前回読んだ位置に戻りますか?

3

「フロイドがオンボロ寮にいるんだって?」

 放課後に廊下で声をかけられ、一番にリドルはその話題を持ち出した。監督生は少し困って、仕方なく笑う。「そうなんです、リドル寮長」
 自分の寮の寮長でないのにリドルにそう話しかけてしまうのは、エースとデュースの物言いが移ったこと、自分にとって初めて親しくしてもらった寮長だったこと、それに彼がトレイやケイトと一緒になってあれこれと親身に世話を焼いてくれることに対しての敬愛の念がある。一度、アズールに「あなたはリドルさんのことしか『寮長』と呼ばないんですね」と皮肉げに言われたときは、困ってしまった。

「エースとデュースから今朝聞いたけれど、昨日は眠れたのかい?」
「ご想像にお任せします……」

 監督生の乾いた笑い方に、リドルは「困ったものだ」と眉を顰める。基本的にリドルは監督生に対して甘いし、監督生のほうもリドルはべたべたに甘やかしてくれることをわかっているので、あまり甘えないようにしている。
 彼は、監督生がしてほしいと口にしたことや、彼自身が監督生に対してするべきだと思ったことに関して、多少無茶だとしても成し遂げてしまうところがある。本当に、甘いのだ。

「今日も一緒に騒いで眠れないようなら、ハーツラビュルへおいで。トレイでもエースでも、迎えに出そう。僕が行ってもいい。
 フロイドに言っても、聞かないだろうからね」
「申し訳ないです」

 親切なリドルの物言いに、監督生はきゅうきゅうと申し訳なく肩身の狭い思いをして、ありがたく申し出を受けた。もし二十二時の時点で騒がしければリドルに連絡すること、誰か手が空いているものがオンボロ寮まで迎えに行くので夜道を一人で来ないことを約束し、リドルと別れる。別れ際に「あまり危ないことをするんでないよ」とお小言をいただいたので、ジェイドにキノコ栽培室を見せてもらう約束をしたことがバレているのかもしれない。
 植物園に着けば、ジェイドはすでに植物園の中にいた。共用の水場でバケツを洗っているようだ。普段寮服でダブルのタキシードを着こなすジェイドがそういうことをしているのを見ると、なんだか彼らしくなく思えて、むず痒く感じてしまう。

「お待たせしました。少しリドル寮長と話していたので」
「特に待ってはいませんから。それにリドルさんもあなたが心配でしょう。彼、『オニイチャン』ですし」

 ジェイドに言いぶりに首を傾げると、ジェイドはふふと口先で笑う。

「だって、彼、できたばかりの小さな妹を守る兄のようでしょう? お二人とも小柄ですし、とても可愛らしい」
「それ、リドル寮長が聞いたら怒ると思いますよ」
「まあ、後半部分はね」

 ジェイドはそう言って適当に話題をいなし、蛇口に挿していたマジカルペンを抜いて水を止めた。洗ったいくつかのバケツをまとめて温室へ持ち帰るらしい。手伝おうかと思ったが、恐らく邪魔なだけだろうと思い直し、そのまま後ろをついていく。温帯ゾーンに入るのに一回、キノコ栽培室の仕切り部分で一回、計二回ジェイドはペンを振っていた。

「よく考えたら植物園に入るのにも、温帯ゾーンに入るのにも、ペンがいりますものね。誰でも入れるわけではないし、キノコにいたずらできる人なんて、限られてますよね」

 この学校は魔法士の学校らしく、施設に入館するにも設備を使うのにも本の貸し出しにしたって、マジカルペンで管理をしている。魔力のない監督生にしたって、他の生徒と同じようなマジカルペンの形をした魔道具に学園長の魔力を入れてもらい、そのような施設への入館やら設備の使用やらに使っている。そしてその使用履歴や入館退館の履歴は、手順を踏めば学生にだって閲覧ができるのだ。

「一応、温帯ゾーンに入った方とキノコ栽培室に入った方の履歴を見れるよう申請していますが、なにせ期間が絞れていませんし時間がかかります。
 それに、やはり魔法の形跡が感じられないんです。誰かが魔法でなにかしたとなれば、その形跡で僕が気づくと思うんですが」

 腑に落ちないようにジェイドがいう。監督生には感知できないが、魔法を使うとその周りの空気の流れのようなものが変わるらしい。ジェイドは自分がそれを見落とすわけはないと言っているし、それが事実なのだと思う。彼がそういうのであれば、魔法が原因でキノコの成長が止まっているわけではないのだろう。
 となれば、「なにか」をしたのは魔法ではないことになる。魔法ではなく「なにか」をするにはよっぽどの根気と熱意とそれを実行するだけの理由が必要になる。だからフロイドは言い方が悪いが、「容疑者」足りえたのだ。
 彼は気が向けば「面白そう」という理由だけで、常人は成し得ない根気と熱意を見せてしまうときがある。

「本当は、監督生さんが犯人かと思ったんですが」
「え?」
「だって、あなたには魔法を使えない「理由」があって、グリムくんの面倒を見ながら生活する「根気」もありますし、イソギンチャクさんの契約を解いてみせた「熱意」もある。
 犯人足り得るでしょう?」
「ま、待ってください。それは魔法を使わなかった「理由」にはなりますが、キノコにいたずらする「理由」がありません」

 慌てて監督生が言い募ると、ジェイドは「そこなんです」とひどく残念そうにため息を落としてみせた。

「僕への復讐やいたずらにしては、あまりにリターンとメリットが薄いでしょう?
  キノコのお裾分けは純粋に喜んでらしたようですし、いただいたケーキなどのお菓子類も一般的に凝ったものだった。あなたは自分が喜んだものに対して好意を返すタイプにお見受けしますし、それにそもそも、魔法の痕跡がなかった時点であなたは犯人の候補に上がってしまう。
 仮にあなたがなんらかの理由で僕への危害を考えたとしても、すぐに犯人が自分とわかるような手口は使わないでしょう。
 あなたは賢いですから」

 流れるようなジェイドの弁に、監督生はようやく自分がここに誘い出されたことを理解した。昨日フロイドがオンボロ寮にやってきたのも、ジェイドの差金かもしれない。
 監督生がジェイドのキノコに危害を加えた犯人だと仮定して、彼に関係のある人物を差し向けたり、植物園のキノコをあげることはできないと言ってみたり。
 つまりこちらの反応を伺っていたのだ。

「まあ、フロイドを引き取ってほしいとあなたが直接現れたり、こうして植物園に足を運んでも飄々としているところを見れば、やはりあなたは犯人ではないようですが」
「それがわかったところで、現状の問題ってなにも解決してませんよね?」

 ぐったりした心地で監督生が絞り出すと、ジェイドは軽やかに弾むような声音で「はい」と返事をした。なにがそんなに楽しいのか、監督生にはまったくわからない。大きくひとつため息を吐くと、監督生はジェイドに向き直った。

「もういいです。発育しないキノコは栽培室のキノコすべてなんですか? それとも一部ですか?」
「主にしいたけです。そちらの小屋の中のものです」

 ジェイドが指すほうをみれば、そこにもうひとつ入口があった。ジェイドが使用している温帯ゾーンのテリトリー―つまりキノコの栽培室に入るまでに一度ドアをくぐったが、まだその中に木造の小さな建物がある。自分の故郷でいうビニールハウスに似たものだろうか。

「この辺りのものはジェイド先輩が育てているものではないんですか?」

 周りには切り倒された木材が見られ、そこには見覚えのあるキノコが小さいサイズながらもにょきにょきと植わっている。これらは野生ということなのだろうか。

「いえ、この辺りは僕が借りて育てています。
 この辺りのものは原木栽培―自然環境で育てるのに近い栽培方法と言えば、わかりますか?
  この植物園はそれぞれのゾーンの天気を実際の気候帯の天気から割り出した気圧、湿度、温度と同期するように管理しています。ですから、温帯ゾーンであれば元になった地域と同じ気候になります」
「それは、参考元と天気が連動しているということですか?」
「似ていますが、違います。実際の天気ではいつ雨が降るのかわからないですし、授業中に降ったら困るでしょう。
 ですから、問題のない時間に降らせることができるよう、時間を管理されているんです。つまりどれぐらいの量の雨をどの時間に降らすのか、どれぐらい日照を続けるのか、温度をどう変化させれば、元となる気候と同じ条件になるのかが割り出され、授業やその他作業の問題のないときに雨やスコール、雷などが実行されます。
 ですからこの辺りのキノコは理論上は、温帯ゾーンの元になった地域と同じ条件下で栽培されていることになります」
「では向こうの小屋は?」
「あちらは菌床栽培を行っている小屋です。あの中のしいたけが発育不良を起こしています」

 見てみますかと聞かれたので頷く。ジェイドが小屋の入り口を開けると、そこに二人入ればいっぱいの小さな部屋と、水道の蛇口があった。更に奥にもう一つドアがある。ジェイドば実験着のゴム手袋を外して蛇口にマジカルペンを挿し、じゃぶじゃぶと手を洗い始める。「あなたも洗ってください」と言われるので言われるままに石鹸をもらい、手を洗う。ひとしきり手を洗って洗わせて気が済んだのか、マジカルペンを取って水を止めたジェイドは今度はその上に取り付けられたシャワーの蛇口にペンを刺した。
 雨のように水が降ってくるのかと思い身をすくめると、そうではなく、ピシピシと霧吹きのような細かい水と、追って多量の風が降ってくる。アルコールが入っているのか、肌に触れればすうすうとした心地を残して、風ですぐに蒸発してしまった。ジェイドはふふっと唇を鳴らし、「エアーシャワーですよ」と言う。
 「殺菌と消毒です」「殺菌ですか?」「ええ」 聞き返した監督生に、ジェイドは大真面目な顔をしてみせる。

「キノコがなにからできているか、分類としてはどのように分けられるか、ご存知ですか?」
「ええと、菌糸類ですか?」
「その通りです。
 キノコはもともと菌糸と言われる細胞列が特徴でして、そこに体外の有機物を吸収して生長するんです。ですから、キノコのキノコ本体は僕らが普段呼んでいるキノコではなく、内部の菌糸類が本体なんですね。僕らが普段呼んでいるキノコは菌糸が結合してできた『子実体』といいます。
 これを一般的に知られた植物の構造を用いてかなり簡略した説明をすれば、僕らが呼んでいるキノコ―子実体は花の部分にあたります。雌しべが花粉を放出するように、キノコ―子実体も胞子を散布するのです。
 ですが、キノコの本体というものは先ほど申し上げたように菌糸の細胞列ですので、その細胞列の結合を阻害するもの、要するに害菌を排除しなければキノコ―子実体の健全な生長はできません。
 ですので、こうして手洗いやエアーシャワーによる滅菌消毒を行っているというわけです」
「…ジェイド先輩って、本当にキノコがお好きなんですね」

 怒涛のジェイドの説明に監督生はなんだか圧倒されて、思わずそう呟いた。説明された内容がわからないわけではないし、ジェイドのいう通り、かなり簡略化された説明なのだろう。ただそうやって簡略化された説明ができるところにキノコに対する異常な愛情や愛着を感じずにいられないし、ジェイドのいう『キノコの健全な生長』のためにこんな滅菌設備を作っているところも、シンプルにいえば、怖い。

「わかっていただけましたか、監督生さん!」

 そう言って破顔するジェイドは非常に嬉しそうだ。こんな笑顔のジェイドを見たことがない。繰り返すがシンプルに怖い。ジェイドはうきうきしながら、監督生の体をバンバンと叩いてくる。テンションが上がって叩かれているのかと思ったが、自分の体も同じように叩いているので、これもなにかの汚れを落とされているのだろう。ジェイドは一通り叩き終えると、監督生を菌床栽培小屋に招き入れた。正直こんなにテンションの上がりきったジェイドのそばにいるのは怖いので逃げたかったのだが、ジェイドが監督生の腕を握って離さないので、逃亡はかなり難しそうだ。
 これでは、以前噴水での水浴びに監督生を連れ出したフロイドの一件とそっくりだ。こんなところで彼らの共通点を見つけてしまい、監督生は死んだ心地になる。あのあと、フロイドに噴水に突き落とされた挙句校内を追い掛け回され、監督生は風邪をひいたのだ。お見舞いにいただいたモストロ・ラウンジの割引券や海鮮食材、キノコなどは美味しくいただいたが、それで許される問題でもないと監督生は思っている。
 できれば今度はもう少し軽症がいいなあと思いながら、ジェイドに手を引かれて小屋の中へ進む。ビニールハウスのように蒸し暑いのかと思えば、そこは案外涼しかった。恐らく夏を迎えるNRC校内より、よっぽど涼しいだろう。

「驚きましたか? 結構快適な温度でしょう。
 キノコの栽培に適した気温は、温帯ゾーンでの春もしくは秋の気候と言われています。温度でいえば、現在は十八度に設定していますので、外気温からは十度以上低いはずです。ただ湿度は八十パーセントほどの高めの温度設定ですので、寒すぎるとは感じにくいと思います。
 ちなみに菌床栽培はオガクズにブランなどを混ぜて作成します。ほら、その四角い茶色の塊が菌床ですよ」
「わ、わァ。すごーい」

 思わず棒読みする監督生にもジェイドは特に不満はないようで、にこやかに説明を続ける。本当にとても楽しそうだ。

「もともと菌床栽培は原木栽培との有意差の判断のための基準のひとつとして用意したのですが、これがなかなかに面白い。
 通常の原木栽培では二年から三年のサイクルがキノコの栽培には必要なのですが、菌床栽培は三ヶ月ほどから収穫ができるんです。ですから、例えば電気刺激などによるキノコの活性化などについては原木栽培ですと結果が出るまでに時間が掛かってしまう、もしくは魔法によって経過時間をいじるという方法になりますが、それでは電気刺激以外に魔法干渉によるバイアスを否定できないでしょう。
 ところが菌床栽培であれば短いもので三ヶ月で収穫までの生長がみこめますので…」
「あの、先輩。失礼ですが、生育不良のしいたけはどちらに…」
「ああ、失礼しました。僕としたことが。
 この部屋に来られたのはあなたが初めてでしたので、つい興奮してしまいました。発育不良のしいたけは、この列です」
 
 小屋の中では両脇の壁に沿って一列ずつ、そして部屋の中央に棚がありその両側に二列、計四列のキノコの棚があった。そこにそれぞれ別の種類のキノコが栽培されているようで、入ってすぐの壁沿いがしいたけのようだ。見れば確かに一般的なしいたけより随分小さく見える。

「このしいたけは栽培を始めて、もうすぐ三ヶ月なんです」
「早いものだと、三ヶ月で収穫できるんですよね?」
「ええ。本来であれば、もう収穫できるほどの大きさになるはずなんですが。他の菌床は収穫できたのに、これだけが大きくならないんです」
「周りの菌床は全部しいたけなんですか?」
「いえ、周りはまいたけやひらたけ、しめじなどですね」
「しいたけだけが大きくならないんですね。本当にフロイド先輩の怨念じゃないんですか。
 彼、たしかしいたけが一番嫌いでしょう」

 そう冗談をいえば、ジェイドも微笑んだ。「そうだといいんですけどね」

「まあ、冗談を言っていても仕方ないですよね。ん、これは?」

 小さな黒い粒が菌床を置いた棚にぽつぽつと落ちている。「ああ」 ジェイドが軽く頷いた。

「オガクズの破片でしょう。最近皮が混入していたようで、時折黒っぽい粒が出てくるんです」
「へえ。オガクズなんて、どこから仕入れるんですか?」
「購買で入荷していただくこともあれば、校内の修繕やクルーウェル先生が授業で木材を使用した際に、裁断したものの端切れをいただいたりもしますね」
「それも殺菌してから持ち込むんですよね? 菌が入らないように」
「もちろん。そちらにシャーレがあるでしょう。これは寒天培地を使用して簡易培養しているものなのですが、一週間前に小屋内の空気を採取したものでも、シャーレ内にカビの発生が見受けられません」
「じゃあ、単純にしいたけの病気ってこともないんですね」
「ええ。あとは虫による食害ですが、先ほどのように入室の際は気をつけていますし、清掃も十分に行っています。虫が入る隙などないでしょう」

 そう言われて入る前にやたらめったらに体を叩かれたことを思い出した。それで叩かれたのかと思うと、ジェイドの大きな手で叩かれた背中や肩が痛むような気がする。
 なんとなく違和感があるように思うが、なんだろうか。首を傾げていると、ジェイドのスマホが鳴った。どうやら、時間切れのようである。

「モストロ・ラウンジのシフトの時間ですね。今日は遅出ですが、もう行かなければ」
「いつもお疲れ様です」

 二人で小屋を出ながら他人事のようにいえば、ジェイドは意地の悪い顔で「あなたも働いてみますか?」などと言い始める。以前、グリムたちがイソギンチャクになった際に少し手伝ったが、もうこりごりだ。とても忙しくて、ジャックはともかく自分はそのうちに転んで、大柄な生徒に踏みつけられそうだった。
 しかし、と思って監督生はジェイドを見る。ジェイドは外していた手袋を拾い、乱雑に白衣のポケットに突っ込むと、洗って持ち帰ってきたバケツを定位置に戻している。
 このあとジェイドはあのダブルのタキシードに着替えて、ラウンジで接客をするのだ。ラウンジの煌びやかなイメージと現在の土にまみれたイメージが違いすぎて、同一人物ではないように思えてしまう。ジェイドは簡単に片付けを終えると、行きましょうとキノコ栽培室を出た。菌床小屋に鍵はかけていないようでそのままだが、あんなキノコの巣窟に入ろうと思う人間が少ないので、問題はなかったのだろう。今回までは。

「フロイドは今日の夜、モストロ・ラウンジの退勤後に連れて帰ります。彼は今日早出シフトなので、恐らくもうオンボロ寮へ向かっていると思いますが、僕が行くまでは適度にあしらっていただけますか。
 なにか賄いを持って帰りますので、我慢させられるなら食事も後にしていただいて結構ですよ」
「わかりました」
「あなたとグリムくんの分も持っていきますので、よければご一緒にどうです?」
「わ、わァ」

 リーチ兄弟と晩餐かあと、素直に喜べない苦笑いと浮かべていると、ジェイドも笑ったまま手を近づけてくる。「随分嬉しくなさそうですねえ」「いひゃい、ひゅねるのやめてください」「なに言ってるのかわからないですねえ」 そんなやり取りをしつつ、植物園のロッカールームで着替えるというジェイドと別れて、入口でざりざりと靴の泥を払う。出入り口のよくある起毛のカーペットは、生徒が落とした靴の泥で黒く汚れている。

(なんで靴の泥、落とすんだっけ)

 それについて、初めて植物園に来たオリエンテーションの際にクルーウェルになにかを言われた気がする。靴の泥にはさまざまなものが不着しているという話だった。種子だとか、卵だとか、そういうもの。
 木立を抜けてオンボロ寮への帰路に着く。昨日はあんなに騒がしかったのに、今日はさやさやと風が通り抜ける音がするだけで、嫌に静かだ。「ただいま」と声をかけて玄関の扉を開けると、開けてすぐのところにいたゴーストが「シー」と人差し指を立てた。
 見れば大きな靴がひとそろい、玄関に脱ぎ捨ててあった。周りは共同生活の寮なので気にならないのかもしれないが、監督生はこの寮の建物内から自分の部屋という感覚が強く、寮内では土足厳禁とした。初めはフロイドも不満そうであったが、ここのルールだといえば案外素直に靴を脱いでくれるようになった。クローゼットに靴はしまわないが。
 監督生はなるべく静かに自分の靴と、フロイドの靴をクローゼットにしまう。そしてそっと談話室の中を覗き込めば、ソファの上でフロイドが、そのフロイドの腹の上でグリムが、二人共気持ちよさそうに眠っていた。フロイドなど、寮服のままだ。きっとモストロ・ラウンジの勤務が終わってそのまま来たのだろう。
 なんとなく微笑ましくなった監督生は、スマホを機動して音を立てないように一枚写真を取ると、ブランケットを二人にかけた。さて。気疲れしたので、お茶でも淹れておやつにしよう。

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