前回読んだ位置に戻りますか?

4

 あれからしばらくして、フロイドは目を覚ました。けれど昨夜寝ていないのが響いているようで、昨日のように騒ぐこともなく、監督生の髪をいじって静かに遊んでいる。多少引っ張られたりする程度は我慢ができるので、フロイドのしたいようにさせている。小説を読んでいると、ふとフロイドが「あァ゛ー」と苛立った声を上げた。なにかと思って見れば、腕を爪で掻きむしっている。

「なにコレ、ちょー痒い。うっぜ、なんだこれ」
「虫に刺されたんでしょう。ちょっと見せてください」
「は、ムシぃ?」

 フロイドの機嫌が急降下していくので、ひやひやする。見ればやはり蚊に刺されたように皮膚がぷっくりと膨らんでいたので、掻かないように言いつけて薬箱を漁る。クルーウェルに作り方を教えてもらったハッカの虫刺されの薬を塗布してやると、痒みが多少薄くなり薬剤のすうすうする心地に気が向いたようだ。

「なにそれ、初めて見る薬だけど、小エビちゃんが作ったの?」
「はい。クルーウェル先生にお願いして教えていただいたんです。この寮、庭には池があるし周りは木立に囲まれてるから、案外虫が多いんですよね」
「そう? 俺、この寮でムシなんて見た事ねえよ?」
「そうですか? 結構ぶんぶん飛んでますよ」
「これだってムシに刺されたって、そんな大きいの来たら俺わかるし」
「虫は大きくないですよ…」

 そう言ってから、ふと不思議になって首を傾げる。

「フロイド先輩、虫ってどれぐらいの大きさのものだと思ってます?」
「どれくらいって、これくらい?」

 フロイドは言って、彼の長い人差し指と親指を使って直径十センチほどの丸を作る。「いや、虫はそんな大きくないですよ」 思わず監督生がいうと、うええとフロイドは顔を顰める。

「だって、ムシってカブトムシとかちょうちょとかでしょ? 陸に来る前の図鑑でちゃんと見たし、植物園でも飼ってんじゃん」
「そりゃカブトムシとかアゲハ蝶は大きいですけど、虫もいろいろいますし…」
「そんなの習ってねー、知らねー」
「まあ蚊とか、ハエとかアブとか、小さい虫って興味湧きにくいですけど」

 そう言ってから、ふとジェイドの菌床小屋を思い出した。植物園を出る前は靴の泥を拭う。靴底についた植物の種や虫の卵を外に持ち出さないようにするためだ。しかし、ジェイドの菌床小屋に入るときは靴底を拭わない。体についた虫は払うけれど、目に見えない大きさの虫に対しての対処は意識していない口ぶりに聞こえた。

「そうか、ジェイド先輩も小さい虫を知らないんだ…」

 監督生は思わずソファから立ち上がる。「小エビちゃん?」 フロイドの訝しげな声が聞こえるが構わず、立ったまま口元に手を当てる。なら、あの小さな黒い粒は…。図書館に行って調べる必要がある気がして、監督生は部屋着に上着を羽織った。

「小エビちゃん、急にどーしたの。どっか行くの?」
「はい。図書館でちょっと調べたいことができたので。フロイド先輩、ジェイド先輩が迎えの来られたらよろしくお伝えください。では」

 監督生はそれだけ言い残すと、なにか文句を言っているフロイドを置いて図書館へ駆け出した。だいぶ日が傾いているが、そんなに暗いわけではない。木立から植物園、鏡舎と購買を通り抜けて図書館まで駆けていくと、監督生は生物学の棚へ進んだ。閉館まで残り一時間ほどなので、残っている生徒は少ない。めぼしい書誌をいくつか見つけて読んでいると、閉館のアナウンスが流れた。読んだ中で必要な書誌を数冊貸し出しさせてもらい、抱えて図書館を出るとそこにジェイドがいた。

「フロイドを迎えに行ったら、あなたが急に図書館へ向かったと伺ったもので」

 まだダブルのタキシードのままのジェイドは、躾けられた執事のように監督生を出迎えた。「持ちましょう」と監督生の持っていた分厚い書誌を取り上げて、ぱらぱらと中をめくる。

「暗くてよくは見えませんが、昆虫のついての書籍ですか?」
「ジェイド先輩。もしまだお時間があれば、もう一度菌床小屋へ行きませんか?」

 不思議そうな顔をするジェイドに、確認したいことがあるんですと監督生は付け足した。



 日が落ちた後の植物園は暗い。ライトがつけられないわけではないだろうが、日照時間が長すぎると植物の生育に関わるので、控えているのだろう。先を進む道しるべはジェイドと監督生のマジカルペンの光のみだ。

「それで、なにを確認されたいので?」
「ジェイド先輩って、植物園で作業されるときの実験着は植物園の個人ロッカーに置いてあるんですか?」
「そうですね。都度洗濯のために持ち帰りますが、基本は置いてあります」

 夜でもこうこうと明かりをつけている菌床小屋につくと、監督生は発育不良のしいたけをひとつ摘み取り、指先に力を込めてそれを割って見せた。「監督生さん?」 訝しげにジェイドが聞くが、自分のマジカルペンもどきで照らして、まじまじとその断面を見る。

「やっぱり。先輩、これは食害ですよ」
「食害?」

 不思議そうな顔をするジェイドに、監督生は割いたしいたけの断面を見せた。

「細かいので見づらいかもしれませんが、白っぽい粒があるの、見えますか?」
「ええ。中を割ってはみませんでしたが、確かになにか粒があります。これが生育不良の原因だと?」
「そうです。これ、虫ですよ」
「ムシ?」

 ジェイドは目を見開いて監督生を見た。随分驚いたようだ。

「これは想像ですが、ジェイド先輩はもしかして虫は目に見えるサイズのもの、十センチとか五センチ、小さくても一センチほどだと思ってらっしゃいませんか?」
「…仰る通りですが、そうではないんですか?」
「違うんです。虫って、すごく様々な大きさのものが存在しています。一番小さいものでは、○.二ミリほどしかないものもあります。ジェイド先輩は海の中の出身で、気候も寒冷な土地だとおっしゃられたので、多分ですが、虫が身近にいる環境ではなかったのではないですか?」
「ええ。その通りです」
「やっぱり。…おかしいなと思ったのは、菌に対してエアーシャワーを行って持ち込まないようにしているのに、虫に対しての対処が甘いようにみえたことです。植物園の使用方法をクルーウェル先生に伺った際、必ず出入り口では靴の泥を落とすように指導されました。植物園の中から、植物の種子や虫の卵、小さな虫を持ち出してしまわないようにするためです。虫は湿度、温度の整った場所で繁殖しますから、この菌床小屋も例外ではないはず。なのに、先輩は虫の持ち込みに対しては『体を叩く』という対処のみだった。菌の持ち込みに対してはエアーシャワーで対応しているのに、ちぐはぐに思えたんです」

 はっきりと感じていたわけではないが、それを認識できたのはフロイドのオンボロ寮での発言のおかげだ。彼は十センチほどの大きさのものが虫だと言った。ジェイドもそうなのかはわからなかったが、ただこれほど注視しないとわからないほどのサイズの虫が存在していることには意識が薄いのではと思った。監督生はまじまじとしいたけの断面を見ているジェイドに続ける。

「これはダニという虫です。湿度の高く、温度は二十五度から二十八度ほどの環境で孵化します。この菌床小屋は繁殖に最適な環境ではないので繁殖力は弱っていると思いますが、ダニは耐久力や繁殖能力が非常に高いので、活動ができないわけではないはずです。ダニにとっては高温と乾燥が大敵なので。
 つまり、しいたけが育たなかったのは、この『ダニ』に食べられていたから。だから育たなかったんです。フロイド先輩のいたずらでも、私の復讐でもないんです」

 そう言い募ると、ジェイドは腑に落ちたような顔をして監督生を見た。

「だから図書館で虫の本を調べてらしたんですね」
「はい。虫の食害について、元の世界でもニュースなどで聞いたことがあったので、キノコを好む虫で、目に見えないような先輩が見逃してしまうサイズのものを探しました。拡大鏡魔法などで見てみないとわからないですが、恐らくケナガコナダニだとか、そういう種類のダニだと思いますよ」

 そう言ってジェイドが持ってくれていた書誌のページをめくる。さまざまなダニが図解されていたが、その中にケナガコナダニも記載されいている。色は白、もしくは乳白色でしいたけの他にも野菜への食害を引き起こしたり、パン粉や砂糖などの備蓄品に発生したりもするようだ。

「現状、しいたけ以外にダニによる害菌汚染が広がっていないのは、室内が無風であることや低温であることから、活動範囲が狭まっているんだと思います。ダニは風に乗って移動すると書いてありますし。ですがこのまましいたけにダニが広がったままでは、いずれ小屋内全てが汚染される原因になると思います。なので、早急にしいたけとしいたけの菌床の処分をされたほうがいいと思います」

 詳しくはこの本で確認してくださいと自分が借り受けてきた書誌数冊とまとめてジェイドに渡すと、彼はぽかんとした表情を作ったあと、ふつふつと笑いだした。なにが原因で笑われているのかわからず憮然としていると、「すみません」とジェイドは表面を滑るような謝罪を口にする。

「相変わらずお人好しというか、損得勘定の下手な方だと思っただけです。
 この件の原因がわかったとしてもあなたは困らないのだから放置すればいいし、僕に解明した原因を売りつけたってよかった。なのにあなたは、そうやって親切心まるだしの顔で、僕にすべて話してしまうんですね。対価も求めずに」

 そう言われてから初めて、ジェイドに対価を要求してからダニのことを教えればよかったのかと思い至ったが、すでに遅い。自分の後悔も顔に出ていたのだろう。ジェイドはもう一頻り笑うと、「お礼はまた昼食をご馳走しますよ」と折衷案を言い出した。

「あまったら僕が食べて差し上げますから、好きなだけ頼んでくださっていいですよ。あなたいつも、残さないような量の定食セットしか取らないでしょう?」
「それは、残すのはちょっと気が引けますし、そもそもここの食堂は量が多いんです」
「ですから、食べてみたいものを頼んでくださって結構ですよ。食べきれなかった分は僕がシェアしていただければ結構ですから。油も量も多そうな、肉料理の定食セットも食べてみたいんでしょう?」
「…なんで知っているんですか?」
「さあ。なんででしょう?」

 ジェイドは楽しそうに笑いながら、菌床小屋を出た。そのまま植物園を出て、鏡舎に置いてきたという賄いを回収してからオンボロ寮へ向かう。しいたけに限らず一度あの小屋内の菌床はすべて廃棄して、室内の消毒殺菌乾燥と虫に対する対策を練り直すつもりだとジェイドは話した。「手伝ってくださいね」と言われたので、今度こそ対価次第だと伝えた。
 オンボロ寮まで近づくと、門扉のところに人影が見える。誰だろうと思い近づくと、リドルだった。

「やあ、こんばんは。グリムが中にはいないと言っていたから、どこに行ったものかと思っていたよ」
「リドル寮長。どうしたんですか?」
「君、スマホを寮に忘れていっただろう? フロイドの件は大丈夫かと思って連絡をしても返事がないから、心配になって見に来たんだ」
「それは、失礼しました」

 申し訳なくなって頭を下げると、リドルは「いや」と首を振ってから、ジェイドを見た。

「待っていたのは伝言もあったからだ。オクタヴィネルの寮へも連絡が行っていると思うが、フロイドが火傷で保健室に入院になった。グリムもだ」

 思わず「え?」と悲鳴じみた声が出てしまう。聞きたくはないが、恐る恐る経緯を聞いて、監督生は脱力してしまった。
 監督生はフロイドに塗布した虫刺されの薬をしまわずに出てきてしまった。フロイドはすうすうする虫刺されの塗り心地、要するにミントの清涼感が気に入ったらしく、それを体のさまざまなところに塗布し、そして自分だけでは飽き足らず横で寝ていたグリムにも塗ったらしい。唯一毛並みのない、鼻のあたりに。それにグリムが驚き、揮発性のある薬のせいで目も痛むことに錯乱し、火を吹いて大暴れした。フロイドは突然の炎に応戦して、そのまま乱闘になった。たまたま様子を見に来たリドルが止めた際には、フロイドは体のあちこちに火傷を負い、グリムは猫に有害なメンソールを摂取した影響でめまいと体調不良を起こしていたそうだ。

「フロイドの火傷は一晩安静にしたら傷もなく治る程度のものだし、グリムが摂取したメンソールは少量だったようだから、命に別状はないようだ。そもそも彼は猫に似ているが、魔獣だしね。
 けれど、大事を取って今日は保健室で様子を見るとのことだった」
「リドルさん、監督生さん。大変申し訳ありません。
 フロイドには猫にミントは有害であること、アズールと言って聞かせます」
「いえ、こちらのグリムもやり返してるみたいですし、薬を片付けなかった私が悪いので……。
 リドル寮長も、お手数おかけしました」
「僕は君が巻き込まれなかったので特になにも不満はない。が、ひとつ問題があってね。それも伝えたかったんだ」
「なんです?」

 リドルの物々しい言い方に不安が募る。監督生の目線の先で、リドルは真顔でこう言った。

「オンボロ寮の談話室とダイニング、および上階の寝室周辺がグリムの放火によって半焼した。様子を見に来たクルーウェル先生は、原状回復には数日を要すると言っている。
 ユウ、君はオンボロ寮の修理が完了するまで、ハーツラビュルに泊まるようにとのことだった」
「グ、グリムぅ」

 やってくれたと監督生は思わずこの場にいない相棒の名を呼んだ。リドルとジェイドの憐れむような目線を感じて、監督生は思わずその場でへなへなとしゃがみこんだのだった。

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