前回読んだ位置に戻りますか?

あなたの秘密が知りたくない

(中略)
 例えば数字の『7』から緑色を視認したり、アルファベットの『C』から黄色を見たりするなど。
 落ち込んだ人物のため息を『青色吐息』などと形容する比喩表現とは違い、彼らは本来であれば相関のない『知覚・感覚』を、関連するものとして『知覚・感覚』する。
(中略)
 しかしながら、他者が自分とは同じ感覚を持っていないと知ることで、自身の言葉にはしづらい性質を異常と感じ、自身の特異な感覚について口にしない者も多い。
 無意識的かつ一貫した『知覚・感覚』は、それがその人物にとっては本当に感じられた感覚だということを示しているが、その『知覚・感覚』は本人の主観という無形の財産でしかなく、論拠となるものの存在は確立されていないのである。





 昼休みにスマホをチェックすると、哀ちゃんから写真が送られていた。なにかと思えば、先日のグランピング施設で撮ったものをまとめてくれたらしい。
 子ども達の楽しそうな表情もよく撮れており、そういえば大叔父がデジカメをいじっていたと思い出す。指先でスワイプした何枚目かに、沖矢氏の姿を見つけて思わずじっと眺めてしまった。
 帰り道の道中は穏やかなものだった。コナンくんも今度は狸寝入りをしなかったので、大げさに褒めたい気分だ。
 帰りの車の中で、すっかり忘れ去られていた大きな鬼騒動の話をすると、沖矢氏もコナンくんも難しそうな顔をしていたが、きっとホームズファンの血が騒いだとかそういうことだろう。
 二人には悪いが、わたしには事の顛末がなんとなく、見えている。

 厚生労働省の輸入リストの開示を取り寄せて確認させてもらったが、見つけたかった申請や、他にもグランピング場付近での展示の案内等は見つけることができなかった。
 これは自分の危惧がいよいよ現実味を帯びてきたと思い、とりあえず産業銃の使用申請を会社へ提出しておく。使わないに越したことはないので、それはそれでいい。社内だけのことなのでなんとかなる……と信じたい。上司にはその旨を伝えると、実に胡乱げな目で見られた。恐らく大変もの好きだと思われている。間違っていない。
 週末に再度グランピング場付近まで行く予定を立てるのに、大叔父の車を借りようと思ったが、しばらく車検に出すらしい。使うのであれば代車を借りると言われたが、それならレンタカーを借りるし、借りるのであればグランピング場付近で借りたほうが効率がいい。
 大叔父の申し出は断って、近日中に出かける予定があるとだけ伝えた。哀ちゃんと違い、三十路も超えたいい大人なので、さすがになにも言われない。気をつけるようにとだけ受けた注意に、もちろんと頷いた。
 あれから沖矢氏とは顔を合わせておらず、わたしが週末のたびに隣県に出かけて不在にしている間に、何度かおすそ分けを持ってきていたらしい。恐らく、すれ違いになっている。
 わたし自身、彼にどういう態度や返答をすればいいのか、距離を測りかねたままで正答が見えていない。顔を合わせないのは保留期間が増えてよいことのはずなのに、寂しいと感じる自分の心がままならない。ほとほと嫌気がさしていた。

 そんな漠然とむしゃくしゃとした、すっきりしない気持ちを抱えたまま、週末に隣県まで日帰り捜索を続けている。あらかじめ目星をつけていた地点の探索を繰り返していたが、目新しいものは見つけられなかった。余計にストレスが溜まる。
 何度か「らしき」影を見た気はしたのだが、なかなか確証が得られない。写真でも撮れれば話が早いのに、とほぞを噛みながら有給まで取って探索すること数回続けたある日、ついに確証を得ることができた。
 先日歩美ちゃんを追いかけたときに聞いたものと同じ、甲高くもの悲しげな笛に似た音。
 夜間に鳴くトラツグミとも違う音色だと、くすんだオレンジの浮かぶ視界が告げている。すぐさまタブレットを取り出して音が聞こえてきた方向にある水辺を絞り込み、そちらへ向かって歩きだした。しかしながら、なるべく装備を整えてきたとは言っても、舗装されていない山の中は歩きづらく、既に正午を回って久しい。日が暮れる前に下山を始めなければ下りられなくなるので、行動時間はかなり限られるのだ。
 『他のもの』の接近に気付かなかったのは、そういった背景がある上での、恐らくやっと探し物の手がかりを見つけられそうだった期待感、今日中にはある程度の見通しを立てたいと思っていた焦燥、そういったものが理由に含まれていたと思う。



 その水辺で、わたしは目的の探し物をやっと見つけることができた。わたしがずっと探し回っていたあの日の大きな鬼の正体は、溜池の向こう岸で木の根元に顔を突っ込んでいる。その写真をカメラに収めようとスマホを起動した、そのときだった。
 背後から人の足が濡れた枯葉を踏む音がし、誰なのかと後ろを振り向こうとした瞬間、ぐっと生臭いもので口と鼻を覆われる。荒くざらざらとした布の感触、恐らく作業用の軍手、男の手だった。反射的に肩ごしに後ろを覗くと、血走った目の男と目が合い、体が震える。聞こえる荒い呼吸は、彼がよからぬことを考えている、その裏付けとして十分すぎた。

「おとなしくしろ。着いてこい」

 男は低く震えた声でそういうと、わたしの口と鼻を抑えたまま無理やり引きずっていく。手は完全に密着しておらず、軍手の目が荒いおかげで呼吸ができなくはないが、無理やり引きずられる際に髪や腕を引かれ、痛い。
 男はわたしを森の中で引きずって歩き、地理的にはグランピング場からも近くの住居からも十分に離れた場所まで連れてくると、その場へ乱暴に突き飛ばした。無理やり歩かされていたのと恐怖とで、震える足は立っていることができず、腐葉土の積もった地面へ倒れ込んでしまう。わたしを引きずってきた以外の人間の足音もして、いつの間に来たのか、見上げれば男が三人ほど、増えていた。

「この女がそうなのか?」
「ああ。今も例の場所を写真に撮ろうとしていた」

 頷いてわたしを顎でしゃくった男、彼がわたしをここまで引きずってきた男だ。今こうして改めて見てやっと思い出したが、あのグランピング場で天体観測のガイドをしていた男性だ。あのときとは真逆の、ひどく冷たい顔をしている。

「お嬢さん、ちょっと聞かせてほしいんだが、あそこで何を撮ろうとしてたんだ?」
「な、なにって…」

 四人の男に冷たく見下ろされ、明らかに正常ではない状況にうまく頭が回らない。もつれる口をなんとかこじ開け、なにもしていないと首を振った。

「なにも…、向こう岸にいた鳥を撮ろうとしただけ……」
「……鳥、ねえ」

 わたしの返答に、男たちは互いに意見を聞くように顔を見合わせる。いくらかあって、わたしに先ほど質問をしてきた男、背が高く黒いキャップを被った男が仕方ないというように首を振った。

「服を脱がして写真を撮れ。…お嬢さん、お前が何をしようとしていたのだとしても、こいつがお前をここまで引きずってきたこと、俺たちが尋問したこと。この事実が残る。
 本当に鳥の写真が撮りたかっただけなら災難だが、こちらにも都合がある。仕方のないことだ。せいぜい、自分の運のなさを恨んでくれ」

 その男がリーダー格なのだろう。そう言い切ると、「やれ。脱がすのはお前らがしてやれ」と短く周りの男に顎をしゃくって、指示をした。別の男が二人、前からと後ろからとわたしの体を抑え、ガイドの男はスマホのカメラを構えている。
 着ていたパーカーのチャックが下ろされ、中のシャツが無理やり引っ張られる。ぶち、と絶望的な音を立ててボタンが引きちぎられた。なんでこんなことになったのか、彼らは何をしているのか。わたしには全く心当たりがない。しかしわたしが何がしかの彼らの地雷を踏んでしまったことは、ひどいくらい鮮明に、明白だ。
 男の力は強く、暴れるが逃げ出せそうにない。布が避ける音は自分の代わりの悲鳴のようで、悲痛に聞こえた。下腹部のチノパンのボタンに手をかけられ、そのままずり下ろされそうになる。
 そのときだった。
 ザザザっと葉ずれの音がして、空からなにかが降ってきた。正確には近くの斜面からなにかが飛び込んできたのだ。『それ』は少し離れて立っていたリーダー格の男の前に着地すると片手で素早く男の胸を突いて体勢を崩し、そのまま即頭部に手の甲をぶち当てる。くわんと三半規管を揺らしたのか、リーダー格の男はそのまま地面に倒れ込んだ。

「彼女に何を……していらっしゃるので……?」

 緩慢に見える振り返り様が、言い知れない恐怖を煽る。男たちに問いかけたその人は、沖矢氏だった。普段のきれい目な格好とは違い、くるぶし丈のパンツと動きやすそうなスニーカーを履いている。問いには答えず拳を振りかぶったガイドの男に鋭く膝蹴りを入れ、倒れ込んだ男の側頭部に拳で打ち込みを入れる。
 わたしの服を脱がしていた男が同じく飛び込んでいったが、逆に襟元を掴むとそのまま足元に放り投げ、呻いて起き上がろうとしたところを蹴り飛ばした。
 三人目の男が地面に倒れ込んだとき、わたしを後ろから押さえつけていた男の「ヒッ」という鋭い悲鳴が聞こえた。沖矢氏は変わらず底の見えない目で背後の男を睥睨し、無言のまま、こちらへ近づいてくる。

「き、来たらこいつを刺すぞ!」

 いつの間に取り出したのか、銀色のナイフが背後の男の手の中には握られており、肩に腕を回され首にナイフを突きつけられる。しくりと痛みが走って、首元が少し切れたのがわかった。沖矢氏は男のそんな様子にも構わず、こちらへ向かって進んでくる。背後の男の腕がぶるぶると震え、ピュウっと耳元でナイフが空を切る音が聞こえた。男がナイフを振りかぶったのだと知覚した瞬間、風が横を吹き抜けた。見れば前方にいたはずの沖矢氏の姿はなく、背後でドウと、ものが倒れる音と鋭い打撃音が一回。それきり何も聞こえなくなった。背後を恐る恐る振り返ると、沖矢氏が取り付いた男の上から立ち上がるところだった。

「君は馬鹿か!」

 立ち上がった沖矢氏に開口一番怒鳴りつけられて、びくっと肩が震える。今更ながら視界がけぶり始めて、沖矢氏の珍しいしかめっ面まで滲んだ。俯いた視界の端に、耳に手を当てた沖矢氏が「今制圧した、すぐに来てくれ」と短く呟いたのが聞こえる。沖矢氏は大きくため息を吐くとこちらに近づきながら自分の着ているマウンテンパーカーのチャックを下ろし、さっと脱いだ。

「着てください、もうすぐ警察が来ます。その格好は……好ましくありません」

 言われて見れば、着ていたシャツは引きちぎられ、中のインナーまで破られて下着が見えている。慌てて胸元を抑えると、ますます涙が出てきた。再度の軽いため息が聞こえ、沖矢氏は差し出していたパーカーをわたしの肩にかけ、ぎゅっと巻きつけてくる。あの夜にも香った、すっと通ったミント混じりの香りに顔を上げると、困り顔をして、沖矢氏がわたしを見下ろしていた。

「…怒鳴って、申し訳ありません。あなたを心配したんです、まさかこんなことになっているなんて」

 そのまま沖矢氏はわたしの背中に腕を回し、あやすように背中を叩く。まだ混乱の最中で、これがどういう状況なのかも何も理解していない。だけど沖矢氏がわたしを助けてくれたこと、彼のおかげでもう今は安全なことだけ、やっと理解できた。

「何度も言いますが、僕はあなたに怖がられたら、立ち直れないんです。僕はあなたを害しませんから、だからどうか、泣き止んでください」

 そうやって懇願する沖矢氏の声が本当にほとほと困り果てたように聞こえて、わたしは少しだけ笑ってしまった。少しして警察と、なぜか警察と一緒にいたコナンくんが騒々しくやってくるまで、わたしは沖矢氏の腕の中で大人しくさせられていた。



 男がナイフを振りかぶった際に首の薄皮一枚が掠っていた。大した傷ではないように思えたのだが、衛生的な観点から大事を取ったのと、傷害として立件するのに診断書が必要と言われ、救急車に乗せられ病院まで運ばれてしまった。
 フリーク気味のコナンくんやそれに似た雰囲気を感じる沖矢氏はてっきりその場に残るのかと思いきや、一緒に病院まで付き添ってくれた。沖矢氏などは荷物などを持ち、代わりに会計まで終わらせてくれる献身ぶりで、正直意外だった。確かに子ども達にはとても面倒見がいい。しかし、これはとても失礼とは思うが、あまり甲斐甲斐しく気が回る質に見えないのだ。
 わたしが少々あんぐりとしてその姿を見ていると、コナンくんが「そんな顔で見てやるなよ……」とやるせなさ気な声で言った。

「いや、わたしは君がここに着いてきてくれたことにも驚いているんだけど」
「オレって、そんなに人でなしに思われてんの?」

 コナンくんは乾いた声で笑うと、ぴこぴこと鳴った携帯に出た。相手は知り合いの刑事さんらしい。なぜ隣県の県警の刑事さんとも知り合いなのかと思ったら、電話の相手は警視庁の刑事さんらしく、このまま県警まで来てほしいとのことだった。
 どうやら、わたしが首の傷の治療を受けている間に、警察と沖矢氏とコナンくんとである程度の段取りが決まっていたらしい。わたしを襲ったグループの収容や事情聴取、現場の検証等も一段落したとのことだった。

「そもそも、自分の身に何が起こったのか、わたしは何も理解していないのだけど」
「その状態で巻き込まれてるの、ホント笑えねーから」

 車を回しに行った沖矢氏を待ちながら、返すコナンくんの言葉は至極クールだ。彼はわたしに対して、大抵こういう反応をするのだ。車に乗り込んでから再度同じ質問を繰り返したわたしに、答えてくれたのは運転席の沖矢氏だった。

「数ヶ月前に、東都の個人経営の美術館で強盗殺人があったのは、覚えてらっしゃいますか?」
「ああ。オーナーの男性が殺されてしまって、まだ犯人は捕まってなかったやつですよね?
 確か男四人組の……、え?」
「恐らく、想像された通りです。
 彼らはほとぼりが覚めるまで、グループのうちの一人が定住している地域の山中―自然公園内に、数箇所に分散させて美術品を隠したようです」

 かち、かち、かちと沖矢氏はウインカーを出して右折待ちをしている。県警までの道を知っているのか、随分手馴れた運転だった。

「自然公園の山中は整備された一定の区画でなければ、ほとんど人は寄り付かない。唯一の例外が子どもの肝試しだったので、夜間には人が近づけば、脅かしの人形が飛び出す仕掛けをつけた。
 グランピング場勤務の男は、積極的に『近隣の鳥避けが紛れ込んでいるのだろう』等、うわさを回す。あまりよくできた仕掛けとは言えませんでしたが、目くらましにはなっていたようですね。
 数ヶ月は見つかることなく、過ごせた」

 沖矢氏は運転しながら窓を開け、「失礼」と一言断ってからタバコを咥えた。信号待ちの間にジッポで火をつけると、ふかぶかと吸い込む。

「しかしそんなとき、美術品を隠した場所周辺を歩き回る不審な人物が現れた。その人物は美術品を見つけこそしないものの、なにかを探しているような素振りで山中の徘徊を繰り返している。
 ……彼らにとっては、さぞ肝が冷えたことでしょう」
「た、大変申し訳ございません」
「…ねえ、姉ちゃんはさ、一体なにを探してたの? なにか理由、探し物があって来てたんでしょ?灰原も最近姉ちゃんがしょっちゅう出かけてるって言ってた。
 なにを探してたの?」

 自分がどういう立ち位置に立っていたのか、沖矢氏から克明に説明され、沖矢氏の前だからと猫をかぶったコナンくんに愛らしく糾弾される。そこで黙ったままでいるという選択肢は最初から用意されておらず、わたしは粛々と頭を下げる。

「実は……」

 自分の恥ずかしい勘違いも含めて、事の次第を釈明しようとしたときだった。再度ぴこぴことコナンくんの携帯が鳴り、話を遮る形になったわたしにコナンくんは断りを入れる。
 スマホの画面を見たコナンくんの眉がぎゅっと顰められたので、どうやら、あまり予想していなかった人物のようだった。

「はい。ああ、うん、そうだよ……」

 うん、うんと話を聞くコナンくんの顔が徐々に険しくなっていく。最後に「わかった」と通話を切ってから、コナンくんは運転席の沖矢氏にずいっと身を乗り出した。

「安室さんからだった。
 ……公安案件の可能性が出たって」
「今回の件が…ですか?」
「うん。現場ではまだ言い逃れ扱いされているらしいんだけど、犯人グループのうちの一人、…グランピング場で勤務していた男だよ。そいつだけが東都の個人美術館での強盗殺人を否定しているらしいんだ。だけど、他の三人は口を揃えて『この四人の犯行で間違いない』と供述している。
 …『あいつはそういう言い逃れをしがちな男だ』っていう非難も含めてね。ちょっと、おかしくない?」

 一人だけが容疑を否認して、他の人物は容疑を認めている。他三人の供述のように、その人物だけ往生際が悪いとも取れがちだが、もし他の三人が結託して口裏を合わせていた場合。
 要するに、グランピング場の男だけが本当に東都での強盗殺人に関与していない場合。その理由はつまり……。

「……あ!」

 男たちに捕まっていたときに覚えた違和感が氷解して、わたしは思わず声を上げた。身を乗り出していたコナンくんとバックミラー越しに沖矢氏もこちらを見る。

「違和感があったんです、あの帽子の人の喋り方。…ずっと『俺たち』と『こいつ』とか、『脱がすのはお前らがしてやれ』とか。
 まるで「自分たち」と「わたし」以外にもう一人、赤の他人がいるみたいで……」
「きな臭くなってきましたね」

 沖矢氏はぼつりと呟き、左折のウインカーを出して車を最寄りのコンビニへ乗り入れた。コナンくんは再度スマホをいじり、電話を掛けている。
 沖矢氏は駐車場に停めた車から出て、インカムでなにやら話を始めているし、コナンくんのほうはどうやら警視庁から一緒にきた高木という刑事さんに、現在の状況を聞いているらしい。いつ頃、県警に着くのかと若干喚いて聞こえる向こうからの問いかけを無視してコナンくんが電話を切ると、同時に沖矢氏も通話を終えたのか、車内に戻ってくる。

「やはり美術館オーナー夫人の動きが怪しそうですね。
 美術品の盗難保険とご主人の生命保険。どちらもそこそこ大きな額になるようですが、どちらも一年ほど前、似たような時期に保険タイプを変更したばかりだとか。
 両方とも夫人からの依頼だったようです」
「こっちも高木刑事にも聞いたけど、やっぱり安室さんに聞いた通りだった。グランピング場勤務の男だけ、強盗殺人の容疑を否認してるらしい。
 あと、妙なことを言っているって」
「妙?」
「あいつらは何かまだ金目のものを隠してるって。
 『見たらわかる。オニノトリに預かってもらった』ってリーダー格の男が言っているのを聞いたと供述してるらしい」
「見たらわかる? 『オニノトリ』とは…?」
「さあ? 言っている本人も、『オニノトリ』がなんのことかわからないらしいけれど……」

 話の進む車内に、聞くしかできないわたしは非常に居心地が悪い。今話されている話の内容が半分以上理解できていない。わたしは、まさに空気だ。
 しかしオニノトリとは……。トリ、鳥のことなのだろうか、鳥と言えば、わたしはいつあの子を回収してあげられるのだろうとここまで何度も通った原因の鳥を思い返す。そのときふと、元太くんたちが見たという鬼の話を思い出した。

――男の子の二人組は他の客のいない、星の見やすい場所を探して大叔父から離れ、道を外れた木立の中でぎょろりと光る目玉を見たらしい。

 そうだ、あのときあの二人は目玉を『光る』と形容した。わたしたちが見た目玉は『翻った』。光るはずはないのだ。

「…あの、犯人たちが設置した驚かしの仕掛けって、どんなのでした?」

 喧々と話し合っていた沖矢氏とコナンくんに間に入り、聞くと二人は一瞬きょとんとした顔をしてから、顔を見合わせた。

「どんなって…多分どこかから鳥避けが飛んできたっていう言い訳もきくように、鳥避けのバルーンを二つと枯葉を組み合わせて大きな顔に見せかけた、ちゃちなやつだったけど……」
「鳥避けのバルーンということは、塩ビ材の、光の反射で光るタイプのもの?」

 では、元太くんたちが見たのはそちらの鬼の顔で、わたしが見て探していたものとは別だったのだ。そもそも、なんで鬼の顔と呼ぶのか、……それはグランピング場の男が『鬼の顔』と形容したからだ。
 その驚かしの仕掛けを作る際、モデルがいたとしたら?

「…あの、多分その『オニノトリ』。
 わたしが探してたやつです……」

 怪訝そうにこちらを見る二人に、恐る恐るそう言い出すと二人は声を揃えて「え?!」と素っ頓狂な声を上げた。沖矢氏もそんな驚く顔、できるんですね……。



 ジャノメドリという鳥がいる。和名だが漢字で書けば『蛇の目鳥』。両翼に赤茶色く丸い蛇の目玉のような模様があり、危険を感じるとその両翼の翼と尾羽を広げてみせ、その眼状斑で威嚇のディスプレイをする。そんな鳥だ。
 分布はエクアドルやコロンビア等、南アメリカ大陸の標高1800メートル以下の熱帯雨林。低危険種で国外への持ち出しは禁止されていないが、海外からの鳥類の持ち込みは厚生労働省への届出が必要で、その際に輸入者の住所等の提出も必要となってくる。
 会社経由で厚生労働省へ依頼し、このジャノメドリの輸入履歴を調べてもらったが、この近辺で持ち込みの履歴が確認できるものは全て生存もしくは死亡の確認が取れていた。また近隣の警察署へ動物の保護依頼等も出ていなかった。この状態だと、不正輸入の可能性がある。
 衛生証明書を提出していない―できない個体の場合、国内には存在していない感染症を持っている可能性がある。要するに、野生の動物をさらって来て売り捌いている事例などがそうだ。
 またジャノメドリの場合、南アメリカ原産の種のため、夏のうちはまだどうにかなるが、季節が深まれば日本の冬は越せないだろう。これ以上の放置することは公衆衛生面でも個体にとっても危険で、だからわたしは有休を使ってまでそのジャノメドリを探していたのだ。

 コナンくんはあのままコンビニで沖矢氏の車を降り、警視庁から来た高木刑事と合流する運びになった。コナンくんのほうで、東都の個人美術館のオーナー夫人への調査を進めるらしい。先ほど連絡のあった公安の人もそちらに合流するとのことだった。
 わたしと沖矢氏はコナンくんと別れ、沖矢氏の車で自然公園の山へ向かっている。ジャノメドリを今度こそ捕まえるためだ。
 わたしも山に入るための装備はそこそこ揃えてきたが、あと三時間もすれば日が暮れるだろう。日の落ちた夜間に探索できるような装備ではない。近くのアウトドアショップでハンズフリーの腕につけるタイプの懐中電灯などを買い足し、ついでに破られた服も着替えさせてもらった。あとで慰謝料請求時に必要と言われたので、買った服の領収書も切っておいてもらう。

「沖矢さんって、工学部の学生でしたよね? 法学部でもないのに、なんで慰謝料請求のことまで詳しいんですか?」
「基本、院まで進み更にドクターを取ろうというのは、好奇心旺盛で奇特な人間ばかりですからね。僕もその多分に漏れないというやつです」

 沖矢氏は笑っていうと、車に積んでいたカバンの中から固定刃のいわゆるシースナイフや麻紐、小型のモバイルバッテリーなど、何かの役には立ちそうなアウトドア用品を次々とマウンテンパーカーのポケットに放り込んでいく。
 わたしも背負ったリュックの中から財布やポーチなど不要なものを取り出すと、沖矢氏はそれらを自分の荷物とまとめて座席の下に押し込んだ。車に鍵をかけ、しっかりロックされたことを何度か確認し終わると、「行きましょうか」と道の先導を始めた。

「それにしても、よかったんですか? コナンくんと一緒に戻られたほうが大分安全だったと思いますが。
 ……その、多少の乱暴に合われたあとですし」
「もともと、ジャノメドリを捕獲するためにここに通っていましたし、万が一悪いやつにジャノメドリを見つけられて殺されてしまったらと思うと、悔やみきれませんから。
 それにわたしがいたほうが、ジャノメドリの発見率が上がるのは事実でしょう?」

 わたしはそう返事をし、大分軽くなったリュックを背負い直そうと腕を通す。と、沖矢氏にそのリュックを取られた。

「持ちましょう。…荷物は、何が入っているんです?」
「水分とタブレットと携帯食料、それに会社から借りてきた産業銃と……」
「産業銃?」

 怪訝そうに沖矢氏が片目を持ち上げる。歩き出しながら、わたしは頷いた。

「麻酔銃のことです。麻酔針―弾替わりの注射器です。これは三つしかありませんが、ガス式のものなので個体への影響も少ないですし、吹き矢よりも照準が狙いやすいですから。
 まあ、わたしは猟銃免許の技能試験のうち、目測のクリアはギリギリレベルだったので、当たるかどうかは非常に疑問なのですが……」
「ホォー。…意外ですね」
「そうですか? ああ、まあ、獣医師資格を取るときに一緒に取ったんですが、工学系とかインドア学科の学生さんにはあまり聞き覚えのない話かもですね。
 結構多いんですよ、猟銃免許取得者の獣医師資格持ちは」
「ああ、いえ。あなたもスナイパーだったのだな、と」
「…あなたも?」

 沖矢氏は曖昧に首を振ると、わたしの代わりにリュックを背負って歩き始めた。慌ててその背中を追い、リュックのポケットからタブレットを出して、マッピングした辺りの地図を画面に表示させる。

「先ほどあの男たちに捕まる前にジャノメドリを見たのは、この地点の水辺です。ジャノメドリは基本池や沼、湿原など、水辺付近で生息する鳥ですから、今回も一度この辺りを目指しましょう」
「了解しました」

 沖矢氏は山道をかなり歩き慣れており、むしろわたしが手助けをされるほうだった。しかし、この辺りの探索に関してはわたしのほうがさすがに詳しく、沖矢氏を先導しながらなんとかジャノメドリを見つけた地点まで戻ってくることができた。
 先ほど男たちに捕まっていた辺りの地点を通った際は若干恐怖を感じたが、沖矢氏がいたので許容範囲内でいれた。一人だったら、動けなかったかもしれない。

「あの木の根元をくちばしで掘り返していました」

 そう指さして水たまりのような池を回り込み、木の根元を観察する。よくよく見れば、鳥の足跡がいくつか散見される。見間違いでなければ、やはりあのときジャノメドリはここにいたのだろう。
 空を仰ぐと青がほんのり白み始め、日が傾きかけたのがわかる。ジャノメドリは昼行性なので、身に危険を感じない限りは夜間に行動することもない。日が暮れてしまえば、今日中の発見はかなり困難になる。どうするべきか。手詰まりに感じてもう一度空を振り仰いだとき、高く笛のようなもの悲しい鳴き声が聞こえた気がした。
 はっとして顔を上げる。視界がくすんだオレンジにけぶる。もう一度、今度ははっきりと。

「……おかしいです、ジャノメドリの鳴き声がする」
「それは、いいことではないのですか? 鳴き声を追っていけば、探せるでしょう」
「それはそうなのですが、ジャノメドリは元来あまり鳴かない鳥なんです。なのに、二度も連続して鳴いた。…何かに襲われているのでは?」

 わたしは屈んでいた木の根元から立ち上がり、もう一度繰り返し、三度目に聞こえた鳴き声に耳を澄ませる。聞こえた方角を大体割り出すと、タブレットを取り出した。

「こちらの方角から聞こえました。聞こえた鳴き声の大きさからして、移動してきています。南側から西の方向に向かっていますね。速度は飛翔はしていない。ジャノメドリは徘徊の多い鳥ですから」
「よくおわかりですね。僕には鳥の鳴き声も、同じものがいくつも聞こえますが」

 驚いたように沖矢氏がいう。わたしは少し照れくさくなって、タブレットに目を落とした。

「生まれつき、耳がいいんです。鳥の鳴き声も聞き間違えません。信頼してもらっていいです」

 わたしは口早にいうと、リュックを下ろして麻酔銃を入れたケースを取り出す。銃を組み立てておこうと手をかけたその瞬間、耳障りな足音を拾った。

「やっぱり、人間の走行音がします。走る足音の方角的に、ジャノメドリと同じコースを走っている。恐らく男で、人数は一名……」
「やはり、こちら側が危険なルート分岐だったようですね。我々の予想が正しいのであれば、その鳥を追いかける必要のある人物は限られる……」

 沖矢氏は意味ありげに呟くと、立ち上がってわたしの示した方角を見た。彼が見つめる先の空がじんわりと黄色みがかる。まもなく、日暮れが始まるのだ。






 男は鬱蒼とした森の中をひた走っていた。湿った地面は水辺が近いこともあり泥濘んで走りづらく、日が暮れ始めたのか、視界もよろしくない。ただ今日中に捕まえなければ、明日には捜査員やマスコミも増え、さらに山に近づき難くなるだろうことが予想された。

 あの人のために、という理想を掲げて自分たちが今回の作戦の決行を決意したのは、一年ほど前のことになる。強欲な女に保険金を受け取らせる代わりに、高価な美術品を掻っ攫いその旦那を殺すことを契約した今回の作戦は、実際のところはメンバーのうち半数以上が、つまり自分以外の人間が捕まることを織り込み済みとした、ほぼ捨て身のような作戦だった。
 自分の目的は捕まった三人が警察の目を誤魔化している隙に、美術品の隠し場所の鍵を回収し、折を見て換金し三人の出所を待つ。いつかは誤魔化しがばれたとしても、すぐさまではない。一旦は潜伏し機を待ち『あの人』が動くタイミングで合流し、換金によって手に入れた金銭によって『あの人』にのお役に立ち、我らの本懐をとげること。それが目的だった。
 三人とは、美術館襲撃の際から会ってはいない。自分の代役に別人を仕立て上げることが決まったときから、そう決めていた。唯一、自分と二人で昔から組んでいた男―黒のキャップを好んで被っていた―から鍵の隠し場所について連絡がきたが、それきりだ。
 この自然公園で不審な情報や逮捕者が出たらすぐにわかるよう、自然公園の管理事務所で清掃のアルバイトをしていたが、それも今日で終わりだ。自分は『鍵』を捕まえたら、すぐに姿を消さなければならない。この作戦はなんとしても成功させる。それが大義のために自分を庇って捕まった三人への恩返しで、『あの人』へ報いることに繋がるのだ。

 地面を疾走する鳥は黒と茶と白のまだら模様で、日が暮れ始めた森の中では視認しづらい。しかし、あの『オニノトリ』に鍵を預けたとあいつから聞いた。なんという名前の鳥なのかはわからないが、翼を広げると目玉のような模様があり、まるでおどろおどろしい巨大な顔に見える。
 作戦の実行前、この場所へ下見に来た際に偶然見つけた鳥だが、羽を広げない限りは大きな特徴のない鳥なので、それを『鍵』の目印とした。驚かしの仕掛けのモチーフにもしたようなので、あいつはこの鳥を気に入ったのかもしれない。昔から、よく趣味のわからないものを気に入る男だった。
 鳥はすばしっこく、なかなか捕まえることができない。追いかけている間に徐々に森は影を増していく。あいつが気に入った鳥なので、できれば生かして捕らえたかったのだがやむを得ないだろう。懐に隠していた拳銃を取り出し、鳥へ銃口を向ける。これ以上暗くなれば狙うことは不可能となる。できれば一発で仕留めたいが、とロックを解除し、撃鉄を起こし引き金を引き絞った。
 その瞬間だった。

 頭上から何かが落下してくる。慌てて身をよじれば太さのある木の枝が数本、自分の立っていた場所に落下した。ガロンがろん、がらがら。派手な音を立てている。
 更に再度、頭上で音がしたので慌てて振り仰げば、蹴撃が降ってくるところだった。顔面を両腕で庇い、バックステップをして後ろに下がる。蹴撃とともに樹上から降ってきた眼鏡の男は事も無げに地面に着地すると、左手を前にして拳法の構えを取った。板に付いた構えを見る限り、見たままの優男というわけでもないらしい。
 男はじりじりと後ろに下がりながら、拳銃を構える。眼鏡の男が動いた瞬間、男も拳銃を発砲した。弾は相手の肩をかすったが、眼鏡の男は怯みもしなかった。飛び込んできた勢いを殺さず突き出された拳を間一髪で避けて、再度眼鏡の男に銃口を向ける。さすがにこの距離では、外す気がしなかった。

「沖矢さん!」

 唐突に女の声がして、ぱしゅんと気の抜けた空気音がする。驚き振り向けば、一人の女が変わった形の銃を構えていた。飛んできた弾はかなり大きく、恐らく普通の銃ではないのだろう。弾は男に当たることはなかったが、飛び道具から処理し女を人質にするべきと彼の脳は判断を下した。男がメンバーのうちで在野に残る役を任された一番の理由は、彼がメンバー内で随一の身体能力、対応力を持っていたことだ。
 急接近した男に、銃を構えた女の目が見開かれる。そのままぎゅっと目を閉じて身を竦めたところを見れば、女は一般人なのだろう。彼は女へと手を伸ばし、その肩を掴もうとしたその瞬間。
 脇腹に鋭い衝撃が走った。肩ごしに振り返れば、いつの間に接近したのか、眼鏡の男がいる。眼鏡の男の足が、彼の脇腹にめり込んでいるのだ。男はそのまま吹っ飛ばされ、地面へ転がる。起き上がって反撃に出ようと拳銃を持ち上げた瞬間、足先で拳銃を蹴り上げられた。そのまま左拳を側頭部に打ち込まれ、頭がくわんと揺れる。だらりと弛緩して動かなくなった彼に、眼鏡の男は服のポケットから麻紐を取り出した。

ーぴゅーぃ、ぴゅうーーぃぃー

 甲高く震えて、悲しげな鳴き声がする。ぼやける視界に見れば、女が口を窄めて口笛を吹いていた。

――ぴゅーぃぃー、ピュー

 ややあって似たような鳴き声が聞こえ、薮の揺れるガサガサとした音が聞こえる。女があの珍妙な銃を再度構えたが、目標に外したようだ。すました女の顔に、かすかな焦りが浮かんだ。
 自分を縛り終えた眼鏡の男が立ち上がり、女へ向かって手を伸ばす。女は逡巡していたが、持っていた銃を眼鏡の男へ渡した。女が再度口笛を吹く。眼鏡の男が持つことで随分こじんまりと小さく見える銃を、眼鏡の男は一瞬弄ると、直ぐさま構えて引き金を絞った。
 弾は過たず、目標に届いたらしい。あの肉弾戦の速さ、強さ、そして銃の扱い。きっと自分は、敵にしてはいけない男を敵にしてしまったのだろう。
 敗因はどこだったのか、鳥を捕まえるのに拳銃を使うことを渋ったことか、この土地に隠れることを選んだことか、それともあの奇妙な鳥のせいか。なにあれ、これまでの全てが失敗に終わったことを悟り、男は意識を保つ気力もなく、項垂れた。
 ぴゅゥー、ぃぃー。甲高く悲しく、奇妙な銃で弾を打ち込まれた鳥が泣いている。この一組の男と女が何なのかはわからないが、お前も早く仲間のところに戻れたらいいのにな。この鳥のように変わったものを気に入りやすい、昔馴染みの顔を思い出しながら、男の意識は暗闇に落ちた。
 俺はお前より、一足先に、仲間のところに帰れそうだ。






 ほうほうの体で山から下り、沖矢氏のスバル360までたどり着いたときには、月が空高く登っていた。いろいろと言いたいことはあったが、何とか犯人一味の男と追われていたジャノメドリを捕獲し、山から下り始めた頃には日は暮れていた。
 わたしのタブレットのマップを頼りに下りてきたが、沖矢氏は犯人の男を麻紐でぐるぐる巻きにして抱えているし、わたしは折りたたみゲージに入れた昏睡済みのジャノメドリを抱えているしで、なかなか無茶な道中だったと思う。捕まえた場所で警察の到着を待つことも考えたが、違法に使用してしまった麻酔銃の件がある。少しでも痕跡が薄くなればと期待して、まずはその場を離れることにしたのだ。
 やっと戻ってこれた自然公園の駐車場には、平日の日暮れらしく人影もない。通報はしたので、もう少しすれば警察がやってくるだろう。

「それにしても、なぜこの男は鳥に向かって拳銃を使わなかったんでしょうか。
 拳銃を使って鳥を射殺されていたら、我々がたどり着くより前にこの『鍵』を手に入れていたと思いますが」
「…さあ? わたしとしてはほぼ無傷でこの子を保護できましたから、ありがたいことこの上ないですけれど」

 沖矢氏は担いでいた犯人グループの男を下ろし、そのまま近くの鉄柵へ雑にくくりつけると、わたしをもう少し離れた位置のベンチへ呼び寄せた。ジャノメドリのケージを起き、ふらふらと呼ばれるままにそこに腰掛ける。いつの間に買ったのか、沖矢氏が自販機の死ぬほど甘そうないちごオレをくれたので、遠慮せずに口をつけた。冷たい糖分が疲れきった頭にに染みわたり、脳が痺れるような錯覚を起こす。
 思わずぐったりと隣の沖矢氏にもたれかかりそうになって、慌ててしゃんと背筋を伸ばした。そのとき、沖矢氏が言ったのだ。

「……そろそろ、教えてくださってもいいと思いませんか?」

 そう言った沖矢氏の目は真摯で、わたしはぐっと返答に詰まる。枯葉や土くれで汚れた手のひらはざらざらとしていて、それでもひどく熱かった。ぎゅっと手を掴まれ、彼が身を乗り出す。わたしを覗き込む目は真摯で、熱くて、懇願混じりだった。

「いい加減、あなたが僕から逃げる理由を教えてくださっても、いいでしょう? なにせ、あなたは僕を信用して、僕に守られると安心しきっている。
 無垢な信頼を向けてくるくせ、逆しまに僕から逃げようとするんです。ひどいんじゃあ、ないですか。こんなお預けはないでしょう」
「だって聞いたら、きっと後悔しますよ……」

 沖矢氏の目に、わたしはついに誤魔化しきれなくなって俯いた。沖矢氏の腕が腰に回り、ぐっと引き寄せられる。
 この人も今日の多難なこの非日常に、多少は浮かされてくれているのだろうか? わからない。けれどわたし自身が浮かされて、話してはいけないことを話してしまったのは、事実だった。
 腕を伸ばして、彼の首筋に触れる。彼が一瞬身をよじろうとしたのを、見逃さなかった。土埃に薄らと汚れた登山用インナーの襟、その下に確かに知っている感触がある。

「あなたの服の下、この襟の下にあることを知っています」

 そう囁くと、彼の目が見開かれた。

「あなたが変声機で声を変えていること、知ってるんです」

 だから、きっとあなたは聞いたら後悔すると、わたしとあなたのこの曖昧であやふやな関係が変わってしまうことが怖いと、そう思っていた。
 きっと『沖矢昴』は、わたしの知らない何かの『かりそめ』だと思ったから、だからだ。

「あなたが本当に『沖矢昴』なら、どれだけよかったか。
 …繰り返し、思いましたよ」

 わたしの恨み言にかぶせて、遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。夜の空気は湿り気を帯び、いつの間にか夏の気配がしている。少しだけ生ぬるい夜に聞こえるサイレンは、ひどく郷愁的でもの悲しさを誘って。ああ、涙が出そうだ。
 わんわんと夜空を切り裂き響き、繰り返すごとに大きく騒がしくなるサイレンが、まるで、わたしたちへの猶予宣告のように聞こえた。

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