ロマンスなんてはじまらない
しやしやと水の触れ合う音が耳に残り、今日は雨か、と眉をひそめたけれど瞼に当たる日差しがいやに眩しく、うっすら瞼を押し上げれば少しだけ開いたカーテンの向こうから、突き抜けるような新緑が見えた。透ける眩しさに寝返りを打って、ぼやぼやと霞む視界を眺める。アンティーク調な板張りの床や、風合いのある木目のドアには馴染みがなく、ここはどこだろうと悩んでから、じわりと昨晩の記憶が蘇ってくる。みるみると、その瞬間に頭は冴え渡り、心臓が跳ねたのと同時に飛び起きた。
――やばい。
遠くではまだ水音がしている。恐らく、シャワーの音だ。外は晴天、掴み取ったスマートフォンは午前十時を差している。床には昨夜に脱いだ服と、リビングから回収してきてくれたのだろう、革張りの仕事カバンが放ったままだ。素早くそれらをかき集め、水音の動向を探りながら身に付ける。どうか自分が出て行くまで、音が止みませんように。祈りながら玄関の扉を潜ったあとには、冷や汗で首筋に髪が張り付いていた。
そのままコソ泥のように通行人がいないことを確認し、工藤邸の門扉から出ると音を立てないよう、移動する。本来入るはずだった大叔父の家―阿笠邸の前までたどり着くと、逃げるようにその中に駆け込んだ。
「あら、朝帰りね」
「…違う!」
玄関から入った途端、優雅にブランチを摂っていた少女にからかいを受けた。見れば彼女は楽しそうに目尻を下げている。トントンと細い指先で自分の首筋をたたき、ついてるワ、と一言。慌てて首を抑えたわたしに、哀ちゃんは「冗談よ」と首をすくめてみせた。
年下の女の子に弄ばれている。最悪である。
***
そもそも、沖矢昴とは大した面識はなかった。東都の本社へ出てくるたびに、隣の工藤さんのところの新一くんが長期不在になり、コナンくんという親戚の子が家に出入りするようになっただの、その流れでコナンくんの学校のお友達が出入りするようになっただの、果てには親戚の哀ちゃん(そんな苗字の親戚、いたか?)が居候するようになっただの、困惑する出来事が立て続けに起きていた。
多少の世捨て人感がある大叔父だったので、周囲に元から交流のあった新一くんや、毛利さんの家族以外の人が周りに増え、本人も嬉しそうでなによりだと思ったし、哀ちゃんという小学生の女の子を預かることになったと言われたときはさすがにどうしようかと不安に思ったが、実際は哀ちゃん自身がとてもしっかりした子で、大叔父のただれた食生活の面倒まで見てくれている。彼は放っておくと、大好物のジャンクな食品しか食べないのだ。
本来はわたしを含めた親戚一同が考えねばいけないことだった気がするし、哀ちゃんの扱いについてそれこそ親戚一同で話し合いの機会を持つべきだった気がするが、大叔父の世話を焼く哀ちゃんがどことなく嬉しそうに見えるので、人にはいろいろな事情があるだろうし、うまく回っているように見えるものには横槍を入れないという、生来の事勿れ主義が首をもたげたりもした。
事実、東都に出てくるたびに哀ちゃんとは少しずつ交流を重ね、男手の大叔父では至らない部分を埋めることで彼女からそれなりの信頼と情を得ることができていると思う。彼女が生粋の科学者気質なのもいい影響を及ぼした。うちの家系は、軒並み実証検証実践反復再現大好き人種の集まりなので、彼女もその多分にもれないということだろう。おそらく。
そんな日常のトピックスに紛れて、沖矢昴という存在はいつの間にやら隣の工藤邸に住みつき、気がついたらお裾分けという名のカレーやシチューを持って大叔父の家に出入りするようになっていた。賢そうな人なのに、何度も作る量を間違えたと苦笑いするのは、まあ、そういうことだろう。一人暮らしをしていて人恋しくなるのはとてもよくわかるし、沖矢昴も見かけによらず、きっとさみしがり屋なのだと思った。哀ちゃんにそう言ったら信じられないものを見る目で見られたけれど。
ともかく、わたしという人間にとって、沖矢昴は急に増えた大叔父の人間関係のうちの一人でしかなかったはず、なのだ。少なくとも、昨日までは。
昨夜は、全く持って駄目な社会人の典型だった。三ヶ月ぶりに東都へ出てきたので本社の知り合い数人と食事に行き、くだくだと仕事やプライベートについて管を巻き、帰路についた。そのまま大叔父の家に帰る予定で、二人にもそう連絡を入れていたのだが、ただ、久しぶりの飲酒は予想以上に回りが早く、最寄りの米花町駅に着く頃には、そこそこのグロッキー状態になっていた。駅のベンチで休みながら、大叔父の家までタクシーを使おうか、乗車拒否されるだろうかと悩んでいると、ふと視界がかげる。見上げれば、隣家の居候がこちらを覗き込んでいた。
「帰りだけに見かけたもので、……お加減が悪そうですが、大丈夫ですか?」
色素の薄い青年は、心配そうに眉をひそめている。大丈夫ですと返事をしたかったのだけれど、くわんと頭が回ってかすれた声しか出ない。彼は眉をひそめたまま、手を差し出した。
「駅までは車で来たんです。送りましょう。そのご様子では、しばらく歩くのも辛そうですし」
「……おかまいなく」
「そんな様子のあなたはを放っておいたと知られたら、コナンくんにも灰原さんにも叱られてしまいます」
そう言って腰に手を回され、ベンチから立たされる。よろよろと歩くのを沖矢昴の腕が支えてくれた。咄嗟に捕まった身頃は分厚く、わたしの体重にもびくともしない。工学部の学生だというが、鍛えているのだなあと背の高い彼を見上げれば、同じくこちらを見下ろしていた沖矢氏と目があった。思わず恥ずかしくなり、子どものように目をそらしてしまう。耳に血液が集まっている感じがして、早く離してもらいたかった。
駅近くのパーキングに彼の車は停められており、以前に見た通り、スバルのアンティークカーだ。随分な道楽だと思うが東都大の院生だというし、賢い分儲けの手数も多いのだろう。羨ましい話である。
この車の中に吐瀉物をまき散らしたら、クリーニング代はいくらになるのだろうと思案していたら、パーキングの支払いに行っていた沖矢氏にペットボトルの水と、白いビニール袋を握らされた。吐きたくなったらそこに、ということらしい。なんとなく生活感のにじみ出る気遣いに少し安心を感じて、ありがたくもらったペットボトルに口をつけた。
「酒に、弱いんですか?」
道中、うつらうつらしていると沖矢氏が話しかけてくる。「弱いわけではなかったのですが…」 ぼんやりしていた頭を起こして、彼のほうを見る。対向車のヘッドライトが彼の白い顔立ちを浮き上がらせていた。
「年、ですね。最近、あまり地元では飲む機会もなくて。久々に飲んだのですが、許容量が昔より減っているのかもしれません。こんな失敗、久しぶりですから」
「そんなことを言って。あなたまだ、お若いでしょう」
「でも、もう三十過ぎですよ」
「三十路をそんな年寄りのように、言わないでほしいものですね」
年齢の話に、沖矢氏が困ったように眉尻を下げる。しまった、年下を困らせる年齢ネタだったと気づいて、慌てて笑ってごまかした。大人びて見えるが、彼は自分よりも五つも年下の男の子だ。「イタイオバサン」と思われるのは辛い。
しかしながら、車のゆるい振動が胃の中をかき混ぜるようで、あまりよろしくない。気分が落ちたことも相まってビニール袋を握る手に力がこもった。沖矢氏が横目にそんな自分の姿を確認したことがわかり、ますます冷や汗が滲む。
沖矢氏は工藤邸門扉の中にさっと車を乗り入れると、助手席側に回ってビニール袋を握るわたしの背中に手を差し込んだ。
「博士の家まで行くよりこちらのほうがいくらばかりか近いですし、先に洗面所までお連れします」
首を横に振ろうとしたが、関係なく彼はわたしを抱き上げ玄関へとつかつか歩いていく。その途中でこらえきれずに吐き出した胃の中身が、彼の黒いスタンドカラーシャツにべったりとついた。
「気にしないで。吐いてしまってください」
トイレの床に下ろされ、便器の前で彼が背中をさすってくる。目の前がちかちかするような気分の悪さに、沖矢氏の温かい手が心地よくて、涙が滲んだ。
ひとしきり吐いてしまうと、沖矢氏は再度わたしの体を支えて歩き、リビングのソファへ問答無用で横たえさせる。すぐさま水を取りに行った。持ってきてくれたグラスの水は冷えていておいしく、気分の悪さが少しましになった。
「少し休むといい。落ち着いたら、博士の家までお送りしますから」
「ご迷惑おかけして、すみません……」
彼の服の胸元はまだわたしの吐いた汚れが白く張り付いており、申し訳なさに砂になりたくなる。謝罪を呟くと、休んでくださいと瞼を手のひらで覆われ、その手のひらが熱くて、少しのタバコの匂いが甘くて。そのまま意識は抜けるように飛んだ。
目が覚めると、じっとりとした夜だった。壁にかかった時計は深夜近くを差している。気分の悪さは緩和されており、起き上がって沖矢氏を探すと、彼は斜め横のソファで分厚い本を開きながら琥珀色の液体を傾けていた。ローテーブルの上には有名なバーボンの瓶と、氷の入ったアイスペールが置かれている。難解そうなタイトルの書籍なのに、器用な人だ。彼は起き上がったわたしに気づくと、グラスをおいてソファを立った。
「目が覚めましたか? 顔色は大分良くなっていますね」
「お陰様で、少しすっきりしました」
沖矢氏に勧められて洗面所で口をすすぎ、戻ると用意されていた水をいただいた。よく冷えており、喉のいがらっぽさが少し洗われた気がする。
「今もまっすぐ歩けていたようですし、呼吸も落ち着いてましたし。急性アルコール中毒ではないと思ったのですが…、少々失礼しますね」
寝かされていたソファへ戻ると、断ってから彼はわたしの首筋に手を伸ばした。彼が見かけによらずの筋肉質だからか、少し熱い指先は、先ほどまで体調が思わしくなかったのも相まって、異常に心地がよい。脈を探して皮膚と皮膚が擦れる感触に、体の奥がじんと痺れる。思わず身を竦ませるような素振りをしてしまい、慌てて戻すと、沖矢氏はその様子をまんじりと見ていた。
さり、さりと動いていた指先は頚動脈を見つけると止まり、沖矢氏の眼差しが腕に巻かれた時計に落ちる。じく、じく、じく。鼓動と同時にうずく音が聞こえる気がした。
「脈は少し早いですし、顔が赤い。目も潤んでいるように見えますが……」
おとがいの下に指を差し入れられ、顔を覗き込まれた。歯の浮くような仕草なのに、驚くほどそれが似合っていて、覗かれた瞳の奥が、苦しい。かち合った視線に、またじんと痺れた。
細められた目の奥、彼もまた、浮かされたような顔していると理解した途端、抑えが効かなくなって縋るように首筋に当てられていた手のひらに、触れてしまった。
そうして近づいた視界におとなしく目を閉じたので、わたしもまた同罪で、共犯だ。
元々、いいなとは思っていた。すらりと伸びた背筋や、柔らかい笑い方。メガネの向こうの容貌は理知的で、神経質で人嫌いそうなのに、面倒見よく子ども達に構っている。カレーを作りすぎてお裾分けに持ってくると聞いたとき、思わぬギャップにときめいたし、実際目の当たりにして、その苦笑いに共感を覚えた。
けれど、昔から付き合いのある隣家の居候であるとか、院生とはいえ学生の身であるとか、大人びて見えても年下であるとか、自分ももう『いいおとな』なのだからそれなりの振る舞いをすべきと思うだとか、そういう要因が重なって、事実を直視をしないようにしていたし、周りにも自分にも真実が漏れない、『おとな』の態度を徹底していたつもり、だった。小娘でもあるまいし、そんなことがバレたら羞恥で死ぬ。そんな保身的な理由で、安易に近づきすぎないよう、注意を払っていた。
幸いなことに、彼のほうからもかすかな線引きを感じた。わたしは必要以上に接しないようにしていたし、彼のほうもそうで、ただ些細なやり取りからきっと気が合うだろうこととか、互いに興味があるんじゃないかということだけは、なんとなく感じとっていて、そのくせ、何かをするわけでもない。
そんな関係だったのに、駅のホームでぐったりしていたわたしを見捨てずに声をかけてくれたこと、自宅まで連れ帰って介抱してくれたことが、素直に嬉しい。夜中のことは、思い出すのも恥ずかしいけれど、とりあえず沖矢氏は死ぬほどかっこよかった。オヤジくさいけれど、本当に、死ぬほどよかった。
まァ、そんな彼の元からは逃げ出してきたのだけれど。
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