前回読んだ位置に戻りますか?

山猫の狩り

「これはつまりヤリ逃げというものでは?」

 思わず呟いたのは、職場で数値のエラーチェックをしているときだった。抽出した数値の外れ値を探してぼんやりしていたときにふと昨夜のことが蘇り、そのままぼやぼやしていたのはいいが、到達した結論を口に出してしまった。
 見れば、隣の席の同僚が胡乱げな視線を寄越してくる。恐らく思案に沈んでいたのを、わたしが呼び戻してしまったのだろう。笑ってごまかして、再度モニタに向き直ったが、集中力はないに等しい。
 だって、考えてみてほしい。向こうはアラサーに差し掛かり気味といえど、学生。そしてこちらは立派なアラサー社会人。どちらに責任の所在があるかと言えば、それはアラサー社会人のほうだ。図式だけ見れば、前途有望な学生を食っちゃったアラサー女。
――ヤバい。
 先日も感じた焦燥をまた感じる羽目になるとは。相手も成人はしているから淫行で逮捕はないが、ご近所の学生を食っちゃったって絵面が悪すぎる。せめてあのまま工藤邸で彼がシャワーから出てくるのを待ち、口止めをすればよかったのかもしれないが、その際に高確率で金銭を差し出していただろう自分の姿に「援助交際」の非情な四文字が、脳裏でネオンサインのように瞬いた。

「ないわ……」

 集中が切れてどうにもならないので、席を立ち給湯室でコーヒーを淹れる。隣の休憩室ではつけっぱなしのテレビがワイドショーを垂れ流していた。数ヶ月前に起きた美術館の強盗殺人についての少しの続報と、被害者の奥さんの黒い噂というような、ワイドショーらしい構成の話だった。まだ犯人は捕まっていたなかったのかと、ぼんやりテレビ画面を眺める。こういう内容のテレビやらを見ると、東都に出てきたことを実感する。自分がもう一つの居住地に設定している地方都市でも多少の事件や事故は起こるが、東都―特にこの米花町近辺ほどではない。大叔父も米花町に住み着いて長いので、何度も事件に居合わせているらしいし、そういうわたしも数回は居合わせたことがある。最も、大抵の事件は隣家のミステリ作家のおじさんや、その息子が解決してみせ、特に息子のほうなど大分得意げにしている。
 あのドヤ顔はいい加減直らないものかと、ぼやぼやとコーヒーが入るのを待ちながらスマホをいじっていると、哀ちゃんからメッセージの着信が入っていた。曰く、グランピング施設の招待券を鈴木園子さんからいただいたので、週末にみんなで行かないかとのことだった。また、子ども達の比率が高いと面倒が見切れないので、できれば参加してほしいとも。
 重要なことなので参加メンバーを聞けば、返事はすぐに返ってきた。いつもの歩美ちゃん、光彦くん、元太くん、コナンくん、哀ちゃん、博士の七名―わたしをいれて八名の予定とのこと。
 週末に予定もなかったし、哀ちゃんとどこかへ行けるのも貴重な機会なので快諾すると、念のため行き先の施設のURLが送られてきた。よく気のつく子である。
 行き先の施設は隣県に二、三年前に新しくできた施設のようで、そういえばテレビでCMを数回見たかもしれない。鈴木園子さんから招待券をもらったということは、彼女の父親の会社が出資しているか、経営に絡んでいるのだろう。流行りものを取り込むスピードがさすがである。
 週末のレジャーで多少気分が晴れるのを祈って、いつの間にか抽出が終わっていたコーヒーを啜ると、ぐんと伸びをして席に戻った。
 胃の腑に落ちたコーヒーは熱く、むず痒く思ったが、浮き足立った自分の気持ちなど無視をすることにした。



 聞いてないんだけれど。
 その台詞を数度飲み込んで、手元のスマホをじっと眺める。ぽんと軽い音を立てながら女性の声が行き先を案内するが、どうせしばらくは「道なりです」か「合流に注意してください」しか言わないのだ。後部座席のコナンくんは早々に狸寝入りを決め込み、わたしにいつかやり返すという決意を新たにさせている。
 隣席―運転席の沖矢氏はわたしの挙動不審さには目もくれず、ハンドルを両手で握って危なげもない。よほどメンテナンスがいいのか、もしくはエンジンを積み替えているのか。彼の愛車のスバル360は、120キロオーバーまで踏み込んでもエンジンから悲鳴が聞こえず、スムーズな走行をこなしている。白色のナンバープレートが付けられているあたり、恐らくは後者で、改造車なのだろう。随分走りなれた彼の様子に、時折気分転換にドライブに行くという言葉の信ぴょう性を感じる。

「こうも快調に走れると、少し集中力が切れますね。申し訳ないんですが、ガムを取ってもらっても?」
「…了解しました」

 わたしは車を乗る際に渡されたコンビニ袋の中から眠気覚ましのガムを取り出すと、包み紙を開きあとは口に放り込むだけの状態にして、横へ差し出す。伸ばされた彼の左手にガムを載せようと手を伸ばすと、そのまま手のひらを掴まれた。驚いて、ガムを運転席の下へ落としてしまうが彼はお構いなしで、皮膚の感触を楽しむように触れて、離してくれない。

「…運転中です。高速ですし、片手運転は危ないですよ」
「はは、おっしゃる通りです」

 沖矢氏は少しだけ笑って、するりと手を離した。もう一度ガムを剥いて差し出すと、今度は素直に受け取ってくれる。わたしはどきどきとして、無意味にミネラルウォーターをちびちびと含んだ。

「でも、僕の男心もご理解いただきたいですね。あんなに熱っぽく見つめられていたのに、シャワーから戻れば、あなたときたらいないなんて。僕も、いわゆる『ピロートーク』というものをしてみたかったのですが」
「そ、その話は、後ろにコナンくんがいるので、あのっ、あとにしてもらえませんか!」
「大丈夫ですよ、よく眠っているようですから」

 いやいやいやいや。バックミラー越しでも、コナンくんの耳が赤く見えるんですが、あなたにも見えてらっしゃいますよね? あの子の狸寝入りに気づかないわけがないですよね?!
 問いただしたいのを必死に抑えて、わたしは「あとで!」と繰り返した。コナンくんは気まずそうに寝返りを繰り返したが、耳の赤さはなかなか引かなかった。

「あら、顔が赤いわね。どうしたの?」

 やっとたどり着いたグランピング場で、二時間弱ぶりに会った哀ちゃんの第一声はそれだった。いったいどういうことなのかというわたしの返しに、何のことかしら、と飄々と返してみせる。
 沖矢氏は来ないって聞いてたんだけど!
 二時間近く温めたわたしの糾弾という弾丸を、哀ちゃんは事も無げに「そんな予定なかったもの」と打ち返してみせた。

「あなたを誘った時点では、彼が参加する予定なんてなかったんだけれど。あなたが週末予定がないと返信してきてすぐ、どこからか今回の件の話を聞きつけてきて、いつの間に彼も来ることが決まっていたのよ。不思議よね」
「ぐ、ぐぬぬぬぬ…」
「ま、昴さんってそういうこと多いから、多分今回も来るんでしょうねとは思っていたけれど。大当たりで私もびっくりしちゃったわ」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」

 年下の少女に勝てないアラサーがこちらです。悲しいね。



 鈴木園子さんが招待券を譲ってくれたグンラピング場はそこそこな広大で、何種類かのキャビンとログハウス、グランピングテントにオートキャンプ場が併設されていた。もともとは温泉宿泊施設だったらしく、少し歩けば入浴施設やレストランや、はたまた私営の図書館まで完備されている至れり尽くせりぶりだ。わたしと哀ちゃんがじゃれている間に大叔父とコナンくんはチェックインをしに行ったようで、沖矢氏はてんでバラバラに走り出そうとする子ども達をなだめている。やはり意外に、この人は子どもの扱いが上手いのだ。今も待ちくたびれてどこかへ走り出そうをする子ども達を適当な文句で引き止めて、勝手にどこかへ行かないように面倒を見ている。そんなことをしているうちに大叔父とコナンくんが戻ってきたので、荷物をまとめて借り受けたキャビンへ向かった。
 もともとは鈴木園子さんが毛利さんらの友人と来る予定だったらしく、当初サウナ付きのキャビンを予約していたらしいのだが、子ども達に招待券を譲る際にグランピングキャビン二棟分の予約へ変更してくれたらしい。
 パーテーションを開放して二棟分を繋いだウッドデッキは広く、それを間にはさんで隣あった二つのキャビンは、女性と男性に分かれて使うことになった。哀ちゃんと歩美ちゃんとで連れ立って室内に入ると、室内には北欧趣味めいた家具と、シングルベッドが場所を変えて五台配置してあった。子どもが二人だし、隣接したシングル二台を三人で使うことにしてから、隣のキャビンに遊びに行った二人を見送る。少し室内を探索してからウッドデッキに出ると、そこで少し疲れた顔の沖矢氏がタバコを吸っていた。

「失礼。消しましょうか?」
「おかまいなく」

 わたしが首を振ると、彼はかすかに笑ってタバコをふかした。二時間弱とはいえ一人で運転をしていたし、子ども達をあやしてもいたから、少し疲れたのだろう。

「彼らと博士はこのまま近くの沢へ、カヤック体験に行くそうですが、あなたは?」
「水は得意ではありませんし、ここで本でも読んでいようかと」
「それはよかった。僕もご一緒しても?」

 わたしの返事に沖矢氏は顔をほころばせて聞いてきた。純粋にうれしそうな顔をしてみせるので、ぐっと言葉に詰まってしまう。追撃するように、「『あとで』のことに関しては、追求しませんよ」と付け足されたので、しぶしぶ頷く。

「そういうことなので、君たちは君たちで、楽しんできてくださいね」

 彼がふと後ろを振り返って話しかけると、窓辺のカーテンの陰からバツの悪そうに、コナンくんが顔を出した。相変わらず盗み聞きの好きな子である。コナンくんのほうも、いささか釈然としなさそうな顔をして、沖矢氏を見上げる。

「昴さんこそ、やり過ぎないでよね」
「おや、「やる」とは、何のことでしょうか?」
「なに、って……!」

 沖矢氏の意地悪な問いにコナンくんは瞬間的に顔を真っ赤にし、それから諦めたようにため息を吐いた。

「姉ちゃんも、あんまり昴さんのこと調子に乗せないでよね。そんなつもりなくても、なんかあんたって昔からぼんやりしがちなんだから…」

 ぶつぶつと文句を言いながら、表で自分を呼ぶ元太くんの声に「今行く!」と返事をして彼は走っていく。昔と変わらずわんぱくで、微笑ましく思えてしまう。わいわいと騒がしい喧騒が遠ざかると、にわかにしんとして、沖矢氏と思わず目を見合わせた。

「とりあえず、コーヒーでも飲みませんか」
「そうですね」

 わたしの提案に沖矢氏はあっさりと頷くと、本をとってきますと室内へ踵を返した。わたしもコーヒーを淹れるべく、洒落たキッチンへと踵を返した。



 その後沖矢氏は本当に『あとで』のことを追求することなく、インスタントドリップで申し訳程度に入れたコーヒーに律儀にお礼をいうと、ウッドデッキに備え付けの籐のカウチを陣取って、黙々と本を読み始めた。約束は守る質らしい。そうならば、わたしも特になにも言うことがなく、同じくカウチに陣取って持ち込んだ小説を読み始めた。東都までの新幹線の中で読み始めた本だったが、硬めの社会派ミステリの短編集で、かつ出てくる刑事が渋くて格好がいい。
 途中、ウッドデッキの焚き火台に火をつけて回っていると施設の人が来たので、備えつけのファイアーピットに火をいれてもらい、持参してきたマシュマロをそこで炙りながら読みすすめた。どんでん返しが多すぎる。心臓が痛い。適当に勧めてあったが、マシュマロやビスケットはわたしが食べた以上に減っていたので、沖矢氏もちまちま摘まんだのだろう。そろそろ日が暮れ始め、本が読めなくなるという頃に子ども達が帰ってきた。途中、川の中に元太くんが落ちてしまったので、そのまま温泉施設に行ってお風呂にも入ってきたらしい。ほこほこと湯上りの子ども達は、わたし達がつまんでいたマシュマロとビスケットを見つけると、自分たちも食べたいと騒ぎ始めた。沖矢氏は早々に紙面から顔をあげて、串にマシュマロを差す作業に入っている。
 なしくずしにそのままバーベキューの準備をすることになり、マシュマロとビスケットのおやつのおかげであまり空腹でなかったわたしは、調理担当を買って出た。下味のついた肉と野菜をじゃんじゃん焼いてはいるが、元太くんの様子を見る限り、やはり足りないのだろう。余ったら家で食べるといいながら買い込んだ食材からピザ生地を数枚取り出すと、ソースと適当な具材を載せて、チーズを山盛りにする。スキレットに入れてバーベキューコンロの端に放り込んでおいたので、焼けたら勝手に食べてくれるだろう。
 あとはリゾットでも適当に作っておけばいいかと、米を研いでいると沖矢氏がふとこちらに来た。

「手伝いましょうか? コンロは博士が代わってくれましたので」
「では、玉ねぎのみじん切りをお願いしてもいいですか?」

 沖矢氏は手馴れてはいないが詰まることはなく皮を剥き、ゆっくりと慎重に玉ねぎに包丁を入れていく。早くはないが、確実な手つきだ。

「灰原さんが、あなたの分を避けていましたよ。小島くんが全部食べてしまいそうだからと」
「哀ちゃん、優しいでしょう」
「仰るとおり。羨ましいです」

 沖矢氏の含んだ物言いに少し笑ってしまい、ウッドデッキの哀ちゃんと目が合う。その唇がにんまりと笑うので、彼女も楽しいのだろう。大叔父にしろ、コナンくんにしろ、彼女が少し意地悪に振舞うのは、甘えの裏返しなのだ。
 その後チーズリゾットまできれいに食べ終えてから、歩美ちゃんが夜のバードウォッチングと天体観測の企画に行きたいと言い出した。施設の人からそういう催しがあると聞いてきたらしい。せっかくなので、私もその企画に参加することにした。昼間はウッドデッキでぐうたらしていたので、さすがに少し体を動かしたい。そう思って用意していると、今度はコナンくんがそわそわしている。どうしたのかと思って聞けば、歩美ちゃんと同じように、併設の図書館でホームズファンのためのミステリーナイトの企画があると聞いてきたらしい。

「では、僕がコナンくんと一緒にミステリーナイトに参加しましょう」

 コナンくんの付き添いを買って出たのはやはり沖矢氏で、最終的には沖矢氏とコナンくんと、それ以外との二グループに別れることになった。最後までコナンくんが「一人でも平気なのに」と文句をいうのを、沖矢氏が笑っていなしていたのが微笑ましい。最後まで渋っていたコナンくんを笑って見送ると、哀ちゃんが隣でぼそりと言った。

「あっちに行ってもいいのよ」
「野鳥観察に行きたかったんだよね。歩美ちゃんが行くって言わなくても、一人でも行くって言ってたかも。
 哀ちゃんが送ってくれた案内のページに、この企画の紹介もされてたから、楽しみだったの」

 首を振って言うと、哀ちゃんは困ったものを見るような目をした。年はそこそこに離れているのだけれど、哀ちゃんと一緒にいるときの沈黙はいつも違和感なく、年の差はあれど、ここまで居心地のいい友人も多くない。
 催しの集合場所には数組のカップルや親子連れがおり、三人にひとつの配分で懐中電灯が配布された。大叔父と元太くん、光彦くんのグループでひとつ、わたしと哀ちゃん、歩美ちゃんのグループでひとつだ。懐中電灯を落とさないように紐に手を通しておく。普段は能天気な社会人だが、子どもに対しての責任があるとなると、非常に引き締まる思いだ。
 ガイドの話を聞いていると、途中までは同じコースを歩き、途中の地点でバードウォッチングコースと天体観測コースに分かれるらしい。元太くんたちは天体観測を選び、歩美ちゃんはバードウォッチングと言ってくれた。どうやら、わたしが楽しみだと言っていたのが聞こえていたようだ。心優しい少女に頭が下がるばかりである。
 夜の森は薄暗く、小学校低学年未満の子どもとは保護者が手を繋ぐように指示されたので、哀ちゃんと歩美ちゃんと手を繋ぐ。大叔父も元太くんと光彦くんと手を繋いでおり、道はある程度舗装されているので歩きやすいが、興奮して走り出した子どもが迷子になったことがあったのかもしれない。
 ガイドの男性は喋りなれているらしく、星座の話や野鳥の話をしながら夜の森を先導して歩いて行く。少し笑わされることもあって、退屈しない。途中、舗装された道が二股に分かれ、右へ行くと森の開けた広場があるらしく、左へ進んだところに巣箱を数箇所取り付けたスポットがあるらしい。
 大叔父たちとはそこで別れ、野鳥が驚くからあまり大きな声で喋らないようもう一人の女性のガイドに注意を受けた。暗い夜の森に、歩美ちゃんは機嫌が良さそうだ。今から見れるものについて聞けば、やはり眠っている鳥がそのまま肉眼で見えると思っていたらしい。そうではないと伝えると、少し不安そうな顔になる。

「じゃあ、夜の鳥ってどんな鳥のことでしょうか?」

 クイズめいて聞くのに、歩美ちゃんは真剣にうんうん唸って考えてくれる。しかしなかなか答えが出ない。すると哀ちゃんが素っ頓狂なことを言い始めた。

「ヒント、昴さんと同じような鳴き声を上げる鳥よ」
「沖矢さんの鳴き声って…」

 哀ちゃんのあまりの言い草に少したじろいでいると、わたしの動揺はお構いなしに、歩美ちゃんがわかった!と明るい声を上げた。

「ふくろうだ! だって昴お兄さん、よく『ホォー』って鳴いてるもん」
「正解よ」

 そんなことで笑いながら歩いているうちに、野鳥観察のスポットについたらしい。電灯で照らすのは鳥が驚くので控えるよう周りの客らに言い含められる。スポットの巣箱の中にはガイドの女性に慣れた個体がいるらしく、そっと抱き上げて、アオミズクをこちらにもよく見えるように差し出した。
 黒目がちに見える大きな瞳は丸く、潤みを帯びて愛らしい。歩美ちゃんが歓声を押し殺し、愛らしさに身悶えているのがわかる。
 ガイドの女性は各グループを回って手の中のアオミズクを客らに触らせてから、少しの間は自由にして、野鳥の鳴き声を楽しんでほしいと言った。来た道を少しだけ戻り、ガイドの女性が持っているランタンの灯りが十分に見えるところのベンチに腰掛けた。
 両隣には哀ちゃんと歩美ちゃんが座っており、目を閉じて野鳥の鳴き声を聞いていると様々な鳴き声が聞こえてくる。目の上でくるくると色が周り、馴染みのある色味に浸っていると、ふとそこにあまり見たことのない色が混じった。

「ねえ。そろそろ移動するみたいよ」

 甲高い笛の音が尾を引いて、悲しげに消える。あれは一度か二度しか見たことがない。そんな感覚が残り、言われるままに立ち上がったが、確信はない。哀ちゃんが訝しげにこちらを見たので慌てて首を振り、ガイドに先導され来た道を戻り始めた客の列に加わった。



 歩美ちゃんが「あっ」と大きな声を上げたのは大叔父たちと別れた分岐の辺り、もう森の出口が近くなった頃で、「ない! ない!」と悲愴な声を上げてスカートのポケットを叩くのに、思わず繋いでいた手を離してしまった。

「どうしたの?」
「元太くんと光彦くんとお揃いで買ったヤイバーのキーホルダー、落としたみたい…」

 消沈したようにへにゃりと落ち込む歩美ちゃんがいうものは、恐らく行きがけのサービスエリアで見つけ、お揃いで買ったご当地のキャラモノのキーホルダーだろう。三人でお揃いなのだと、うれしそうにしていた。

「きっとさっきの森のベンチだと思う! あたし、ちょっと取ってくる!」

 歩美ちゃんはそう言うなり、来た道を駆け出した。慌ててわたしと哀ちゃんが呼び止めるも、彼女は止まらない。手を離すのではなかった。後悔しながら、わたしは訝しむガイドの女性に先に帰ってくれと頼んで歩美ちゃんのあとを追いかけた。先に駆け出した歩美ちゃんはなかなか足が速く、哀ちゃんもわたしもインドア人間なのが相まって、全く追いつくことができない。
 先ほどのベンチまでたどり着くと、その足元に膝まづき、歩美ちゃんはキーホルダーを探している。ここまで来ればもう見失うことはないだろうと歩調を緩めたとき、風向きが変わって水の匂いが辺りを駆け抜けた。
 ガサガサガサっと近くの薮が音を立てるのと、驚いた歩美ちゃんが尻餅をついたこと、鋭く甲高い笛の音が震え脳裏に燻したオレンジ色が浮かぶ。
 重ねて、さっと電灯で照らし出した視界に、二つの大きな目玉が浮かび上がった。その目玉がぎょろりと翻り、歩美ちゃんが恐怖の悲鳴を上げる。
 それらの出来事は一瞬のうちに巻き起こり、慌てて歩美ちゃんのところへ駆け寄る頃には、照らした場所には暗闇しかない。目玉の影も形、ない。夢かとも思ったが、歩美ちゃんの恐怖の表情と、哀ちゃんと繋いだ手のひらが熱く、汗ばんでいる。それが現実だったのだとわたしに伝えていた。



「え? 大叔父さん達もあの目玉を見たの?」

 森の出口で合流して先ほどの出来事を話せば、なんと天体観測組もあの大きな目玉を見たのだという。男の子の二人組は他の客のいない、星の見やすい場所を探して大叔父から離れ、道を外れた木立の中でぎょろりと光る目玉を見たらしい。二人を探しに来た大叔父が電灯で照らしたときにはもう姿はなく、二人はその恐怖体験に懲りてその後はおとなしくなったとのことだった。
 歩美ちゃんを追いかけいったわたしたちを心配して、ガイドの二人は待っていてくれたのだが、その話を聞いて二人は顔を見合わせた。実は……と切り出したのはこんな話だった。

 もともとこの辺りには大鬼伝説があり、伝説の概要自体はよくある鬼伝説と変わりなく、現代でも子どもの脅かしに使っていたらしい。
 だがここ最近、この辺りの森や沢に入り込んだ肝試しの子どもから、「本当に鬼が出た」という話をよく聞くようになったのだという。
 そもそもこのグランピング場一体を囲む森はグランピング場独自の持ち物ではない。公営の自然公園扱いなのだが、ある意味「自然」という聞こえで、実際は管理や目が十分に行き届いていない箇所があるらしい。その中に簡単な肝試しに使われる祠があるということだった。鬼を見たという噂は、その祠へたどり着こうとして迷子になった子ども達の中から出ているらしく、地元の住民は鬼の再来だとか言って、さらに子どもを脅かすネタに使っているらしい。

「まあ、実際は畑に設置してた鳥避けが飛んできていたとか、そういうオチなんでしょうけど」

 少し苦笑いで付け足したガイドの男性の話に、子ども達の恐怖も薄れたようで、「なぁんだ」と安心したようながっかりしたような、複雑な表情をしている。戻るまで待っていてくれたガイド二人にお礼を言って別れると、全員で揃ってキャビンまで戻った。
 明るいキャビンまで戻ってきてしまうと、先ほどの恐怖もすっかり忘れ、子ども達はけろりとした顔をしている。これからトランプをすると言ったので、その場は哀ちゃんと大叔父に任せて、一人で温泉施設へ向かった。近くの温泉から湯を引いているらしく、肌荒れや腰痛に効くと施設内の立て看板に効能が書いてあった。内風呂がひとつとジャグジーにジェッドバス、檜の露天風呂とサウナというシンプルな作りだったが、夜遅く他に利用者もないのも相まって心地がよく、随分と湯船の中でぼんやりしてしまった。
 そのせいでのぼせ気味だったので、少し散歩をすることにして、森の際を歩く。先ほど聞いた気がした甲高く物悲しい鳥の声は遠く、アオバズクとトラツグミの鳴き声がするのみだ。少しだけ森の中に分けいってみるか、足を踏み出そうとした瞬間、ぱっと手を掴まれた。
 急に感じられた他人の体温に驚いて、引かれるままに振り向くと、険しい顔の沖矢氏が立っていた。

「こんな夜半に、森に入るおつもりで?」
「ちょ、ちょっとだけ…」
「ホォー」

 歩美ちゃんのいう「沖矢氏の鳴き声」を出されてしまったので、わたしはしぶしぶ、森に入ることを諦めた。

「森の中で鬼を見たと子ども達が騒いでいましたよ。不審者でもいたら、どうするつもりです」

 わたしの手首を掴んだまま歩く沖矢氏は少し体温が高く、肌がしっとりと濡れている。彼も入浴してきた帰り道なのだろう。
 このまま説教するつもりなのか、手を引かれキャビンまで戻ってくると沖矢氏はわたしに少し待っているように言いつけて、キッチンでなにやら作っている。戻ってきたときには器用に片手でグラスを二つ持っていて、どこから手に入れてきたのか、砕いた氷の上にミントの葉が飾られている

「ミント・ジュレップです。ミステリーナイトでご一緒した御夫婦から、ミントを分けていただいたので」

 沖矢氏はウッドデッキのベンチに腰掛けて、ちょいちょいとわたしを手招きした。誘われるままに腰掛けて、差し出されたカクテルを一口飲んでみる。火照った肌に、ミントの香りがすっきりとして、美味しかった。
 ふと空を見上げれば、光源がない分、空が開けてみえて星の瞬きまでよく観察できる。カクテルを飲みながらぼんやりと空を眺めていると、腕にトンと温かく、隣の沖矢氏の腕が当たった。感覚をあけて座ったはずなのに、いつの間にか間を詰められていて、咄嗟に身を引こうしたけれど、それより早く腕を掴まれる。

「昼間の『あとで』の続きを伺っても?」

 唐突な切り出しに、思わず取り落としそうになったグラスは持ち去られた。沖矢氏はそれをテーブルに置くと同時に、ずいっとこちらに身を寄せてくる。切れ長の目の奥は表情が読めなくて、少し怖い。どう答えようか、戦々恐々として彼の読めない表情を見上げる。
 あの朝、逃げ出した理由はいくつかあった。それはいたたまれないだとか恥ずかしいだとか、プライベートな理由が大半だったけれど、無視のできない一番の要因は確かにある。
 しかし、それを彼に伝えることは憚られる。それは今の曖昧な沖矢氏との関係を壊すことに繋がる気がして、要するに、わたしは怖いのだ。
 そんなことをぐるぐると考えていると、しばしの沈黙のあと、沖矢氏がふと身を引いた。

「今日はやめておきます。あの日も言いましたが、あなたに怖がられたら、僕は立ち直れないので」
「…そんなこと、思ってもなさそうですけれど」
「おや、確かめてみますか?」

 わたしのささやかな反撃に、沖矢氏は意外そうに眉を持ち上げ、左手の甲で頬を撫でてくる。そのままわたしの頬をぐっと抑え、鼻先がくっつくほど顔を寄せられると、少し香った酒精に、いつの間にか彼も少し飲んだのだと理解した。

「あなたが思う以上に、僕は、あの夜にああなることを待ち望んでいましたよ。
 あなたが隙を見せてくださるのを、噛み付いてみせるのを、待っていたんです」

 あの日に見たまるで男みたいな顔で、沖矢氏が小さく呟く。するすると首筋に手を添えられ、このままだと唇が、くっついてしまう。そんなときに、にわかにスマホのバイブが鳴った。
 はっとして見てみれば哀ちゃんからで、どこで油を売っているのかと、戻りを催促するものだった。沖矢氏からもその明るい画面は見えたらしい。降参したというような調子ですっかり首を振ると、「姫が帰還をご所望とあれば、仕方がないですね」とふざけたことを言ってみせる。

「だが、これだけは忘れないでいただきたい。
 僕はあなたを捕まえたかったので、今もこうして追い詰めるんですよ」

 そう嘯く彼の笑みは月明かりに、清純さなど欠片もない。例えばお姫様と対をなす王子様だとか、騎士のそれには到底なり得ない。
 その笑みは、虎視眈々と獲物を付け狙う。まるでしなやかな山猫だった。

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