前回読んだ位置に戻りますか?

3. うす氷

 さて。時間は巻き戻り、午後九時現在。
 諸伏高明はと言えば、幼馴染兼親友との食事の席で彼らしくもなく、スマホの通知を気にしていることを親友に見て取られ、盛大にからかわれている最中であった。飲みに行くと言ったのに今日は酒を断ったこと、ちらちらとスマホを気にしていること、最近やけに一人の部下を気に掛けている上、ここへ来る前にも彼女に甘いコーヒーの差し入れをしていたことを列挙され、自白へ追い込まれたのだった。

「いやあ、面白ぇ、あのコウメイがなぁ、」
「敢助くん、飲みすぎですよ」
「飲んでねぇよ、まだ二杯目だよ、こんなんで酔うか」

 大和は言い切り、日本酒の入ったグラスを舐めるように傾ける。完全に親友の醜態が面白くて酒がうまい、の様相だった。諸伏はやれやれ、と首を振り塩気の強い金平をお茶で流し込む。スマホを見ても新着の通知はない。深夜にオフィスでの写真撮影を諸伏に見つかってからは、彼女はオフィスからのSNS投稿はやめたようだが、それでも一日に最低一枚は写真を投稿している。それが来ないということは、まだ仕事をしているのだろう。
 上司として、いい加減に帰れと言ってやるべきだろう。そう思って財布から自分の分の会計を出していると、隣の大和はにやにやと物を言わずに笑っていた。

「お前がなあ」
「……なんですか」
「いやあ、面白ぇなぁって。いい子だからな、アイツ」
「敢助くんには、わかりませんよ」
「お、一丁前にヤキモチか」

 大和はにやにやと笑い、からかう物言いだが、そういう意味合いではなかった。大和にはわからないし、自分もわかっていなかった。彼女はいわゆる「いい子」ではなく、それを取り繕っていただけだ。そうして振舞うことに疲れて、ああいった破滅的な行いをしてしまう。
 「いい子」の振舞いや真面目に職務に取り組むことに疲れるのであれば、「いい子」でなければいいと思うが、彼女はそれが上手にできないのだろう。そつなく「いい子」の振舞いができすぎてしまう、故に。
 気づかなかった自分にも落ち度はある、と思いながら大和を置いて席を立った。大和はにやにや笑いながら諸伏を見送り、もう少し一人で飲むつもりのようだった。
 そのまま車を走らせて県警に戻ったが、しかし、彼女の姿は既に捜査一課のオフィスにはなかった。不思議に思い勤怠記録を見れば、八時過ぎには帰ったとある。しかし、今日中に上げてしまいたいと言っていた報告書は上がってはいなかった。
 スマホには何も通知が来ない。彼女のSNSは更新されていない。ふ、と嫌な予感が過って彼女が担当している事件の住所を調べた。ナビにその住所を入力し、車を走らせる。近隣のパーキングにはやはり彼女の車はなかった。彼女の携帯へ電話をするが、発信音が鳴るばかりで繋がらない。とりあえず車を停めて、不審火のあった住宅の前まで歩いていく。
 夜二十二時も過ぎると、歩く人の気配もほぼない。不審火があったと報告書にも記載があった住宅の前には、プランターにパンジーが植えてあった。スマホのライトで照らせば、うっすらと煤の跡がパンジーの後ろに見える。

 この事件で問題になっている点は、
①なぜ燃えた段ボールの持ち主は「置いた」「捨てた」「放置した」と段ボールの所有について供述をころころと変えるのか。
②段ボールに火をつけたのは何者か。短時間でどうやって目撃者も作らず、段ボールを燃焼させることができたのか。
の2点である。
 諸伏はプランターへ屈みこみ、パンジーの花とその奥の煤を眺めた。そも、燃えたのは段ボールだけではなく、その中に入っていた花の苗と、肥料もだ。では今ここに植わっているパンジーは、その燃えた苗の代わりに買ってきたもの、ということだ。
 一般的な心理として、放火が起きて苗も燃えてしまったのであれば、苗を植えることは一旦諦めないだろうか。しかし、夫人は再度苗を買ってきてまで、ここにパンジーを植えた。植える理由はあった。どんな理由が?
 思案しながら、プランターの土に触れる。思ったよりもひんやりとはしておらず、不審に思い土を摘まんでしげしげと眺めた。ぐっと指に力を込めればぼろぼろ崩れるが、通常の土よりも繊維質に思える。これは一体何だろう、と思いながら周囲を見渡すと、住宅の玄関の入口から不安げにこちらの様子を伺う女性と目が合った。件の段ボールの持ち主の夫人であろう。
 諸伏は立ち上がり、なるべく人好きのしそうな笑みを浮かべた。警察手帳を取り出し、名乗る。

「長野県警の諸伏です。先日の不審火について、捜査に伺っておりました」
「……あの」

 女性は変わらず不安げな顔のままだった。夫人はきょろきょろと周りを見渡してから、諸伏の奥を見た。なんだろう、と思って振り向くが、明かりの消えた住宅の裏側が見えるだけだ。

「あの、女性の警察の方、どこへ行かれましたか?」
「女性、ですか?」
「そうです、この事件を担当してくださっている女性の刑事の方、……一時間ほど前にあの方もうちの玄関にいて、でもいなくなっていて……」
「一時間前に、やはり彼女はここにいたと……?」

 夫人の言葉に、諸伏は思わず眉を顰めた。彼女はやはり退勤後にここへ来ていた。しかしスマホを見ても、電話の折り返しも、SNSの投稿もない。夫人はおろおろとした顔のまま、ぎゅっと両手を握った。

「……こちらのパンジー、どうして植えられたのですか?」
「え?」
「一般的に自宅前で放火騒ぎがあったのであれば、時間を置かず、燃やされたものと同じものを再度設置しようとは思わない。あなたにはそこにパンジーや花の苗を置く、理由があるのではありませんか。
 そしてそれは、あなたが段ボールに対して「置いた」から「捨てた」と供述を変えた、その理由にも通じているのでは?」
「あ…………」
「先ほどから、私の奥に視線をやられていますね。私の後ろにあるものは、向かいの住宅のみです。塀越しではありますが、窓がある。そこから、何が見えますか?
 そこに何を見て、『誰』がいましたか?」
「あ、あ、あの、私…………」
「あなたが見た女性刑事は、私の部下です。連絡がついていない。今なら、間に合うかもしれない」

 諸伏が重ねて言うと、夫人は顔を覆って膝を折った。諸伏は途切れ途切れに話す彼女の話を聞き、頷いてから再度スマホを取り出した。

「あ、敢助くんですか。君、まだ使い物になりますか?」
「はぁ、なんだよ使い物って」
「飲み過ぎていないか、という話です」

 諸伏は大和とそのまま一言二言を交わし、通話を切ると次は捜査一課長のナンバーをタップした。夫人の向かいの家は、暗く明かりはついていない。泣いている夫人の声を聞きつけて、住宅内からは夫人の夫が出てきて彼女の肩を支えている。様子を見るに、彼も事の顛末を理解していたのだろう。
 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえる。大和が手配したものだろう。諸伏はスマホを持っていない方の手のひらを、強く握った。

「誠にその才あれば、弱いと雖も必ず強し」

 思わず口をついて出た言葉を、聞き取れなかったらしき夫人とその夫が、不思議そうに諸伏を見る。諸伏はなるべく安心させるように、口の端を曲げて笑った。「いい子」を演じる彼女は愚かで、そんなことをしてストレスを溜めて馬鹿なSNSの使い方をするのであれば、「いい子」なんてしなければいいのに、と思う。
 それでも真摯に職務に取り組む彼女も、違和感を見逃さずここへやって来た彼女も、恐らく夫人と同じものを見て居ても立っても居られなかった彼女のその正義感も、失われていい「才能」ではないのだ。誠に才があればその人間は負けないし、弱くはなく。そして才があろうがなかろうが、それが報われるように救い上げるのが諸伏の、上司である自分たちの仕事だ。
 彼女のその才を、命を、こんなところで捨てさせるわけにはいかないのだ。






 遠く、暗い海はのっぺりと重たく、果てなく黒く重く遠い。車の窓から、それを眺めていた。
 男は上機嫌に車を走らせており、この近くに崖への道がある、と楽しげに語った。隣で目を覚まさない女性は、元々は婚姻関係にあった男の元妻で、DVを訴えられて別れたが、わかっていないコイツが悪いのだ、という話を男は繰り返ししていた。
 その崖へ続く道も、元々は元妻と朝焼けを見に行くために調べたのだ、と忌々しく語る口調と、まあでも君たちがそうやって俺に逆らうから悪いんだ、と話すあっけらかんとした口調とに、重度の責任転嫁癖を感じる。自分の中の恨みも、実際に起きたDV訴訟も離婚も、すべて自分ではなく「妻」の責任にすることで、自分の心を守ってきたのだろう。
 雑木林の中を脇道に反れ、市道という名前の獣道のような道を走っていく。かなりの悪路で、がたがたと車が何度も跳ねて揺れた。途中にあったトラロープの立ち入り禁止の案内も突っ切って、男は車を走らせ、ナビの地図が途切れる寸前で車を停めた。助手席に置いていた大きな懐中電灯を点け、車のライトをハイビームにして暗闇の先を照らす。確かに先は断崖絶壁のようで、ライトの光も夜闇に消えていくばかりだった。
 ぼんやりと見つめた闇の先、恐らく海と空との際に、細く細く白い線が差し込み始める。夜明けが始まったのだろう。その白く細い光の筋を見ながら、本当にここで死ぬのか、と乖離したような現実を見つめる。スマホに着信の気配はなく、きっと諸伏さんも何も気づいていないのだろう。やはりこの男の自宅へ踏み込む前に、諸伏さんか先輩か、それとも課長かに連絡を取ればこんなことにはならなかった。
 明らかに私自身のミスで、私は正義感に駆られただけの無能だった。崖までの距離を測っていた男が、戻って来て後部座席のドアを開ける。ここから私を再度気絶させるかして、その後車の運転席に乗せ、崖から車ごと海へ飛び込ませる。恐らくそういう手筈だろう。まだ少しでも逃げる機会があるとすれば、運転席に乗せる際には腕の拘束を解くはずなので、そのときだ。
 そのためには、男がこれから私を気絶させるために行う暴力に、耐える必要がある。男は私の千切れた首元の襟を掴んで後部座席から地面へ引きずり下ろすと、腹の上に馬乗りになった。

「可哀想になぁ、刑事さん」
「弱い癖に、立てつくから悪いんだ」
「俺に従順じゃないから悪いんだ」

 そんなことを繰り返しながら、男がぐうっと私の首を掴み息ができなくなる寸前まで追い込んでから、すっと離す。こうして徐々に抵抗するための体力を奪っていくつもりだろう。男に触れられる生理的な嫌悪感と、身体的な苦しさに、目元に涙がにじむ。もう、諦めたい。薄っすらと、そう思っていた。死にたくない、まだしたいことはあるという気持ちと、この男から受ける苦しみや過度なストレスから逃げて楽になりたい気持ちが相反する。それでも、じたばたと藻掻いてみるのは、腕に少しでも傷がつくように縛られた腕を動かすのは、もしかしたら、という気持ちがどこかにまだあったからだ。
 私のあのおかしな投稿を見つけてくれないか。あの日の夜、オフィスで写真を撮っていた私を見つけたように、コウメイさんが、私の「おかしさ」を見抜いてくれないか。少しでも気に掛けてくれないか。そういう期待が、確かにあった。
 がろがろがろ、と車のタイヤが土と砂利を弾く音が聞こえる。次の瞬間に差し込んできた車のヘッドライトは、男の目を焼いた。男がひるんで腕で目を押さえたその隙に、私は腹筋を使って起き上がり、男の鼻っ面に頭突きを叩き込む。ぱきゃ、と嫌な音がして、男の鼻が折れたのが分かった。鼻血に塗れて血走った目の男は「てめぇ」と唸るような声を上げて、再度こちらへ圧し掛かってくる。

「お前ゴラァ、観念しろやァ!!」

 やくざのような怒鳴り声と共に飛んできたのは、杖だった。スパコォン、と見事に男の側頭部に当たり、男の体が私の上から吹き飛ぶ。

「確保ォ!!!」

 後ろから遅れてやってきた他の捜査員がだっと男に駆け寄り、押さえつける。わらわらと現れる捜査員と警官の半分は、長野県警の職員に見えた。「お前この、」「うちの須賀田をよくも」「うちの可愛い後輩なんだぞ」「絶対許さんからな」という声が口々に聞こえる。思わず呆けていると、「大丈夫ですか」と声をかけてきたのは、諸伏さんだった。

「なんで、こんな……」
「敢助くんに応援を呼んでくれと頼んだんですが、どうやら一課全員に声をかけたようでして。来れるメンバーが全員集結してしまった次第です」
「はあ」
「皆さん、本当に怒り心頭でして。無論、私もですが」
「え?」

 諸伏さんは「腕の拘束を解きましょう」と言って、私の後ろに回り込んだ。いくつもあるらしい硬い結び目を解きながら、少しだけ肩に触れる諸伏さんの髪の感触にそわそわとする。解き終わると、諸伏さんは着ていたジャケットを脱いで私の肩にかけた。

「でも、どうしてここが」
「彼の自宅内を捜索しましたが、女性が監禁されていたらしき和室からこの場所の写真が見つかりました。女性を脅すのか、何に使ったのかはわかりませんが、女性の監禁部屋にあったことから、この場所があの男にとって思い入れのある場所であることは推察できました。
 そしてあなたのSNSに上げられた写真。あれは国道沿いのコンビニから撮ったことは、写り込んだ窓ガラスの反射からわかりましたから、場所を絞り込んで追いかけられたという次第です。Nシステムを警戒したのでしょうが、高速ではなく下道を使ってくれて助かりました」
「あの写真、見てくれていたんですね……」
「もちろん。そもそもあなたが拉致されたことに気づいたのも、SNSの更新がないことを不審に思い、捜査一課のオフィスを見に行ったことから、でしたから」

 諸伏さんはかけた自分のジャケットを見下ろし、私の胸元を見た。男に破られたシャツの胸元は大きくはだけて、腹の辺りまで見えてしまっている。諸伏さんはぎゅっと眉を顰めて、ジャケットの前をきつく合わせた。

「不快でしょうが、袖を通して前を押さえておいてください。由衣さんにお願いして、すぐに着替えも手配しますから。とりあえず、まずは病院です」

 遠くから、救急車のサイレン音も聞こえてくる。諸伏さんはふい、と後ろを向いて立ち上がろうとしたようだったが、思わず彼のシャツの袖を掴んでしまった。

「あ、」
「……由衣さんに着替えをお願いしに行こうかと」
「すみません……」
「いえ、一緒に行きましょうか」

 そう言って、中腰の諸伏さんはこちらへ手を差し出す。少し迷ってから、その手を取った。あの日見たのと同じ、大きくて少しかさついていてそれでも温かい、男の人の手のひらだった。
 私が立ち上がったのを見て取って、その手は離されてしまう。それがとても惜しいことに思えて、私はぼんやりと、前を歩く諸伏さんの大きな背中を見ていた。
 いつも隙のない背広姿の彼の背中のシャツに、幾筋もの皺がついていることに、見させてもらえなかった彼の焦りを少しだけ、見つけた気になっていた。






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