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第二話


 酸い、臭いがしていた。
 喉の奥から込み上げた胃の腑の中身は、恐らくほぼ消化などされていなくて、飯の白い色が見えた気がした。下流の者には申し訳ないと思ったが川の中に向かって吐いてしまったので、反屋の吐瀉物は夕暮れで少しばかり黒っぽく見える川に流れてしまって、口周りを汚した吐瀉物の残りと、そこから垂れた汚物の汁が自分の着物の襟を汚している。
 そこから、酸い臭いがしていた。
 もう一度、込み上げて胃の中身を吐き出す。喉から汚い音が鳴って、腹膜が痙攣のように震える。何度目かに吐き出して腹の中にはもう固形物はなく、喉の奥を焼く胃の酸が、嫌な音を立てて川水の中へ落ちていくばかりだった。

 食べなければ、と思っただけだった。昨日もその前も寝ていないし、せめて少しでも胃に何か入れておかないと、体が持たない。だから、欠片も食欲はなかったが出張先のドクタケ領から戻りながら、適当に町で買った握り飯を腹に詰め込んで、ようやくタソガレドキの城下に戻った矢先に、嘔吐した。
 腹膜が震えて何度も嘔吐したから、生理的な涙が目元を汚している。川岸についた腕がぶるぶると震えていた。三日程、一睡もできていないしこれからタソガレドキに戻ったら、ドクタケ領での報告を上げて、それから隊内の差配を行って、それから…………。考えたが、頭の奥がぼんやりとしていて、その後に何をすべきかよくわからなくなってきた。
 とりあえず、少しでも寝たい、と思ったが同時にそんな時間はない、とも思う。ここでこうして嘔吐している時間だって、ここでぼんやりとしているなら早く城に戻って、少しでも早く報告を上げるべきだった。
 けれど、体が動かない。目の前を過ぎ去っていく川の流れをぼんやりと眺めているだけで、刻々と時間が経っていく。ぼんやりとしていて、少しも体が動きそうになかった。

「…………あの、」

 後ろから、小さく声がした。呼ばれたので、振り向かなければいけない。反屋は重い体を動かして、背後を見た。女が一人、立っていた。

「あの、先ほど吐いてらっしゃるのを見かけて……。ご気分が優れませんか?」
「………………すみません、すぐに退きます」

 この川で洗濯でもするつもりだろうか。そうであれば、すぐに退かなければ。関係のない町の人間に顔を覚えられていいことはない。川へ向かって屈みこんでいた体を起こそうとすると、目の前の視界が少しぐらついた。

「だっ、大丈夫ですか?」

 女が慌てたように言って初めて、自分は目眩を起こして体が少し揺れたことに気づいた。女は気づかわしげな声を上げて慌ててこちらへ近づいてきて、思わず、と言ったようにこちらへ向かって手を差し出す。
 触れはしなかったが、出された女の手は少しささくれ立って、荒れていたが白くてやかな女の手のひらだった。

「…………すみません、大丈夫です……」
「顔色が酷いですよ、ご無理なさらないで……。とりあえず座られたら、どうですか?」
「もう、行かなければ」

 言って、もう一度立ち上がろうとした反屋の肩を、女が押した。大した力ではないのに、その手の温かさがどこかに沁みて、抗えずにそのまま尻もちをつく。

「酷い顔色ですよ。お水を持ってきますから、……ね? 少しだけ座っていらしてください。すぐですから」
「…………、」
「すぐ戻りますから」

 女は反屋の肩に触れながら、念押しするように言うとそのままパッと駆け出した。この川岸からも見える茶屋へ入っていって、本当に言う通り、すぐに湯飲みと手桶を抱えて戻ってくる。

「これ、ただのお水です。良ければ、うがいしてください」

 手桶の中の水を指して、女は言った。普段なら、出所のわからない水なんか口にすべきではない、とわかっている。
 けれどその時の反屋は自分がどう行動するべきなのかが何もわからなくなっていて、言われるままに女が差し出した桶から手で水を掬って、口を付けた。
 桶の水はよく冷えていて、それで口の中を少しゆすぐと広がっていた吐瀉物の酸い味が少し消えた。一二度うがいをしてから少しだけ水を飲むと、喉の奥も洗い流されたように思った。

「ごめんなさい、少し失礼しますね」

 水を飲み終わった反屋の口元を、女が懐から出した手ぬぐいで拭ってくれる。口元から、吐瀉物で汚れた襟までを女は自分の手拭いで拭ってくれて、彼女のつやつやとした髪が反屋の顎先で揺れていた。

「お白湯、持ってきたんですけど飲めそうですか?」
「……ああ、はい…………」
「どうぞ」

 彼女が桶と一緒に持ってきた湯呑みの中には、温かい白湯が入っていた。特に味も何もないはずなのに、それを啜ると胃の腑へその温かさが落ちていって、目頭がぐっと熱くなる。

「うちの茶屋、すぐそこなんです。
 お代も何もいりませんから、少し休んでいかれては……?」
「いえ…………、私は、もう行かなければ……」

 ここで吐いていたせいで、帰城の時間が押している。反屋が首を振って、女が持ってきてくれた湯呑みを彼女へ返すと彼女は気づかわしげな表情をして、反屋を見上げた。
 ふと。
 こんな風に誰かに心配をされたのは、久しぶりだった、と思う。

 押都も反屋のことを案じてはくれているだろうが、お互いに忙しいから顔を合わせることも少なく、お互いにいい大人の男である。過度な心配を反屋は押都にしていないし、それは押都だって同じだろう。
 五条や椎良がいれば、働きすぎだぞ、とお互いに言い合って仕事の割振りを考え直したりするが、今はその二人がいないから、こうして心配を投げかけてくれる誰か、というのが反屋にはひどく久しぶりのことに思えた。

 霞む頭の端でそんなことを思いながら、ゆっくりと立ち上がる。女へ、白湯の残りが入った湯飲みを返して頭を大きく下げてから、踵を返して歩き出した。
 何となく、女がまだ気づかわしげに反屋の背中を見ている気がした。少し歩いた先で振り向くと、やはり女は茶屋の前から反屋をじっと見ていた。倒れやしないか、きっと案じているのだろう。
 随分人のいい女だったな、と思いながらもう一度頭を下げ、また城へ向かって歩き出す。角を曲がって女の視界から消えただろうところで、反屋は駆け出した。

 そういう女のことを思い出したのは、それから半年後のことだった。そろそろ五条も椎良も黒鷲隊へ戻ってこれるような見通しがつき、ようやく仕事量も減って来た。
 奥方様の館に出向した五条がそちらでもできる仕事を請け負ってくれたのもあるし、椎良がタソガレドキに戻ってくる回数が増えたからもある。
 そうしてようやく少し眠れるようになってから、反屋はふとあの茶屋の女のことを思い出した。
 反屋が吐瀉物で汚した口元や着物の襟を、女は気づかわしげに手ぬぐいで拭いてくれたから、彼女の手ぬぐいはきっと汚れてしまっただろう。
 ああして会話をしたから、きっと女は反屋の顔を覚えただろうし、であれば、今後にどういう縁があるかわからないのだから礼は尽くしておいた方が、万一のことがあったときに、何事もやりやすい。
 そんなことを反屋は思って、城下の市場で新しい手ぬぐいを一本買い求めてから、あのときの町外れの茶屋へ向かった。
 あのときは夕暮れ時だったのでよくわからなかったが、茶屋は盛況なようだった。ひっきりなしに人の出入りがあって、ありがとうございました! と華やかな声が聞こえてくる。
 常連なのか、店先まで店員らしき人影が出てきて年配の客を見送ったあと、その人影が反屋のほうを見た。

「あ…………、」
「ご無沙汰しています」

 店員は、いつかのあの女だった。
 女のほうも反屋を認めて、小さく声を上げたのに軽く頭を下げる。彼女はそうして反屋を見て、柔らかく破顔した。

「よかった……。あれから大事なかったかしら、と心配していましたので」
「ようやく少し落ち着きましたので、ご挨拶に。
 あの時はありがとうございました。こちら、遅くなりましたが汚してしまった手ぬぐいの替えです。よければ使ってください」
「そんな……。別に、よろしかったのに……」

 反屋が差し出した手ぬぐいを、彼女は困った顔をして受け取った。それほど若い女には見えず、反屋と歳の頃もそう変わらないだろう。
 同じくらいの年であれば、あの茶屋というのは彼女の婚家なのかもしれないな、と反屋は思った。

「よかったら、お茶でもいかがですか? うちはお団子も美味しいですし、あまり甘い物がお好きじゃないならお煎餅も、葛湯もありますし」
「……では、少しだけ」

 女に誘われて茶屋に入る。店のお品書きには彼女の言う通りに団子とか、その場で焼くらしい煎餅とか、葛湯や素うどんや握り飯とまで書いてあって、随分と手広く商売をしている印象があった。

「いかがなさいます? お団子は炙ることもできますし、お煎餅もすぐに焼けますよ」
「ありがとうございます。では団子を」

 案内された席で反屋が団子を注文すると、彼女は嬉しそうに笑った。団子が美味しい、と彼女が何度も勧める通りにきっと店の自慢なのだろう。
 出された団子は確かに程よい甘味ともちもちの食感が美味く、彼女が淹れてくれた茶は少し渋みがあって、どちらも美味かった。帰り際に女は「是非また来てくださいね!」と言い、反屋は勿論、と頷いた。

 それからも何度か茶屋へ通ったのは、別にそうして「また来てくださいね」と彼女が微笑んでいった一言に「勿論」と返してしまったからだったし、何度か通ったから名前を聞かれたときに本名を答えたのは、ここはタソガレドキ領だからもしかして、いつか顔見知りと一緒にこの店に来ることがあるかもしれないと思ったからだ。
 何度か通う内に、彼女の年齢が恐らく自分よりも三つほど年下だと気づいたし、彼女の名前を知った。
 彼女は大抵、毎日家業の茶屋で給仕をしていて、店には近所の者も町の外から来た者も、これから町の外へ行く者もたくさんの人が行き交う。

 何度も何度も茶屋に通い、流石に今日はもう閉まりかけの時間だな……と反屋自身も思いながら、他領からの帰りに茶屋の前までやって来たとき、彼女が五歳くらいの女の子どもを胸の前で抱きかかえて、何事かを話しながら茶屋の暖簾を片付けているところに行き合った。
 彼女は、腕の中の娘がぐずついて自分の着物の襟にぐりぐりと顔を押し付けているのを困ったようにあやしながら、軒先の暖簾を下ろして、店の中へ戻っていく。
 そりゃあ、そうだろう、と反屋は思った。
 二十代を半ばも過ぎているなら、もういい年齢だ。普通ならもう結婚しているし、子どもだっているだろう。
 彼女だって、きっと旦那がいてあんなにも大きな娘がいるのだ。
 彼女だって、きっと誰かの母親で、ああして夕暮れの川辺で吐いている反屋に声を掛けたのは、彼女が当たり前に善良で、優しい人だから声をかけてくれて、店に通う反屋にも優しくしてくれるだけで、他意なんて、きっと一つもないのだろう。
 当たり前だ。
 いい年なんだから、彼女だって結婚しているに決まっている。当たり前だった。

「茶屋の女の名前は、湊川雛子さん。年は二十六。
 数年前に、隣の町の商家へ嫁いでいましたが二年前に離縁し、今は実家の茶屋で働いています。
 つまり」
「なるほど、——つまり。出戻りだが、既婚者ではない」

 椎良の調べを聞いて押都が出した結論に、反屋はまるで頭をぶん殴られたような心地になった。ぐらぐらと視界が揺れるように思えて、そのまま、ずるずるとしゃがみ込む。
 既婚者じゃ、なかった。
 その思いが脳味噌の中を駆け巡っている。既婚者では、なかったのだ。既婚者だと思っていたから、まさか自分が所帯持ちに懸想しているような、そんな不真面目な男だと彼女に思われたくなくて、彼女に、優しいあの女に欠片だって嫌われたくなくて、反屋はずっとそのことを考えないようにしていた。
 けれど、既婚者ではないのだ。
 既婚者じゃないなら、例えば反屋が彼女へ懸想をしていたってそれは、横恋慕じゃないし、不真面目でもない。一般的に既婚者に横恋慕するような、不真面目でふしだらな男でないのなら、もしかして、もしかしてあの人に思いを向けても、嫌われることはないのかも、しれない……。
 
 そんなことを考えたら、もうどうしていいか、わからなくなってしまった。
 あの人は、既婚者じゃなかった、違ったんだ。好きになっても、いい人だったんだ。そこまで思ってしまえば、あの人が好きなのだ、ずっとあの女に会いに茶屋へ通っていたのだ、と自分の行動がまざまざと自分自身に降りかかってくる。
 ——恥ずかしかった。
 年甲斐もなく、好きな女の顔が見たくて生真面目なふりをして茶屋なんかにせっせと通って、名前を覚えてもらって気のいい常連の振りをして、男の下心なんて一つもない顔をして、彼女から新しい団子の味の相談なんかされて、舞い上がったりして。
 そういうことをしていた行動の全てのその意味は、反屋があの人を好いているから。そういう、ただその一つきりの理由しかなくて、既婚者じゃないとわかったから、自分のその行動の意味を今ようやく、まざまざと見せつけられている。

「反屋の顔、耳まで真っ赤じゃん」
「うぶいね~」

 五条と椎良が、この上なく楽しそうに囃し立てる。煩い、と言いたかったのにその一言さえも、言えなかった。
 椎良が調べた内容を、反屋だっていくらでも調べることができた。けれどそれをしなかったのは、彼女が本当に所帯持ちだと知ってしまうのが怖かったからだ。自分がこんなにも意気地なしで、臆病で、情けない男だとは思わなかった。

「反屋が見た子どもというのは誰だ? 子持ちで出戻ったのか?」
「恐らくですが、入り婿を貰った妹の子で、雛子さんからすれば姪っ子でしょうね。嫁に行った先で子どもができなかったので、戻されたという話でしたから。
 けれど、近所での評判は上々でしたよ。気立てもいいし子どもにも老人にも優しいし、いつもにこにこしていて明るいと」
「もし仮に石女だったとしても、反屋がこれだけ懸想しているなら、貰うべきでしょう。
 こんなの、私も椎良も、見たことないですよ」

 蹲って動けない反屋の頭上で、黒鷲の面々のそういう気の抜けたやり取りが行き交っていた。そうか……、子はいないのか……。でもそれなら、恋敵は少ないかもしれないし……とか打算を考えた自分を、反屋はまたぶん殴りたくなる。
 反屋壮太は、恋という感情を、三禁に数えられるその内の一を、知らぬわけではないと思っていた。
 けれど今、思う。
 きっと自分は、恋ってものを全くよくわかっていなかったのだろう。こんなにもたった一人へと心を浮かせて、手足をむずつかせて、無性に叫び出したくなるこの感情を、反屋はきっと今までよく知らなかったのだ。
 よかったなぁ、反屋、と五条の気の抜けた声が聞こえる。椎良もきっと、同じように微笑ましげに自分を見ているのだろう。
 知っていたのか、お前達は。
 それを聞きたくて、けれどまだ何も言えない。こんなにも感情を乱されて、醜態を晒しているのに、でもどうしても。知らないほうがよかったとは思えなかった。

 反屋壮太は、恋をしていた。それは二十九歳の年頃の、少し遅くなった春だった。






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