収束
「それで? 今は始末書に追われてるってわけ」
哀ちゃんの言葉に、わたしは自宅のデスク前でぐったりと項垂れた。書いても書いても終わらない報告書に始末書に、顛末書の山。全部同じものじゃないのと思うのだが、驚いたことに全て提出先が微妙に違っているのだ。
「一応、相手が拳銃持っていたし沖矢氏の証言も相まって、正当防衛の判断は下りたんだけど、でも、わたしが会社の産業銃を人間に向けたのは純然たる事実なわけでして……。
もう書きたくない、誰か代わってほしいでござる」
「まァ、これに懲りたらよくわからない案件に無駄にくちばしを突っ込むのをやめることね。鳥じゃあるまいし」
「いやいやだって、こんな事件がイモヅルするとは思わないでしょ、フツー」
「あなた、ここをどこだと思ってるのよ」
哀ちゃんの至極クールな発言に、わたしは断末魔の悲鳴を上げて、黙った。ややあって、ちまちまと顛末書の作成を再開する。
哀ちゃんはひとつため息を落とすと、わたしの飲みかけのカップを取ってコーヒーを入れに行ってくれたらしい。しかし戻ってきたのは、大叔父のほうだった。
「あれ、哀ちゃんは?」
「哀君は子ども達が呼びに来てな、公園へ行くんじゃと。昼には戻ってくると言っとった」
「ああ、外、いい天気だものね」
窓の外を見れば、抜けるような青空が見える。新緑も大分緑が落ち着き、もう少しすれば梅雨が始まってしまうだろう。
「そうじゃ、あのチョーカー型変声機の件なんじゃが、再調整の必要が出てきてのう」
「こっちにメンテって、珍しい。哀ちゃんはいじれないの?」
「哀君には、ちょっとのう…」
「ああ……」
大叔父が言い渋る理由を理解して、わたしは頷いた。とりあえず気分転換に手をつけるのでデータの送付と、おおよその必要な部品を依頼すると、大叔父は頷いて部屋から出て行く。ややあって送られてきたデータを見れば、調整というよりも改良で、もう少し薄さと素材の伸縮性を追求したいので内部回路の最適化が必要らしい。
原因は自分だということを悟ると、端末の接続サーバを仕事用からプライベートへ切り替え、設計図を呼び出した。恐らく彼が望んだような変声機の薄さと伸縮性を追求しても、わたしは何度でも彼の変声機を見破るだろう。それでも改良を止めないのは、彼の真実がわたし以外には漏れなければいいと、嫉妬混じりで願っているからだ。
窓の外には、隣の工藤邸の庭が見える。沖矢氏の茶色の髪のつむじと、さやさやとホースから放たれる水の軌道。やわらかい子どもの笑い声がして、歩美ちゃんら子ども達が沖矢氏の足元にまとわりついている。公園に行ったのではなかったかと苦笑したが、そういうこともあるのだろう。
沖矢氏がこちらを振り向く気配がしたので、慌ててわたしは窓の外から目線をそらした。ディスプレイ上の変声機は彼の秘密が漏れないよう、最大限の精度で改良案を出すつもりだ。
共感覚―シナスタジアという概念がある。
例えば数字の『7』から緑色を視認したり、アルファベットの『C』から黄色を見たりするなど、落ち込んだ人物のため息を『青色吐息』などと形容する比喩表現とは違い、彼らは本来であれば相関のない『知覚・感覚』を、関連するものとして『知覚・感覚』する。
共感覚でも文字から色を感じる場合、数字に色が見える場合など様々だが、その中に音に色を感じる共感覚の保持者が存在する。その感覚は色聴と呼ばれ、日本でも海外でも多く研究されている共感覚のひとつだ。
「わたし、その色聴感覚の保持者なんですよ」
「はあ」
チョーカー型変声機の改良版を取りに来た沖矢氏は、わたしの説明を聞いてそんな気の抜けた返事をした。
「どんな音でも、色が見えるんです。例えばコーヒーを入れる音は黄色、水をグラスに注ぐ音は金、車のクラクションはたいてい赤系統、ラジコンのモーター音は紫、コナンくんの声は青、哀ちゃんはスモーキーピンク、大叔父さんは…深緑かな? で、沖矢さんは黒混じりの赤茶ですね」
つらつらと説明を続けながら、わたしは指先でテーブル上の変声機を指先でつつく。
「この変声機の開発時、大叔父さんは変声の仕組みに声道内での発声へのアプローチを組み込みました。わたしは生物学でも動物生理学を専門にしていますし、自身の聴覚も踏まえて興味を持ち、鳥類の鳴き声を研究していたこともあります。このチョーカーに関しては、仕組みがかなりユニークだと思いましたので、発声の変換に関して、かなり関わった発明品なんですよ。
そしてこの変声機は発声を変換するためのアプローチとして、振動を使用しています。この振動は人間の最小可聴値の20ヘルツ以下で設定してありますが、わたしの耳はその特殊な振動を聞き分けられるようです。…これに関しては、この変声機を作った際に始めて知りましたが。
それがどういうことかと言いますと、このチョーカーを使用して喋っている方の声は、黒色がかかってみえるんですよね。だから、あなたの声も黒みがかって聞こえていたのは、お会いした最初からです。
まあ、本当に変声機由来の色調なのかが知りたくて多少の実験、検証は数回しましたので、確信を持てたのはその検証後になりますが。
…以上が、わたしがあなたの変声機を見破った種明かしになりますが」
いかがでしょう? 問いかけたが、沖矢氏は難しそうに眉根を寄せた表情を変えることがない。わたしは喋りすぎた口を湿らすため、自分で淹れてもてなしに出した紅茶を一口飲んだ。キッチンでは、大叔父がはらはらとした顔をしながら、こちらを見守っている。
「あなたは…、そんな不審な人物が現れたのに、特に騒ぎ立てなかった理由はなんですか?」
「まあ、…強いて今更かと思いまして。不審というか、コナンくんも哀ちゃんも不可思議ですし、それに比べれば大叔父さんの作った変声機をデフォルト装備ぐらい、普通かと」
「…普通、ですか」
そこまでいうと、沖矢氏は少し納得したらしい。寄せていた眉根を開いて、ハハハっと欧米人のように愉快に笑った。もしかしたら沖矢氏は、もともと海外で生活をしていた人なのかもしれない。時折、仕草が帰国子女のように、国外の生活が長かった人に見えるのだ。
「話、終わった?」
首をかしげながら入ってきたのは、コナンくんだ。子ども達は屋上で大叔父の作ったシャボン玉射出機で遊んでいたが、一人だけ降りてきたのだろう。代わりに大叔父が屋上の様子を見に出て行く。この場の話し合いも一段落したと判断したのだろう。彼も心配性だ。
「高木さんから、この間の事件の続報、来てたよ。結局公安案件になって、ほとんど情報も取られちゃったっていってたけど、足りない分は降谷さんから」
「ホォー。伺いましょうか」
沖矢さんの返事に、コナンくんはコホンとひとつ咳払いをする。彼が警察から聞いてきた話は、こうだった。
強盗殺人の実行犯四人はやはりグランピング場の男ではなく、森の中で沖矢氏が捕まえた男が正しい『四人目』だったらしい。
男たちはとある活動団体の一員で、青年期から長らく生活や活動を共にしてきた。しかし主宰者が詐欺容疑で逮捕となり、組織は瓦解。団体メンバーは散り散りになったとのことだったが、閉塞的な環境に適応しきった彼らは社会に溶け込むことができず、主宰者の復帰もしくは団体組織の復活を目論んで手段を問わない金稼ぎを始める。ただ一攫千金とはなかなかいかず、フラストレーションが溜まった際に知り合ったのが、あの美術館のオーナー夫人だった。
オーナー夫人は金銭目的ではなく、美術品の鑑賞を目的として財を形成する夫に不満を持ち、価値が変動するような美術品を手放したがっていた。有事の際、換金がしづらいからだ。どうにか夫の財産を換金してしまう合法的な手段はないかと模索していたときに、犯人グループの四人組のうちの一人と知り合い、最終的に美術品を報酬として渡す代わりに、夫を殺害し莫大な額の保険金を受け取る計画を思いつき、実行してしまう。
凶行の実行後、美術館のオーナーを殺した四人は二手に別れる。三人はあらかじめ目をつけていたグランピング場の男を仲間に引き入れ、美術品の一部を自然公園の山中に隠し、驚かしの仕掛けを作る。そして残りの美術品を県外のトランクルームへ預け、その場所のメモと鍵を山中で見つけたジャノメドリの足にくくりつけ、隠した。
わざわざ鳥の足に鍵とメモをくくりつけて隠したのは、ひとところに隠すよりも安全なのではないかと考えたからで、実際は鳥の足から鍵が外れていないか、何度も様子を見に来ていたらしい。そして、そのときにジャノメドリを探すわたしを見つけ、最終的にはグランピング場の男に命じてさらって尋問したと。
「降谷さんも大分確認したみたいだけど、活動団体組織に今のところ復活の兆しはなく、今回彼らが稼いだお金も、組織や他のところに流れた様子もないとのこと。現在のところでは、犯人グループもオーナー夫人も、自供に齟齬はないらしいよ。
…まァ、犯人捕獲後に四人目の犯人が見たっていう、昴さんの射撃。あれは結局彼の見間違いってことで落ち着いたけど、それでも疑ってる節がかなり抜けなくて」
「ハハハ。彼もなかなか、疑り深いですねぇ」
「昴さんのそういう危ない橋わざと走り抜けるみたいなところ。ホント、やめてほしいんだけど」
沖矢氏はコナンくんのジト目を笑ってごまかすと、にわかにシャツの首元をくつろげた。わたしがテーブルに出していた改良後の変声機をとり、首元に今ついていた変声機を外す。新しい変声機のスイッチを入れると、「ふむ」と声を出した。
「確かに以前のものより軽く、薄いですね。首も動かしやすい」
「汗などが溜まって肌に負担をかけすぎないように、揮発性通気性を重視した素材に変えました。その分、可動もいいと思いますよ。衝撃に弱いのが難点ですが、防水加工はしてありますので、今後も首元への大きな衝撃だけは避けるようにしてください」
「了解しました」
沖矢氏は頷き、首元のボタンを留める。やはり火傷のあとなんてなかった。初めて見た彼の首筋に心臓が跳ねて、思わず目を逸らしていると、コナンくんがジトっとした目でこちらを見ていた。
「どーーでもいいけど。
二人共、ちゃんと話し合ってよね」
「何を?」
コナンくんの言葉にわたしが首をかしげると、コナンくんは「別にー」と飽き飽きしたような顔をして、ソファから降りる。階上から子ども達の声がしてきたので、シャボン玉で遊ぶのも終わったのだろう。テーブルの上のカップを片付け、先ほどオーブンから取り出して冷やしておいたクッキーを皿に盛り付ける。
そのまま騒がしいお茶会が始まったので、コナンくんがなにを話し合えと言ったのか、わたしには分からず終いだった。
それから一週間後、東都での仕事が一段落したので、地元のI県に戻る手はずとなった。哀ちゃんとはちょっとしたことのやり取りをアプリで続けている。おもに大叔父の食事についての愚痴と相談だ。近頃子ども達との交流も多かったので、久しぶりに一人になり、人心地ついた気分だった。両親は長らくの海外生活から戻っておらず、そこそこの大きさの一軒家でも、住んでいるのはわたし一人だからだ。
哀ちゃんとメッセージのやり取りを続けていると、コナンくんがまた無茶しただとか、大叔父が変な物を作って夢中になっているだとか、歩美ちゃんが連れてきた子犬が可愛かったこと、隣家の居候がまたおすそ分けを持ってきたが生煮えで怪しすぎることなど、離れていても彼女の生活ぶりがつぶさにわかる。返事をしながら、東都へ戻ったら哀ちゃんとどこへ行こうとか、行楽にわたしも参加したかったとか、向こうへ戻ることを心待ちにしている自分に気づく。そろそろ、本社と県支社との行き来を控えて、どちらかに拠点を据えたほうがいいのかもしれない。そんなことを思ったが、まあいいかと後回しにするのがわたしのいつもの癖だった。
その日は近所のベーカリーに昼食を買いに出ようと思っていて、ただ梅雨の時期に差し掛かっていた。わざわざ傘を差してパン屋を目指す影はわたし以外にはなく、自分も大人しく社食にすればよかったかと後悔したとき、道の向こうに黒い大きな傘を見つけた。
「どうも、お久しぶりです」
道の向こうで傘をさしていたのは、金色の髪の喫茶店の店員で、思ってもみなかった顔に目を丸くしてしまう。彼はそんなわたしの顔を見て、くしゃりと苦笑した。
「近くに用事で来たもので。確かあなたの勤め先はあの会社だなと建物を見ていたら、よく似た方が歩いてらっしゃったので、待っていました」
いつもと変わらない、そつのない安室氏のセリフにわたしはそうですか、と気の抜けた返事しかできない。食事に行くのかと聞かれたので、近くのパン屋へ行くのだと伝えると、流れでなぜか一緒にパン屋へ行くことになってしまった。そのまま近所の公園の東屋で、向かい合ってパンを頬張る羽目になってしまう。どうしてこう、東都の知り合いには押しも灰汁も強い人間しかいないのだろうか。つらい。
安室氏とぼやぼやと近況を話し、東都へいつ戻るのかと聞かれたので、一ヶ月後だろうと返事をする。彼はあろうことか、「さみしい」とのたまってみせた。
「…安室さん、悪いことは言いませんから、発言にはもう少し気を遣ったほうがいいですよ。あなたの周り、本当にファンだとかフリークみたいなのがいるんですから」
「やだなあ、そんな。大げさですよ。それに、あなたには関係ないことじゃないですか。
だって、れっきとした恋人がいるんでしょう?」
恋人とは? 安室氏の発言に首をかしげると、彼は再度「やだなあ」と繰り返す。
「沖矢さんですよ、よく話してらっしゃる気がするんですが。…お付き合いされてるんでしょう?」
「そういうわけでは……」
慌てて首を振れば、安室氏は「おや」と意外そうな顔をしてみせる。あんなに仲が良さそうなのにねえ、と水を向けられるが、特に話せることなどないのだ。単なる隣人だと繰り返すと、安室氏は一旦は納得したようだった。
すん、と会話が途切れ、しやしやと細い雨の振る音がする。湿度が高く、肌がじっとりとしている。明日も雨なのだろうか、曇り空を振り仰いでいた。
「赤井秀一という名前に、聞き覚えは?」
唐突に話し始めた安室氏の声は、先ほどまでとは打って変わってひどく硬質だった。驚いたことに、彼の声から感じる色味まで変化してみせたのだ。先ほどまでが円やかなライムイエローだったのだが、急にするどいレモンイエローに変わった。驚いて彼の顔とみればひどく固い、役所のような顔をしていて、普段とは別人のように見えた。
「さあ…、存じませんが」
「ならいんんです」
安室氏の声音がまたライムイエローに戻る。彼はにこやかな調子のまま、続けた。
「万が一その名前を聞くことがあれば、僕にも教えてください。とても大きな借りのある人物で、是非とももう一度会いたいと思っているんです」
「はあ…、そうなんですか」
「沖矢さんと仲の良いあなたなら、いつか会われる気がしていまして」
「はあ…」
安室氏は彼に似つかわしくない滅裂なことを繰り返すと、そろそろ行きますと告げて席を立った。わたしも休憩が終わる時間なので、会社へ戻ろうとあとに続く。
「そういえば、S県のグランピング場の件は、災難でしたね」
別れ際に思い出したように言われて、安室氏を見る。そう言われてふと思い出したが、あの事件の際に安室氏の名前を何度か、聞いた気がする。
「あなたが猟銃免許を持っていたのにも驚きましたが、それを他人に撃たせてしまうなんて。いつも落ち着いているあなたのことだ。そのときはさぞ、恐ろしかったんでしょう?」
「…違いますよ、わたしがしてしまったのは、麻酔銃を正当防衛とはいえ人間に向けてしまったことです」
安室氏の青い目がくっと細められる。わたしはその目から、逸らさなかった。
「ああ、そうだったんですね。勘違いしてましたよ」
安室氏はそう言ってからから笑うと、ではまた東都でと挨拶をして雨の中を去っていった。会社の前にいたコンビニ帰りらしき同じ課の同僚が、誰だあのイケメンというので、わたしが首を振りながら答えた。
「米花町の鬼閻魔だよ、すぐに足元をすくいに来るんだ。すごく怖い」
イケメンは本当に怖いのだと、わたしはまごうことなき本心を包み隠さず、吐露した。同僚はすごく変な顔をしていた。彼には悪いが、毒にも薬にもならないその反応にすごく安心する。常識を侵されるような濃い灰汁ばかり振りまかれて、とても元に戻れそうにない。そう感じて、わたしはほとほと困っていた。
そんなことを思いながら再び東都へ戻ってきたのは、梅雨があけ夏に差し掛かってからだった。向こうでは改まって一緒に酒を飲みに行く相手もいないのだが、東都ではたいてい出てきた初日にこちらの同僚と飲みに行くため、よくグロッキーになる。前回も同じことをした気がすると、駅のホームで項垂れていると、影が差し掛かった。
「今回もここで行き倒れですか」
沖矢氏は予想通りというような顔でわたしを覗き込んでおり、許可も取らずにわたしの肩に腕を回した。引き上げられ、そのまま歩き始める。以前より、かなり会話の距離が縮んだように思う。
「沖矢さん…一人で、歩きます、帰ります……」
「こんな青い顔をして、信用ならないですね」
「だって、沖矢さんと帰ったら、また、工藤さんちに上がり込んじゃう……」
わたしは沖矢氏に抱えられながら、ポソポソと呟いた。
「それに何か問題が?」
「沖矢さんに誘われたらホイホイ着いて行っちゃうから、また、工藤さんちで、えっちしちゃう……。お隣さんのおうちで、えっちなのは、ダメです……」
「……ホォー。なら、工藤家じゃないのなら、大人しくついて来てくださいます?」
「ん…、はい」
頷くと沖矢氏は押し黙り、そのままパーキングに停められていた彼の車に押し込まれた。今日は気分も悪くなく車の振動が心地よくて、気がついたら、ベッドの上に寝かされていた。
「おや、起きましたか」
ベッドサイドでまた文庫本を読んでいた沖矢氏は、起き上がったわたしに気づくと「水分は?」と聞いてきた。頷けば、甲斐甲斐しく水を差し出してくれる。ありがたくそれを頂戴して、周りを見渡すと、どう見ても『そういう』内装のホテルだった。
「すぐさま入れそうなのが『いかにも』なホテルだけでして。申し訳ないのですが、あなたもその気ならちょうどいいのかもと思いまして」
「え? ええ??」
本を置いてこちらへずいっと身を寄せてくる沖矢氏は、既に着ているシャツのボタンをいくつか開けており、チョーカー型の変声機がその首元に覗いている。いかにもな場所といかにもな沖矢氏の雰囲気とに、ごくっと喉を鳴らすと、「いやいやいやいや!」と叫んでわたしはベッドの上を後ずさった。
「だめ、だめです! 今日はダメです!」
「今日は?」
「今日もダメです! 明日も明後日も! 沖矢さん、ダメですって!」
「なぜ?」
沖矢氏がじりじりと距離を詰めてくる。いつの間にかベッドの端にたどり着き、背後はベッドボードだった。沖矢氏が柔和な見かけによらない血管の浮いた太ましい腕を顔の横につき、これはいわゆる壁ドンだと気づいて更に頭が熱くなる。なんであんたそんな恥ずかしいこと、涼しい顔でできるんだ!
「どうして、僕じゃだめなんです? 僕に言われたらホイホイついて行くって、さっき言ったじゃないですか。そうしたらえっちになってしまうって、あなた、そう言いましたよね?」
「うぐ、」
「泣きそうな顔しても、もう見逃せないな。あなた、僕のこと、好きでしょう? 僕とえっち、したいんでしょう?」
「ひぐぅ」
沖矢氏の怒涛の責めに、わたしは奇妙な悲鳴を上げて目を逸らすことしかできなかった。「ね、こっちを見てくれませんか」 そんな些細な抵抗も、沖矢氏に顎を掴まれてぐにゅっとそちらを向かされてしまう。これ、前に沖矢氏のベッドでされたやつ……。だめだ。体が、心臓が痛くて、我慢ができなくなってしまう。このままでは、このままでは…、
「だって、沖矢さん、別の世界の人ですもん!!」
理性を総動員してなんとか叫んだ一言は、自分の思う以上に本音を喋りすぎていた。咄嗟に口を抑えるが、もう遅い。それまでの色の浮いた目を塗り替えて、沖矢氏がわたしを覗き込んでくる。
「どういう意味です?」
「う、……」
「聞いてます。どういう意味なのか、教えてください」
「だ、だって…」
へんせいきなんて、つけてるじゃないですか。
呟いたのは蚊の鳴くような声だった。何をわかりきったことを、と沖矢氏が首をかしげる。違う、そうじゃない、そうじゃないのだ。
「わ、わたしは、至って普通の人間で、犯罪に巻き込まれても逃げることしかしないし、できないし、解決なんて工藤さんちみたいなこともできないし、哀ちゃんみたいに協力することもできない。わたし、ごく普通の人間なんですよ。
でも、沖矢さんは違うでしょう? 変声機なんてものつけるってことは、その必要があるからで。わたし、そんな人の役に立ったりできないです、毛利さんみたいに、強くないし、役立たずです。あなたに、ふさわしくないんです」
言っているうちにぼろぼろと涙が出てきて、内容も支離滅裂だ。幼い頃からまるでお話の中みたいだと憧れて、やがて引け目となった隣家の住人やその周辺の人たち。沖矢氏が工藤邸に住み始めたときから、わかっていたのだ。彼らは違う世界の人たちだと。腕っ節も強くなく、特別な頭脳も才能もない。確かに共感覚が鋭いほうだとは思うが、それがなんだというのだ。一般的な家庭の一般的な育ちで、わたしは彼らに寄与できるものなんんて、何ひとつありはしないのだ。
「…言いたいことは、それだけですか」
年甲斐もなくぼろぼろと泣いていると、沖矢氏が頭上から抑えた声で聞いてきた。それはそうだろう。せっかく抱こうとしたいい年の女が、こんな面倒臭いことを言い始めたら、普通は嫌になる。やはり、早くここから帰らせてもらおう。そう思い、彼の顔を見上げたときだった。
一瞬で呼吸を食べられ、ぬとりと舌が侵入してくる。沖矢氏に無理やり口づけられたのだと気づいたのはその一拍あとで、慌てて沖矢氏の服を掴んだけれど、わたしの矮小な力では沖矢氏を離すことはできない。無理やり性感を起こされて、口が離れたときにはいつの間にか胸まで肌けていた。
「言っておきますけど、絶対に今夜抱きますし朝も一人で帰らせないので、覚悟してください」
「ひっ」
沖矢氏の目は多少座ってみえて、話す間に彼はどんどんわたしの服を剥いでいく。あまりの手際に、抵抗することもできなかった。
「あなたが僕の役に立てない? だからふさわしくない? ホォー、随分買い被られたものだ。そんな理由でずっと僕を拒んでいたんですか?
バカバカしい、もっと早く手を出せばよかった」
「ば、ばかばかしいって、」
「バカバカしいですよ」
人の長年の悩みや引け目を『バカバカしい』と切り捨てられてしまった。思わず反論すると、沖矢氏は竹でも割るように、ぴしゃりと言い切った。
「その役に立つか立たないか、ふさわしいかふさわしくないかは、誰の主観なんです? あなたですよね? 私情にまみれて引け目に気を取られて、自分のことも録に客観視してない、あなたのものですよね?
あなたのそれは、単なる言い訳で逃げだ。
僕と関係を作って、それで傷ついたり苦しむのが怖いというあなたの逃げを、体よく表してるだけじゃないですか?
……ふざけないでくださいよ」
彼の言葉に滲んだ怒りに、わたしは声も出せず、ひゅっと息を飲む。怒っているくせに、苛立っているくせに、服を剥ぎ取られたわたしにシーツをかける仕草はやけに優しい。
「僕があなたに、どれだけ救われ慰められたと思うんです。僕だけじゃない、灰原さんもそうです。
あの子はあんな無邪気に笑ったことのない娘だったのに、あなたといるのは、まるで本当の姉妹のやり直しをしているようだ。
あの子が本来与えられるはずだったもの、取り上げられてきたものを、あなたは惜しみなく与えて、あの子を笑わせている。なのに、それを役に立たないだと?
いくらあなたでも、僕の恩人を、彼女の恩人を、悪く言うのはやめていただきたい。あなたには僕も彼女も、返しきれない恩が山ほどあるんです、無償の愛なんて、赤の他人に注げる人間はそうそういないんですよ。
あなたには、それができた、あの子を笑顔にしてくれた、だというのに、」
そこまで言い切って、沖矢氏はにわかに泣きそうな顔をした。思わず、彼へ手を伸ばす。彼は甘んじてその手を受け入れて、わたしを見下ろした。
「あなたがあなたを一番認めないのは、やめてくれませんか。…悲しくなってしまう。あなたは普通かもしれない、けれど、それがなんだというんです。あなたは素敵です、あなたしかいない、あなたの代わりはいない。
…僕にとって、あなたはあなたしか、いないんです」
そうひどく熱烈な目で見られて、萎縮していた体がじんと熱くなる。何も言い返すことができなくて、沖矢氏はそのままわたしと鼻先をすり合わせると、ぷちぷちと自分の服のボタンを外していった。
「いいですよね? 変声機は外しませんし、このままですけれど、あなたにいやらしいことしても、もうだめとは言いませんね?」
「…はい」
「よろしい」
彼はそう言って破顔すると、まずは小手調べと言わんばかりに強烈なキスでわたしを溺れさせることにしたようだ。本当にずるくて人の扱いの上手い、どこまでも優しい男である。
しやしやと、柔らかく降り注ぐ雨の音がする。薄らと目を見開けばごてごてした装飾が目に入った。起き上がって考えてみれば沖矢氏と入ったラブホテルの中だった。雨の音だと思っていたのはシャワーの音で、前もわたしはこの場から逃げ出した。これを何度繰り返すのだろうと思った瞬間、バスルームへの扉が開いた。
「起きましたか、では一緒に入りましょう。約束でしたからね」
下着と下半身の衣服のみ、ほぼ半裸の沖矢氏は昨夜の朦朧した状態でのわたしの返事を約束と言い切り、有無を言わさず抱き上げてくる。沖矢氏に隅々まで触れられ、喘がされた体はわたしのいうことなんて一つも聞いてはくれず、沖矢氏にされるままにバスルームへ連れ込まれるのだった。
「…なし崩しにされている気がする」
昼も大概にすぎてから沖矢氏に連れられて帰宅したわたしを、大叔父は大層気まずそうに眺め、近寄ってこない。沖矢氏のほうは全くそんなことにお構いなしで、大叔父と一緒に今夜の夕食の煮豚を作り始めていた。動じないというか、マイペースな人である。学校から帰った哀ちゃんはそんなわたしと沖矢氏をうさんくさそうに眺めたあと、とやかく言うのを諦めたようだ。早々にタブレットをいじり始めている。確かに、そろそろ夏物がほしい。今度一緒に買い物へ行こうと哀ちゃんとタブレットで雑誌やインスタを眺め、今年の流行りについて好き勝手な批評をする。しかし沖矢氏がそんなわたしたちを見てにやにやしているので、哀ちゃんはひどく不機嫌そうだ。
「なし崩しにされている気がする…」
わたしがぶつぶつと呟くと、哀ちゃんは呆れたような顔をしてみせる。そんな顔をしないでほしい。わたしは大分抵抗したし、足掻いたのだ。ただ相手が強すぎた。わたしが決して弱いわけではなく、あんな百戦錬磨そうなイケメンには勝てない。勝ち筋がない。
哀ちゃんはそう言って言い訳をするわたしを胡乱げな目で見、いいんじゃないと鼻先で笑った。
「『なし崩し』って『なあなあにする』みたいな意味で取られて誤用の多い言葉だけれど、もともとは借金を少しずつ返すこと。転じて、少しずつ物事が収束していくさま、やがて落ち着くべきところに落ち着くさまを言うそうね。
あなたの言う通り、なし崩し的に落ち着くところへ落ち着いた。…昴さんとは節度のある付き合いをすべきね? そこらで発情しているあなたたちと出くわすのは、いやよ」
「…は?」
「あら、あなたが言ったんでしょう。『なし崩し』にされているって。その通りよ、受け入れなさい」
哀ちゃんは悪魔のように高らかにいうと、ソファから降り立ってキッチンへと近づいていく。「いろどりが悪いし、栄養も偏っているわ。肉料理を作るなら、野菜をもっと増やしなさい」 沖矢氏と大叔父にそう指示を出しながら、エプロンをつける。
「ほらあなたも、ぼやぼやしてないで。手伝って。この人たちだけに任せていたら、好きなものしか作らないわ」
哀ちゃんが言って、わたしに早くエプロンをつけるように急かす。大叔父も沖矢氏も哀ちゃんの言葉にわたしを待っているようで、勝てないと再度呟きながらわたしはソファを立つ。
わたしは普通の人間で、哀ちゃんとも沖矢氏とも違う。大叔父のように巻き込まれ体質でもない、単なる一般人だ。だけど、彼らはそんなことは関係ないと、お前も一緒に来いと、そ 言うようなのだ。
そう言ってもらえるのであれば、彼らがわたしをいらないと言うまでは、一緒にいたいと思う。なにせ、わたしだって彼らのことが嫌いなわけではない。むしろ、その逆だ。
わたしはきっとなし崩し的に、もう手遅れだ。でもそれが嬉しいのだといったら、きっと沖矢氏はにやりと悪い顔で、笑うんだろう。
完敗だ。
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