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第零話(前談)


0.
 ほにゃあ、と少しばかり頼りない赤ん坊の泣き声が廊下に響いていた。年の割りに体がまだあまり大きくないのは母親譲りのようだったが、よく乳を飲んで早々と重湯を食べ始めたのは、父親の食い意地を譲られてきたように思えた。

「戻りました」

 ほにゃほにゃと赤子の泣き声の響く黒鷲隊小頭の執務室は、障子を開け放たれていた。近頃は、大抵そうしている。赤子や娘子がいる時点で黒鷲隊小頭の執務室としての機密性はかなり低くなっており、押都はそういった機密性の高い物品は自室へ持ち込んでいる。だから、障子をきっちりと閉めておく必要がもうないのだ。
 押都はほにゃほにゃ泣く子を背負って執務室机に向かっていたが、部屋の外から声をかけた反屋を認めて少し顔をあげた。同じように、部屋の中の押都の奥からは、ふた揃いの視線がじっとりと反屋に突きつけられる。
 反屋はウッと少しだけ喉の奥を詰めて、その静かな視線を受け入れた。

「ああ、ご苦労。首尾は?」
「つつがなく、特に問題もございません。
 あちらの城主様にもお目通りが適い、お持ちした書状をご覧いただくところをこの目で拝見いたしました」
「そうか」

 押都は鷹揚に返事をしながら背中で泣き続けている子のおんぶ紐を緩めて、手元へ抱きよせた。ほにゃほにゃとまだ泣いているが、尻の辺りを触ったところ、どうやら濡れているようだった。

「おしつさま」
「わたしたちもお手水」
「お手水いきたい」

 部屋奥で何やら帳面で手習をしていたらしき、二人の女童も赤子をあやす押都の着物の袖を引いた。

「ああ、……今すぐか?」
「うん」
「早く」

 二人の女童はちっとも切羽詰まった顔をしてないのに、押都の着物の袖をぐいぐいと引いて、厠へ連れて行けとねだっている。押都が雑面の向こうで少しばかり困った気配を察して、反屋は口を開いた。

「私がおしめを変えておきますので」
「ああ、そうか……。すまんな」

 言って、押都はまだほにゃほにゃと泣き続けている腕の中の赤子を反屋へ差し出した。子はうにうに言いながら泣いて、顔を少し赤くしている。
 赤子の様子を見てから顔を上げると、押都は二人の女童と手を繋いで、連れ立って厠へ立ったところだった。押都を含めた三人の姿が見えなくなってから、反屋はほっと息を吐く。双子の女童の顔立ちは大層うつくしいものだったが、鷲鼻気味の鼻以外の顔立ちは彼女たちの母親にあまりに似すぎていて、反屋はあの双子の顔を見るといつも少しだけ背筋が寒くなる。苦手と言ってもいい。
 その点、お前は見慣れた同僚にそっくりでいいな……と思いながら、慣れた手つきで物入れの中から洗ったばかりの新しいおしめを取り出して、子どもの濡れたおしめを解いた。
 おしめの汚れていない部分で濡れた尻を軽く拭いてやり、手早く新しいおしめを当てて、元通りにしてやる。ほにゃほにゃ泣いていた赤子は、反屋が汚れたおむつを解いた段階からもう泣くのをやめて、自分の指をちゅぱちゅぱと吸っていた。

「ほら、綺麗になったぞ」

 言いながら抱き上げて、軽く背中を叩いてやる。赤子はあだ……とか、あぶ……とか声を上げて反屋の着物の襟を掴んだり、自分の指をまた吸ったりをした。赤子は何か要求があってにゃあにゃあ泣くとき以外は、大抵はウニャウニャと喃語をよく喋るほうで、髪は父親ゆずりでぱやぱやとうねって揺れているし、目鼻立ちも下がり眉にすんなりとした目元をしている。

「お前はよくよくお喋りが多いが、大抵はご機嫌だもんなぁ」

 いい子だなぁ、と反屋は抱き上げた赤子に微笑みかけながら、思う。うにうに、にゃあにゃあと泣くことは泣くがいつまでも引きずることはなく、大抵はすんなりと泣き止んであぶあぶ言いながら、大人しく抱かれている。
 抱いていないとまた泣くわけだが、背負っておいてやればこうしておしめが濡れたとか腹が空いたとか以外では泣くこともなく、うにゃうにゃ言いながら大人しくしていられるので、手がかからないほうの赤子だった。
 多分この引きずらなさや物分かりの良さ、大抵のことに物怖じしない大らかそうなところは、母親ゆずりなのだと思う。

「おしめも変えてくれたか」
「小頭」

 赤子を腕の中で抱いて、指で頬を突いたり腹の辺りをくすぐったりして遊んでいると、娘二人を連れて押都が戻ってきた。黒鷲隊の詰め所の厠は少し隅のほうにあって薄暗いので、子どもは怖がるのである。

「すっかり機嫌を直しおって。
 綺麗にしてもらって、良いなぁ」

 執務室の席に戻った押都が、反屋が抱いたままの赤子を眺めて言う。双子の女童たちは手水から部屋に戻るとまた二人で押都の後ろ側に控えて、手習の続きを始めた。
 席に戻った押都は、そのまま反屋にあやされるうねり髪の赤子を眺めてから、ふと口をついたように、言った。

「…………反屋。お前は嫁を取らんのか。
 お前なら、いい父親にもなるだろうよ」

 ——————嫁を、取る。
 …………えっ、自分が……? まさか、押都様がそれを、聞かれるのか……?
 聞かれて、反屋は愕然として赤子を抱いたまま、押都を見た。押都は全く他意のない雰囲気をしていて雑面の下の表情は見えねど、反屋の表情の愕然ぶりに少々困惑していることが、何となくだが伺える。

「お、俺に……、そんな時間があったと思いますか……?」

 腕の中の赤子はうにうにと柔らかくて、温かい。この赤子の温かさをこうして穏やかな気持ちで感受できるようになったのは、ここ最近のことだった。
 少し前までの反屋なら、赤子を抱かせてもらったらその小ささと温かさと、邪気のなさに心の柔らかいところを優しく撫でられた気持ちになって、気を張っていないと多分ほろほろ泣いてしまっていただろう。
 だって、少し前までの反屋はそれはもうとんでもなく、酷いくらい、————仕事が忙しかったのだ。

「……………………すまん」

 ややあって、押都は小声で謝った。反屋も謝ってもらいたくてああいう言いぶりをしたわけではなく、単純に「そんな時間あった……????」という疑問からの一言が取り繕いもなく漏れただけだったので、同じように「私こそ申し訳ありません」と小さく謝った。

「おしつさま」
「できた」
「見て」
「はやく」

 双子の女童が手習が終わったと、言葉少なくも謝って、それ以上の言葉を出しあぐねている押都の袖を引き、口々に言う。冷えていた部屋の空気が女童のおかげでようやく緩んだ気がして、反屋は押し殺したまま、そっと息を落とした。
 別に恨んでいるわけでも、押都に謝ってほしかったわけでもない。それでも、嫁を取らないのか、と聞かれれば俺にはそんな時間なかったでしょう……? と泣きそうな心持ちになって言ってしまうのが、あの地獄を経験した反屋の内心だった。
 アウアウと何かしらを話す腕の中の赤子は愛らしいし、できたから早く見て褒めろ、と押都にねだる双子の女童は素直にかわいい子たちだと思う。そして五条のところの赤子を背負い、椎良のところの双子の手習の面倒を見ながら執務室で仕事をする押都は、ごく普通に、——ごく普通の。
 どこにでもいるような、ひどく一般的な人の親にさえ、見えるのだ。だからきっとこれが、平和というものなのだろう。
 反屋はそんなことを思いながら、開け放たれた執務室の障子の向こう、よく晴れた春先の青空を見た。

 一年ほど前にはなかった、ひどく穏やかな時間であった。
 
 

1.
 じわじわとした予兆はあった。
 始まりの一つは、京のほうで大きな動きがありその騒動がどうやらこちらのタソガレドキや、近隣の諸国にも広がりそうだぞ、となったことでもあるし、数年前に五条が娶った嫁が忍術学園の卒業から五年ほど経ち、近頃は少し大人の女らしくなってきたなぁ、ということでもあった。
 それでも、始まりの一手として一番に思い浮かぶのは、椎良勘介の一言だと、反屋は思う。

「ごめん。俺、子どもがいたみたい。
 それも、二人も」

 その日は、朝から椎良は出先から戻って真っ直ぐに押都の部屋へ向かったとは、知っていた。前日から椎良はチャミダレアミタケとの国境へ斥候へ出かけていて、何か動きがあったのかと、反屋にしても気を揉んでいたところだった。
 何かあるなら、自分たちも出なければいけない。反屋は朝一の隊の差配を早めに終え、一方の五条は、組頭や他隊の予定を確認していた。そこに戻ってきた椎良が言ったのが、先の一言である。
 反屋も、そして五条もだが。
 椎良が一体なにを言っているのか、二人はあまり、よくわかっていなかった。

「すまん…………、なんて?」
「子どもがいたんだ、二人。女の双子だったけれど、絞めず二人とも同じように育てることにしたらしい。
 年はまだ二歳だけれどゆくゆく、くのいちにするなら。確かによく似た背格好の娘が二人というのは、使い勝手がありそうだよね」
「…………………………なんの話?」

 反屋は聞き返したけれど、全く椎良の話す内容が入ってこない。五条が怪訝そうに眉を顰めて、少し椎良の顔を睨むような目つきになった。実際に睨んでいるわけでなく、少しばかりでも真剣な顔をすると目つきが悪くなるのが、五条だった。

「だから、俺の子の話。
 いたんだよね、いつの間にか」
「…………どういうことだよ」

 反屋は自分でも、それなりに冷えた声音が出たのがわかった。隣の五条も、すっと目線を鋭くする。

「————お前。どこの女に手を出してきた」

 聞き間違いでなければ、椎良は先ほど子どもを『ゆくゆくはくのいちにする』と言った。タソガレドキには元々女の忍びは少なく、娘を幼い時分からくのいちに育てるというのは、あまり選択肢に入らないことが多い。
 そして、昨日にチャミダレアミタケの領へ行って戻ってから、急に子どもの話を始めたのだ。自分の子だと椎良が言うなら、子どもの父親が椎良勘介であれば、では母親は誰なのか。

「チャミダレアミタケの女だよ。
 元々スッポンタケに勤めていたが見捨てられそうになって、チャミダレアミタケ城主の茶乱網武に鞍替えをした。あの女忍びたちのうちの一人だ」

 椎良の話ぶりは、まるで他人事を話すようにしらじらとしていた。お互いに自分たちの女関係について、詳らかに話すことなど三忍の間にはない。
 反屋は街で女を買ってもそんな話をわざわざすることはないし、五条は相談事はしても自分の嫁との閨を話さない。同じように、話さないだけで椎良もどこかではそれなりに女と遊んでいるのだろうと思ってはいたが、それでも。
 手を出していい女と、そうではない女との区別ぐらいはついていると思っていた。

「………………それで、お前はどうするつもりなんだ」

 チャミダレアミタケとは近頃、大きく戦を構えるようなことはしていない。だが、あの三人の女忍びたちをチャミダレアミタケの城主はそれなりに可愛がっていて、そして椎良はそのうちの一人に手を出して、孕ませていたわけである。
 椎良一人の命で済むならいいが、京の動きがきな臭い今この時期に、隣領の城主を怒らせて万一タソガレドキに攻め込むような理由になってしまうのなら、小頭の押都も組頭の雑渡も、責任を逃れることはできないだろう。

「昨日、チャミダレアミタケの城主様にはお目通りをいただいてきた。
 ゆくゆくは、子はくのいちに育てると言ってもチャミダレアミタケにだけ置いておくというのもおかしいだろうから、一時的にでもこちらに来させられないか、と思って」
「……………………は?」

 反屋は本気で椎良が何を言っているのかがわからず、取り繕わない素のままの声が出た。五条も反屋と同じように、ずっと眉を顰めて、苦い顔をしている。
 そもそも、こいつはこの醜聞に大して欠片でも申し訳ないとか、すべきではなかったとか、そういう感情を抱いているのだろうか。
 椎良は、————それは反屋も五条もであるが、大抵のことを卒なくこなすし、椎良の変装や潜入技術に関しては、小頭の押都さえも手放しで褒めることが多い。挫折の経験も自分が敵わない大きなものに打ちのめされた経験も、確かにあるが、彼らが自身の能力を低く見積もっていないことも、また事実だった。
 だから、と言っていいのか。
 
 現状を、つまり仮にも敵領の娘と子どもができるような密通をしたことを、椎良勘介は取り返しのつかない『不始末』とは、考えていないのだろうか? いや、まさか……。

 反屋は苦く疑義を持って、椎良のその白々しい顔を睨んだ。例え椎良が万一にも、チャミダレアミタケの女との間に子どもが生まれたことを『不始末』と考えてはいないにしても、それは反屋の考えとも、五条の考えとも違っている。
 けれど、お前それは違うだろう……と諭して、こうも白々しい顔をする椎良が反屋の言うことを聞くとは、思えなかった。だって椎良が結論として話す「子どもをタソガレドキにも連れてきたい」というのは、椎良には、自分の血を引いた子どもを自身の子として育てる覚悟がもう既にあるから、言っているわけだ。

 馬鹿を言うなといって殴りかかることも、縛って懲罰坊に放り込むのも容易い。けれどその浅慮は、この「椎良勘介」という有能な忍びを一人、まるまるとチャミダレアミタケに抱え込まれることにも等しい。
 もしも反屋と五条が椎良を捕まえて、目を離さないようにしたとて、椎良はこのままであれば内通者として、恐らく忍軍内で処断される。となれば、タソガレドキの忍軍内で居場所を失った椎良を、チャミダレアミタケは嬉々として拾うだろう。
 そして反屋とて、五条とて、椎良を流されるままに見殺しにするのは躊躇われる。もしもの話として、処断される椎良に生きる道筋が万一でもあれば、きっと椎良にタソガレドキ忍軍を抜け、チャミダレアミタケや自分の子ども達のところへ向かうよう助力することになるだろう、と反屋には思えた。
 だからこれは、そういうせめぎ合いの話だった。

「反屋」

 そこまでを、椎良が、反屋が、五条が考えて、お互いに何も言えないままの睨み合いを続けていると、奥の部屋から押都の声がした。
 すら、と障子を開けて出てきた押都は殿中へ謁見へ向かうような、よそ行きの着物と立烏帽子を身につけており、反屋も、椎良も五条も慌ててその場に身を控える。

「反屋。話は聞いたな?」
「……は」
「あちらの殿が、茶乱殿が椎良の育て親として私と顔を合わせて、話がしたいと申されているようだ。私はこれから、チャミダレアミタケへ向かう」
「畏まりました」

 押都の話ぶりは、あくまで冷静だった。結い上げた髪はぴっちりと烏帽子の中に収まっており、着物に着崩れはなく、裾に汚れはない。ごく、いつも通りの押都長烈であった。

「この件、私の首ひとつ腹ひとつで収まれば良いが、どうなるとも知れぬ。
 これが責の首代わりになるとは思っておらぬが、私の髷と、事の次第を認めた文を執務室には置いてきた故、組頭へお届けするように」
「……承知致しました」

 反屋はそう言って、ただを垂れることしかできなかった。あちらがどういう腹づもりで押都を呼んでいるにせよ、押都に、チャミダレアミタケからの呼び出しを断るという選択はできない。
 雑渡にも連絡をする前に領を出てしまおうというのは、この件の責任の所在を広げすぎないようにするためだ。
 
「では椎良。参ろうか」
「……お言葉ですが、そこまで酷いことにはなりませんよ? あちらの殿は、私の育て親として押都さまとお話ししたいだけだと」

 首だとか腹だとかの大仰な物言いをする押都に、椎良が少しだけ不貞腐れたような顔をして言った。その物言いがいつもの椎良とあまり変わりがなくて、そのときにただ、反屋はとんでもなく泣きたいような気持ちになった。
 日常とはきっと、こうして無常に壊れていくものなのだ。
 
「お前が言うなら、そうなのだろうな。けれど殿中人とは総じて苛烈なものよ。
 我々のような水破の身分の者など、虫けらほどにも思うておられない」

 押都も同じくいつもと変わらない、冷めた言いぶりでそんなことをいって頭を垂れていた反屋と、五条の肩にそれぞれ一度ずつ手を置いた。

「では行ってくる。隊のことは反屋に任せる。五条も、それを支えるように。
 また、後追いも追い腹も許さぬ故、よくよく、これからもタソガレドキにお仕えするように」

 押都の手のひらは子どものときから変わらずに厚く、しっかりとした男の手だった。それでも自分たちだって大人になったのだから、子どものときに感じたような大きさはもうない。
 椎良を連れて、押都が黒鷲隊の詰め所を出ていってしまってから、反屋と五条はようやく頭を垂れて控えていた身を起こした。

「……どう見るよ、反屋」
「椎良だって、馬鹿じゃないんだ。
 押都様をチャミダレアミタケへお連れするのに何がしかの見込みがあって、言い出したんだろうし、あいつ自身だって無駄死にするつもりもないだろう」

 椎良があれ程はっきりと「自分の子だ」と言い切るには、ぱっと見ればわかる身体的な特徴をその双子の子どもは恐らく受け継いでいるのだろうし、椎良は先方のチャミダレアミタケの殿にも目通りをしたと言った。
 であれば、父親である椎良が子どもの存在を無視して父親の責に知らぬ存ぜぬを通せば、逆にあちらの殿の不興を買いかねないのかもしれない。だから椎良は「子どもをタソガレドキの自分のところでも育てたい」などと言い出して、状況をまぜっ返してきたのだろう。
 押都を、————つまり育てでも『親』を連れてこいと言われたのは、その言葉の真実味を計られているわけである。チャミダレアミタケのくのいち女を城主の茶乱が可愛がっているのであれば、あちらの城主にしても、女の親代わりのつもりでもあるのかもしれない。
 
 だから椎良は、子どもの父親としてチャミダレアミタケのくのいちを孕ませた責任を取った、もしくは取るつもりがあると。
 ————つまり。あちらの『義父』に気に入られるという綱渡りを、こなしきる必要がある。

 それを果たせば椎良はチャミダレアミタケ内部へ食い込むことも可能な、黒鷲隊の忍としての性質を得るし、それができなければ娘を孕ませた不届き者として、チャミダレアミタケの城主に斬られることになる。
 それでも椎良が斬られるだけなら、まぁいい。
 
 問題は、京がきな臭いこの時期に、チャミダレアミタケ側を怒らせてタソガレドキに攻め込ませるような理由を、椎良が作ってしまったことだ。
 男と女のことだから、どういう経緯があったのかは反屋にも五条にもわからない。けれど椎良は、二人の知らないところで手を出してはいけない女に手を出して、そして孕ませてしまい、果てには子どもが既に産まれている。
 取り返しがもはや付かないのであれば、この綱渡りを渡り切って、有用な駒に成ってタソガレドキに戻ってくる。それしか、もう椎良には道は残されていないのだ。

「なぁ。なんでそれにしたって、アイツ。
 悪いとか、すまんとか、一言もいわずに白々しい顔をして……」
「…………斬ってほしいんだろう。
 椎良は、必要ならもう斬ってほしいから、態と何も言わないで、まるでチャミダレアミタケに心変わりしたような、うつけの話ぶりをするんだ。
 俺も、同じ立場なら同じことをするよ。斬ってほしい」

 反屋の疑問に、五条は反屋のほうをちらりとも見ないで、そう呟いた。この後にもしも椎良が事の運びをしくじって、その不始末に巻き込まれて押都も死に、万が一戦が始まるなんてことになれば、黒鷲隊は、隊ごと潰されることになるだろう。
 小頭である押都に隊の後を任された反屋も、その補佐の五条も同じように隊取り潰しの責任を取ることになるだろうし、そのときに命を残してもらえるかどうかは、正直わからない。話しながらも反屋を見もしない横顔の五条は多分だが、残すことになるかもしれない自分の嫁について、考えている。
 その顔を見られたくはないだろうと思って、反屋は五条の横顔から目を逸らした。

「とりあえず、組頭のところへ向かう。五条、お前も来い」
「わかった」

 今日は早く帰してやろう、と反屋は思った。嫁を取ったとか、家族ができたという気持ちは反屋にはまだわからないままだったが、五条が自分の嫁を大切にしていて、どうにかあの小さな女の子に夫として男として、誠実であろうと努力していることを知っている。
 その気持ちを汲んでやることぐらいが、反屋が五条に対して、一人の友人に対して、してやれることだと思った。
 
 




2.
 反屋が持ち込んだ押都の髷と、事の次第の書き付けを見た組頭の雑渡は、顔色こそ変えなかったが、目つきは鋭かった。

「お前たち。
 椎良があちらのチャミダレアミタケの女忍びと密通している可能性は?」
「ないとは言えませんが、万一に本当に密通しているなら、こんな派手に動きません。
 隠れて内通したまま、内部情報をあちらへ流す方がはるかに効率が良いです」
「確かに、それもその通りか……」

 反屋の返答に、雑渡も納得したように呟いて口元に手を当てた。

「長烈は死ぬつもりで出ていったようだけれど、どれぐらいの確率で帰ってくると思う?」
「私めには男と女の機微はわかりませんが、椎良の子を成したチャミダレアミタケのくのいちが、椎良を子の父親として庇う気があるなら、如何様にも。
 チャミダレアミタケの城主様は、孫たちの父と、娘の好いた男を殺したい祖父ではないとお見受け致します」
「…………お前も、五条も。椎良がチャミダレアミタケの女忍びとできてるっていうのは、全く気づいていなかったの?」
「はい。我々の不得にございます」

 雑渡の問いに、反屋は畏まって言ってただ頭を下げた。ふぅ、と雑渡から少しの溜息が聞こえる。

「お前たちって、恋バナとかしないの?」
「………………しないわけでは、ないのですが……」

 明け透けになった雑渡の言いぶりに、反屋は少し困った声音を出して、隣の五条を見た。五条も、つ、と自分の覆面を下ろして雑渡を見上げる。
 
「私は、うちの嫁への惚気を一方的に聞かせたりとか、反屋の方はまた下手をして花街の娘に振られた話とかはするのですが」
「おい。それは言わんでいいだろ」
「椎良は、それなりに上手く花街でも遊びますし、商売ではない遊び相手もいたようですが、あいつはそういうことをあまり話さないんです。
 我々にも話さないからこそ、恐らく女の扱いが上手いし、女は寄ってくるのでしょうね」

 そう白々と話した五条を、横の反屋は自分の遊び下手をバラされたのを嫌がって少し睨んでいたが、それでも否定も補足もしなかった。反屋にしても、五条が評した椎良の女関係について異論がないのだろう。
 雑渡は二人が持ち込んできた押都からの文と、懐紙に包まれた押都の髷をもう一度眺めて、大きく溜息を落とした。

「どちらにせよ、椎良が上手く事を運んで戻ってくるのを待つしかないね。
 押都も万一があるから大仰にして出ては行ったが、戻らない気もないだろう。
 ——————明日の正午までは、今件は私の胸までに留めておく。それまでに戻らなければ、以後、忍軍としての方針を出そう」
「は」
「反屋も五条も、とりあえず今日は通常通りの業務を回すように。要らぬ世話とは思うが、他の配下や他隊の人間には気取られるなよ」
「承知いたしました」

 二人の若い黒鷲の忍びは、そう頭を下げてから組頭の執務室を出て行った。入れ替わりに、この話が聞こえない位置で人払いを行っていた高坂と尊奈門が戻ってくる。
 その高坂と尊奈門の目には触れないように、押都が残した彼の髷と書き置きの文を片付けながら、この髷を笑い話として燃やしてしまえるような、そんな結果になればいいのだけれど……。と、雑渡は独りごちた。

 その翌日の朝早くに押都と椎良は、外傷こそないが、疲労困憊の様子のよろよろした足取りで、戻ってきた。
 家に戻らせた五条の代わりに、反屋が一人でその二人を迎えた。その反屋に、椎良は大きく頭を垂れて、今度こそ謝罪をした。殴ってやろう、と反屋とて思っていたわけだが、反省と後悔の滲む椎良の顔と、五条が言っていた「自分なら斬ってほしい」の一言を思い出して、結局殴ることも責めることも叶わなかった。
 ただ、二人が帰ってきてくれてよかった、と。それだけを思った。





 3.
 そうして椎良勘介は、チャミダレアミタケとの間の橋渡しができる黒鷲隊の忍びとなった。
 事の次第はもう少し取りなして、聞こえのいい形にして城主である黄昏甚兵衛様へと上申されたが、甚兵衛様とて賢い男なので「…………で。実際のところは何があった?」と、全部見透かされて聞かれた。
 と、言うわけで。忍軍組頭の雑渡昆奈門は、事の経緯を洗いざらい、全てお話しすることとなった。
 最終的にまとまった形としては、椎良は子ども達の父親としてチャミダレアミタケでも仕事をするし、椎良のみがチャミダレアミタケ側に入るのでは釣り合いが取れないので、タソガレドキにも、チャミダレアミタケの忍びを受け入れる。
 
 雑渡の懸念としては、そうしてチャミダレアミタケとの和睦、もとい一種の同盟状態が甚兵衛様の頭上を飛び越えた上で勝手に出来上がってしまったことに、殿が怒髪天を突かれるのでは、ということであった。
 ただ、雑渡の話す事の次第のあらましを聞いた黄昏甚兵衛は、話を聞いてからごく静かに溜息を落とした。怒らないのだな、と雑渡は少し意外に思ってから、それもそうか、と思い直す。
 黄昏甚兵衛は、京がきな臭いこの時期に、自身の癇癪と面子の為に盤面をひっくり返すような男ではない。事の推移を見極め、どの陣営の配下に入りどこの誰の味方をするのか。
 そういう大切な時期に、隣領のチャミダレアミタケとのある種の対等な和睦は歓迎こそすれ、蹴り出す類のものではないのだった。

「その忍び、よくぞそんな縁を拾ってきたと言いたいが、恐らくそれもあちらの茶乱殿の手のひらの上なのだろうな」
「聞いた限りの話で憶測ですが、向こうの女忍びはそもそもうちの忍び——椎良の、子種だけが欲しかったようですね。
 椎良は見目や体格も良く、頭もよく回るし愛想も愛嬌もいい。なのでそういう男の種から子どもを産みたかった、というのが、相手の女忍びの魂胆だったようです。
 が、茶乱殿は子の父親がタソガレドキの忍びだと知って、ぜひ父親を連れてこいと部下たちに命じた」

 他領との同盟を実現するには、どちらがその同盟を結びたいと言い出すのか、という問題がある。
 今のこの時期に他領と同盟なり、和平協定を結ぶのは、しておくに越したことはない。そういう事柄ではあるが、他領との和平や和議というものは往々にして、言い出した側の立場が弱くなる類のものである。
 それでも、タソガレドキの忍びが茶乱網武の可愛がっている部下を、——娘を孕ませて子どもを産ませてしまい、その相手の男を取り込む算段をつける。向こうは取り込まれまいと抵抗するだろうから、その渦中に既成事実のように和議を組んでしまえば、その『どちらが和議を言い出したのか』という争点自体は、ひどく曖昧になるわけだ。
 
「どこからが茶乱殿の手の内で、どこから算じて此度の件を成したのかは御当人に聞かぬと知らぬが、今のこの時期にこれほど見事に和議を結ばれる方は、同盟相手として申し分ないお人よ。
 儂の頭上で勝手に決まったという不快はあれど、それを理由に全てをひっくり返していい時期でもあるまい」
「………………さすが、ご慧眼にございます」
「わかりきった世辞などいらぬ」
 
 自身の懸念が杞憂だったことに、雑渡はあわく微笑んだ。その雑渡のとりあえずの世辞に甚兵衛は嫌な顔をして、手元にあった鉄扇を振る。
 
「まぁそれでも、その椎良とかいう忍びが茶乱殿の目に適わなければ、タソガレドキ全体に見込みはないとして、和議とするつもりもなかったろう。儂ならそうするからな。
 故、その椎良にはよくやったと言ってやりたいところだが、隊規違反の上に褒美が出れば、忍軍全体の指揮にも関わろう」
「お気遣い、痛み入ります」

 ここで椎良に褒賞など出ては、今まで規律を守って色に狂わされなかった他の忍び達への、面目が立たない。
 それを雑渡も甚兵衛もよく理解しているから、椎良へは処分も褒美もない代わりにチャミダレアミタケへ出向して、タソガレドキとチャミダレアミタケの繋ぎとなる任務が与えられた。
 そういうわけで、黒鷲隊の忍びの頭数からは椎良勘介が抜けた。寂しくはあるが、定期的に戻ってきて顔を見せるし、椎良の分の仕事の穴埋めは、反屋にも五条にもこなすことができた。

 ただ、ここで二つ目の問題が発生したわけである。
 五条が娶った嫁の、懐妊である。

 



4.
 五条が娶った娘は少々訳ありで、少しタソガレドキから離れた土地の、末の姫であった。が、何事にも鈍臭い娘だったので金だけ持たされて、忍術学園に捨て置かれたという経緯がある。
 役立たずの姫と言っても、血筋は本物であるのでいざ何かの事を起こすときには、旗印とすることができる。そういう理由で、黒鷲隊の五条弾と憎からずの関係になった娘を忍軍は命じて娶らせたわけであるが、その娘は体があまり大きくなくいつまでも娘っぽい雰囲気が抜けぬゆえか、娶ってから数年経ってもなかなか子ができなかった。
 それが、この度ようやく懐妊となったわけだが、その体の小ささからか懐妊後は目に見えて体調を崩してしまい、つわりもかなり重いようだった。
 腹の子どもの父親であり、旦那の五条も勿論のこと大層心配したのだが、同じくらい娘の不調に気を揉んだのが、黄昏の奥方様たちであった。
 
 五条の娶った娘は、忍術学園を卒業する前から奥方様のところへも顔見せを行っており、娘は何にでも真剣に真面目に取り組む方だったため職場での覚えもよく、奥方の産んだタソガレドキのご嫡男からもよく懐かれている。
 娘に万一のことがあっては……と、奥方様方は自身の邸に彼女の褥を整え、彼女はつわりが酷い間はそこに留まって奥方様の侍女たちの世話になることが決まったし、五条も仕事終わりには、奥方様の邸へ顔を出すようにしていた。
 だが、娘はそもそもタソガレドキでは珍しい貴重なくのいちとして、女人が望ましい場での護衛をよく務めており、彼女が伏せっているので、奥方様の邸への護衛も数が足りていない。
 
 その人員不足と、五条自身の、彼の嫁を心配する気持ちが噛み合えば、奥方様のところの人手不足へは黒鷲隊の五条を向かわせる。元々話しぶりも穏やかで女装任務も不得手でない彼に、女装をさせて奥方様のお邸に侍る任務を任せ、近くから家内の様子も看させれば、いずれ子が産まれ、娘も無事に仕事に復帰できるようになっていく。それまでは、奥方様のところへやっておくのがいいだろう……となるのは、全く至極わかりやすい忍軍内人事の結論であった。

 というわけで。実にひどい話ではあるが、こうして黒鷲隊の主力として実務を担う人員は、二名がそれぞれ別場所へと出向となった。
 黒鷲隊の三忍のうち、実務担当として残ったのは反屋壮太のみであり、彼一人に、それまで五条・椎良・反屋の三名で担ってきた仕事の全てが、一気に降りかかることになった。要はつまり、これが黒鷲隊の実務ワンオペという、反屋壮太の暗黒の二年間の始まりである。
 よってそこから二年の記憶を、反屋はあまり持ち合わせていない。
 五条も、椎良も同じく今までとは別の環境で大層な苦労をしていたわけだが、反屋壮太も同じく、とんでもなく酷い目に遭っていた。あまり思い出したくないし、覚えてもいない。あと、その二年間のことを思い出そうとすると無意識に視界が滲んで、涙がじわじわ滲み出てくる。
 
 だから、押都が深い意図も他意も何もなく言った「お前は嫁を取らんのか?」という問いかけに、反屋が愕然として「俺にそんな時間がありましたか……?」と聞くのはなるほど道理であったし、それに押都が彼らしくもない、真正面からの謝罪を返したのも、また道理であった。
 此度の顛末の前には、このような経緯がまずあった。
 そういうわけである。






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