我らうつしよの原罪
1.
山田利吉、という男の名前に聞き覚えはあった。
学園からやって来る忍たまの子らが、「山田先生が」「土井先生が」「小松田さんが」と並んで、「利吉さんが」と話しているのを数度聞いたのだ。
山田先生や土井先生は数度会ったことがあったし、小松田さんは事務員なのだと聞いた。だからその「利吉さん」というのも、学園の関係者なのだろうと思ってはいたが、まさかこんな美丈夫だとは思っていなかった。
鼻筋はきりりと通って目元も涼しげで、如才なく喋る様子からきっと、女性から大層持て囃されているのだろう。などと薄ぼんやり、彼女は思った。
「ですから、あなたにも悪い話ではないのではないかと思うのです」
「はあ…………」
胡乱げな返事しか返せない彼女に、利吉を連れてきた乱太郎がなんだか申し訳なさそうに身を縮こませている。
乱太郎や保健委員の子たちは、数日に一度ぐらいの頻度でこの山を訪れ、薬草の手入れや採取、彼女の日常の雑事などを手伝ってくれる。代わりに彼女は格安で薬草や薬を忍術学園へ売り、また忍術学園を仲介して薬を売ってもらってもいた。
乱太郎は上級生になってから背丈もぐっと伸びたがまだ若竹のような青いしなやかさがあって、二十半ばの年上に見える利吉と並ぶとひょろっこく見える。
その乱太郎が利吉の隣でなんだか申し訳なさそうに縮こまっているので、彼女は少し可哀想になって言った。
「けれど、私はこの薬草園の世話がありますし、薬の調薬の仕事もあります」
「学園長先生とは、ちゃんと話を付けてきましたよ。しばらく薬草園は保健委員会が泊まり込みで面倒を見ますし、薬は今の在庫で足りるそうなので、急ぎの仕事はない」
「ですが、夫に、…文次郎に話も通していませんし……」
文次郎の名前を出すと、利吉はすっと目を細めた。
「その文次郎は、しばらく帰っていないでしょう? 私はね、いただけないなぁと思ってるんですよ。
私の父も山奥に母を置いて帰らず仕事をしていて、母の嘆きを聞きながら育った身です。いつも母も父を置いて偶には山を降りて仕事なり、好きなことをすればいいのに、と思っていた。
あなたにも、同じことを思っています」
確かに利吉の言う通り、文次郎はここ数ヶ月帰ってきてはいなかった。学園越しに文を送ってはくるのだが返事は不要と書いてあるし、乱太郎や他の保健委員の子たちも文次郎がどこから文を送ってきているのか、知らないそうだ。
弱いところを突かれた、と思って利吉から目を逸らす。利吉は緩く笑んで、「いいではないですか」などと言った。
「いいではないですか。
文次郎がもし戻ってこればここに泊まり込んだ乱太郎たちが事情を説明してくれるでしょうし、あなたは私に協力を請われて、嫌々ながらも山を降りた。
悪いのは私で、あなたではない。
乱太郎たちにはそう説明させますし、私からもそう説明しましょう」
「それは……」
それが全く魅力的な提案でないかと言ったら、それは彼女にとって、確かに魅力的な提案であった。今はダイジョウ峰へ出かけて長く帰らない父も、滅多に帰って来ない夫の文次郎も、気を配ってはくれるが一度も山から降りることを彼女に提案したことはない。
今までは山を降りてみたいと思ったことはなかったが、忍術学園の忍たまたちが訪ねてくるようになってからは一度彼らの通う忍術学園に行って見たかったし、彼らがときどき話す町や、城や、おかしな格好をした他の城の忍者だとか、変な顔お殿様とか、老女のお姫様とか、そういうこの山以外の世界を見てみたかった。
「……ね? いいでしょう」
彼女の心が揺れたことを敏感に見てとって、彼女の顔を上目遣いに覗き込みながら聞いてくる利吉は、まるで物語の中に出てくるたちの悪い男のようだった。彼女が子どもの頃から読んでいる草子の本に、利吉のような見目美しく、人を誑かすものが書かれていたように思う。
たらり、と垂れた利吉の横髪が揺れて、彼が手のひらをこちらへ伸ばそうとする。彼女はさっと自分の手のひらを引くと、利吉の顔をじっと見ながら口を開いた。
「……わかりました」
つまり、彼女の負けだった。
利吉が連れていくと言った城の領は、彼女が住む月ヶ峰のある土地から二、三日ほど旅した先にあった。利吉がほぼ彼女を背負子で背負って移動したのだが、彼女を背負って山を降りても長距離の移動をしても利吉の態度は飄々としていて、疲れたという素振りを見せることもない。
途中、山を降りたときに頼んで忍術学園にも寄ってもらったし、背負われてじっとしていなければいけなかった彼女に気を遣って多めに休憩をとってくれたのだと思うが、それにしても疲れをみせなかった。
「あの……。気を遣われているのなら、私は気を悪くしたりなんかしませんから。
もしお疲れなら、もっと休憩していただいても」
思わず一度そう言うと、利吉は少しきょとんとした顔をしてから、「やだなぁ」と破顔した。
「曲がりなりにも忍びなので、これしきでへとへとに疲れたりはしませんよ。なにか私の顔に疲れなど、出ていましたか?」
「いえ、逆にあまりにお疲れの様子がないので、気を遣われているのかと」
「あなたなど、今まで背負った女人の中でも、軽いほうですよ」
利吉の軽い口ぶりに、はぁ、と気の抜けた返事をする。串から団子を頬張って食べる利吉は、山の中で乱太郎と一緒にいたときよりも少し粗野な雰囲気に見えた。
「利吉さんは山で育ったと仰られてましたが、どうして忍者になろうと思われたんですか? やはりお父様が忍者だから?」
「まあ、父も母も忍者なので、自然に…と言ったところですね。それ以外は考えてもみなかった。
それは、あなたも同じなのでは?」
「そうですね。私も物心がつく頃には薬の勉強をしていたので、それ以外はあまり考えたことがなかったのですが。
ただ最近、忍術学園の子たちや文次郎を見ていて、忍者になってみたかったな、と今更ながらに思うので」
彼女がそう言うと、利吉は少し彼女の顔を見てからふっと小さく笑った。
「今からでもなれますよ、忍者。あなたなら、とても優秀な忍びになれそうだ。
……どうしました? 驚いた顔をして」
「いえ、利吉さんが、文次郎とは全く逆のことを仰るので。文次郎は、私には忍者は全く向かない、と」
「それは文次郎の惚れた欲目でしょうね」
少し驚いた顔の彼女に、利吉は薄く微笑んだ。利吉の目から見れば、彼女は薬の造詣が深く、ぼんやりとした雰囲気の割に切れ者である。
そういう見目との差異が大きいものほど相手の油断を誘いやすいので、彼女は優秀な暗殺者になれるだろう。もし彼女が例えば「毒殺だとわからないような毒」を扱えるのであれば、尚更だ。
利吉の目から見ればそうなのだが、文次郎が「忍者に向かない」と言ったのであれば、それは向かないのではなく「なってほしくない」という意味合いだろう。惚れた女には危ない仕事も汚れ仕事も自分を汚すような仕事も、してほしくなかったわけだ。
「そろそろ、行きましょうか」
残った団子を食べてお茶を飲み切ってしまうと、利吉は縁台を立った。背負子を背負って彼女を背負い、ざくざくと道を歩き出す。
背負った女は静かに大人しく流れていく景色を見ているようで、その見えるものどれもこれもが物珍しいようだった。道中でも退屈した様子は全くなく、至極楽しそうにしている。
同じく山奥で育った利吉にはその感覚が少しだけわかるが、同時に同じ男として、文次郎はこの道中を自分でしてやりたかっただろうな、と思っている。
一、二発くらいは、彼女の旦那からぶん殴られることをやむなしとしている。
彼女はついぞ知らないが、山田利吉とは悪い男であった。
城麓の町に着くと、そこはまた今までの道中とは景色が違った。賑わいも売り物も、人の往来も多さも、段違いに騒がしくて彼女は目を白黒させた。
背負子は目立つので町に入る前に利吉に直接負ぶさることになったが、彼女は顔隠しとして被らされた市女笠の下からきょろきょろと周りを眺めてまわす。利吉は目立つから止めるように、と一度言ったが、それでも笠の下からじっと周りを伺うことを止められなかった。
利吉は城麓の町に既に自分の仲間を配置していたようで、一軒の商家の屋敷に入った。数人の使用人に案内され、座敷の一角に通されると利吉は彼女をそこに下ろした。
「私は先に潜入している仲間と話をしてきます。あなたはここで少し休んでいてください。後ほど、着替えなどを持ってこさせます。
またここの主人は我々の雇い主側の人間なので、特に気を張らなくても大丈夫ですよ」
「わかりました」
利吉はそれだけを言うと、さっさと部屋を出て行った。入れ替わるように使用人の女性が着替えとお茶を持ってくる。風呂は沸かしてあるが使うか、と聞かれたのでありがたく使わせてもらい、着替えて茶を飲むとようやく人心地して、彼女はほっと息を吐いた。
ここまでの道中に三日ほどかかったが、やはりあまりよく知らない男と旅をするのは気疲れするものだった。それは利吉のほうでも同じだろう。
ただ道中で見た平野を行きながら見えた真っ赤な夕暮れや、どこか山の上から見えた大きな海。木々に縁どられていない空はどこまでも広くて、山の外は、あの山ノ辺の家の外はこんなにも広かったのか、と今更ながらに思った。
縁側の戸を開けさせてもらって、そこから外を見ていると綺麗に整えられた庭が見える。幼い頃から読んでいた草子の中の、都のお姫様が過ごしていたのもきっとこういう庭のあるお屋敷なのだろう。
そこで風呂上がりの熱を冷ましながら庭をぼんやり眺めていると、ややあって利吉が戻って来た。彼も湯を使ったようで、着替えてさっぱりした顔をしている。
「予定が決まりました。明日の昼から城主の元へ行き、そこであなたには城の姫君と会っていただく手筈です。
あなたの役柄はこの商家の遠縁で、薬学に精通した公家方子女。私はそのお付として、屋敷に潜り込む足がかりにさせてもらいます」
「薬の知識はいいですが、そんなお公方のお姫様のふりなんて、私はできませんよ」
「いえ、恐らくできますよ。
近ごろは公家とは言っても金がなく、子女が働き出る家も多い。あなたもそのような、働き口を探している公方の奥方ということにしましょう。
旅の道中あなたの所作をみさせてもらいましたが、行儀作法が随分しっかり身に付いておられる。
お父上のご指導ですか?」
「確かに父からは作法というか、他人様への行儀については厳しく言われましたが…………」
確かに、父を訪ねてくる患者は確かに身分のある人物が多かったので、父にはそういう振舞いについてくどくど言われながら育った。しかしそれが山の外でも通じるようなものとは、思ってもみなかった。
利吉は少し探るような目で彼女を見てから、すっと表情を和らげるとそのまま明日からの予定について話し始めた。彼女はその利吉の話を聞きながら、利吉が時折する、何かを見定めようとするような目線が居心地悪く、背中に薄らとした冷や汗を感じていた。
父の出自を利吉が聞いてこないのは、山田先生か誰か、学園で話を聞いているからだろう。父ははっきりと彼女に話さなかったが、文次郎や立花や善法寺などの話ぶりから、父が元々は忍者だったということは薄々悟っていた。
その真偽について利吉が彼女に聞いてこないということは、利吉は恐らく彼女が知り得る以上のことを知ってはいるし、その上で彼女を探るように見ている。そしてそれがどういう意味を結ぶのか、解を得る方法を彼女は持たないままであった。
「では明日からが本格的な『仕事』です。よろしくお願いしますね」
人好きのする笑顔でそう言う利吉は、それ以上の何かを彼女に見せないまま、部屋を去った。
今見せた薄く探るような瞳だって、ただ利吉の揺さぶりのうちの一つかもしれない。だから正答は、一つもわからない。怖い男だ。彼女は思っている。
誠実な夫の、彼女には嘘の吐けない熱い目が無性に恋しかった。
利吉に連れられ訪った屋敷は、城主のものというだけあって昨日世話になった商家よりもさらに豪奢な造りだった。敷地は広く、庭の中では小川がちやちやと流れている。
庭先には木々がいくつもいくつも植っており、外から見た時にはどこまで続くのかと思った長い塀は、ここからは見えない。おそらく手入れされた庭であろう敷地の、終わりがわからないのだ。
何度も廊下を行って曲がった先の部屋に通されたが、彼女はもう自分がどこをどう通ってここまできたのか理解していなかった。彼女の手を取ってここまで付き人をしていた利吉をそっと見れば、彼には特に焦りの表情などなく、こういう大きな屋敷を見慣れているのだろう。
ややあって上段の間にやって来たのは、まだ年若い姫だった。黒瞳がちな目が興味深々の顔で彼女を見ている。挨拶もそこそこに、まずは姫の検診をすることになった。
彼女も女性を診る機会は少ないが、確かにこういう大きなお屋敷の姫であれば、薬師と言えど男に体を診せたくはないものなのだろう。利吉も同席は断られたため、部屋の外で待機している。
お付の侍女を介しながらいくらか話をして、姫の健康状態にはとくに問題はないと告げ、検診は終わりとなった。今回の彼女の『表向き』の役割は、姫の検診をすることと、多少の喋り相手になること。そして薬学の知識を姫に教授することであった。
「まだお若いのに、薬学に精通された奥であると伺いました。こんな遠方までお呼び立てして、申し訳ございません」
「いえ。普段は遠方などへ出ることがありませんので、よい機会でした」
そう答えれば、姫は首を傾げて小鳥のように微笑んだ。茶をいただいてから、外の庭の散策を提案されて頷く。部屋の外から利吉を呼べば、彼はすぐにやってきた。
「庭にはあなたの知った人がいますが、声は上げないでくださいね」
「? どういうことです」
庭へ向かいながら、彼女を手を取って利吉が言う。利吉はそれ以上を何か言うことなく、すっと前を向いている。その視線の先、庭へと降りる姫の足元辺りに控えていた人物がすっくと立ちあがるのを見て、彼女は利吉の言う通り、あっと声を上げそうになった。
腰に太刀を佩いて、じっと前を見ている。周囲を見回し、警戒を怠らない様は、確かに腕利きの護衛そのものであった。こちらへはちらりとも目線をくれず、前を見ている横顔を、目線の強さを見間違えもしない。
利吉がこちらを支えてくる手のひらに、ぐっと力を込める。彼女は吸い込んだ息を、なんとか飲み下した。
夫の潮江文次郎が、そこにはいた。
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