一、たまゆらで泳ぐ
木々の合間から差し込んだ陽のひかりが、空をそのまま落としたような水面を反射して光る。
しゃ、と軽やかな水音を立ててその水面からまっすぐと体を起こして、女は頭を振った。長い黒髪がゆるく撓って水の飛沫を跳ね上げる。ひとつひとつの粒が弧を描くように舞った。
「……あ、弾」
「ああ」
背後に人の気配を感じて振り向いた彼女は、弾の姿を認めてほのかに笑った。振り向いた彼女の背中に、腰に、胸元に襦袢が張り付いて彼女の体を伝う水が流れていく。弾はウッと喉の奥を詰めて、さっと素早く彼女から目を逸らした。
ざぶ、ざぶ、と水をかいて彼女が池から上がってくる音がする。弾は彼女の方へは目をやらぬまま、持参していた手拭いを彼女に差し出した。礼を言ってそれを受け取った彼女は、隣で水気を拭っている。
「帰ったのか」
「うん、つい先刻」
「水浴びをするなら、風呂に入ればいい」
「この時間じゃまだ新湯だし、旅の汚れがあるのに申し訳ないから」
「家で湯を沸かせよ」
「家の中はしばらく使ってなかったから、掃除から始めないと」
「そんなの、うちに来ればいいだろう……」
言ってから、はっとして彼女を見る。彼女は少しだけ虚をつかれた顔をしてから、それから破顔した。
弾の家は確かに彼女の家よりも人の出入りがあるが、弾の父は長くタソガレドキ本城へ出仕していて今も戻っていない。今日も、弾一人きりの家だ。
「竃も囲炉裏も、掃除できてないの。今夜は弾の家に食べに行ってもいい?」
「……いいよ」
少しだけ言い淀んでから、弾は頷いた。彼女は満足気に笑って、ざっと拭いた体に着物を羽織って帯を巻きつける。背中に張り付いた長い髪を鬱陶しそうに払うのを見かねて、後ろで持ち上げてやった。
彼女は後ろの弾を肩越しにちらりと見てから、そのまま襟を合わせて帯を締めた。彼女が着物を着たことを見計らって、持ち上げていた髪を離す。はらり、と水分を含んだ髪は重たげに彼女の背に落ちた。
「他に手ぬぐいは」
「持ってこなかった」
「それは体を悪くするだろう」
彼女はあろうことか、手ぬぐいも持たずに池に水浴びに来たらしい。弾は呆れて、じっとりと濡れ始めた彼女の着物の上に、自分の羽織をかぶせた。いくらもう春先だと言え、風に当たれば病にもなる。彼女は肩にかけられた弾の羽織に、少しだけ驚いた顔をしてから、小さく笑った。
「弾といると、村に帰ってきたって感じがする」
「…………そうか」
彼女が微笑み混じりで言った言葉に、弾はそれだけしか返せなかった。
日は中天から少し西に傾き、あと一時もすれば暮れ時となるだろう。珍しく昼過ぎに村へ弾の所属する黒鷲隊が、小頭の押都と側控えの弾が戻ったのは、彼女が村へ戻ったとの早馬を受けたからだ。夜には彼女を連れ、組頭の雑渡の元へ行く手筈になっている。
押都が自身の家で、彼女の身支度の用意をさせて待っていてくれている。そこで彼女に登城の身支度をさせながら、今回の諸国巡りについて報告を受け、予めそれをまとめておく。
彼女は、白拍子に扮して諸国を回り情報を入手するという、弾とは違う役回りについていた。
弾はどちらかと言えば近場に潜入し短期間で戻るような任を受け持つが、彼女は自身の判断で諸国を巡り各地で情報を手に入れて、年に数度しかタソガレドキに帰ってこない。
弾はぼんやりと、隣を歩く彼女を見た。以前に見たときよりも髪は伸びており、少しだけ弾の視線に気づいてこちらを見上げる目元には、ぞっとするような色気がある。
弾はかち合った目線を、慌てて逸らした。
「あ、…と。今回の任はどうだった」
「うん。押都小頭にも組頭にも、いい報告ができると思う」
「そうか」
彼女がこのお役目を任されたのは、十五の頃であった。その頃から弾は黒鷲隊の一員として本格的な任につくようになったし、同じように彼女はタソガレドキの領地を抜けて諸国を巡るようになった。
初めの数度は彼女自身の父と連れだっていたが、今はもう彼女一人で旅をしている。彼女の父も同じように諸国を回り情報を得る役目をしていたが、今はその役目を娘の彼女へ譲った形だ。
その彼女の父のほうはもう長く帰っていない。うっすらとだが、南蛮のほうへ行ったのだと噂で聞いた。
日が陰って、びゅうっと風が吹き込む。彼女は寒そうに肩を震わせて、かけられた弾の羽織をぎゅっと胸の前でかき抱いた。
「…ふふ、やっぱり少しまだ寒かったね」
「だから言ったろう」
「いつも弾の言うことに、間違いはないや」
寒そうにして笑った彼女に、弾は少し迷ってから彼女の肩を抱いて、手のひらで背中を摩ってやった。森を抜けて少しすれば押都の家がある。きっと押都の奥方が火を焚いて、彼女の着替えを用意していてくれるだろう。
それでも彼女の背は、こちらが凍えそうなほどに冷たい。彼女はされるまま数度、弾に背中を摩られ、そうしてからゆっくりと弾のほうへ同じく腕を回した。
「ああ。弾はいつも温かいなぁ」
「……お前がいつも、後先考えずに水に潜るからだと思う」
「でも、迎えに来てくれるのが弾だから」
体温を移すように彼女の背中を抱いて、頼りなく細い背中を摩る。彼女は弾の帷子(かたびら)を掴んで、じっとしていた。
彼女の細い吐息が弾の首筋に吹きかかる。なぜか少しだけ甘く、まるで花のような匂いもして、喉の奥がかっと熱くなりそうだった。
「…………帰ってきたんだなぁ」
消えそうな声で言う彼女に、弾はそれ以上何も言えなかった。彼女の体が少しでも温まるまでそうしてから、抱いていた彼女の体を離す。
彼女は弾の顔を見て小さく笑んでから、道を歩き始めた。きっと押都が待ちくたびれている。
彼女と弾は、いわゆる幼馴染だった。
タソガレドキ城主の黄昏は、あまり来る者を拒まない質であった。抱える軍とは別に忍軍にまで火器隊を配備したり、カワタレドキ城主に取り入るために衒いなく南蛮衣装を着るようなところからも、彼が、彼の血筋が変化を恐れず新しいものをあれこれ取り入れる。そういう、柔軟的で動的な考えの持ち主であることがわかる。
だから、タソガレドキ城主の黄昏氏は流れ者も有能であると断ずれば城や忍軍へ迎え入れることを是としたし、弾の父も彼女の父も、そうして受け入れてもらった者のうちの一人だった。
弾の父のまた父、つまり弾の祖父は「五条」を名乗ってタソガレドキにやって来た。ちょうど都で先の戦があった頃だ。祖父は戦火をこえてタソガレドキの忍村に流れ着き、そのままタソガレドキの忍びとなって家を成した。
なぜ祖父が「五条」を名乗ったのか、弾は知らない。五条といえば、天満天神として高名な菅公(菅原道真)の邸跡に住むお貴族の名らしい。
まさか自分がそんな高貴な身分と血縁があるとはつゆとも思ってはいないが、まあ菅公の名は通りもよく、
「実は自分は都から流れてきた、さる名家の子、遡れば血筋にはあの菅公が」
なんて話せば宴席での受けもよい。父がそれを話すのに倣って弾も同じように話したが、父も弾も、ついぞ祖父が「五条」を名乗った腹の内を知らぬままなのであった。
タソガレドキの忍村は、切り立った崖と深い森にぐるりと周囲を取り囲まれており、深い谷の底にある。その底の中心部には雑渡や山本、押都などの宗家が並び、そこから村に来た者の順に家が円の外へに広がっていく。
五条の家はどちらかと言えば外周寄りにあったし、その一番近くにあったのは父の代でこの村へやって来たばかりの、彼女の家だった。
今でも覚えている。
ぼろぼろの風体で村へ辿り着いた彼女の父とその幼い娘を、宗家たちは村へ迎え入れた。が、同時に父に彼女の父の監視を命じたのだった。
父は歳の近い子どもである弾を連れて幾度なく彼女の父に与えられた家を訪い、何かれと世話を焼きながら彼女と、彼女の父を監視していた。
新参者の家が円状になった村の外周に配置されるのは、有事の際に家を焼き払いやすいからだ。黄昏氏はやって来る者を拒まないし、新しいものに忌避感を持たない。
しかし、内実では裏切り者にはひどく厳しく、決して外へ逃しはしないのだった。
だから、この忍村で新参の家が円の外周に配置してされ、他の家と多少の距離を置いているのは、新参が外部からの密偵であったり、外部へ情報を売ったり。そういう行いから「新参は裏切り者だ」と判断されれば、一家丸ごと火に掛ける。その為であった。
弾と父は、村に流れ着いてからの二代目だ。彼女の父の監視が弾たち親子に与えられた最後の試しであることは、父も弾も勘づいていた。
彼女の父は、何かの罠かと思うほどに垂涎の人間だった。彼は若狭の海で育った、ようは海賊の出だ。昔はミンとの交易や、近頃では南蛮の商船と若狭近郊の城主との橋渡しもしながら、一族で生活をしていた。
彼とその娘が海から上がり、タソガレドキに流れ着いたのは自分たちとは別の海賊に船を襲われ、一族を皆殺しにされたからだ、と聞いている。
別の海賊というものがどこから来たのか、本当に存在するのか。弾にはわからなかったし、それは宗家でも同じだろう。
しかし、彼らの操舵技術も海風の知識も確かに本物であったし、今後南蛮との交易が領の命運の左右する今の世となっては、海の利に明るい者はどこの領でも喉から手が出るほど欲しい。
彼女とその父親は、そういう垂涎の者だった。だから宗家たちは、彼女たち親子を弾と弾の父に監視させることにしたのだ。
一代目の、正しく流れ者の祖父が死んでも弾たち親子の疑いが晴れなかったのは、一重に名のせいだ。「五条」などという人目を引く名前は、弾であっても何かの符牒なのだろうと考える。
「五条」という名を名乗った上で、そういうどの領の者でも欲しがるような人材の監視をつつがなく全うできるのか。
それが弾たち親子に与えられた、タソガレドキの人間になるための最後の試練であったし、彼女たち親子はこれから先にタソガレドキで生きていけるかどうかの瀬戸際であった。
結果は、明るかった。今の弾と彼女の立場、そして弾の父がタソガレドキ本城へ出仕を許されたことからも、明確だ。
弾も彼女も、晴れて今ただしく、タソガレドキ領の人間である。
彼女の身支度が整ってからタソガレドキ本城へ行き、押都がまとめた報告を上げ雑渡からの簡単な質疑を終えて、弾たちは再度忍村へ戻った。押都の妻が彼女が戻った祝いに宴席を設けると言ったし、黒鷲隊の皆も彼女の戻りを歓迎したからだ。
黒鷲隊には、弾や反屋、椎良のように基本タソガレドキ領に一両日中内には戻れる範囲で目的を持った諜報を行っている者と、彼女のように諸国を回りながら長く不在にし多岐に渡る情報を集める者、後は存在を小頭の押都と雑渡くらいしか把握していないだろうが、穴丑を抱えてもいるだろう。
要するに、弾が受け持つ任務と彼女が受け持つ任務では、危険の性質が違う。弾たちは多少の無茶はあっても必要な情報のみを抜いてタソガレドキへ戻ることが必要だし、彼女は情報の取捨選択をせず長く時間をかけて量を集めることが必要だ。
弾たちは弾たちで、敵領の出城や領、陣の中に忍び込んで情報を探る必要があり、逆に彼女は忍び込みはしないが旅芸人として実際に諸国を回る。特に女の身で旅をして回るには、いくら応じて男装をするとはいえ、危険なことが多いだろう。
そういう互いに危険と隣り合わせの、大切な黒鷲隊の一員が久々に戻って来たので押都は家に呼んだし、押都以下の黒鷲隊の忍び達も小頭の家に押し掛けた。
どう繕っても、元々は忍村の中で共に育った同輩でもあるのだ。弾は勿論のことだが、反屋も椎良も彼女の無事の帰還をとても喜んだし、それは他の者も、押都だって同じだった。
夜更け過ぎまで彼女は黒鷲隊の忍び達に囲まれて騒いでいたし、弾もその近くにいた。結局弾たちが押都の家を暇したのは、上弦の月が西に沈んでからだった。
反屋たちはそのまま押都の家に泊まらせてもらう(というか間の一部で雑魚寝をする)ようだったが、彼女が流石に今夜は家で寝たいと言ったのだ。自然、家が近所の弾が着いて一緒に帰ることになり、二人で暗い夜道を歩いた。
「壮太も勘介も健在でよかった」
「お前も全く同じことを、百は言われていた」
何度目かに彼女が繰り返すので、弾も言い返しながら思わず笑った。彼女も流石に少し酒に酔ったようで、一つきりの行灯の明かりの中でも少し頬が赤く見える。
「ねえ弾。結局、私の家の掃除はできなかった」
「そうだな」
からかうような言いぶりの彼女に、弾は少しだけ目線をやった。昼間と変わらず父はいない。自分もいささか、酒が回ったようだった。
挑むように見て、弾は聞いた。
「なら、うちに来るか?」
彼女はそう聞いた弾をしばらく見た後、淡く微笑んだ。昔から、そうだ。
彼女は暇があれば池に飛び込んだり、白拍子に化けて領の外を巡り、妙齢の女とも思えない酒の飲みぶりで弾を笑わせたり、そういう豪気さをまざまざと見せてくる癖に、ふと、まるで行く宛のない。そういう迷子の子どものような顔をする。
弾はすっかり気が抜けて、深々とため息を落とした。彼女はそんな弾の様子を知ってか知らずか、酒にほろ酔いでぼんやりとした素振りで、家までの道を歩く。
幼い頃に同じようにこの道を、二人で何度も何度も辿って帰った。そのことを前を行く彼女を追いかけて歩きながら、弾はまざまざと思い出していた。
子どもの頃の記憶として、今でも覚えている夜がある。
寒い冬の日だった。弾の父と彼女の父親は連れ立って任務へ出掛けてしまい、二人は反屋の家で食事などの面倒は見てもらっていたのだが、就寝時には自分たちの家に戻ってきていた。
反屋の家は弟妹が多くいつもとても賑やかで、合わせて反屋の母親も気のいい人だった。父親は弾や彼女の父と同じくあまり家にいることがなかったが、それでも弾や彼女を邪魔者扱いしなかったし、自分の子どもと分け隔てないように気を配っていてくれたと思う。
それでも、それだからこそ、弾も彼女もいつも反屋の家では居心地の悪さを感じていた。家の中はいつも冷たくて母などいなかったし、父はいつも戻らない。だから夕飯まで食べさせてもらうと、彼女と弾はいつも連れ立って、自分たちの家に帰っていた。
その日はとても寒くて、心配した反屋の小母さんが行火(あんか)を持たせてくれた。一つしかないので二人で分けて使うように言われて、強く風の吹く道を身を寄せ合って帰る。まだ体の小さい弾も彼女も、くっ付いていないと風の強い日には飛ばされてしまいそうだったからだ。
「弾の家、行く?」
「……うん、お前の家のほうが少し遠いし」
風の中、二人でぽそぽそと囁き合って、そのまま弾の家に入った。火の気のない家の中は暗く、しんとしている。
弾は囲炉裏から火種を掻いて起こし、行燈に火を入れた。薄い灯りの下で、彼女の寒さで色味のなくなった頬が見える。
弾の家に彼女が泊まるのは初めてではなかった。雨の強い日や、野盗などの不穏な動きが村の近くにあるから二人でいなさいと言いつけられた日はそのまま弾の家で過ごしたし、弾の父と彼女の父が一緒に帰ってくるとよく食事も一緒にしたから、そのまま寝てしまうこともあった。
それでも確かに、ここまで寒い夜は初めてだった。起こした火種に冷え切った手のひらを翳し、もらってきた行火を出して、冷えた彼女に抱かせる。
「布団を出すから、持ってて」
「……うん」
彼女は眠気で少しとろりとした顔をして、頷いた。人は凍えて死ぬとき、眠るように死ぬのだと父に聞いたことがある。
彼女の眠たげな表情に芯から恐ろしさを感じて、慌てて弾は板張りに筵(むしろ)を敷き、夜着を出してきてその中に彼女を引き入れた。
彼女の肩も足先も何もかも、きんきんと冷たい。行火を腹に抱かせたままで、手のひらで何度も彼女の足先を擦った。あまりに寒いと、足先が腐ることがあると父に言っていたことを思い出した。
「弾は、温かいね」
「お前が、冷たすぎるんだと思う」
少しして、紙のようだった顔色の彼女にほんのりと朱がさした。億劫そうだった体を動かし、弾のほうへ行火を差し出してくる。それを断ってもう一度彼女の腹に抱かせてやってから、身を屈めて彼女の足先にはぁ、と息を吹きかける。
これと同じことを、幼い弾に父がしてくれたことを思い出していた。二度、三度と息を吹きかけてから、手のひらで足を擦ると、氷のように冷たかった彼女の体が、やっと少しだけ温かくなってきたようだった。
それを見計らって布団をもう一組出してこようと弾が立ち上がると、弾の着物を彼女がくん、と引く。
「いいよ、一緒に寝ようよ」
「でも」
「お父さんとも、寒い夜はよく一緒に寝るもの」
確かに、弾と父も寒い夜は身を寄せ合って寝る。彼女が言うのも最もか、と思い弾はそのまま父がするように、彼女をぎゅっと抱き込んで、夜着を首まで被った。
それもあまり身長差がないためお互いにしがみ付いて、手足が絡み合うような恰好になる。彼女が抱えていた行火が、少しだけ体温の戻ってきた彼女の体が、同じく冷えていた弾に沁みるように温かかった。
しんしんと強く冷えた夜の中で、この夜着の中だけが温かく、二人の味方のようだった。
反屋の家で壮太や他の子どもたち、小母さんと一緒に眠っていれば、こんなことにはならなかっただろう。帰り道で凍えて死にそうなほど冷えることはなかったし、彼らは既に温かい床の中で眠っているはずだ。
それでも、彼女も弾も、どうしてもこの家に戻ってきたいと思っていた。反屋の家族はみんないい人たちばかりだけど、弾も彼女も、いつも小さな疎外感と場違いさを感じていた。
反屋の家族に対してだけではない。村のどこにいても、誰にでも、父と母と子どもを見ると、何となく弾は気おくれするのだ。父は家に不在が多く、母はいない。
自分は他所の家族に紛れて面倒を見てもらいながら、父の帰りだけを待っている。
別に、弾も彼女も、互いのことが好きなわけではなかった。好きとか嫌いとか、そういう主観的な気持ちが弾も彼女も薄くて、それは長く父親と母親が不在で、他人の世話になることが多かったからだ。
弾は村の中で反屋の母のような、村の中で仕事をする大人の世話になりながら生きてきたし、彼女にとって忍村は、自分の家だった船を追われてから父親と長く旅をして、やっと行き着いた定住先だ。
弾も彼女も、他人の気を損ねたら、生きていくことができない。そういう均衡の上に自分がいることを敏感に嗅ぎ取っていたし、誰かの気に障らないように他者を観察することに長けていた。
だから弾にも彼女にも、誰かを好きとか嫌いとかそういう感情はなくて、ただ人の顔色を窺って気を害さないように振舞う。そういうことを続けてきたのだ。
別に弾も彼女も、互いのことが好きでも嫌いでもない。でもこの夜着の中のように、互いのことだけは味方だった。同士だった、と言ってもいい。
「弾、…寝ちゃった?」
「うん」
「寝てないのに、ふふ」
嘘をついて頷いた弾に、彼女の小さく笑ってしがみついてくる。互いの腹の間で、行火がずっとほんのりと温かかった。弾は彼女の父とは違う小さな肩に腕を回して、ぎゅっとしがみつきながら、誰か兄妹がいるというのはこういう気持ちなのかもしれない、とぼんやり思っていた。
その感情をただ兄妹愛と呼ぶには、いささか欲深さが違うと弾が気づくのは、もっと大人になってからのことだった。
ちょっと寒い、と彼女が言うので夜着を肩に着せかけてやりながら、もらってきた火種で囲炉裏の火を起こす。
弾も小まめに家に帰れているわけではないが、ここ数か月ほぼ全く人の出入りがなかった彼女の家よりは、確かにましだろう。
弾は火が起きたことを確認すると、布団を二組出してきて敷く。のろのろと夜着を被ったままの彼女が筵の上に上がったので、その足先を触れば、また氷のように冷たかった。
「冷たすぎないか」
「夜道は、冷えていたみたい」
帰る道すがらは何も言わなかったくせに、家に帰った途端にこれだ。弾は彼女の足先を数度擦り、そのまま身を屈めてはぁ、と息を吐きかけた。
彼女の足は、長く歩くせいで足裏の皮が少し厚くなっていたが、指先の爪は薄い桃色の貝殻のようで、足首は細く引き締まっている。脹脛の肉は力を込めていないと柔く、肌が手のひらにしっとりと張り付くようだった。
彼女は、跪いて彼女の足を温める弾をじっと見下ろしている。ちらりと上目に彼女を見てから、もう一度彼女の足に息を吹きかけた。
このまま足に口をつけて、柔い脹脛を吸って舐めて、その更に上の腿に指を沈めたら、それはどういう気持ちだろうか。彼女は何を言うだろうか。
そう思ったことは幾度もあるのに、弾はそれを実行したことはない。腹の奥に渦巻いた欲を外には見せぬまま、ただ献身的な素振りで彼女の足を温めるだけだった。
「弾が温めてくれるのが、一番温かい」
「そうか」
「うん」
頷きあって、指先に朱が戻った彼女の足から手を離す。
「一緒に寝る?」
「寝ない、子どもじゃないし」
「ふふ」
彼女は小さく笑って、そのまま横になり夜着に肩までくるまった。弾も囲炉裏の火を小さくし、同じく布団に横になる。
種まで落とした囲炉裏の火の微かな明かりの中で、横になった彼女が悪戯っぽい眼差しで自分を見ているのがわかった。
一緒の布団で寝ることがなくなっても、子どもでなくなっても。弾と彼女はいつまでもこの世でたった二人きりの味方だった。
長く長く、そう思っていた。
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