前回読んだ位置に戻りますか?

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 オンボロ寮の修繕には二日かかり、掃除が完了してから戻ることになったので、今日がハーツラビュルで泊まる最終日だ。グリムはあれから何事もなく保健室を退院し、ただ猫の形態をとっている魔獣なので今後もミントなどのメンソール成分には注意するようにと言われた。クルーウェルにはミントの代わりにレモングラスを使う虫刺され薬のレシピを作ってもらった。
 フロイドも悪気はなかったようで、保健室に入院していた二人の様子を見に行くと、めまいを起こして寝込んだグリムにフロイドが謝っていた。ミントが猫に有害だとは知らなかったようだ。グリムも「悪気がねぇんなら仕方ないんだゾ」と男前なことを言って許していたが、翌日の朝には朝食のソーセージを取り合って喧嘩をしていた。
 ジェイドは早速菌床小屋の消毒と滅菌、その他防虫対策に乗り出したようで、多少手伝いはしたが目標があって楽しそうに見える。防虫のための設備や方策を練るついでに虫についても勉強しているようで、ときどき虫の名前を出されては、見たことはあるか、どこで見たかなどを聞かれる。正直なところ、キノコ以外に虫にも目覚めてしまったらどうしようかと、監督生はひやひやしている。

「しかし、ジェイドやフロイド、アズールも小さな虫を認知してなかったなんて。虫に刺されたり、気づきそうなものだけどね」
「仕方ないですよ。だって、オクタヴィネル寮は水の中にあるんです。水中で生息できる虫なんて限られていますし、それも水深が浅いところだけでしょう? 鏡の魔法がなければ、人間でも水中で生活できないんですから」
「なるほど。…では、一体どこからダニは入り込んだんだい?」

 ハーツラビュルの談話室で飲む今日の紅茶は、ウバに蜜付けの氷砂糖が溶かし込んであり、スパイシーな香りがする。ミルクも合いそうなので、次の一杯にはミルクを入れるつもりだ。

「ジェイド先輩の靴か服に付着していたんでしょうね。そのまま、気づかずに菌床小屋に持ち込んでしまったんです」
「だが、ジェイドが靴や服の手入れを怠りはしないだろう? それに寮に戻れば水の中だ。虫は生きれない」
「…リドル寮長、気づいちゃいました?」

 監督生は紅茶のカップを置いて、自分のスマホを取り出した。画面をタッチして、該当の画像を呼び出す。

「これ、ジェイド先輩が申請していた温帯ゾーンとキノコ栽培室付近の入室履歴なんですけど、どう思います?」
「…どうって。強いて言えば、レオナ先輩の名前があるね」
「これはジェイド先輩には伝えていないので他言無用でお願いしたいんですが。
 …先輩の使っているエアーシャワーは空気の吹付けだけでなく、ミストが付いています。揮発性と清涼感があったので、エタノールやメンソール成分―恐らくは防虫・殺虫の成分が入っているんでしょう。
 ですから、あのミストを吹きかけられた靴やズボンの虫や卵はほぼ無力化されていたと思いますし、ジェイド先輩は実験着もこまめに持ち帰って洗浄していたようなので、先輩の衣服で多量のダニの繁殖はなかったと思うんです」
「じゃあ、そのしいたけのダニはどこから来たんだい? まさか、それがレオナ先輩だと?」
「フロイド先輩がうちの寮に来て、ジェイド先輩かアズール先輩を呼びに行ったとき、ラギー先輩に会ったんです。
試験でレオナ先輩の部屋の掃除がしばらくできなかったと言っていました。
 その時期、どうしてレオナ先輩は温帯ゾーンのキノコ栽培室付近にいたと思います? いつも先輩が寝ていた温帯ゾーンで、一年生の試験があったんです。だから、そこで寝るわけにいかなくて、温帯ゾーン内を散策した。そのときにジェイド先輩のキノコ栽培室付近にも行ったからこの履歴があるんでしょうし、試験のせいでずれた雨の時間にかち合ってしまったとか、なにかの理由で菌床小屋の中に入ることも、あったかもしれませんね」
「でも、レオナ先輩が原因だとは断定できないだろう?」
「はい。ただ、ラギー先輩にそれとなく確認したら、やっぱりレオナ先輩の部屋でダニが出ていたらしくて。先日、防虫剤も炊いたらしいですよ。これで断定はできませんが、ですがそもそも、です。
 ジェイド先輩が自分で持ち込んだのでなければ「誰か」が菌床小屋に入ったことになる。『リーチ兄弟の実はヤバイほう』なんて言われているジェイド先輩が世話をしている施設に近寄る人って、すごく限られてくると思うんです。グリムみたいな考えなしの怖いもの知らずか、もしくは怖いもの知らずの強者か、です」
「だがジェイドなら、すぐにその結論に至るんじゃないか? 君みたいに」
「先輩にはこの確証が得られないので、限りなく仮説に近い結論にしか至れないと思いますよ」
「なぜ?」

 なぜってと監督生は首を傾げる。

「私が既にラギー先輩に試験後にしたレオナ先輩の部屋の掃除について、聞いているからです。ラギー先輩が同じ問いかけを二度受けて不自然に思わないはずがないですし、二度目がジェイド先輩なら、なおさらです。どんな火の粉が降りかかってくるかわかりませんから、ラギー先輩はきっともう曖昧な返事しかしませんよ。『覚えてない』とか、そういう。
 だからジェイド先輩はラギー先輩がレオナ先輩の部屋で防虫剤を炊いたという情報を得ることはできないですし、疑惑は疑惑のままで終わります。私が喋らなければ、彼はこの情報を知らないままなんです」
「……まったく。君もいい度胸がおありだね?」

 困ったものを見るような目で、リドルが監督生の額を小突く。監督生は子どものように無邪気に笑って、小突かれた額を抑えた。

「私、レオナ先輩は自業自得かなと思うんですけど、騒動にジャックが巻き込まれるのは、ちょっとイヤなんですよね」

 そう監督生が笑うと、リドルも微笑んで「違いないね」と同意した。



 それから数度、ジェイドは監督生にダニ事件の真実について、―つまりエアーシャワーに防虫効果があったことや、しいたけに発生していたダニは水の中で生きられないことなどを話して、誰か第三者が菌床小屋に入り込んだのではという『推理』を披露した。そして、監督生に知っていることを話すよう何度か誘いかけたが、彼女は知らぬ存ぜぬを貫き通した。

「あなたは本当に頑固な方ですね。是非ともその唇をこじ開けてみたいものだ」
「そうですか? では、その鋭い歯で齧ってみます?」

 監督生がうっそりと笑って聞き返せば、ジェイドは表情を微笑みから変えず、瞳の奥を細めた。この状況で彼がユニーク魔法を使えば真実は白日の元だろうが、果たして彼もそんなことに『一回きり』の魔法を使う決断には至らなかったようだ。
「意地悪な方だ」とジェイドがいうので、監督生はそんなことはないとサラダに入っていたモッツァレラチーズの欠片を彼の皿に移した。ジェイドはそれをトマトと合わせて、口の中に放り込む。
 ジェイドとは月に数度、昼食を共にしている。最初は彼と定食セットをシェアするのに抵抗があったが、そのうちにどうでもよくなったのだ。NRCの食堂には日替わりの限定定食や季節の定食もたくさん存在するので、量を鑑みて食べたいものを食べられないのは、絶対にもったいない。ジェイドと食事をするときは、量なんて気にせず、食べたいと思ったものを注文することができるのだ。

「知っていますか? 繰り返し一緒に食事を取ってもいいと思う相手は、それなりに好意を抱いている相手だけだそうですよ」
「そうかもしれないですね。だって、嫌いな人だとか、緊張する相手と食事するのって、疲れますし味が感じられない」
「なら、定期的に食事と共にしている僕たちは、仲良しですね」
「そうかもしれませんね。あ、先輩。そのグラタン一口ほしいです」
「どうぞお好きに。全部はいやですよ」
「そんなことしませんよ、後が怖いから」

 そんなことを言い合いながら食堂で食事をしていると、リドルがやってきて顔を顰める。

「…君たち、二人であれこれ手をつけて食べて。もう少し落ち着いて食べれないのかい? ユウも。君に羞恥心はないの?」
「羞恥心ですか? なにか顔についてます?」

 そんな汚い食べ方はしていないと思うのだが、慌てて口の周りをナプキンで拭う。リドルはため息を吐いて、「もういいよ」と肩を落とした。ジェイドはなにかを察したのか、意味ありげに意地悪な顔をして笑っている。
 ここ数回食事を共にしてもわかったのだが、ジェイドは事あるごとに結構悪い顔をする。そしてそれは彼が楽しんでいるときほどよくするようので、監督生は自分に実害がない限りは見ないふりをすることにした。触らぬ神になんとやらだ。
 リドルはとりあえず、もう少し女子生徒らしくお淑やかに振舞うよう監督生に言いおいて、行ってしまった。リドルは一体なにが言いたかったのかと不思議に思いながらパンをかじると、ジェイドは「まア、彼は『オニイサン』ですから。妹についた虫は心配になりますよね」などと訳知り顔で言ってみせた。
 虫なんていますか? そう首をひねる監督生にジェイドは「口を開けて」とグラタンの乗ったスプーンを差し出した。断りきれずにそのスプーンを受け入れた監督生に、ジェイドは晴れやかに追撃した。

「悪いムシ、ここにいるかもしれませんね?」

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