2.
その後平静を装い、姫と一緒に庭を見て回り城の城主への挨拶も済ませた。文次郎は城主気に入りの護衛のようで、姫にではなく、どちらかというと城主の側についている。
そうそうに城主と姫の前から辞して利吉を問い詰めたかったのだが、どういうわけか姫に気に入られてしまい、なかなか与えられた客間へ下がることができない。ようやく利吉と共に客間へ下がったときには、既に夜がとっぷりと更けていた。
「知っていたんでしょう」
「はて、何のことか」
客間へ戻るなり利吉を問い詰める姿勢に入った彼女を、利吉はさらりといなす。もうこのまま帰ってやろうか、と肩を怒らせたときに、ついっと利吉が天井を見た。
「いるんだろう、入ってきたらいい」
利吉がそういうと天井の鏡板が一枚外れ、素早い動きで人影が降りてくる。軽やかな身のこなしで降りてきたのは、件の文次郎だった。
「どういうことなのか、お聞かせ願いたい。利吉さん」
「その前に、先達への挨拶はないのか。文次郎」
「……ッ、お久しぶりです。利吉さん」
「ああ久しぶり、文次郎」
利吉はそう返して悠々と笑ってみせる。利吉のその表情に文次郎がやりづらそうな顔をしたのもつかの間、ちらりとこちらへ視線を送ってから、再度「どういうことです」と利吉に食って掛かった。
「なぜ私の妻がここにいるんです、こんな話を私は聞いていない」
「悪かったね、月ヶ峰の乱太郎たちには言い置いたのだけど」
「あんた、俺がここ数か月はこの城での任務にかかりきりだということを知っていて、言っているでしょう」
「そう思うなら、君はさっさと協力の申し出に首肯すべきだったな。潮江文次郎」
利吉は、まるで冷たい言いぶりで言った。文次郎はぐっと言葉を詰まらせる。
「君がなかなか是と言わないから、私は彼女を連れてくることになったし、夫の帰りを待ちくたびれた彼女はこんなところまで来ることになった。
私の仲間が何度か君に接触を図ったはずだが?」
「あんたの仲間は、どこの城の忍者か明かしもしなかった。協力できるわけなかろう」
「しかし今、『私』という顔は明かしたぞ、文次郎。
お前なら、これである程度のことは理解できるだろう」
そこまで言われて、文次郎はぐっと押し黙った。それから、ちらりと彼女を見る。
「俺に黙って、妻をここへ連れてきたことが気に入らないんです」
「しかしお前が城主に取り入ってもう三月も立つ。
ここの城主様は、思うよりも口の堅いお方らしい。お前の立場から姫君の嫁ぎ先を探り出すのはいつになる?
六月後か、それとも一年後か?」
「それは…………」
「姫君のほうへ潜り込むのなら、彼女以上の適任もいまい。お前だって、それはわかっていただろう」
文次郎は苦々しい顔をして、利吉を見た。今までにも文次郎が彼の級友たちと軽い小競り合いをしているところは何度か見たことがあったが、こんな風にやり込められているところは初めて見た。「あの……」 助け船というつもりはなかったが、彼女はおずおずと口を開いた。
「あの、私が適任というのは、どういうことですか?」
「ああ、その説明をしていませんでした」
彼女が聞くと、利吉はころりと表情を変えて彼女を見た。文次郎も苦く利吉を睨みつけていたのをやめて、彼女を見る。
「この城の姫君、先ほどあなたが検診をされた方ですね。この方が、近々どこかに嫁入りするという噂があるのです。
確かに国の染物屋からは多くの布を買い上げているし、白打掛を縫わされたなんて話も聞こえてくる。
恐らくどこかへ嫁ぐことが決まったのは間違いないようですが、それがどこなのかを城主は誰にも明かさないのです」
「俺の雇い主の城主も、恐らく利吉さんの雇い主も、この城の姫がどこへ嫁ぐのか。要するに『どこと手を組もうとしているのか』を知りたがっている。
それを調べるために潜り込んだというわけだ」
「はあ…………」
文次郎も利吉も、仕事でこの城に潜り込む必要があることはわかったが、どうして自分をここまで連れてきたのだろう。
考えて、そういえば「姫が女の薬師を探している」という話を聞かされ、ここへ連れて来られたことを思い出す。
「あの、まさかとは思いますが。
文次郎が三月もかかって探れなかったことを、私に姫君から聞き出せとそう仰います?」
「おや賢い。その通りです」
彼女の問いに、利吉はにっこりと笑ってみせた。そろそろと文次郎を見るが、文次郎もその問いかけに否定はせず、気まずそうな顔をして視線を逸らす。
「む、無理じゃありませんか。そんな大それた仕事、私にはできません。
利吉さん、あなたわざと説明の足りないまま、私を連れて来ましたね。
あなたの言い振りでは私は理吉さんがこの屋敷へ潜り込む足がかりで、私自体には大した役割がない。そんな風に、勘違いさせましたね」
「おや、随分な穿った見方をされる。
……大丈夫ですよ、あなたはただ姫様と仲良くなればいい。姫君だって年頃の娘だ。
あなたのような年上の、姉君のような人が現れたら、自分の嫁入りについて話してもみたくなるでしょう」
「しかし、けれど…………」
彼女が言い淀んでいると、それを横で黙って聞いていた文次郎がややあって口を開いた。
「利吉さん、今日は夜も遅い。これ以上、ご婦人の部屋に長居するのはどうかと思うが」
「ああ、確かにそれもそうだ」
文次郎の言葉に軽く頷くと、利吉は「今日のところはここまでにしましょう」と言って、文次郎と連れだって部屋を出て行った。
「あ……」 文次郎と、もう少し話がしたかったし、久しぶりの夫の顔をもう少し見たかったのだが、引き止める前に文次郎は利吉と行ってしまった。恐らく彼女を間に介さず、二人だけででまだ話すことがあるのだろう。
部屋に残された彼女は、二人が話している間は閉め切ったままだった窓を開けた。薄っすらと遠くで、木菟(ずく)の鳴き声が聞こえる。山でも聞こえていた鳴き声に耳を傾けながら、結局はほとんど会話することなく行ってしまった文次郎への恨み節を口の中で呟く。
勿論こんなところで会えるとは思っていなかったし、会えただけ、彼の健在な姿が見れただけ、嬉しいはずだった。しかし会えたのであれば少しくらい妻である自分とも会話をしてほしいと思うのは、欲張りなのだろうか。
ブゥソッポウ、と鳴く鳥に紛れて、小さく「ばかたれ文次郎」と呟いた。
翌日からは、姫に薬学の知識を教える授業と、その合間に姫との他愛ない会話を交わし、そのまま三日が過ぎた。
姫は楚々とした所作のわりに頭の回転が早く聡明な人で、薬学――簡単な調合や手に入りやすい薬草、人間の興奮を煽るような作用があるものについての講義にも、姫自らがあれやこれやと質問を投げてくる。
同じような話を忍術学園のくのたま達にもしたことがあったが、口ぶりが違うだけで聞いてくる内容や興味の持ちどころにさほど差異がない。
女とは同じような物事に関心を抱くものなのか、それとも姫が楚々と見えてもくのたま達と同じくらい狡猾で聡い人物であるのか、どちらなのか対人関係に疎い彼女には判断がつかなかった。
しかし、どうやら姫君のほうも、父親の城主から嫁入りについて口止めをされているように見えた。
かなり親しげに話しかけてくれるので、姫から嫌われているとは思っていない。だが、ちらちらと何か言いたそうな素振りは見せるものの、肝要なことを話してこないようにも見える。
お付の侍女の目もあり、姫とは当たり障りのない話ばかりで、姫の嫁入り先の話は聞けそうにもなかった。
「花兎子様は、旦那様はいらっしゃるのですか?」
「あ、ええ、そうですね。一年ほど前に婿を取りました」
「わぁ素敵。どんな方ですか?」
姫に聞かれて、思わず庭先でじっと立っている文次郎を見る。文次郎は基本的には城主付の護衛をしていたが、姫が庭を散策する際には必ず現れた。
姫は近頃ほとんど屋敷の外へ出ることがないようだが、部屋に籠り切りでは体に悪いので、庭の散策をする。その際に、城主が姫の身を気遣って自分の護衛も姫の元へ寄越すだのという。
詳しく話を聞けば、どうも姫は外出を禁じられているようだった。
「そうですね……。生真面目で自分に厳しい人です。彼は私の父が見初めて連れてきたのですが、父も彼のそういう生真面目で自分に厳しいところが気に入ったようで」
「まあ」
「けれど、最近は自分に厳しいのもほどほどにしてもらえないか、とも思っています」
そう話すと、少し向こうで立っていた文次郎が微かに動いたように見える。横で彼女の手を引いて支えていた利吉が、押し殺してはいるが笑ったのがわかった。
「ご自分に厳しいあまり、私に会いに来てくださらないのです。夫婦と言えど、これでは他にいい人がいるのではないか、と疑ってしまいます」
「まあ、お可愛らしい。花兎子様は、旦那様を好いていらっしゃるのね」
「そう、ですね」
年下の姫に明け透けに言われて、彼女も恨み節を忘れて思わずぐっと押し黙った。笑いを堪えたままの利吉が、「そろそろお部屋に戻りませんと」と姫の侍女に声をかける。
彼女たちは互いのお付に促されるままに部屋に戻ったが、文次郎はちらりともこちらを見もしなかった。しかしその文次郎が、彼女の元に忍んできたのはその日の晩だった。
夕食後に湯をもらい、付き添いをしてくれていた利吉と別れて閨へ戻る。彼女の居室は客間から、姫の居室に近い場所に移動しており、利吉は使用人の部屋を使っているようだった。
自分の居室までの短い距離を歩いていると、ぬっと突き出てきた腕に口許を覆われる。ぞっとして慌ててもがき腕の主を見れば、それは文次郎だった。
「しぃ、静かにしていろ」
「文次郎、どうして」
「お前が昼間言ったんだろうが、会いに来てくれないと」
「ああ」
やはり聞こえていたのか。彼女が嬉しくなって少し微笑むと、それを見た文次郎はウっと息を詰める。どうしたのかと思って口許を覆っていた手のひらに触れると、少し顔を赤くした文次郎は困った顔で彼女を見た。
「顔は見たからもういいだろう、俺は戻る」
「待って。部屋の中で少し話くらい、いいじゃないですか」
「駄目だ」
「どうして」
せっかく会いに来てくれたのに、ひどい。その気持ちが顔に出ていたのだろう。文次郎は腕の中の彼女を見下ろして大きく溜息を吐くと彼女を横抱きに抱き上げて、居室まで入った。
そしてそのまま戸を閉めると、部屋の壁に彼女を押しつける。あ、と思ったときにはもう文次郎に口を吸われていた。
「ン、もんじろ、ぉ、」
「は、だから、ン、じゅ、嫌だったんだ、」
じゅ、ちゅ、と水音を立てて文次郎は彼女の唇を吸い、そのまま柔い口内へ舌を差し込んだ。ぬろぬろと文次郎の熱い舌で絡めて取られ、口の端からだらしなく唾液が漏れる。
文次郎が腰を支えてはくれていたが、すぐに腰砕けになってしまって、そのままずるずると二人で居室の床に座り込んだ。探るように掴んだ文次郎の着物を掴んだ指を、文次郎の手のひらがぎゅっと握る。
ちゅ、ちゅ、と口を食んで甘く唾液を交換しながら、児戯のように互いの指を弄んだ。はぁ、と熱い息を吐いて、文次郎が彼女の頬に触れる。じ、と目線が絡み合って、そのまま強く引き寄せられた。
強く抱かれた背中が、腰が、抱き着いた文次郎の首が厚い背中が、どうにもほしくて堪らなかったのだと叫んでいるみたいだった。
ちゅ、と優しく舌を擦り合わせてから、少しだけ唇を離す。鼻先が触れ合うほどの距離で見た文次郎は彼女だけを見ていて、彼女も文次郎だけを見ていた。
「会いたかったし、早く終わらせたかった。わかるだろう」
「ん、わかってます、文次郎」
「だから我慢していたというのに、お前ときたら」
乗り上げた膝の上で、文次郎がいやらしい手つきで彼女の腰を撫で、尻を撫でる。下腹には文次郎の膨らんだソレが当たっていた。彼女は顔を赤らめて、俯く。
「部屋に入って人目がなければお前と口吸いがしたくなるし、口吸いをしたらまぐわいたくなる。だから戻ると言ったんだ」
「ん、ごめんなさい、もんじろ、ン」
「あんまり可愛いことを、しないでくれないか。自制が利かなくなる」
「ン、もんじろ、腰、揺らさないでぇ、」
文次郎は大きく腫れたそれを、彼女の下腹部のその下の柔い鼠径部に、ぐ、ぐ、と何度も押し付けてくる。あの山での二人の褥を思い起こさせるような動きに、文次郎の熱に浮かされたような目に、彼女はいやいやと首を振った。
文次郎が焦らすように二度、親指で彼女の首元を擦った。「ン、」 首の薄く浮いた細い骨、文次郎が軽くでも力を込めればそれは簡単にぱきりと折れてしまうだろう。
なのに彼女は甘く瞳を閉じて、ねだるように柔く鳴く。文次郎は腹の底から噴き出る何がしかの衝動を、ぐっと奥歯を噛んで耐えた。このままぐちゃぐちゃに犯してしまいそうだった。
「っ、では、戻るから」
「ん、はい、文次郎、ん、ちゅ、」
「っ、はァ、早く帰れるように、俺も努力する、」
「んぅ、」
ちゅ、ちゅ、と数度口を吸いあって文次郎は何とか体を離し、部屋を出た。文次郎はそのまま冷たい水を浴びに行ったし、彼女は残された部屋の中で文次郎との逢瀬の余韻に、ぼんやりとしていた。
それでも翌日にはその残滓も残していなかったはずなのに、翌朝に彼女の顔を見た利吉は開口一番に含み笑いをして「文次郎が来ましたか」と聞いてきた。
「そ…そんなわけ、ないじゃないですか」
「そういうことにしておいてもいいですが。
あなた、ご自分で思うよりも浮かれた顔をしてらっしゃいますよ」
気をつけてくださいね、とさらりと言われて慌てて自分の顔を押さえる。利吉が朝一番にそう言っておいてくれたからだろう。
姫の居室で薬学を教えていたときに、姫から「何かいいことがありましたか?」と聞かれても、彼女は何とか表情を取り繕うことができた。
「やはり顔に出ていますか?」
「ええ。姉上様、とても嬉しそうですわ」
「…………実は夫から便りが届きまして」
「……まあ」
誤魔化すために「便りが来た」とは言ったが、実際はただ会って互いに口を吸っていただけで大した話もしていない。思い出した羞恥を、これ以上姫に話して聞かせることはできない。
推し黙った彼女に、姫は手紙の内容を反芻していると思ったのだろう。はぁ、と甘やかな溜息を溢した。
「姉上様は、旦那様と仲が良くていらっしゃるのね。羨ましいわ。…………ねえ、姉上様」
「はい」
「誰かと夫婦になることって、いいことかしら?
私ちかく、嫁入りをしますのよ」
姫がぽつりと溢した言葉に、お付の侍女が「姫様」と咎める声を上げる。しかし「いいのよ」と姫は侍女を制した。
「父上だって、姉上様に私がお話しすることをわかってらして呼ばれたのでしょう。私は姉上様を信じますわ」
無垢に言われて、心が痛む。それでも口を挟むことなく結局彼女が聞いたのは、姫の嫁入り話への不安だった。
姫は、南蛮の大商人の元へ嫁ぐのだという。武家の姫が南蛮の商人に嫁ぐなど普通は考えられないが、領地の海には小さいが船を付けるには程よい入江があるらしく、そこで交易をするのだという。
彼女は城主と商人が交易の契約を締結するための、いわば保険なのだろう。城主は娘を差し出すことで相手に敵意がないことを示し、商人は城主の娘を預かっていることで安心を得る。もしかしたら、そのうちに商人側の娘も城主へ差し出す算段もあるのかもしれない。
「姉上様は旦那様と、とても仲がよろしそう。羨ましいわ。私もそんな方と一緒になりたかった」
姫の口調には諦めが混じっていて何か慰めを言いたかったが、何を言えばいいのかわからない。そんな彼女を見て、姫は申し訳なさそうな顔をして微笑んだ。
「…………月並みな言葉で申し訳ないのですが、私は当初、夫を変な男だと思っていました」
「そうなのですか?」
「人よりも過度に我慢強いですし、我慢すること自体が目的に見えることもある。
初めて会ったときは怪我をしていましたから、こちらの言うことを聞いてくれない彼と口論も致しました」
話しながら、山で父が文次郎を拾い、彼の看護をしながら過ごした数日の日々を思い出す。今でもあのときは何度も文次郎を叱っていたと思うし、それは案外、今でも変わらないのかもしれない。
「それでも何度も話をした結果、彼は優しい男だとわかりました。そして今でも、夫が我慢しすぎることに苛立ちを感じることもあります。
それでも、最初から夫を『変な男』だと断じて会話をしなければ、これは知ることもできなかったことです」
「………………」
「南蛮の方に嫁入りされる姫様の御心のうちは、察するに余りあります。しかし、『仲良くなれない』と断ずるのは尚早やもしれません。
私の言葉は軽いでしょうが、お相手の方とお話しをされてから見極められても、遅くはないのでは」
姫が気を悪くする覚悟で、彼女は目線を逸らして言った。隣の姫は、じっと黙って何も言わない。お付の侍女もはらはらとした顔をしていた。
そっと姫を見れば、何かを考える素振りでいる。
「そう、……そうかもしれませんね」
ややあって姫が言った。
「姉上様の仰る通り、『知り合えない』と断ずるのは早いのかもしれません。
私が姉上様のように仲のいい夫婦になれるかはわかりませんが、相手の方と話してから判断してもいいのでしょう」
姫はそう言い、彼女を見て朗らかに笑った。随分言いたいことを言ってしまった自覚があるので、姫が気を悪くしなかったことにほっと息を吐く。
その後姫の居室を辞して利吉と合流すると、彼女の表情を見て、利吉は欲していた情報が手に入ったことを知ったようだった。
その後すぐに文次郎も呼び出し、彼女が姫から聞いた話を聞かせる。二人とも難しい顔つきだった。
「確かにこの領には、入り組んで波も穏やかな、船をつけやすい入り江があります。
しかしそう大きなものではないので交易には向かないと、甘く見ていたな」
「南蛮からの船とだけ交易を行うとなれば、目的は十中八九で軍拡でしょう。
俺は至急雇い主に便りを飛ばしに行きますが、利吉さんはどうされますか」
「私も仲間へ連絡を付けにいく。そして、目的は達したのだから長居は無用だな。
『公方家の婦人』宛に至急の便りを寄越させて、早めに屋敷を辞去しましょう。あなたもそのつもりで」
「は、はい」
怒涛の勢いで二人が話をまとめていく。その日の夜更けには本当に彼女の役柄である『公方家の婦人』宛に至急の知らせが届いたし、文次郎のほうは屋敷から抜けるため、利吉と二人で『曲者を追いかけて谷底へ落ちた』という芝居をしたようだった。
そうやって慌ただしく城主へ暇の挨拶をしてから、城主の隣に控えていた姫を見る。
姫は、わかっているような表情をしていた。彼女が『何』であったのか、何のためにこの屋敷に来て、姫の話し相手になっていたのか。それを察しているように見える表情だった。
別れの言葉を告げて、屋敷を後にする。姫と会うことはこの先二度とないだろうが、南蛮へ嫁ぐことになったあの姫を忘れることはできないだろう。
一度、行きにも立ち寄った商家に寄り再度旅の支度を整え、衣装を地味なものへ変えて、裏口からこっそりと出る。利吉は何も言わなかったが、城主からの追手があるのかもしれなかった。
「今回は本当にご苦労様でした。城主からの追手もこれ以上ないようですし、私も屋敷の中を探ることができ、欲しかった情報も手に入った。
上々の結果です」
行きと同じように背負子で背負われ、山道を行きながら利吉が言った。利吉は見るからに上機嫌で、彼女は「はぁ」と曖昧な返事をした。
「どうです、本当に忍者を目指してみませんか。
あなたなら、いい隠士になれると思いますよ」
「折角ですが、夫が悲しみますから」
そう返せば、利吉はややあってから、弾けるように笑った。そこまで面白いことを言ったつもりはなかったのだが、ここまで大笑いされると居心地が悪い。
「やぁ、申し訳ない。あなたは文次郎の気質をよくわかっていらっしゃる」
「そうでしょうか」
「勿論。確かにあなたが忍者になれば、文次郎は悲しむでしょう。あれはそういう男です。
忍者と努めるには、生真面目で堅気で。こうと決めたら梃子でも動かないくせに柔軟さがないのかと思えば、目的のためなら手段を選ばない。
山ノ辺殿…あなたのお父上も、よい男を婿としてお選びになりました」
利吉はそんなことを話しながら、ざくざくと山を登っていく。と、ふと足を止めた。
どうしたのだろう、と思って利吉の肩越しに行く先を見れば、そこには笠をかぶった男が立っていた。
「文次郎、雇い主への報告は済んだのか」
「はい。合わせて至急の用向きがあると、数日の暇をもらってきました」
「それは重畳」
文次郎はかぶっていた笠の下から、利吉をじっと見た。利吉は背負子の彼女を降ろし、少し近くの切り株に腰かけているように言った。
「利吉さん、追手はないですか」
「今のところはなさそうだ。屋敷の様子は?」
「曲者の侵入と客人の辞去が続いたのでばたついてはいましたが、今は落ち着いています。
我々の動きを不審に思う素振りはなさそうです」
文次郎と利吉はそうして少しやり取りをし、その後利吉は踵を返してきた道を戻るようだった。
「今回は本当にありがとうございました。あなたのお陰でつつがなく任を終えることができました。
また機会があれば、ぜひご協力をお願いしたいものです」
「…………夫への断りなしに外へ出るのは肝が冷えましたので、もうなしにしていただきたいです」
「おや、もう『悪い男』には靡いてくださりませぬか」
「利吉さん!」
「はは、冗談です」
利吉がにやりと笑って、そんな芝居かかった口調で言う。決して利吉の言うように『悪い男』に靡いたつもりなどなかったが、利吉に言われてほいほいと付いてきてしまったのは事実だ。横の文次郎の視線が痛かった。
利吉が笑いながら行ってしまってから、じとっと沈黙が降りた。
「帰るか」
「……はい」
気まずくて、文次郎の顔が見れない。それでもそっと伺い見ると、文次郎は笑いもせずに彼女を見下ろしていた。
「お、怒っていらっしゃいますか」
「少し」
「申し訳ありませんでした。あなたの許可なく、利吉さんと山の外に出てこんなところまで……」
「いや、利吉さんがお前を連れ出しに行ったのなら、お前にそれに抗うすべはなかったろうし、仕方ない。
断ったとして、最終的にはあの人は『俺の立場』というものを持ち出すから、それについては俺が長く戻っていなかったことが原因だろう」
「で、では…………?」
「まぁごく普通に、利吉さんがお前の手を取り、横に付いていて。対して俺は、それを指をくわえて見ているしかなかった。
これは怒りというか、悋気だ」
背中に負ぶわれ、ざくざくと山を歩きながらさらりとそんな調子で言われて、彼女は自分を背負った文次郎の背中に額を押し付けた。じんわりと手のひらから伝って、文次郎の温もりがする。父のものとも、勿論利吉のものとも違う。
「……利吉さんにも、そういうことをしたのか」
「まさか、わかっているでしょう」
わざと疑うような文次郎の言いぶりに、彼女は小さく笑った。つまり文次郎は、拗ねているのだ。
ざくざくざくと文次郎が山道を進んでいくと、不意に山の景色が開けた。遠く、山のふもとの向こうにきらきらと光る水面がある。あれは海だろう。
「山から下りて、いろいろなものを見ました。
忍術学園へも初めて行ったし、街道を行ったのも初めて、町の市というのを見たのも初めて。峠の茶屋で団子を食べたのも初めてでした」
「……そうか」
「でもそうやって、初めてのことに出会うたびに、横にあなたがいないことが寂しかった。
文次郎に団子が美味しいことも、道に差し掛かる夕日の色がきれいなことも、伝えたくて、でもあなたが横にいないのは私があなたなしで山を下りてきてしまったからで。
これは私の自業自得だというのに、…寂しかったんです」
言いながら、文次郎の首元にぎゅうと抱きついた。文次郎は海への眺望を前に立ち止まって、何も言わず彼女の抱擁を受けている。
草生きれの匂いがした。籠った土が強く匂って、決していい香りとは言い難いのに、ひどく肌に馴染んで懐かしい。
ああ戻ってきたのだ、と何となく思った。
「だからやっと言える。海ってこんなにきれいなんですね、文次郎。
あなたと見れて、よかった」
「……ああ」
二人は少しの間、そこから海を眺めていた。ちやちやと、水面が真上を過ぎた日を弾いて光って、瞬くように凪いでいる。
文次郎とこの先に生きていく中で、文次郎と一緒に見たこの光景をきっと一生忘れることはないんだろうな、と。
彼女は論も根拠もなく、ただ思った。
:
「これでよかったのでしょう」
日暮の部屋の中、彼女はぽつりと呟いた。姫様、姫様、と小煩い侍女は今は一人になりたいと下がらせており、この室の中には彼女しかいない。いない、はずだった。
「よい首尾でございました」
しかし、声があった。低く、されどもそのどこかに身の軽さの滲んだ声音に、彼女はつと視線を向ける。暗紅色の服を着込んだ大男が、夕闇にとろけるようにして立っていた。
「これであれらの手の者が、姫御前の嫁入りについてよしなに話を伝えるでしょう。
今回のお話に横槍が入るのは、これで必須のこと。お見事でございました」
「ぬかせ、思ってもおらぬ世辞などいらぬわ」
彼女がぴいしゃりと言いつけると、男は黙って頭を垂れた。同じく、男が顔肌に巻いた白晒しの包帯の裾が揺れて、垂れる。彼女は興味をなくして、そのまま目線を逸らす。
別に、南蛮者のところへ嫁に行くのが嫌なわけではない。南蛮にはここよりも面白いものがあるだろうし、この屋敷にいるよりもいくらか自由があろう。
初めは、このどこの手の者とも知れぬ男の口車になど乗る気はなかった。姫としての自覚などいつ何時もないに等しいが、それでも父のため領のためと言われれば、そうしてやってもいいかと思っていたのも事実だ。
あの、女だ。公家の子が貧しさから働きに出ていると言って父が連れてきた、あの『姉上様』。
世間知らずの女の割に嫌に静かで物事に騒ぎもせず、じっと伺うようにいつもこちらを見ていた。薬師としての腕は確かに一流で、屋敷に付いた父の薬師も彼女の知識には舌を巻いていた。
なのに夫のことを話すときだけ、小さく笑うのだ。野の花が春に綻ぶように、甘い風に桜がたなびくように、笑うのだ。その小さな笑みを見て、彼女にはほのかな欲が生まれた。
女が『どこの誰』かは知らない、何もわからない。けれど、南蛮へ行ったらもうあの女には二度と会えないことはわかっていた。
それは、いやだ。
そう思うことは、確かに欲で、その欲は彼女の行動を決定付けるには十分すぎるものであった。
だから、南蛮へは行かないことにした。
彼女にとってはただそれだけのことだった。その理由から、彼女はこの大男の甘言に乗っただけだ。
夕暮れの死に損ないが男の白く晒した包帯を弾いて、ちやり、と小さく光る。視界の端ではそれを見ていたはずだが、次の時にはもう、そこに男の姿はなかった。
男の顔も造作も知らない、知れない。夕闇に淡くほどけて、見えはしなかったのだ。
彼女は大きく大きく、呆れ果てて溜息を落とした。名と顔を売らなければならぬ、自分のような立ち位置の人間とは、まるで対極のような男である。
この夕闇をして「誰ぞ彼時」とは、よく言ったものだ。
―了―
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