鍵
生きるということに関して、雪は徐々に不安を抱くようになり始めていた。それまでは不安、恐怖といった感情を抱いたことがなかった。根拠はなくとも、自分は長く生きることがないと感じていたからだろう。明日死ななくても、明後日には死んでいるかもしれない。一秒生きても、二秒後には消えているかもしれない。そんなことを雪は漠然と、雪自身も無意識のうちに、信じていた。
それで、こちらに来ることはもう言ったのか、と問われて、雪はかぶりを振った。
「そうか」
父はそう言っただけで、それ以上は何も言わなかった。黙って駒を進める。パチリと木と木の触れあう音がした。向こうのほうでは「おお!」とか「うお!」とか騒々しい歓声が聞こえてきて、雪は髪の隙間からそちらを伺い見た。すると、テレビ前のソファの後ろに立っていたシオドアと、目が合ってしまった。なんとなく居心地悪く思いながら視線を戻し、盤上の駒を注視する。角を動かすと、雪はほうっとため息を落として、窓の外に目をやった。ちらちらと雪が散っている。この街ではそんなに珍しいことではない。
「お前は」
不意に父が言った。
「角が好きになったな」
「そう?」
「そうだ」
父は肯定を返して、盤面を見詰めていた体を起こし、ソファに凭れる。まだ駒は動いていない。
「前は飛車ばかりいじっていた気がしたが、今回はどの駒も満遍なく、しかしどれかと言えば、角が多い」
そうだろうか。雪は思い返してみて、しかしよくわからないと首を振った。父はもう将棋に飽きたようで、どっしりとソファにかけて何か考え込んでいるし、向こうのほうのソファでは相変わらず歓声が上がっている。この部屋にしては珍しい、明るい雰囲気だ。
「あのエンゼル」
ややあってから、雪は口を開いた。
「こっちに持ってきたんだね」
部屋の奥にあるのは、いつか見た純白のエンゼルの水槽だ。ただ違うのは、青いフィルムが剥がされていて、随分自然的な雰囲気になったこと。
「私が餌をやる係だ」
父が言った。
「シオドアが、何かの面倒を見てみるのもよろしいと言って、勝手にここへ置いていった」
「餓死させればよかったのに」
「お前は勘違いしているようだが」
父は心外そうな目で雪を見た。老けたな、と雪は思った。目尻や口元の皺。鋭さが少し抜けた瞳。
「私は生き物を殺すことはしないよ」
「そうだね」
雪は頷き、水槽を見つめた。
「そうだね」
そしてもう一度、頷いた。
「父さんはそんなことしない」
今ならわかると思った。父は人を見殺しにするような人ではなかった。だからシオドアは一緒にいるのだ。
「お前は」
父が言った。
「本当に変わったな」
「そう」
小さく返事して、水槽から目を戻す。見ると、父はまじまじと雪を見ていた。
「前はまるでハリネズミのような娘だと思ったものだが、不思議だ。今の私にはお前が、その辺りを歩いている娘と変わりなく見えるよ」
「そう」
雪はもう一度返事した。そして言った。
「わたしね、思うんだけど、わたしは何も特別じゃなかったと思うの。ただ少し、人より運動神経が発達していて、頭の回転が速くて、人ができないことができてしまっただけで、少し家庭環境が複雑だっただけ」
「それを人は『特別』と呼ぶのではないのかね?」
「違うの」
雪は言った。
「そういう要素があったとしても、わたしはわたしで、『普通』っていうことがどこにも存在しないように、わたしも『特別』じゃなかったんだなって。わたしは『わたし』でしかなかったの」
父はじっと何かを探すように雪の目を見、そしてやがて、小さく微笑んだ。この人が微笑むところを、雪は初めて目にした。
「そうか」
そう言った父の顔は、うれしそうに見えた。どうしてなのかはわからなかった。どうして父がうれしそうな顔をするのか、雪にはわからなかったけれど、この人がこんな顔をしてくれるのがうれしい。そう思った。
ううう、寒い!と言ったら、冬生まれのくせに、と外れたことを言われた。
「あのねえ、冬生まれだから特別冬に強いわけじゃないのよ」
「ふーん。じゃあ雪ちゃんの得意な『ガクジュツテキ』なデータでも取ってみたら?」
そう言って沢北はぷいっと顔を向こうに逸らす。子どもみたいな仕草だと雪は思った。
「何か怒ってるの?」
聞くと、沢北は、「べっつにー」と他意満々の返事をする。雪ははあっとため息を落として、肩に積もった雪をそっと払い落した。傘がシオドアの持っていた一本しかなくて、二人で差しているので、肩が少しだけはみ出るのだ。いつかのことを思い出すな、と雪は思った。
「ビデオならまた戻ってから見ればいいじゃない。逃げてくわけじゃないし」
「オレはそんなことを怒ってるんじゃないのー!」
沢北は叫んで、きっと雪の方を向いた。「ほら」。雪は言った。
「やっぱり怒ってるんじゃん」
「だー!あー!」
沢北は変な悲鳴を上げ、傘を片手に持ったまま、両手で顔を覆った。かと思うと、大人しくなって、とぼとぼと道を歩き始める。雪はそれに歩調を合わせて歩き、「何を怒ってるの?」と今度はもう少し優しく聞いた。
「雪ちゃんの、そういうところ」
沢北は前を向いたままで答えた。鼻の頭が赤い。伸びた前髪の隙間から、目尻に涙が滲んでいるのが見えた。
「わたしのどこが気に入らないの?」
「だから、そういうところ」
沢北は繰り返した。雪はわからなくて、首を傾げる。沢北はそんな雪を見て、少し笑った。
「雪ちゃんは変わったよ」
目の前に公園が見えてきた。「少し座ろ」。沢北が言うので、雪は頷いた。ベンチにはまだそんなに雪は積もっておらず、雪と沢北は軽くそれを払って、ベンチに腰掛けた。
「雪ちゃん、流川と付き合ってるだろ」
そう言われて、雪ははっとして沢北の顔を見た。沢北は、空を見上げている。ほた、ほた、と雪の結晶が彼の頬に落ちた。
「久しぶりに会ったときの雰囲気を見て、まず思ったんだ。誰か好きな人ができたんだなって。桜木以外に。それでそいつとうまくいってんだなって。それが流川だと思ったのは、雪ちゃんが撮った湘北のビデオを見てから」
「わたし、……そんなにわかり易かった?」
恐る恐る聞くと、沢北は「ううん」と首を振った。
「わかり易くなんかないよ。雪ちゃんはわかり難い。オレがわかったのは、オレが一生懸命雪ちゃんを見てたから」
「……そっか」
雪はそっと、息を落とした。
「あのビデオはすごくいいビデオだったよ。見易いし、撮った人が湘北のメンバーが大好きなんだなってことがよく伝わってくるし、普通それじゃいけないんだけど、あのビデオに限ってはいいんじゃないかと思った」
「……ありがとう」
小さな声で、雪は言った。「うん」。沢北は言って、「あ」と声を上げた。
「アイスクリーム売ってるよ。雪ちゃん食べない?」
「このくそ寒いのに?」
「だからおいしいんじゃん!」
そう言って、沢北はアイスクリームが売っているワゴンの方へ走っていってしまう。雪は彼が置き去りにした傘を取って、彼の後を追おうとしながら、空を見上げた。彼は今、何をしているだろう。
一月二日は新年が明けて初めてのバスケット部の集まりだった。初打ちはもちろんきれいにリングの中に収まり、初バスケは流川のチームの勝利に終わった。
「くっそー!新年早々むかつく男め!」
隣の男の文句は聞き流して、流川はさっさと着替える。部室にはもう流川と花道の二人しか残っていなかった。1on1が白熱しすぎて、他の部員は飽きて帰ってしまったのだ。
「げ、もう九時かよ!」
部室に備え付けられた時計を見て、花道が叫んだ。そして「あー、あー」と変な声を上げる。流川は変なヤツとそれを一瞥し、さっさと部室を後にしようとした。そのときだった。
「おい、キツネ」
花道が流川のことを呼んだ。部室を出ようとした流川は、ゆっくりと振り向いた。こいつがオレを呼ぶなんて珍しい。そう思った。
「お前、この後なんかあるのか」
「別に、何もないけど」
帰って飯食って風呂に入って寝るだけだ。流川がそう答えると、花道は「んならさ」といつになく気安い調子で言った。
「オレの家で鍋するんだけど、お前も来ねえか?」
珍しいこともあるもんだなあと、部屋のドアを開けた水戸洋平は開口一番そう言った。
「うっせーよ、洋平。それよか寒いから早く入れてくれ!」
「あーはいはい」
部室や体育館にいるときは気づかなかったのだが、夜になって雪がちらちらと降り始めていたのだ。何となく玄関の前で佇んだまま、入れずにいると、「流川も早く入れよ」とドアを開けていた水戸が言った。流川はこくりとひとつ頷いて、玄関に入る。ごちゃごちゃと脱ぎっぱなしにされた靴の中で、自分の靴だけ揃えるのも変かと思って、同じく脱ぎっぱなしにした。
「うおー、さみー」
そう言って花道はさっさとダウンジャケットを脱ぎ、炬燵の中に潜り込む。やっぱりどうしたらいいのかわからない流川に、水戸が「脱いだら?」とコートを指差し少し笑って言った。その通りにしてコートを脱ぐと、「掛けておいてやるよ」と水戸がそれを取った。「どーも」。小さく礼を言うと、「いーえ」、水戸はやっぱり小さく笑って言った。
「今日鍋しようって話してたんだけどさ、大楠も高宮もチュウも割のいいバイト見つけたって言って、そっち行っちまったんだよな。だからバスケ部で誰か引っ張ってこいって花道に言ってあっただけど、それで連れてこられたのが、あんたってわけ」
水戸は笑いながら言い、「Do you understand?」と妙にきれいな発音で言った。ひとつ頷き、流川も炬燵の中に潜り込む。炬燵の中では、花道がカチカチと番組のチャンネルを変えている。
「新年ってさあ、面白い番組なんもやってねえよなあ」
流川に聞いているのか、ひとり言なのかわからない口調で花道が言った。流川は少し迷ってから、ひとつ頷き、脇に放ってあったテレビジョンを手に取った。
「サスケやってるだろ」
一月二日の番組表を見て言うと、「あー、サスケかあ」と言ってまた花道はカチカチとチャンネルをいじり始めた。
「これ見てると、オレならできるって気持ちになるんだよなあ」
「オレも」
「だよなあ」
そんなことを話していると、「テーブルの上開けろー」と水戸の声がした。花道と二人して、上に乗っていたミカンやら雑誌やらをよける。花道が炬燵に入ったまま体を伸ばしてカセットコンロを取ると、それをどんとテーブルの真ん中に置いた。
「ほい」
そう言って、水戸がコンロの上に土鍋を置く。チッチッチとなるカセットコンロの火をつけて、十分火が大きいのを確認すると、水戸は「そういえば」と口を開いた。
「流川って辛いの駄目な奴だったりする?今日キムチ鍋なんだけど」
「別に、大丈夫」
そう返事すると、「よし」と水戸は笑い、また台所の方へ消えていった。何か手伝った方がいいか。そう思って炬燵を出かけると、「あー、いい、いい」と花道が言った。
「今日は洋平の当番なんだから、洋平にやらしとけ。横から手ぇ出されるの、あいつ面倒臭がるから」
テレビのサスケを見たままで、花道が言った。
「そーそー」
取り皿を持って戻ってきた水戸が、頷いた。
「横から手出されるのって、結構鬱陶しいもんよ。ほら、バスケで自分で突破できるのに、パス出せって言われる感覚?」
それは何となくわかる。流川は浮かせかけていた腰をおろして、テレビに目を戻した。
「流川さあー」
台所から水戸が聞いた。
「ビール飲めるー?」
「……飲む」
少し迷ってから返事して、テレビから目を離した。部屋の中はごちゃごちゃとしていて、一言でいえば汚い。が、生活できないほどではない。あちこちの棚やラックは薄く埃を被っている。その中のひとつに、流川は遺骨を見つけてしまった。見てはいけないものを見つけたような気になって、ゆっくりと見なかった振りをして、目を逸らす。すると、ビール缶を抱えた水戸と目があった。水戸はじっと流川の目を見た後、ふっと甘く笑って、そして笑ったこともなかったかのような顔をして、炬燵のテーブルの上に缶を置いた。
「まだ煮えてる途中だけど、乾杯しちまうか」
水戸がそういうと、横になってテレビを見ていた花道がむくりと起き上がった。
「乾杯、乾杯」
そう繰り返して、缶をひとつ取る。「流川」。促されて、流川も缶をひとつ取った。プシュとプルトップを開ける音がみっつした。
「えーと、じゃあ」
音頭を取るのはどうやら水戸らしかった。水戸は何やら考えながら口を開き、こほんとひとつわざとらしい咳をすると、こう言った。
「初打ちを、見事に入れてみせた流川くんと、見事に外してくれた桜木くんに」
「うるせえよ!」
花道が顔を赤くして言った。水戸は、ははっと笑い、「かんぱーい」と無責任そうな声で言った。
「かんぱーい」
むっとした顔のまま、花道が言う。
「カンパイ」
自分もそう言うと、意外そうな顔で花道と水戸が流川を見た。何だ?そう思って見返すと、水戸はしみじみと、「流川でも乾杯っていうんだなあ」と言った。
自分は一体何だと思われているんだ。いささか釈然としない気持ちで缶を煽る。乾いた喉に炭酸の弾ける感覚と苦みが心地よい。水戸も笑いながら缶に口をつけた。花道などはいつの間にか、一本開けてしまっている。
「次、次」
歌うように言いながら、花道は冷蔵庫に向かっていく。「鍋始める前に潰れんなよー」。水戸がその後ろ姿に声をかけた。
「鍋、沸騰しそう」
ぼそりと言うと、花道のほうを見ていた水戸が、「おっと」と言って火を弱めた。蓋を取ると、むわっとキムチの匂いが溢れだす。
「キムチ鍋ってさあ、流川ブタ派?トリ派?」
「ブタ」
「お、ラッキーだねえ。今日はブタさんなんだなー」
冷蔵庫から戻ってきた花道がその話題を聞きつけて聞いた。
「洋平。ソーセージは入れたか?」
「はいはい、入れましたよ」
水戸はそう言って、菜箸で少し白菜を突く。
「ちなみに花道はソーセージ派ね。かわいいだろ」
「いいだろ、うまいんだから!」
花道は少し口を尖らせて言った。ふっと、流川は少し笑ってしまった。
「おおー」
水戸が大げさな口調で言った。
「花道。今年はいいことがあるかもしれんぞ。新年早々、とても珍しいものを見てしまった」
「お前さあ」
花道が同情するような顔で言った。
「今のが初笑いなんじゃねえの?いいのか、そんなんで」
花道があまりに哀れそうに言うので、思わず流川は「違ぇ」と言い返していた。
「初笑いはもうした」
「へえー、何で」
ぐつぐつと煮える鍋の中を突きながら、水戸が聞いた。少し考えてから、流川は答えた。
「昨日、雪との電話で」
沈黙が降りた。ぐつぐつぐつぐつ。鍋の煮える音だけが部屋の中に響いている。
「……花道」
ややあって、水戸が言った。
「ビール取ってこい」
「お、おうよ」
そう言って水戸は菜箸を置く。
「飲むぞ」
ぎっと流川を睨んで、水戸は言った。
「新年から惚気られて、飲まずにやってられるか」
「よ、洋平、ビール!」
花道が大量にビールを抱えて冷蔵庫から戻ってきた。水戸は残っていた自分のビールを飲み干し、そして新しい缶を開けた。
「よし、食え。そして飲め。いいか流川、今日は帰れないと思え」
据わった目で言われて、流川は小さく頷いた。遅くなる、もしくは帰らないかもしれないと連絡はしておいたので、帰らなくても母は心配しないだろうが、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。
「いただきます」
水戸は律義に手を合わせていい、またビールを一口煽ってから、鍋の中に箸をつけた。花道はさっさとソーセージをどんどん自分の取り皿に取っている。何となく箸を取れずにいた流川に、水戸が言った。
「食え。無くなるぞ」
そう言われてから、やっと流川は箸を取った。口の中に入れた豚肉と白菜は、熱くて辛くて、おいしかった。
「雪の話、していい?」
鍋も締めのうどんまで食べつくして、花道は眠っている。窓の外で降る雪を見ながら飲んでいたら、洗い物が終わったらしい水戸が後ろから声をかけてきた。
流川は振り向かず、頷く。水戸は炬燵の中に入ると、新しいビールの缶を開け、ごくりと一口飲んでから、口を開いた。
「雪のことが好きだなって思ったのは、オレを呼ぶときの呼び方が好きだなって思ったときだった」
窓の外では雪がしんしんと降っている。部屋の中は石油ストーブの上で薬缶がしゅんしゅんという音だけで、とても静かだった。
「雪はさ、一字ずつオレの名前を呼ぶんだ。『よ・う・へ・い』ってね。他の奴はよく『う』を伸ばしちゃって、『よーへい』って感じに呼ぶんだけど、雪は違った。『ようへい』って呼ぶんだ。それがすごく好きだった。大事にされてる気がした」
ぐがっと花道がいびきを上げた。流川はまだ窓の外の雪を見ている。
「好きだなと思った。オレもこいつを大事にしてやりたいと思った。できれば、こいつ自身気づいていないけど、花道と幸せになってくれたらいいのになって、そう思った」
雪はしんしんと降る。窓の外の木にも降り積もって、枝が重そうだ。
「だけど、花道は駄目だって言ったんだ。オレと雪は一緒にいたらダメになる。だから駄目なんだって。じゃあ、と思った。じゃあ、誰が雪を幸せにしてやれる?……答えはちゃんと存在したよ。それが、お前だったんだ」
「あんたの悪いところは」
窓の外を見たまま、流川は言った。
「自分が幸せにしてやると思わないところだ」
「そんなこと」
くくっと水戸は笑った。
「オレが一番知ってるよ」
しんしんと、しんしんと雪は降る。流川は思う。この空の向こうで、雪は何をしているだろう。何を思っているだろう。
「雪を手放したりしたら、許さない」
「お前自身に手に入れようという気がねえくせにか」
「そうだよ」
そうだよ。まるで悪びれない調子で、水戸は言った。流川は温くなった缶ビールを一口啜り、水戸を見て言った。
「誰が手放すか」
水戸は一瞬きょとんとした顔になり、それからにやりと笑った。
「オレ、お前のこと、結構好きだよ」
そう言ってから俄かに真面目な顔になり、こう言った。
「何があっても雪の側にいてやってくれ」
言われずとも、と流川は思った。
流川は雪を手放さない。
「ここでさぼるのも最後か」
感慨深げな調子で、雪は言った、空はどんより重く、今にも降りそうだ。向こうからは、仰げば尊し恩師の恩、と聞こえてくる。
「あの、さ」
じ、じ、とライターを擦りながら、洋平は聞いた。「何」。隣の雪がこちらを向く。
「流川に言ったの。進路のこと」
雪は沈黙した。洋平の方を見ていた顔を戻して、空を見上げる。健康的になったな、とその横顔を盗み見て思った。出会った頃より、一年生の頃より、流川と付き合うようになる前より、ずっとずっと雪は健康になった。オレでは、と洋平は思う。オレではできなかったことだろう。
「花道から聞いたんだね」
雪は静かに言い、空を見上げていた目を戻した。掴んだ柵を見、それから小さな声で「言ってない」と言った。
「お前、馬鹿じゃねえの」
思わず言葉に剣が混じった。しかし雪はそれを堪えた様子もなく、「うん」と返事する。
「洋平はさ」
ゆっくりと、雪が話し始めた。洋平はじっとライターに火を付け、煙草に火を灯す。すうっと吸うと、ふうっと吐き出した。昔は一緒に吸ったこともあったのに、今ではそれがなかったことかのようだ。
「ずっとそれが聞きたかったんだよね。わたし、わかってた」
「ずるい奴だな、お前」
少し笑いながら言うと、雪は「本当にね」と柔らかい調子で返した。変わってしまったと思った。洋平と出会ったときの雪はもういない。今ここにいるのは『流川の雪』だ。流川が変えた雪だ。
「わたし、本当にずるいの」
雪は言った。ずるずると蹲って、膝を抱える。
「駄目なの。本当は言わなきゃいけないのに、どうしても最後まで言えなかった」
「どうするつもりなんだ」
煙草を銜えたまま、雪を見下ろして、洋平は聞いた。
「わからない」
雪は答えた。
「最後まで言えないままなのかもしれない」
雪は蹲っている。「いつ行くの」。何気ない調子で、洋平は聞いた。
「今日」
「今日?!」
思わず銜えていた煙草を吐き出す。慌てて足でもみ消して、拾い上げて吸いがら入れの中に入れる。そこまでして、大きくため息を落とした。
「それ、誰かに言った?」
「洋平が初めて」
「お前、馬鹿じゃねえの」
洋平はもう、容赦しなかった。冷ややかに言い放つ。雪は蹲ったまま動かない。はあ、ため息を落として、洋平は雪の腕をつかんだ。
「ほら、言いに行くぞ。いくらなんでもこのままドロンじゃ、後味悪いだろ」
「やだ」
「やだって、子どもじゃねえんだから」
「やだったらやだ」
ガキだ、と洋平は思った。こいつはただのガキだ。自分の責任も果たせず、逃げてばかりのただのガキだ。
「お前みたいなガキに」
そう思ったら、思わず言っていた。最近の自分には、思わずが多いと思うと、自分で思った。よくない傾向だと。
「できることなんか何もねえよ」
掴んでいた腕を離す。雪はまだ蹲っている。洋平はもう一度ため息を落とした。
「お前、アメリカに行って何がしたいわけ」
「わからない」
「じゃあ、なんで行くわけ」
「約束だから」
あっそ、と洋平は思った。つまりこいつに主体性なんてものは、欠片もないわけね。もういい、と思った。もういい。勝手にしやがれ。そう思って、雪を置いて去ろうとする。もう、こいつと会うこともないかもしれない。これでサヨナラか。そう思うと、むなしかったなと思えてきた。好きな女をこんな風に捨て置いて、最後まではっきりしたことは言えず、花道のように自分をかけられる何かを見つけることもできず、むなしい高校時代だった。
「わ、わたしは!」
そう思って屋上のドアに手をかけたとき、不意に雪が言った。蹲ったままで、泣いているかのような震えた声だった。
「わたしは、洋平の名前を呼ぶのが、好き、だった!『ようへい』って呼ぶのが、すき!なんでか、わかる!?」
怒っているかのように声を大きくして、雪は聞く。「いいや」。洋平は小さく呟く。「それ、はね!」。
俯いていた顔を上げて、雪は言った。きれいな顔を真っ赤に充血させて、小さな子どもが癇癪を起したような顔で。雪だ、とそのとき思った。
「洋平がお前の呼び方が好きだって、言ってくれたから!」
はっとした。心が跳ねた、心臓が鳴った。大きく大きく、息を吸い込む。
「だからわたし、ずっと、ずっと、洋平を呼ぶときは『よ・う・へ・い』って一字一字発音するようにしてた。洋平に喜んでもらいたかったから」
そういうことだと思うの、と雪は言った。
「そういうことなの。わたしは、何がしたいかわからないけど、誰かと一緒に生きたい。喜んでもらえるように頑張りたい。そのために何ができるかわからないけど、頑張りたいの。だから、だからアメリカへ行くの。頑張れる場所がそこだって導いてくれる人がいるから、だからそこへ行くの」
雪は泣かなかった。今にも泣きだしそうなのに、頑として泣かなかった。顔を真っ赤にして、堪えている。洋平はそのとき思った。ああ、ああ。オレは、お前が、
「好きだよ」
気づいたら、言っていた。もう一生言うつもりなんてなかったのに、気づいたら、言っていた。よくない傾向だ、と思うのだけど、止めることができなかった。
「オレは、お前が好きだ。ずっとずっと好きだ。頑張らなくても、頑張っていても、お前がお前だから、雪が雪だから、オレは好きなんだ。お前が例え流川と一緒にいて変わっていっても、ずっと好きだった。お前が、好きだ」
そこまで言い切ってしまうと、目の前が滲んだ。何を、馬鹿な。こんなこと、言うつもりなんてなかったのに。言うつもりなんてなかったのに、その上、涙まで出てくるなんて。
雪はぽかんとした顔をしていた。
「行けよ」
洋平は言った。
「言って、オレに今喋ったこと、流川に喋ってこい。それで流川がうだうだ言ったら、迷わずオレのところに来い」
そしたら、洋平は言った。
「そしたらオレが、お前を奪ってやる」
それくらい好きなんだ、と思った。
学ランの裾で涙を拭う洋平の横を、雪が走り抜けて行った。
好きだ、と思った。見つめているのが他の男でも、誰であっても、オレはお前のことが好きだ。好きで好きでどうしようもないくらい、好きなんだ。そう思った。
海を見に行こうと言い出したのは、雪のほうだった。三月一日の海はまだ肌寒く、途中参加した卒業式の、「降るような日差しの中」という送辞の文句とは裏腹に空はどんよりと曇っていた。何事も、マニュアル通りではなく臨機応変に対応すべきだと雪は思っている。
海沿いの道を歩いていると、車に轢かれそうになった。目を見合わせて、海岸に下りる。本当は靴を脱いだほうがよかったのだろうけど、あまりの寒さにできなかった。
「黙ってきちゃったから、晴子ちゃん、怒ってるかもね」
いうと、流川はそうかもなと言って少し笑った。
「案外、お前が一番叱られたな。赤木に」
「……そんなことはないと言いたいけど、当たってるね」
砂を踏んで歩くと、段々靴の中がじゃりじゃりしてきた。冷たい風が吹く。煽られた髪を押さえて、雪は水平線を眺めた。遠く、あのもっと向こうに。はら、と視界に白いものが舞った。
「……ねえ。寒い寒いと思ってたけどさ、雪が降るとは思わなかった」
「……そうだな」
三月の海にはらはらと降る春雪は、水気の多いだんびら雪だった。一瞬にして視界を白く染め上げていく雪に、雪はただただ立ち尽くすことしかできない。冷たい風がびゅうびゅうと、髪を、頬を、耳を、喉を、足を、撫ぜる。寒さに怯えて、流川の手を取った。
「相変わらず、冷てえ手」
「あんたも相変わらず温い手だね」
きゅうと指をひとつひとつ絡ませる繋ぎ方が雪は嫌いではない。そして流川のほうもそうだということを知っている。ずっと、一緒にいたから。
「流川にとって、高校の三年間ってどうだったの?」
聞くと、彼は一瞬考えるようにしてから「バスケ」と言った。そしてもう一言。「それとお前」。
「その二つしか見てなかった」
「……勉強は」
「何とかなったから、いーじゃん」
「まあ、そうだけどね」
ふと隣の雪を見下ろして流川が聞く。「お前は?」。わたし。わたしの三年間って、何だったかなあと雪は思う。すごく色んなことがあったようで、でもあっという間に過ぎてしまったような。
「なんだろ。女の子の友達が初めてできたとか?」
「……まじ?」
「まじまじ。洋平にお祝いしてもらったもの」
あのときのケーキはおいしかったと雪は独白した。不満そうに流川が雪を睨んでいる。雪は苦笑した。
「あと、流川に会えた」
一応はそういったけれど、何だか機嫌を取るような響きになった。少し後悔して顔を俯ける。雪のせいで段々髪が濡れて重たくなってくる。このままここにいれば、確実に体調を崩すだろう。けれど、どちらも決して帰ろうとは言い出さなかった。手を引いて、帰ろうとは。
「会えて、よかった?」
疑問符を後ろにくっ付けて流川が聞く。雪はゆっくりと考えて、聞き返した。
「会わなければ、よかった?」
「そうは思わねー」
「わたしも」
笑ったけれど、「あなたに会えてよかった」なんて甘い言葉を吐ける気力が雪にはなかった。それは流川も同様だったようで、むっつりと押し黙って海を見ている。縋るように手を繋いでいた。
「寒いね」
「……ん」
手を繋いで海を眺めるのは、これが最後かもしれない。そう思うと自然に手に力がこもる。流川が雪を見下ろす。呼応するように、雪はつま先を伸ばした。乾いてざらざらとした冷たい唇。二人はキスをした。そうするのが当たり前だったから。寂しくて、触れ合う以外にそれを誤魔化す術を、彼女は知らなかったから。
「どうして、進路のこと、聞かないの?」
唇を離して一秒、雪は聞いた。雪がはらはらと降ってくる。
「お前が言いたくなさそうだったから」
「そっか」
雪は俯いて言い、「本当はさ」と言ったそのとき、「本当は」、流川が言った。先に言ってと促す。流川は少し沈黙したあと、ゆっくりと口を開いた。
「本当は、知ってた」
ゆっくりと、呼吸が止まるような心地がした。流川を見上げる。流川も雪を見ていた。
「知っていた。本当は、お前がどこへ行ってしまうか」
「……なんで」
雪は目を瞑った。瞼が、熱い。頭が、熱い。心が、熱い。
「お前の父親から電話があった。それで、お前の卒業後の進路を教えてもらった。あと、うちの親もお前の名前をインターネットの記事で見つけて、知ってた」
「なんで」
雪はもう一度言った。なんで、なんで、なんでなんでなんで?
「なんで何も言ってくれなかったの?」
そう言うと、ぼろりと言葉と共に涙がこぼれ落ちた。うっと息が詰まる。流川は優しく雪の体を引き寄せて、自分の胸に雪の額を押しあてた。
「お前が言いだせるまで、待とうと思ったから」
ずるい、と雪は思った。そんなの、ずるい。知っていたなら、言ってくれればいいのに、そしたらわたしはこんなに悩まなくても済んだのに。ひどい、ひどい。そう言って雪は泣いた。それが甘えだということは、とてもよくわかっていた。
「怖いの」
雪は言った。声は震えていた。
「流川がいなくて、わたしちゃんと生きていけるか、怖いの、怖くて怖くて、見ないふりしてたの」
「知ってた」
「なら」
ならどうして、雪は言った。
「ならどうして、何も言ってくれなかったの。わたしはずっとずっと、怖くて仕方なかったのに」
「それは」
流川が言った。
「お前から言わなきゃいけないことだったから。怖いなら怖いって、お前はちゃんと言えるようにならなきゃいけないと思った」
「そ、そんなの、言えない」
だって、と雪は思った。怖いと言ったからと言って、何か変わるの?何も変わらないじゃない。夜は暗いままで、眠れないままで、誰も側にいてはくれなくて、わたしは一人ぼっちのままで。
「流川は、アメリカには、いない」
「ああ」
「わたしはまた、一人ぼっちになる」
流川は何も言わなかった。雪はぐいっと流川の腕から抜け出して、彼を見上げた。「言って」。雪は言った。
「泣くなって、言って。前みたいに、オレの前で以外泣くなって。誰の前でも弱音を吐くなって、言って」
じゃないと、と雪は思った。自分はもっともっと弱くなっていく。駄目になっていく。雪は俯き、流川の胸に抱きついた。「雪」。流川が雪を呼んで、肩を掴まれる。そして、そっと引きはがされる。
「オレは、言わない」
ひゅっと、息が止まった。
「泣きたくなったら泣いていいし、誰かに話せばいいし、誰かを頼ればいい。そうやって、自分のことを、大切にして」
「何それ」
雪は言った。ぐちゃぐちゃに顔を歪ませて、言った。
「何なの、それ。前と言ってること、違うよ」
「知ってる」
「なに、何なの、それ!」
雪は叫んだ。体を引いて、流川の腕から抜け出す。「何それ」。涙が出てきた。
「流川は、わたしのことがもう重たいの?だからそんなこと言うの?わたしのことがもう好きじゃないの?」
ひっくとしゃくり上げて、瞼を拭う。怖い、と思った。流川に疎まれていたとするなら、それは恐怖だ。その恐怖はどんなものよりも大きいかもしれない。それほどの恐怖だ。
「雪」
流川が雪を呼ぶ。雪は顔を上げることができなかった。俯いていた頭に、ぽんと手のひらが乗せられる。大好きだった。雪は、幼馴染の花道とは違う、でも同じように大きな手のひらが、大好きだった。
「どあほう」
ゆっくりと、顔を上げる。流川は微笑んで、雪のことを見ていた。くしゃくしゃと髪をかき混ぜられる。
「好きだから、言ってんだ」
流川は微笑んだまま、ゆっくりと目を閉じた。どうしてそのとき流川が目を閉じたのか、雪は知らない。
「自分を大切にしろ」
再び目を開いた流川は、そう言った。
生きるということに関して、雪は徐々に不安を抱くようになり始めていた。それまでは不安、恐怖といった感情を抱いたことがなかった。根拠はなくとも、自分は長く生きることがないと感じていたからだろう。明日死ななくても、明後日には死んでいるかもしれない。一秒生きても、二秒後には消えているかもしれない。そんなことを雪は漠然と、雪自身も無意識のうちに、信じていた。
雪が消極的な自殺願望を抱いていることに気付く人は少なくなかった。彼女の父親、その秘書、彼女の主治医、友人の水戸洋平。彼らは彼女が望んでしまったものについて、気付いていた。彼女自身は気付いていなかったが、彼らは気付いていた。
私達は二度生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために。
ルソーの言葉に準えるなら、彼女は二度目の生を受けようとしていた。彼女が抱いた不安は、向きあうことを決意したからこその不安であった。
己を育み、生きていくことを。
「雪!」
呼ばれて雪は振り返る。呼んだのはクラスメイトで、今度のレポートの内容についての質問だった。軽く答えておくことにして、去りしなに「頑張って」と声をかけると彼女は「Yes!」と笑って言った。
「へえー」
それを見ていた沢北が、変な声を上げた。雪が何なんだと言うように彼を見ると、彼は、「べっつにー」と例の他意満々の返事をして、先に歩いて行った。
「何か言いたいことがあるなら、言ったらどうなんだ」
「べっつにー」
沢北はもう一度そう言って、それからおかしそうに笑った。
「雪ちゃんさ」
「何だ」
「男言葉に戻っちゃったよね、日本語」
そう言われて、初めて気づいた。確かに、今も「何だ」とか言ってしまった。さあっと青ざめる。
「雪ちゃんが女の子らしい言葉になったのって、別に流川のせいじゃなかったんじゃない?周りに日本語喋る女の子が多かったから、つられたんだよ」
「そ、そんなこと、ないっ」
「ほら、ぎこちない」
そう言って、沢北は笑う。
「シオドアさんとかさ、お父さんと同じ喋り方だよ。うつっちゃうんだねえ」
「違う、わたしは、うつって、ない」
「日本語まであやしくなってきた」
けらけらと沢北は笑う。「そんなんじゃさあ」。沢北が言う。
「流川にゲンメツされちゃうかもねー」
「る、流川はそんなことで、ゲンメツ、しないっ」
「いやー、あいつも普通の男だからさあー」
「もう沢北うるさい!」
そう言って彼の頭を持っていた鞄で殴ると、雪は憤然と歩き出した。「ごめん、ごめんって」。沢北が慌てて後を追ってくる。大体、と雪は思った。なんで大学が近くだからって、毎日のようにこいつと顔を合わせているんだ。わけがわからん。そう思った自分の思考でさえ、男言葉なことに、雪は絶望した。
「ね、ね。流川来るのいつだっけ?」
「……八月から二か月」
聞いてくる沢北に憤然としたまま答えると、「もうすぐじゃん」と大げさな返事が来た。
「楽しみでしょ。雪ちゃんの家に泊まるんだから」
「まあそうだけど」
「あーでも、エロいことはできないね。お父さんもいるから」
「しないから」
「大丈夫、その辺のホテル入ればできるから」
「しないって言ってんじゃん!」
と言いつつ、雪は高校時代の彼の所業を思い出して、不安に駆られた。なんか、どこでも盛ってた気がするのは気のせいか?そんなところが父に見つかりでもしたら……。ひんやりと冷たい汗が背中を流れる。今日のメールで言っておこう、と雪は思った。彼の読解力はなかなか向上しないけど、それくらいのことは伝わるだろう。
ごうう、と飛行機が飛んでいる。「あ!」と沢北が声を上げた。
「雪ちゃん、見て、すげえ飛行機雲!」
雪もそれを見上げた。空一面を、白い飛行機雲が横切っている。あの飛行機に乗って、雪は思う。あの飛行機に乗って、もうすぐ流川がやってくる。
例え同じドアがくぐれなくても、空はつながっている。わたしはここで生きている。わたしをここで生きている。
お母さん。どこかの空の下に向かって、雪は思う。
お母さん、わたしを生んでくれて、ありがとう。
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