳥を見た。
「…………これは忠告ですが、学生の雑魚寝と異性と同室で過ごすことと、一緒にしないほうがいいですよ」
「え、はい。そうですね。その通りだと思います」
「……あの。私は一応異性だと思うのですが」
「え、でも。七海さんだから」
大丈夫かなって。
変わらずすっとぼけた調子の彼女の言い分に、七海はもう一度大きく、大きく、溜息を落とすのだった。やってらんねえ。それが今の七海の内心である。
その後同室なのは仕方ないと、七海も諦めの境地に入ったようで、ホテル側が手配してくれた夕食の時間までは支配人から借りた資料を七海と読み込んだ。
島の郷土史には、古くから漁業をして島の住民は生活してきたこと、特に本土との交通が活発化してからは、丹後半島の伊根などと交易があり、人の往来もあったようだった。
「典型的なワタツミ信仰ですね、特異な呪霊を産みそうなものはあまり見えてこない」
「本当に民間に浸透している土着信仰って、あんまりこういう書籍には改まって書きませんからね。あんがいその辺のおばあちゃんおじいちゃんに聞いたほうが詳しいっていう」
「では明日、支配人の父親に話を聞いたあとはそちらの方面で聞き込みをしてみましょう」
ざっと予定を決め時計を見れば夕食を手配してもらっていた時間になっていたので、七海と連れだって部屋を出る。七海がわざわざ部屋のドアを押さえていてくれるので、恐縮して少し縮こまる。
「……あの夫婦役って、どういう風にしていればいいんでしょう」
エレベーターホールまで歩きながらそっと七海に聞くと、七海も歩きながらちらりと彼女を見下ろした。ぽん、と軽い音を立ててエレベーターの扉が開く。
「別に、普段どおりにしていればいいと思いますよ。男女が連れだって歩いていれば、周囲の人間が勝手に勘違いしてくれるものなので。
あとは、そうですね。強いて言えば、私があなたの荷物を持ったり扉を押さえたり。そういうエスコート紛いのことをしても、『されて当たり前』の顔をしていればいいのでは?」
「ウ、すみません……」
「別に謝ってほしいわけではありません」
七海はそうすげなく言うが、結局開いたエレベーターから出る時も、彼は軽く扉を押さえていた。なんだかいたたまれない気持ちになって、俯く。学生時代の彼は、果たしてこんな風だったろうか。十五歳の頃に一緒に過ごした彼よりも、今の彼は背も伸びてすっかり大人の男だ。
開けられた窓の広いテラスからは、少し潮の匂いがする風が吹き込んでくる。観光客の姿は少なくなくさめやかな会話のざわめきがあり、自分たちが悪目立ちするということもなさそうだった。少し落とされた照明と、テーブルの脇に置かれた小さなキャンドルと、そこから伸びるじんわりとした影と。
仕事だ、任務だ、というわりには場の雰囲気は良すぎたし、目の前の男は変わらず彫刻のようにうつくしい。彼女は据わりの悪い心地のまま、出される料理を胃に詰め込んだ。随分豪華な海鮮も食べたのが、あまり味がした記憶がなかった。
そのまま部屋に戻り、移動の疲れもあるのでもう入浴してしまおうかと、七海に話をする。七海は少し考える素振りをしてから「では部屋の外に出ていますので、終わったら呼んでください」と言った。
「え、部屋にいて下さっても大丈夫ですよ。七海さんだって、お疲れでしょう?」
「いえ、そういう訳にはいきません。鍵も置いて行きますから、終わったら携帯を鳴らして」
「…………私はまさか七海さんが乱入してくるなんて、欠片も心配してませんが」
「これは、けじめの問題です」
七海は大真面目にそう言い切ると、本当にルームキーを置いて部屋を出ていってしまった。わたわたと慌ててシャワーを浴びながら、そう言えば昔から七海はこういう融通の効かない、お堅いところがあるのだ、と思い出していた。部屋着にするTシャツを着て、慌てて七海に電話をかけるとツーコールで電話に出た彼は、電話口で少し沈黙してから「戻ります」とだけ言った。
「別にゆっくり入ってもらって、よかったんです。近くを散歩していましたし」
「……でも」
「すみません。私が気を遣わせているんですね」
「いえあの、……私のほうこそ」
急いでシャワーを浴びすぎたせいで七海に恐縮されるのであれば、明日からはゆっくり入らなければならない。誰かと旅行に行ったことも、同じ部屋で寝泊まりすることも、あまり多くは経験がない。それでもその少ない経験でも、相手が同性の友人だったから、ここまで互いにやり難さを感じていなかったと思う。彼女はほとほと反省の気持ちで、タオルで髪を拭いて今度は自分が携帯を持った。
「じゃあ、今度は私が外に出てくるので……」
「……は? どうしてです」
「だって七海さんも、シャワー浴びますよね?」
「君は、馬鹿ですか? その気遣いは私には不要です」
叱るように鋭く言われて、ぐっと喉の奥が詰まる。七海もさすがに口調が強すぎたと思ったのか、「一応ここには呪霊や呪詛師がいるかもしれませんし、単独行動は控えてください」と付け加えられる。
バスルームに消えていった七海の背中にしおしおしながら、髪を乾かしスキンケア用品を塗る。七海に強い口調で叱られたのはこれが初めてではない。学生時代にも諌められ叱られていた気がするが、そのときはどうして平気だと思えたのだろう、と考えて、窓の外を見る。
夜の空は窓越しでもほんのりと、クリーム色に見える。普段見る都会の空と違って光が少ないから、星がよく見えるのだ。その窓硝子に映り込んだ自分は、一人だった。
そのとき、一人ではなかったのだ。窓硝子に映る、鬱蒼と髪を持て余してぼんやりした目つきでこちらを見る、女を見返す。
彼女はそのとき、七海に小言を言われたとき、一人ではなかった。「怒られちゃったね」と言って、ひそやかに笑い合う相手が、そのときの彼女にはいたのだ。そしてそうやって小言を言う相手は、七海にも、もう一人いた。
窓の外でミルク色をした川が流れている。見紛うように星が瞬き、小さく、光で、瞳を焼く。やがてバスルームから出てきた七海が「すみませんでした」と謝って、彼女がそれに「私こそ」と言って、気まずい空気がまた充満する前のそれまでの、ひたむきな瞬きだった。
2.
「赤の女?」
尋ねた集落の老女がぽつりと漏らした言葉を聞き返した。
支配人の父親はやはり加減が悪いようで、彼から信憑性のある話を聞くことは難しそうだった。恐らく彼女と七海という、家族でも慣れ親しんだ施設の職員でもない他人がいることが、余計に緊張させてしまい、よくなかったのだと思う。
なので仕方なく、支配人の父親と同世代で、かつまだ整然と話ができそうな人物を探して島内を回っていた次第だ。島のほぼ半分は山のため、人が住んでいる地域は限られているとは言え、人口は8000人ほどはある。依頼者であるホテルの支配人は、島内でもそこそこに顔の売れた人物であったため、彼の紹介で来た東京の記者である、などと言って話を聞いて回った。
その中で出てきたのが、件の「赤の女」の話だ。
「赤女とか、赤い女とかも呼んでたねえ。最近はほとんど聞かないけれど、私達が子どもの頃は、『悪さすると赤女が来るぞ』とか『赤の女に食われちまうぞ』とか、脅されたね」
「その赤女、……『赤の女』ですか。実際はどんなことをするんですか?」
「うーん、確か元々は、男を誘惑するって話じゃなかったかねぇ。女の神様で、男を誘惑して連れて行ってしまうんだ。だから海から帰らない男がいると、『赤の女に連れていかれちまった』なんて言ってね」
そこで老女は少し言葉を切った。話を聞いている彼女と、その隣にいる七海を見る。
「隣の色男、旦那かい?」
「え、あ。はい。まあ……」
「なら気を付けたほうがいいさ。赤の女はね、男を連れて行ってしまうんだ。それも、好みなのは『他人の男を盗る』ことだ。年頃で、他の女といい関係になった男がいると、選んで連れていってしまう」
「それは……、既婚者を選んで、ということですか?」
「さあねえ、私が覚えているのは、昔、私が30かそこらの時に近所に住んでいた流れ者の夫婦。あとから聞いたら駆け落ち者で夫婦じゃなかったらしいんだが、それも確か『女』に連れていかれたんだ。連れていた女のほうだけ残されてね、旦那がいなくなって一年経つか経たないかの頃に死んじまったけど」
ちらり、と横の七海を見る。七海も考えるような素振りで老女の話を聞いていた。「ケケ」と興が乗って来たのか、楽しそうに老女が笑う。
「赤の女はね、全身が血塗れなんだそうだ。髪も着物も肌も、全部血塗れで血を滴らせてやって来るのに、瞳だけが爛々と黒く、息をのむほどに美しい女だから、男はみんな着いていってしまう。あんたも、旦那の手綱はしっかり握っておいたほうがいいよ」
「はあ…………」
「畑向こう先の奥さんだってさ、旦那が……――」
老女はそこからはご近所の夫婦喧嘩に話題の興味が移ったようで、しばらく話を聞いていたが、それ以上に『赤の女』の話を聞くことはできなさそうだった。他にも島の伝承や怪談話がないか、聞いて回ったがめぼしいものはなく、借りた車を運転してホテルへ戻る。
「どう思います、さっきのおばあさんの話」
「かなり怪しいとは思いますが、人間を二人も攫った呪いにしては、恐れの感情が薄すぎるかと」
「ですよねえ」
これだけ聞いて回っても、『赤の女』の話をはっきりと知っていたのはあの老女だけで、同じ年齢の老人でも「薄っすらと聞いたことがある」の程度。
さらに老女が話していた「近所の駆け落ち者」の男が消えたのは何年前の話なのかと聞いたところ、嫌そうな顔をしながら「50年くらい前だよ」と教えてくれた。
それを受けて支配人にも連絡をして聞いてみたが、彼は『赤の女』を知りもしなかった。
「仮想怨霊にしては、伝承や恐れの感情が薄すぎますし、通常の呪霊や怨霊なのであれば、50年前に活動していて、そして今また現れることの成り立ちがわかりません」
「あとは、あり得るのならば、我々がまだ話を聞いていないような世代、小学生や中学生ぐらいの世代で今また『赤の女』の伝承が流行っている、という可能性ですね」
「その辺りは支配人さんの伝手に頼るしかないでしょうが、そもそも、島の人口比率からしても児童の人数はかなり限られています。やはりそれだけの人数で、人を攫うような力を持った仮想怨霊を産むことができるのか、という点に戻るんですよね」
助手席の七海と話しながら、彼女は軽く唇を舐めた。車の窓から吹き込む風に、髪が靡いて揺れる。彼女がその髪を耳にかけると、それを横目で七海が見た。
「七海さんの言う通り、そういったことを加味すれば、次に列挙される可能性は『どこかで『赤の女』の伝承を知った呪詛師が『赤の女』のふりをして、二人の人間を攫っている』ですが」
「で、あれば、今度は『赤の女』の伝承が流布していないことに意味が通らなくなる。目的が例えば誘拐目的でも、『赤の女』という仮想怨霊の力を取り戻すことであっても、伝承を流布して利用しない手は考えられない。被害者は今のところ、『赤の女』の伝承通りの人定が攫われているのだから」
「……もしくは、二人の被害者が男性かつ既婚者であったのは全くの偶然で、活動中の呪霊ないし呪詛師は『赤の女』の伝承には何も関係がない、ですが」
そこまで喋ったときに、ふと端末が鞄の中で震えた。道の端に車を停めて、スマホを見る。支配人からの着信だった。先ほど通話したときは、何も言っていなかった。
ちらり、と嫌な予感が脳裏をよぎる。隣の七海もじっと、着信中の彼女のスマホを見る。彼も彼女と同じように、その不穏さを感じているようだった。
三人目の被害者は、島での結婚式を控えた男だった。明日が結婚式で、式のために島を訪れた友人たちを迎えて談笑していたところ、忽然と姿が見えなくなったのだという。彼らはホテル併設の喫茶室でお茶をしている最中で、姿を消した男は「お手洗いに行く」と言って席を立ったらしい。
「どうでしたか?」
お手洗いや被害者の部屋、喫茶室などを見て回っていた七海が支配人の応接室に戻って来た。気が動転している被害者の妻を宥めながら話を聞いていた彼女は、ゆるく首を振る七海を見て小さく嘆息した。宥める役を他の従業員に代わってもらい、部屋の隅に七海と寄った。
「残穢は確かにありますが、ごく少量です。これでは呪霊なのか呪詛師なのか、やはり判別がつかない」
「そうですか……。奥方のほうも、何か前兆のようなものを感じたりはなかったそうです。お手洗いに立ったときも、ごく普通に立っていかれたそうで。
他の家族や友人も、彼が結婚式をすっぽかしていなくなるなんて、あり得ないと。奥様に、べた惚れだったようです」
錯乱している妻とその周囲の友人の様子と。それをはらはらしながら見ている支配人に、少し出ることを伝え、七海と応接室から退出する。ホテル内はいなくなった男性を捜索する従業員や警察の人間でばたついており、人の気配が多い。
「そも、七海さんから見てもやはり残穢が残っているなら呪霊もしくは呪詛師の仕業であるとして。どうやって『それら』は被害者の男性を連れ去ったか?ですよ。
今回の一件は特にですが、お手洗いの出入り口は友人や妻たちからも見える位置にあって、そこから男性が出てきていないことは彼らも、そして喫茶室付近の防犯カメラにも映っています。そしてお手洗いには、他の出入り口は存在しません」
「そうですね。で、あればこそ、領域展開をしてその領域内への連れ去りが濃厚に思われるのですが、それにしては残穢が薄すぎる。領域を出したなら、あの残穢の薄さは考えられない」
そう言い合いながら、彼女と七海はなるべく人のいなさそうなところを探し、ホテルの庭を抜けてそのまま海岸へ続く階段を降りていった。ホテルの脇にはプライベートビーチが併設されており、海水浴シーズンは有料だが、今の季節は誰でも立ち入り可能のはずだ。
日暮れが始まったビーチには、やはり人気もまばらだった。水面に反射するオレンジ色の日差しがぐっと目の奥を焼いたように思えて、彼女は一瞬息をつめた。
「せっかくですし、少し歩きましょう」
七海の言葉に頷いて、さく、と砂を踏む。足裏がほんのりと温かく、ぬるい潮の香りが胸を満たした。
「状況を整理しましょう。現状の不明点としては、
①騒ぎの元凶は呪霊なのか、呪詛師なのか、それともそれ以外なのか。
②呪霊もしくは呪詛師が元凶だったとして、どうやって被害者を連れ去っているのか。
③連れ去られた被害者はどこにいるのか。
④そもそも被害者を連れ去った目的は何か。
等、ですね。
そしてここからは、現在までの調査で得られた情報から派生したものです。
⑤50年前に発生した類似の事件について、関連があるのか。
もし関連があるとすれば、50年前と類似の騒動がまた今発生したのは何故か。
⑥島に伝わっている『赤の女』という伝承は当件と関係があるのか。
関係があるとすれば、『赤の女』とは何なのか。もし仮想怨霊であるなら、どこで『澱み』を産んでいるのか。
こんなところでしょうか」
七海がまとめてくれた現状での概要に頷く。まだ島に来て二日目ではあるが、次の被害者が出てしまった。これ以上被害が大きくなる前に、早く事件への取っ掛かりを見つけなければいけない。
彼女がぎゅっと眉を顰め、七海がまとめてくれた疑問点を脳内で反芻していると、そんな彼女を見て七海は小さく笑った。
「何か?」
「いえ。あなたは昔から変わらず、真面目だな、と」
「七海さんほどでは……」
「私は別に、真面目ではありませんよ。仕事なので被害者の有無は気になりますが、だからと言って被害者とその周囲の人たちについて心を痛めることは、もうあまりない。
先ほどの、男性の奥方について、気にされているでしょう」
確かに先ほどの被害者の妻の様子は、見ていて痛々しかったのだ。結婚相手が式を目前にしていなくなってしまった。
思い当たるのは、何か良くないことに巻き込まれたのではないのかという不安、自分は捨てられたのではないのかという不審、そしてそんな風に相手を信じ切れない自分への絶望。
「別に、真面目なんかじゃありません。少しだけ気持ちがわかるから、気になってしまっただけで」
「…………申し訳ありません。失言でした」
謝ってきた七海をそっと横目で見れば、七海のほうが傷ついた顔をしていた。目立ちすぎるから、という理由で彼はいつものフィンチを付けていない。
眼鏡の細い弦ごしに見える彼の横顔は、眼差しは、立派な大人の男になってしまった七海建人いう人にはとても似つかわしくない。学生時代の少年の繊細さのようなもの、それをいまだに残しているように見えた。
「別に、灰原さん――雄くんのことを今でも引きずっている訳ではありませんし、彼とだけしかお付き合いしてこなかった訳でもありません」
その横顔へ言い返せば、七海は硬い視線をこちらへ向けた。こちらに向けられる瞳は夕日を弾いて、緑色の中に淡いオレンジ色が混じっている。こういう石の名前を、楔石というのであったな、とぼんやり思った。
「多分。七海さんは、私を都合よく捉えて過ぎていると思うんです。私はあなたが思うほど、優しく扱う価値なんてない人間です」
そう言うと、七海は咄嗟に何かを言いかけ口を開いてから、ふと思いとどまるように笑んだ。自嘲的な笑みだった。
「そうかもしれません」
自分で言ったくせに、七海から肯定されたことに胸の奥を刺される。ぎり、と痛んだ喉元をぐっと堪えて、全身全霊で表情を変えないように努めた。
「きっと、その通りなんでしょう。君にも、私にも、権利がない」
「……一応聞きますが、何の権利ですか」
「お互いの価値観や、生き方、考え方。人生に関わる権利です」
波が一度大きく、引いた。引いた波はどっと殴りつけるように音を立てて、また崩れてくる。海岸に水を叩きつけ、引いて、そしてもう一度。
七海の言う通りだと思った。
灰原雄はもういない。七海と彼女が、互いに話をして何かを共有する。そのよすがにすら、灰原雄という人間を介することができないのであれば、七海と彼女の間には、もう何もないのだ。
「……潮が満ちてきてしまうから。帰りましょう」
そう言って踵を返した七海の背中を少し見ていて、そして彼女も同じように歩き出した。残光が名残惜しくて振り向くのは、いつだって彼女だけだった。
少なくとも、そう思っていた。
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