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4. ラ・ストラーダ・ビアンカ

 病院では頭や腹を殴られていたし、喉も何度も絞められたのでMRIから何から検査をされたし、ついでに過労気味だから寝ておけ、とばかりに傷病休暇を充てられてしまった。先輩は大泣きしながら「俺が拗ねて先に一人で帰ったから!!」などと騒いでいたし、独断専行で上司にも誰にも連絡なく男の家に踏み込んだことは、課長にも直属上司の係長にもしこたま叱られ、もちろん諸伏さんにもくどくど叱られた。
 さて、諸伏さんが解き明かした事の顛末としては、こうだった。
 段ボールを燃やされた夫人は、犯人が誰かわかっていた。向かいの家に監禁されている、かつてその家に住んでいた夫婦の妻だ。玄関前のプランターの手入れをしているときに、彼女が和室に軟禁されていることに気づいた夫人は、明らかに夫婦喧嘩の域を超えていると判断し夫に相談した上で警察への通報を考えたが、それよりも先に、あの男が夫妻を脅した。
 曰く「通報したなら、お前たちの娘も同じ目に合わせるぞ」と。
 初期は男が妻の目で見てわかる部分に暴力を振るっておらず、また軟禁状態の妻も男からの過度の暴言や人格否定から精神状態が不安定だったこともあり、警察に通報しても「単なる夫婦間の諍い」として処理される可能性が、ないわけではなさそうだった。少なくとも、夫妻にはそう思えてしまった。そうして夫妻は向かいの家の男に脅され、夫人はせめてもの償いに、軟禁されている妻を慰められるような花をプランターへ植えていた。
 実は、今までにも夫人のプランターへ火種が放り込まれることは、数度あったそうだ。軟禁状態の彼女が、男が彼女を痛めつけるためだけに買ってきた煙草に火をつけ、それをプランターへ放り込んでいた。夫人は都度をそれを見つけては心を痛め、そっと煙草を取り除いてはプランターへ花を植えることを止めなかった。
 転機はたまたま見ていたテレビで、室外機の上に置いた園芸用土が燃えた、という特集を見たことだった。使用している用土がヤシを砕いて作った用土で、長く水をやっておらず乾燥していたことが原因だった、というものだ。二十年ほど前の事故の再現であったが、似たようなものを作り、向かいの家の彼女がいつものようにプランターへ煙草の火を放りこんでくれれば火が付く。そうすれば不審火として、この近隣へ警察の目を向けさせることができる。
 そう考えた彼女は花の苗とよく乾燥させた粉砕ヤシの用土、同じく乾燥させた段ボールを用意した。いつものように門扉の前で植えつけの作業をし、タイミングよくかかってきた電話に出るためにその場から離れる。目論見通り、向かいの家の彼女はそこへ煙草の火を放り込み、不審火として騒ぎになった。
 しかしその後、周囲でも同様の不審火事件が続いていたこともあり、今回の不審火もS市内の不審火と同列に扱われた。捜査の目がすぐに他に向いてしまうことに焦りを覚えた夫人は、咄嗟に「段ボールは捨てたものだ」と発言をした。立件としての意味合いが変わってくることに意図があったわけではないが、担当している刑事がその発言でわかりやすく困った顔をしたため、気が引けると思い、再度供述を変えた。

「男に監禁されていた彼女が中々見つからなかったのは、彼女が天涯孤独で男の他に身よりがなかったからだそうです。今後は、あの夫妻が後見人になると申し出をしているそうですよ。元々、お向かいさんとして近所づきあいをしていたときから、夫人と彼女は仲が良かったそうですね。
 ……ところで」
「はい」
「このSNSの投稿、まだやめる気はないんですか?」

 お見舞いがてらとして事の顛末を話しに来てくれていた諸伏さんは、スマホに表示された私の写真を見ながら、呆れたように眉を顰めた。もはや開き直って、病院だということは隠しもしていない。ぎゅっと寄せた胸の谷間が、病院着の合わせ目から見えている写真だ。私は首を傾げ、「でも今回も実際役に立ちましたし」と返す。

「いえ、そういう問題ではなく」
「というかそもそも、聞きたかったんですけど。私があんな写真を犯人騙して諸伏さんにわかるように送らせたこと、周りにどう説明したんですか?」
「それは、まあ……」
「?」
「そういう関係なので、とだけ言いましたけど」

 珍しく言いづらそうに、口許を隠した諸伏さんは、目線を私から逸らして言う。つまり私は、みんなに「彼氏の諸伏さん」にエロい写真を送りつける女だと思われているのか? なんてこった。

「え、諸伏さんはそれでいいんですか」
「いいも何も、『裏垢』なんてものを作っていたあなたを諫めるために、そのSNS投稿にコメントしていました、などとは言えないでしょう」
「それは確かに」

 真面目ぶって頷いた私に、諸伏さんは大きく溜息を落とす。

「ともかく、このSNS投稿はもうやめてください。そうでなくても、あなたがまた変な事件に巻き込まれて乱暴されたら、と思うと、身が持ちません」
「でも……」
「なんですか、何かまだ問題でも?」

 呆れ顔で聞いてくる諸伏さんに、私は俯いて、もそもそと喋った。

「『裏垢』がなかったら、諸伏さんに褒めてもらえない……」

 そう呟くと、先ほどよりも大きな溜息が、はあああ、と聞こえてきた。これはいい加減に、諸伏さんに見捨てられるかもしれない、そう思うと少し涙腺が緩んでくる。犯人に殴られたときも首を絞められたときも、泣かなかったのにな。手元でぎゅっと手のひらを握って、涙がこぼれないように耐えていると、ぎっとベッドのスプリングが軋む音がした。顔を上げると、呆れ顔の諸伏さんが、ベッドの上に身を乗り出してこちらを見ている。

「ですから、SNSの投稿越しではなく、直接褒めさせてくれませんか、というお誘いなのですが」
「……え?」
「それにこのまま写真だけ、というのもそろそろ限界です。何です、とぼけた顔をして。
 私はずっと書いていましたよね? あなたの体に押し付けて、ねじ込んで、指を退かさせて全部見たい、と」

 諸伏さんは真剣な顔をして私の首筋に指で触れるが、それよりも驚きが勝ってしまった。
 
「えあれ、諸伏さんの本心なんですか?!」
「当たり前でしょう」
「てっきりああいうコメントを研究したのだとばかり……」
「それは多少はどういうコメントが好まれるのか、は確認しましたが」

 諸伏さんは少しむっとした顔をして言った。

「君は、私を何だと思っているんですか?」
「いや諸伏さんは……なんていうか、男の人ってよりも『コウメイさん』で」
「よくわかりました」

 はっと自分の失言に気づいたときには、遅かった。にっこりと笑った諸伏さんはそのしなやかな指先でつ、と私の喉元をなぞった。くすぐったさに少し顔を背けると、耳元に口を寄せて「こちらを見て」と囁いてくる。

「あなたの服の下が見たいんです。脇から胸にかけての浮き出た骨の筋を舐めて、くすぐったいと喘ぐあなたを押さえて、鎖骨や柔らかそうなその下の皮膚に歯を立てたい」
「、ひっ」
「臍は少し腹筋が割れて、きれいな筋になっていましたね。そこも舐めればきっとくすぐったいとあなたは少し笑って、そしてその内に、それも快感に変えてしまうんでしょう」
「も、ろふし、さ、……、」
「太腿も、とても柔らかそうでしたね、そうやって私に触られて、きっとあなたはその太腿をすり合わせて、恥ずかしそうに私を見るんでしょう。その太腿の奥の下着は、どうなっていますか? ぜひ、教えていただきたい」
「も、やだ……」

 いやいやと首を振ると、やっと諸伏さんは離れてくれた。表情はすん、と普段のものに取って代わり、乗り出していた体も側のパイプ椅子に戻す。耳はまだぞわぞわと快感が泡立っていて、目には薄く涙が浮かんでいた。

「諸伏さんって、えっちですね……」
「あなたには負けますが」

 諸伏さんはいつもの理性的な上司の顔をして、やれやれと首を振る。

「それで? SNSの投稿はやめますか?」
「はい、要するに、SNSのコメントでしていたことを、直接してくれるってことでいいんですよね」
「まあ有体に言えば」
「わかりました、やめます」

 頷いてから諸伏さんを見る。少し涙に濡れた目で、じっと甘えるように見れば、諸伏さんは少しだけ目端を細めた。ぎゅっと胸元で組んで強く握っていた手を、諸伏さんの手を探す様に差し出す。

「SNSのコメントの内容、今してほしいです」
「嬉しいお誘いですが、ここは病院ですよ。君は怪我人です」
「だから」

 私の差し出した手のひらの意図をくみ取って、諸伏さんが私の手に自分の手のひらを重ねる。諸伏さんの指先に、甘えるように自分の指を絡めて、諸伏さんの目を覗き込んだ。

「キスだけです、……駄目?」
「……まったく、『いい子』なんて誰が言ったんだか」

 諸伏さんはそうやって私を諫める割に、絡めた指を引き寄せて、私のうなじを捕まえる。目を閉じる直前に淡く彼の香水の匂いが漂って、それから口先に柔く吸い付かれた。ちゅ、ちゅ、と何度か吸い付かれたのに、薄く目を開いてはっ、と息を吐き出すと、目の中が見えるほどの距離で諸伏さんも私を見ていた。もう一度目を瞑って、再度吸い付く。舌がこじ開けるように唇を舐めて、薄く開いて同じように舌を差し出せば、柔い舌が舌に絡んで、驚くほど気持ちいい。ぬったりと絡めた舌に、快感が更に降ってきて脳髄をびりびりと焼いた。
 多分そうして数分ほど、蕩けたキスをしていたと思う。私はいつの間にか、彼のきれいにセットされた髪を少し乱してしまっていて、下腹はずくずくと疼いていた。

「……早く退院できるように、努力します」
「……そうしてください」

 ここでこれ以上お互いを貪ることができないという事実に、私は悲壮な顔をして言った。諸伏さんはいつもの至極真面目な顔をしていたが、少しだけ、目の端が赤かった。
 要するに、諸伏高明も十分すぎるほど男だった、という類の話だ。
 



 

 先日の大捕物に巻き込まれた須賀田がかのコウメイ、つまり諸伏高明と付き合っているらしい、というニュースが長野県警捜査一課を駆け抜けたのは、件の須賀田の退院が決まった夕方のことだった。
 退院した後はどうするのか、あちこち殴られもしたし首を絞められもしていた。身体的には問題がなくても精神面では不安があるだろう、実家からも離れて暮らしているし不安だ、という話が退院が決まったと連絡があった後、捜査一課内で出た。
 他県の人間関係はどうかはわからないが、比較的長野県警の捜査一課は関係性がニュートラルだと、大和は思う。協調性が高い、とも言うべきか。以前、怪盗がらみで警視庁の応援に行った諸伏の首尾具合を課内のほとんどが居残って見守っていたのだと他県で言ったら、驚かれたこともある。仲がいい、とも言われる。それを同じく幼馴染の上原は「かんちゃん達がいるからよ」と言うが、大和にはその意味がいまいち掴みきれないでいる。
 ともかく、そういう人間関係の集まった捜査一課の中で彼女を心配する声が上がるのは自然なことだったし、それに「じゃあとりあえず退院日は自分が様子を見に行きます」と須賀田の先輩としてバディを組んでいる男性捜査員が言い出したのも、ごく自然なことであった。

「いえ、私が行きますので」

 それを遮ったのが、件の諸伏だった。さくさくと手元で書類の整理をしながら、何事もないように言う。
 確かに今回の件について、初めに彼女が誘拐されたことに気づいたのは諸伏であったが、諸伏は彼女の直属の上司ではない。断言する言い振りの諸伏に少し楽観的なその男性捜査員は「大丈夫ですよ〜」と軽い調子で返した。

「今度こそ須賀田をちゃんと見守って、怪我なんてさせないようにしますんで! 俺に任せてもらえれば!」
「いえ、そういうことではなく。付き合っている人間がいくのが、妥当でしょう」
「…………はい?」

 男性捜査員もその話題を見守っていた他の職員も、はて?と首を傾げる。それ以前から薄々と諸伏側の様子を知っていた大和は大して驚きはしなかったが、幼馴染の視点から見れば「浮かれてんな〜〜」などと思っていた。
 例の写真についても知らない他の職員は、寝耳に水、阿鼻叫喚である。確かに先日の一件も諸伏が一番に彼女が誘拐されたことに気づいたし、殺されそうな彼女を懸命に探していたし、なぜか諸伏個人宛に彼女から犯人を騙してメールが届いたというし、それが居場所を特定する決定打になったというし。「でもまあ、コウメイだからな」と思っていたのに。まさか、まさか、マジなんですか!!

「えっ、コウメイさんと須賀田って……、付き合ってるんすか……?」
「そうですね」

 彼女に「先輩」と呼ばれている、少し楽観的でお調子者のきらいのあるその男性捜査員は、わかりやすく絶望の顔をした。それを横目に、しらじらとして書類整理を続ける幼馴染に、大和は内心で「大人げねぇ〜〜」と白い目を向けた。
 この男性捜査員が須賀田へ好意を持っているのは大和もわかっていたが、だからと言ってこんな派手な牽制をするのもどうかと思う。確か、「先輩」くんも須賀田と年齢はそう変わず、まだ30になるかならないかほどの年齢のはずだ。5歳以上年下の、諸伏自身の弟とも似た年齢の相手にそこまで敵対心を剥き出しにするのは、どうなんだ。
 大和はドン引きの顔をして諸伏を見たが、当の諸伏は涼しい顔を崩す事なく、スマホのメッセージを確認し、何やら大きくため息を吐いている。
 それを見た「先輩」くんは、恐る恐る、といった様子でよせばいいのに、諸伏に問いかけた。

「えっと……、須賀田から、ですか?」
「ええ」
「なんて……?」

 大和は、勇者だなぁ、と他人事の距離感で思った。多少楽観的で向こう見ずのきらいのある「先輩」くんに、諸伏は少しだけ視線をやって、そして目の端で微笑む。

「どうやら、早く会いたいそうで」

 そう言って小さく笑ってみせた諸伏に「先輩」くんは慟哭の声を上げ、女性職員のいく人かは叫びそうになった口元をパチン、と抑え、慌ただしくオフィスを出て行った。同じく怖いもの知らずの上原が「そんなの早く教えてくださいよぉ〜」と諸伏に絡み始め、わいやわいやとオフィスが騒がしくなる。
 大和はその様子を見ながら、「あーあ」と思っていた。長年の付き合いのある身からしてみれば、今の諸伏はとてつもなく、みっともないほどに、全く大人げがない。職場恋愛の珍しい職種ではないが、こんな風に大々的に喧伝するということは諸伏にはもうそのつもりがあって、諸伏なりに効果的な虫除けをしているつもりなのだ。
 なので「あーあ」である。
 須賀田はよい部下で見込みのある刑事であるが、諸伏のこの様子からすれば、彼女が通称として旧姓を使うことになるのも、結婚によって配置転換になるも、時間の問題だろう。
 せいぜいその時は、この澄ました顔の男の醜態を面白おかしく喋ってやろう。大和はガリガリと髪をかき混ぜながら浮かれる親友を眺めた。諸伏のような人間であれど溺れるのだから、愛も恋も、きっと女とは、おしなべて劇薬なのだろう。もう一人の幼馴染の吉報に嬉しそうな顔をする上原を見て、大和敢助はつくづくと思った。






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