1. 心中進退
徹夜を覚悟した夜中の午前三時、捜一のフロアには私しかいなかった。ぼやぼやとエナドリを啜りながらPCを叩いていたが、ふと「今だ」というよからぬ閃きが、脳裏をF1カー並みの爆速で走り抜けた。
一階に夜勤詰めをしている警官と、警備員はいるがまだ巡回の時間ではない。私はそそくさと、オフィス内でもあまり特徴のなさそうな壁の隅に立った。あまり多くの情報は映らないように、しかし、ここがオフィスだということはわかるように。スマホのインカメで窓の閉じたブラインドとデスクの端、そして大半が自分自身の体となるように調整し、ここだという位置を決める。撮る構図が決まると、ひとつ大きく息を吐いてから、着ていたジャケットのボタンを外し、ブラウスをインナーごと、ぐいっと下から持ち上げた。巨乳というほどではないが、そこそこに質量のある物体がブラジャーに持ち上げられて、谷間を作っている。その状態でスマホの撮影ボタンを押した瞬間、オフィスのドアが開いた。
「お疲れ様です、まだ残って…………」
「あ」
目を丸くしたコウメイさんなど、なかなか見れるものではない。呆けた私はスマホを落としたが、コウメイさんは持っていた差し入れのコンビニ袋を落とさなかった。さすがである。
誓って言うが、お金が目当てでしていたわけではない。ただ仕事が忙しくて「そういう」関係も「そういう」行為もほとほとご無沙汰であったし、激務とトレーニングのせいで無駄に引き締まった体と、そこそこに出ている乳房は、自分の目から見ても「よきもの」に見えたのだ。
ふと思い立って写真に撮ってみたら更に「よき」だった。ベネ。だからそれが嬉しくて匿名で作ったSNSに投稿してみた。めちゃくちゃえっっっっちじゃん。。。。と褒められた。私もそう思うだよねベネベネ。などと思っていたら写真を撮るのも投稿するのも楽しくなってしまった。そういう顛末である。
「わかりました。まずアカウントを消しましょう」
「えっ」
「『えっ』とは?」
しらじらとした目を諸伏さんが私に向ける。その目線の鋭さに押されて、私はしおしおと俯いた。諸伏さんに今更諭されなくても、この行為が危険なことは承知している。それでもSNSという実体のない中でも、他人に手放しに褒められてちやほやされることに、心を慰められていた。
「……例えば先ほどあなたが撮ったこの写真」
そんな私の様子を見て溜息を落とした諸伏さんが、机の上に置かれた私のスマホをすいすいと操作して、話し始める。先ほど取った写真もたわわな胸がぎゅっと強調されて、大変「よき」な写真であった。諸伏さんは一瞬だけ動きを止めてから、その写真をピンチインしてブラインドを拡大する。
「このブラインドですが、素材の透過具合と劣化具合から、作られたメーカーと製造年度がおおよそわかります」
「えっコワっ」
「………… わかります。それがわかれば、そのメーカーがブラインドを卸したオフィスを探すこともできる。
更にこちらの写り込んだ机には、コーヒーの染みがありますね。拭き取られておらず長く汚れたままの状態であることから、掃除の頻度は高くなく、それを気にするようなまめまめしい人間は少ないことが推察できる。
恐らくだが職場には男性が多く、この写真を撮った人物はかなり硬めのオフィスファッションをしており、かつ、そこそこの激務をこなしている。そしてブラインドから、おおよその納入先が絞り込めれば。
……わかりますね」
さすが諸伏さんとしか言いようのない推理と言いぶりに、私は更にしおしお俯いた。「はい……」とか細く頷いてみたが、納得はしていなかった。それを見てとったのだろう。諸伏さんは「本当にやめる気ありますか?」と重ねて怖い声で聞いてきた。バレている。
「リスク判断ができないほど愚かではないでしょう。何をこんなものに、そこまでこだわっているんですか」
「だって……仕事が辛くてもう駄目だって時に、この自撮りだけは絶対に褒めてくれる人がいるんです。それに慰められた私の心だけは、絶対に嘘じゃないんです。あの気持ちが嘘なら、慰めなんてこの世に存在しない」
言い切ると、諸伏さんは大きく溜息を落とし、額に手を当てた。わかっている、こんなことは職業倫理に反していて、職場のオフィスで写真を撮ったことが公になれば良くて減俸、悪ければ懲戒免職だ。それでもまだ、オフィスの写真は上げていないし今だけ諸伏さんが黙っていてくれれば、という淡い期待が捨てられない。
「……君の気持ちは、わかりました」
ややあって、絞り出すように諸伏さんが吐き出した。額に手を当てたまま、目元が隠れて表情が読み取れない。
「とりあえずそのアカウントは消してください」
「ですから……」
「そして新しくアカウントを取り直して、限定公開にしてください。それなら目を瞑りましょう」
「でもそれじゃ、誰も私を褒めてくれません」
「私が一人だけ、フォロワーになります。いいねもコメントもします。それでいいでしょう」
「………………は?」
「褒められたいんでしょう?」
手のひらで口元を隠した諸伏さんは、じっとこちらを見る。大きな手のひらだった。指は私よりも太く、少し節くれ立っている。この人も男だったのだ、と今更な馬鹿げたことを思った。
「褒めてあげますよ。
私の語彙の限りを尽くして君が満足するような、コメントを書いてあげます」
鋭く怜悧な目で見られて、いいですね、と畳みかけられる。頷かざる得なかったのはお察しだけど、まるで意識していなかった上司が急に男を香らせてきたことに興奮しなかったと言えば、それは多分嘘になる。
こうして私と諸伏さんの、秘密の裏垢相互フォローが始まったのだった。
先輩刑事と一緒に担当した事件の報告書を、ダカダカダカダカとキーボードを叩いて書き上げていた。
調書ではなく、課内で一旦課長に上げるための簡易報告書だったが、粗方書き終わったというところで、参考人が大きく証言内容の意味合いを変えた。調書は作成し直し、報告書も書き直しである。
仕方ない、仕方ないとはわかっているが、モニタ上に映った該当部分が恨めしい。そのままざっくりと文章を消したくなるのをどうにか押しとどめて、そこまでのファイルをリネームして保存した。感情のまま全消しして、以前書いた部分を取っておけばよかったと思ったことは星の数ほどある。モニタから目を離してぐっと伸びをすると、席を立ってお手洗いへ向かった。その途中で、上原さんとすれ違う。休憩か、と聞かれて頷くと微笑んで鞄からチョコレートを出して、分けてくれた。諸伏さん大和さんの二人はまたわいわい言い合いしながら聞き込みに出ているらしく、困ったものだという彼女の愚痴を聞く。
お手洗いの個室に入り、スマホの画面を開いた。SNSのアイコンをクリックし、タイムラインを少し眺めてからアカウントを切り替える。通知が一件ある、と表示が出ていた。タップをすれば、投稿へ付けられたコメントが表示される。
『大変どエロくてよろしい、ねじ込みたい脇とタンクトップですね』
何を、と聞きたいが聞けるわけもない。昨日上げた写真は下着をつけていないグレーのタンクトップ姿で、腕を高く上げて脇を見せた写真だ。自分でもサイコーだ、と思った出来の写真だったが、「m」とだけ書かれた諸伏さんのコメントもサイコーだった。
臍の写真を上げれば「とても綺麗です、押しつけたい」とコメントが来るし、胸を寄せて乳首を指で隠した写真には「その手を退かせますか?」と来る。どうも諸伏さんは裏垢を漁っては、コメントの研究をしたようだった。さすがコウメイさんである。
私はといえば、あの諸伏さんが!!どエロいコメントをしてくる!!褒めてくれている!!と言う事実にとても満足していた。何せ私の中のこれエロくない?これすごくないヤバくない???の感情を的確に言葉にしてくれる上に、魅力的だ、と合わせて言ってくれるのだ。最高のリスナーである。ヘイフロアは上がってるかい?私はサイコーにブチ上がってるぜ!!!!の気分だった。
むふむふ笑ってから顔を作り直し、手櫛で髪を整えてからお手洗いを出る。戻れば報告書の作り直しが待っているが、諸伏さんのコメントで心を持ち直したので、まあしゃーねーな、やってやるか、の気持ちだった。廊下を曲がったところで、人の声がする。見れば諸伏さんと大和さんがまだわいわい言いながら、聞き込みから戻ってきたところのようだった。
「おや」
大和さんとわやわや言っていた諸伏さんが、私を廊下を歩いていていた私を見つける。あんなコメントを書いているなんておくびにも出さないような澄ました顔に、ぞくぞくとした悪い痺れが背筋を駆け抜ける。
「また残業中ですか?」
「はい、先日のS市の不審火の件で、参考人の証言内容の意味合いが変わったので」
「そりゃ災難だ」
大和さんが気の毒そうな顔で少し笑った。コーヒーでも飲みますか?という諸伏さんの言葉に甘えて、自販機で甘いカフェオレを買ってもらう。
「まあでも、須賀田はよくやってるよ。こういう仕事のやり直しにも柔軟に対応できるし、あまり感情的にならないしな」
そうして三人で缶コーヒーを啜って雑談していると、大和さんがふと言った。言われて、うへへ、と照れ笑いを返すが、視界の端で諸伏さんがすっと目を逸らすのが見えた。私のストレスの行き先を知っているのは、諸伏さんだけだ。こういうところでいい顔をするから、とでも思われているのだろうか。
そんなことを思いながらほどほどのところで雑談は終わり、コーヒーのお礼を言ってから二人と別れてフロアの自分の机に戻った。
報告書は結局その一時間後に完成した。そのまま調書の書き直しに着手したので、結局課のオフィスを出たときには二十二時をゆうに回っていた。
駐車場の入り口で警備員さんに挨拶をして、自分の車へ向かう。ど平日で深夜に近い道路には車もまばらで、信号待ちの間にぼんやりとスマホの画面を眺めた。ふとスラックスのホックを外し、下腹と少しの内腿、そして下着が見えた状態をカメラに納め、そのままそれをSNSの例のアカウントへ投稿した。後ろからクラクションを鳴らされて、慌ててアクセルを踏む。
家に帰ってからスマホを見れば、諸伏さんからのいいねとコメントが通知されていた。
『柔らかそうで好みですが、信号待ちの間に写真を撮るのはいただけません』
送られていたコメントに、少し考えてからコメントを返す。
『家に着いてから撮ったんです』
『信号機の赤色が映り込んでいます。嘘はいけませんね』
すぐさま返ってきたコメントに、ふっと顔がにやける。昔から卒のない人間関係を構築するのは得意で、その代わりに特別に親しい人間ができたことはなかった。昔いた恋人に振られた理由も、「俺がいなくてもお前は生きていけるから」という意味のわからないものだった。
諸伏さんが初めてだった。私が「大丈夫」ではないことを知って、そしてその上でこんな風に構ってくれる人は、諸伏さんが初めてだった。
諸伏さんのコメントにもう一度返信しようか迷って、結局やめる。諸伏さんが私に何を思ってこうして構ってくれるのか、わからないから。あの夜に見た大きな手のひらがやはり彼も男なのだと思わせたのと同じくらい、普段の彼の態度が諸伏高明はただの上司でしかないと、告げてくる。
たちの悪いセクハラに巻き込んでいるようなものだ。この現状に、これ以上人のいい上司を付き合わせるのはフェアじゃない。その思いが喉を刺して、少しだけだけど、泣きたくなった。
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