前回読んだ位置に戻りますか?

2. 夢ここちと耐久度

 二転三転する証言に、メモを取っていたボールペンの尻でこめかみを押す。S市方面で起きた不審火事件の捜査を先日から先輩と担当していたが、ある参考人の証言がころころと変わるのだ。その証言とは不審火によって燃えた段ボールの持ち主のものだが、初めは「置いておいた」。次に「捨てた」と言い出した。そして今回が「放置した」と言っているのだ。
 燃えたのは、植物の苗を入れるための小さな蓋なしの段ボール箱だった。彼女は自宅門扉の前のプランターへ花の苗を植えるため、購入した店から持ち帰ったその段ボール箱を自宅内から持ち出し、家の前の生活道路に「置いた」。作業中に自宅内で電話が鳴ったため戻ったのだが、その段ボールが燃えていることを通行人が発見し、通報となった。
 数か月前からS市周辺では小規模の不審火が数件発生しており、放火の可能性も視野に含めて捜査をしている。不審火のあった自宅まで話を聞きに行っていたが、ころころ変わる証言内容に、唸りながらこめかみをぐりぐりと押していた。
 段ボールを「置いた」のと「捨てた」のと「放置した」のでは意味合いが違う。「置いた」のであれば回収前提であったし、用途からも妥当な言い回しなのだが、なぜ彼女は証言の表現を「捨てた」「放置した」と変えるのか。
 彼女自身が不審火が発生した際に電話をしていたのは、電話の相手からも証言が取れているし、玄関の前には防犯カメラが設置されていた。そのため、彼女が自宅内に戻り、不審火の騒ぎを聞いてまた自宅内から飛び出てきたのも映っている。
 万が一なんらかの方法で彼女自身が段ボールに火をつけたのだとしても、なぜわざわざ証言の表現を変えて注目させる必要があるのか。火をつけたのであれば、普通は逆だろう。
 証言者の自宅は程よく掃除が行き届いており、今は定年退職をして近所のマンションの管理人をしているという夫と、週に数度近所のドラッグストアでレジ打ちのパートをしているという彼女に、精神的に不安定な部分や脳障害のような兆候も見受けられない。

「また残業ですか」

 唸りながら報告書をポチポチ書いていると、諸伏さんがやって来た。どうやら彼は担当案件が一区切りついたところらしい。

「そうなんです、また証言内容が変わって」
「またですか」

 諸伏さんが少し眉を持ち上げる。私は事のあらましを話し、証言者が病気などのない至って健康な人に見えること、防犯カメラのビデオに映っている内容から証言者が火をつけるには無理があるだろうこと、彼女の証言がころころ変わらなければ他の不審火案件と差異はとくにないことを話した。

「それは何とも奇妙ですが」
「そうですよね、先輩なんて『やってられるか』とか言って文句言いながら、やさぐれて帰っちゃいました」
「それはそれは。……あなたは帰らないのですか?」
「課長への報告書だけ上げてしまいたかったので」

 そう言って苦笑いをする。諸伏さんは困ったものを見るような目で私を見てから、モニタ上の書きかけの報告書に目をやった。

「理由は、あるのかもしれませんね」
「え?」
「『証言の内容を変えなければいけないような理由』が、その証言者にはあるのかもしれません。憶測ですが」
「理由……って何ですか?」
「さあ、そこまでは。
 しかし『理由はある』という前提で物事を見てみてば、別のものに視界が移る可能性はある。そう考えるのも、一つの方法かもしれません」

 そういう話をしてから、諸伏さんは大和さんと約束があると言って帰っていった。軽く飲むだけの約束だから一緒に来るか?とも聞かれたが、仲のいい二人に水を差すのも悪いので、「報告書を仕上げてしまいたい」と断る。ほどほどにするように、と言い置いて諸伏さんは帰っていった。帰り際に諸伏さんが置いていった甘いミルクコーヒーのストローを噛みながら、諸伏さんの言葉の意味を考える。
 理由があるとすれば、なんだろうか。モニタを見ながら思案したが、これと言って思いつくこともない。証言者のことを私がよく知らないからだ。時計を見ると、二十時を指していた。まだ不審者扱いされるような時間ではないし、本人に話は聞けなくても近隣の様子を伺うくらいはできるだろう。報告書を途中保存すると、諸伏さんのくれたコーヒーをずっと啜って飲み干した。



 日が暮れた後の住宅街は人影もだがおのおのの住宅の中からは風呂からの石鹸の匂いや、うっすらとした出汁や醤油や食べ物の匂いがして人の生活の気配がする。近くのパーキングに車を止めて、近所に帰ってきた会社員のふりをしながら歩いた。
 不審火騒ぎの起きた住宅の前には門扉近くにプランターがいくつも並んでおり、植えられたパンジーが夜風にそよいでいる。それに思わず気を取られた振りをしながら、参考人の住宅の中を覗き込んだ。素人仕事ながらも庭木も丁寧に剪定されており、至って健全な夫婦の自宅という風合いだ。
 娘と息子が一人ずついるが、二人とも実家を出ている。娘は市外で独り暮らし、息子は東京で就職したとのことだった。風に揺れるパンジーの花とその奥に薄っすらと見える燃えた煤のあとを見ながら、そも「なぜ段ボールが燃えるに至ったか」がまだわかっていないのだ、と考えた。
 段ボール等、紙の発火点は290度ほどだとされているがこれは新聞紙でのデータのため、実際は300度をゆうに超えなければ、発火することはないだろう。例えば火種として煙草の火を置いたとしても、それが火の手を上げるほどに燃えるまでにはある程度の時間がかかる。
 苗の植えつけをしていた夫人が電話に呼ばれて自宅内に戻り、発火に気づくまでにおよそ10~15分ほどで、その間に火をつけた人物の目撃者はいない。しかし10〜15分で火の手は上がり、段ボールが燃えて煙を上げているのを見つけた近隣の自宅へ戻る途中だった通行人が、慌てて周囲へ助けを求めて大声を上げ、集まって来た近所の人たちによって、消火と消防と警察への通報がなされた。
 夫人が段ボールの中に入れていたのは園芸用土と、植えつける苗、肥料だった。当初肥料が可燃性の物質だったのでは、という疑いもあったが、実際夫人が使用していたものは硫安と呼ばれる硫化アンモニウムを使用した肥料で、これ自体に大した可燃性はない。燃え痕として撮影された写真にも、用土と花の燃えカスしか写っておらず、回収した燃えカスにも土と腐葉土の残滓と、灰や炭のみしかなかった。
 彼女が段ボールについての表現を変える理由があるとすれば、何だろう。今回の件で私と先輩がここまでこの夫人の証言に振り回される理由は、「何の犯罪として立件すべきか」が彼女の証言によって変わってしまうからだ。
 段ボールとその中身の購入主である夫人の「持ち物」が燃やされたということであれば、まず器物損壊罪として捜査するが、彼女は自分のものではない、と言い張っている。その場合、建造物等以外放火罪として捜査することになるが、この罪状には公的な危険があったという状況的証拠が必要になる。そのため、基本はどんな放火事件もまずは器物損壊罪として捜査を開始することがセオリーだ。
 しかし「誰の持ち物か」が揺らいでいるため、何度も報告書の書き直しをしているわけだが、そもそもなぜ夫人は供述を変えるのか。諸伏さんの言うように変えることに理由があるとすれば、それは何なのか。ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと、背後から何かが焦げるような匂いが漂ってきた。
 振り向くが何かが燃えているような煙も、火の気も見えない。しかし不審火騒ぎのあったこの家の向かいの住宅は、裏庭の塀越しに窓に明かりがついているのが見えた。カーテンの隙間から漏れた光越しに、大きく腕を振りかぶった影と殴られた誰か、そしてくぐもったうめき声が聞こえる。
 無意識に詰めていた息をハッと吐き出し、スマホで周囲の地図を検索する。付近には詳しい社名や店の名前などはなく、個人の住宅であることしかわからない。どうしよう、どうするか。県警に戻って応援を呼ぶか? それともここから連絡を取る? 耳を澄ませばガッ、ゴッ、という断続的な暴力の音と、拳を振り上げている人物の荒い呼吸音、そして暴力を受けている人物のくぐもった悲鳴が聞こえる。ややあって殴る蹴るをしていた音が止み、何かを話す声が聞こえた後、またあの何かが焼けるような焦げた匂いがした。「何か」が見えたわけではない。けれど咄嗟に「煙草の火だ」と思った。
 そう思った途端に、後先は考えられなくなってしまった。地図を頼りにだっと駆け出し、該当の住宅の正面入り口までを目指す。家はごく普通の建売住宅に見えた。門扉のところで数度インターホンを鳴らし、何の応答もないので玄関のところで再度インターホンを鳴らす。

「…………はい」
「すみません、洗濯物がお宅の裏に入っちゃったみたいで」

 何度もしつこく鳴らすと、やっと応答があった。インターホンから聞こえるくぐもった男の声に、明るい女の声を装って声を吹き込む。ややあって玄関口を開く音がし、細く開いた扉の隙間から、男が顔を覗かせた。瞬間、がっとドアノブを引き足を扉の内側に捩じ込む。驚いた素振りの男はたたらを踏んで、玄関の内部に下がった。

「警察です、すみませんが中を改めさせていただきます」
「な、なんだ、お前、」
「失礼します」

 短く言い切り、男を脇へ避けて家の中に踏み込む。男が後ろから肩を掴んできたが気にせずに間取り的にはこの家の裏側、先ほど不審火のあった道沿いから見えた位置の部屋を目指す。間取りとして奥まった位置にある、和室らしきふすまに手をかけると、後ろで男が「やめろぉ!」と大声で叫んだ。ここだ、という確信を持ってふすまを開ける。頬や腹に殴られたような打撲痕と、腕や腹や足に丸い形の火傷痕を付け、近くには煙草の焼けた灰が散らばっている。振り乱した髪の隙間からこちらを見る女の目は、恐怖と淡い期待で揺れていた。

「警察です」

 端的に言って懐からスマホを取り出して、県警への通報を入れようとする。と、そのとき、背後で何かが空を切る音が聞こえた。慌てて振り向くも、遅かった。血走った男の目と、大きく振り上げられた腕と、長い銀色の塊。あれは金属バットだったんだろうか、と遠のく意識の中で思った。



 がたがたがた、と揺れる音で目が覚めた。うっすらと目を開くと、後ろ手に腕を拘束されていることがわかる。自分の車の後部座席だ、とわかったのは、フロントガラスに映るライポくんのぬいぐるみが見えたからだ。もらったはいいが置き場所に困って、車のドリンクホルダーに入れておいたのだ。どうして自分の車が持ち出せたのか、と考えてから、パーキングの駐車券を鞄の中に入れておいたことを思い出す。周囲を見回せば、隣に乗せられている女性はぐったりとしており、恐らく気を失っている。

「目、覚めちゃったんですね」

 運転席の男はフロントミラー越しにこちらを見て、話しかけてきた。まだ気を失っている素振りをしておくべきだった。後悔しながら、ぎゅっと男を睨む。男はふは、と軽い笑い声を上げてそのまま車を走らせている。

「もっとたくさん殴っておくべきだったかな。でもお姉さんがその前に死んじゃったら、困るから」

 山中を走っているようだった。曲がりくねった道は時折過ぎ去る標識から見れば、どうやら国道18号を新潟方面へ進んでいる。新潟まで行って何を、と考えてから、海にこの車ごと落とすつもりなのだろう、と思いつく。それならば、先に殴打して死んでしまっては、死因が溺死や車内で水面に叩きつけられたことによるショック死ではなくなってしまう。そこまで私が悟ったことを見て取ったのだろう。男はくくっと愉快そうに笑い、ハンドルを指先でこつこつ叩いた。

「でもお姉さんも変態なんだね、服の中の拳銃とか警棒とか取り上げたときに見たけど、すごい下着付けてるね」
「…………警察官って、ストレスが多いので」

 そう返事をすると、男はますます愉快そうに笑った。私はなるべく投げやりに見えるような顔を取り繕い、へらへらと笑った。

「私もう殺されるんでしょうから、やけくそで話すんですけど、あまりにストレスが多くて裏垢とか始めちゃって」
「へえ、サイコーじゃん」
「でしょう」

 震える唇を噛む。男はミラー越しにそれを見て、満足そうに笑った。それきり黙って、私からスマホの暗証番号を聞き出して、勝手に操作する。ペアリングしたスマホから好き勝手に音楽を鳴らしながら、男は深夜の国道を走り抜けていく。

「写真、撮ってあげようか」

 男が言い出したのは、車内の時計が深夜二時を指した頃だった。途中で止まったコンビニの駐車場で、お手洗いへ行ったらしき男は後部座席の私に私のスマホをかざし、にんまりと笑う。

「死ぬ前にサイコーにエロい写真撮ってあげる。どう?」
「確かにそれは少し、嬉しいかも」

 微かに微笑んで言ってやると、男はにんまりと笑い、私のスマホのカメラを起動する。緩んだ首元のシャツを破かれ、付けていた薄いレースの下着があらわになる。男はにやにやと笑い、顔を背けた私の首筋から下を写真に写した。

「なんて書いて投稿する? 『今から犯されちゃいます♡』とか?」
「はは、それでお願いします」
「りょーかい、っと。ほら、投稿できたよ」

 男が見せてくるSNSのタイムラインには、私の過去の投稿だけがずらずらと羅列されている。最新の投稿として表示されたその写真は、見るものが見れば、今までの投稿とは毛色が違うことはわかるだろう。明らかに他人に撮られた写真だった。
 満足したらしい男はスマホを助手席に放り、再度車を発進させる。新潟のどこへ向かっているのかはわからないが、下道では辿り着くのは明け方だろう。急激な疲労を感じて、ぐうっと目を閉じる。
 あのアカウントを知っているのは、諸伏さんだけだ。そして彼は大和さんと飲みに行くと言っていた。彼が深夜遅くまで起きているようなイメージは、あまりない。この深夜の投稿を彼が見るのは、いつになるだろうか。隣の女性はぐったりとしたままで、起きる気配もない。微かな呼吸音だけでまだ息があることはわかるが、この様子であれば早く病院に行かなければ手遅れになる。
 ダメかもしれない。その思いが何度も脳裏で点滅する。このまま逃げ出す手立てを見つけられず、死ぬのかもしれない。諸伏さんがあの投稿を見るのは、私が死んだその後かもしれない。そのときは彼は、きっと諸伏さんは優しいから、私の投稿に気づかなかった自分を責めるだろう。
 せめてあなたのせいじゃない、そう言いたい。喉を突いて溢れそうなのは涙と、そして諸伏さんへの謝罪だった。






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