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この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
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一、泥濘の心音

 
 重く塗って潰したような、真夜の森を駆けていた。
 細く夜空を爪で掻いたような、下弦の月の晩だった。もう二夜もすれば、本当の新月が訪れるだろう。薄い月明りの中で負傷した左足を庇いながら走るのは難儀で、文次郎は覆面の下で殺した息を鋭く吐いた。
 背後からはまだ複数人の男たちの怒号が聞こえてくる。六年全員での潜入任務であったが、伊作の不運から敵に見つかってしまい、六人ともが方々へ散り散りになって逃げたのだった。
 
 文次郎が足に傷を負ったのは、その途中で射られた矢が運悪く太腿の辺りに刺さったからだ。腱は切れていないようだが、走るには太腿の傷から響く疼痛が集中を欠き、普段のように走れていないことは自分でもわかる。忍び込んだ城の警邏は足を負傷した文次郎に標的を絞ったらしく、結局文次郎には夜の森に飛び込んで身をくらませるぐらいしか、方法がなかった。
 夜の森は暗く、月明りは心許ない。足元が悪く、負傷した足には厳しい道のりだ。太腿から先、左の足の先の足袋までが血でぐっしょりと濡れて重たい感触がした。どこかで止血をして血痕を隠さなければ、朝になればその血の跡を追われてしまうだろう。
 は、と空の月を仰いだ。

 ――今は逃げ続けてどれくらい経った? 夜明けまで、どれくらいだ?
 
 そうやって道行きから目を逸らしたことが良くなかったのだろう。ぐん、と踏み出した足の先には、しかし何もなかった。
 体が宙に浮き、はっと振り返れば自分の体が飛び出してきたのだろう、崖がある。咄嗟に頭を抱えて体を丸めた。ど、と強い衝撃が背中に走り、肺の中の空気がすべて抜けていく。舌を噛むまいと噛みしめた口許から、ごふ、と漏れた息が嫌な音を立てた。視界が二転三転と回っていく。
 
 文次郎の体はまるで毬のように跳ね、山の斜面を転がり落ちて行った。このままでは更に深い谷底へ落ちるのも時間の問題だ。薄れる意識の中で、文次郎はそう考えた。どうにか自分の体の落下を止めようと足や腕を突っ張り、何かにしがみ付けないかと動かす。
 ぼぐ、と嫌な音がした。
 
 藻掻くように動かした右の足が、太い樹木の幹にぶつかったのだ。文次郎は走った激痛に思わず体を丸め、結果的には木に足をぶつけた衝撃で落下の速度が弱まった。掻くように斜面に爪を立ててしがみ付き、転がり落ちていた体を止める。文次郎はよろよろと体を起こすと、近くの木の幹に体を預けて、座り込んだ。
 どれくらい落ちたのだろうか。霞む視界で上空を見ても、自分の落ちてきた崖はおろか、先ほどの月明りさえ見えなかった。
 
 うっすらと、瞼を閉じる。きっと伊作が気にするだろう。早く戻らなければ、仙蔵は部屋を火矢の煙で煤塗れにしてしまうだろう。
 そんなことを漫然と考えながら、文次郎は意識を失った。













 父が「彼」を拾って帰って来たのは、ぱちりと真白く晴れた朝だった。
 父は薬草師をしており、朝早くから山に登って薬草を摘みに行く。それを揃えて纏め、必要なら摺って軟膏などにする。足の悪い彼女は山には登れないので、早朝の薬草摘みは父、父が採って来たものを洗ったり擂粉木で摺ったり、一纏めにしたりをするのが彼女の仕事だった。
 その父が、その日の朝は背負子で背負ってきたものは薬草を入れた籠ではなく、一人の男だった。覆面をして暗い色の服を着た様は、何か後ろ暗い職のものに思えた。

「恐らく、忍者だろう」
「にんじゃ?」
「……大きなお城の殿様に仕えて、情報を集める仕事だ」

 父が言うには、この先二つほど山を越えた先に、その忍者を育てる学校があるらしい。覆面を下ろした男の顔つきは、なるほど自分とも大して年が変わらないように見えた。
 土間から上げて患者用の布団を敷いてやり、男を寝かせると父は男の怪我のほどを見分した。どうやら左足には矢か何かが刺さった跡があり、右の足は脛がぽっきりと折れている。
 父の言いつけ通りに湯を沸かして鎮静と催眠の効能のある麻の葉を出してくると、父はそれを男の口許に含ませ、同じように布を噛ませた。彼女に離れているように言ってから、父は彼の折れて曲がった足をぐっと掴み、まっすぐに嵌めた。
 気絶していた男が大きく体を震わせて呻くが、父は何でもないように男を押さえて、足に添え木をして布を巻いていく。

「坊主、意識はあるか」
「あぐ、…ぁ、」
「左腿に残った矢尻を抜くからな、耐えろよ」
「……、ふ、」

 父に言われるままに、沸かした湯で晒した布を彼女が差し出しすと、父は囲炉裏に差してあった火ばさみを掴んだ。火で炙り灰を落として消毒すると、父はそれを一度熱湯の中に付けてから男の太腿を掴んだ。
 ぶしゅ、と血が噴き出る音と男の押し殺した悲鳴が聞こえる。彼女は思わず顔を背けた。

「手ぬぐいと、きれいな布を」
「はい」

 言われたものを再度手渡し、男の血で汚れた布を回収する。男は太腿から矢尻を抜かれた衝撃で、また気絶したようだった。父に言われるままに男の怪我の手当を手伝い、ようやくひと段落して父が外に手を洗いに行ったときには、どっと背中に冷や汗が噴き出た。ようやく終わった、と思ったから気が抜けたのだろう。
 彼女は自身の額の汗を払いつつ、土と血で汚れた男の顔や首元を、湯に浸した布で拭った。戻って来た父は、彼女に少し外に出ているように言ってから、男の着ている服を脱がし始めた。
 彼女は杖を付きながら家屋の外に出、父が回収してきたのだろう薬草の入った籠の中身を片付けを始めた。途中で男を見つけたからなのだろうが、あまり荷は多くない。
 粗方を片付け終わってから彼女が家屋へ戻れば、父は男に自分の着物を着せ、囲炉裏の側の板間に新しく布団を敷いて寝かせたようだった。

「この方は一体、どうされたのですか」
「大方どこかの城に忍び込んで、見つかったのだろう。お前も数日のうちは、山狩りに気を付けろ」
「はあ…………」

 父の言に現実味が湧かず、彼女は曖昧な返事をした。

「この者の目が覚めたら、俺は今回の分の薬草を売りがてら此奴の身元を探しにいく。
 しばらく留守にするが、問題ないな?」
「この方は…………」
「悪いが少しの間、面倒を見てやってくれ。恐らくだが、そう悪いことにはならんはずだ」
「はあ」

 普段はこちらが驚くほど身の回りの変化や見知らぬ訪問者に敏感な父が、この男には嫌に甘いというか、一定の信頼を置いているように思える。彼女が聞いていないところで、父はこの男と会話をしたのだろうか。
 不思議には思ったがそれ以上は聞かず、彼女は薬草と一緒に父が摘んできた山菜を土間に置いた。父の言いぶりでは男はそのうち目を覚ますようだし、父が麓へ降りるのであれば半日の弁当をこさえなければならない。
 彼女がそうして昼飯を作っている間に、ややあって男は目を覚ましたようだった。男と父は抑えた声音でいくらかの会話をし、男はかしこまった素振りで父に頭を下げる。

「昼食ができましたが」

 声をかけると、そのとき初めて男は彼女の存在に気づいたようだった。はっとした顔をして、頭を下げる。

「潮江文次郎と申します」
「はじめまして」
「潮江殿、見ての通り娘は足が悪い。
 大抵のことは今のあなたよりは動けるのだが、もしもの場合はよろしくお願いする」
「かしこまりました」

 潮江と名乗った男の目線が、さっと彼女の左足に走った。杖を付いて歩けば全く動けないわけではないので、父の言いぶりはいかにも大げさだ、と思う。彼女は少し気まずく思って、潮江から目線を逸らした。

「俺は昼を食べたら麓の町まで行って来よう。潮江殿の連れを探しに行くから、しばらく戻れんかもしれんが、いいな?」
「はい、父さん」

 彼女は頷いた。温めた汁物の椀に蓋をし、三人分の茶碗と一緒に手提げの籠に入れて囲炉裏間に上げる。同じように片手で持てるように手提げのついたお櫃も囲炉裏間へ移し、父の分と潮江の分の飯をよそった。

「潮江さん、腹の具合はどうですか。もう少し柔らかく炊いたもののほうがよろしければ、汁と一緒に煮ますが」
「いえ、腹には特に何も負傷を受けていないので」
「わかりました」

 さっさと飯をかき込んでいる父を尻目に、潮江の食事の介助をしようと近づけば、彼は気まずそうな顔をして布団から起き上がった。慌てて背中を支えてやり、座りやすいようにもう一枚布団を出してきて丸めて背中にあてる。潮江からはまだ血と、土の匂いがした。
 父が食事を終えて出掛けてしまうと、家の中には潮江と彼女の二人だけになった。潮江は腕にもいくらか傷を負っていたが、食事するには問題がないようだった。
 箸と茶碗の擦れ合う音だけがしていた。潮江は気まずげな顔をして何も喋らず、彼女も同じような年頃の男と近くにいるのはこれが初めてで、何を話していいのかわからない。
 潮江は結局飯を二杯食べたが、二杯目を食べている途中で指の端が震え、目つきがぼんやりとし始めた。足や他の怪我からの発熱が回ってきたのだろう。飯を食べたことで体の興奮が収まり、体に熱の毒が回り始めたのだ。

「潮江さん、残りは夜にもう一度煮ますから、横になりませんか」

 ぼやぼやした目つきのまま箸で茶碗をかいていた潮江から茶碗を取り上げて言えば、潮江は熱に浮いた目で彼女を見た。断って彼の額に手をやれば、燃えるように熱い。
 潮江の背から当てていた布団を抜き取って彼の体を横たえると、冷たい水を汲みに外へ出た。合わせて熱冷ましのユキノシタを裏の薬草園から摘んで戻れば、潮江の意識はもう朧気なようだった。

「潮江さん、大丈夫ですか」

 声をかけるが、返事はない。額には多量の脂汗が滲んでおり、荒い呼吸音が聞こえる。熱と同時に体の痛覚も戻ってきたのだろう。
 今更ながら、潮江が体中に負った怪我について、欠片も「痛い」「辛い」という態度を見せなかったことに驚いた。ここまで息を荒くして呻いているのであれば、意識があり食事をしているときからかなりの激痛を感じていたはずだ。

 それだというのに、潮江は「痛い」の一言どころか、その素振りさえ見せずに食事を続けていた。彼女は薬棚からニガリ水に付け乾燥させ弱毒化したトリカブト――炮附子を取り出し刻み、薬研でさらに細かく砕いた。
 その粉末状にしたものをまず潮江に飲ませると、摘んできたユキノシタも同じく刻み薄い綿の布に乗せ、ぎゅっと絞る。そうして絞り出したユキノシタの汁を潮江の口に寄せ飲ませると、水差しで水をやった。
 附子には鎮痛と消炎の効能、ユキノシタには熱冷ましの効能がある。薬が効いてくれば、少しは楽になるだろう。冷たい水で絞った手ぬぐいで潮江の額や首筋の汗を拭ってやり、もう一度冷たい家裏の沢の水を汲んで戻ると、いくらかマシな顔つきになっていた。
 ほっとして息をつく。
 
 父に習って薬師の真似事をしてはいるが、実際の怪我人を手当する機会などそうそうない。時折父を頼って人がやってきたり、同じく山中で行き倒れた人を父が介抱することはあるが、いつも父が主体になって薬を調合するか、彼女がするにしても側に父がいた。
 それが今回の潮江に限っては、そうではない。父は潮江という男と彼女を置いて山を下りていった。

――なぜ父はこの潮江をここまで信用したのだろうか。父のいう『忍者』とは、一体何者なのだろうか。

 荒く息をはく男を看ながら彼女は思ったが、彼女の疑問に答えることのできる人間は今意識がない。
 彼女は何か、これが自分の生活が大きく変わっていってしまう前触れのような気がしてならなかった。潮江の骨ばって通った鼻筋を見ながら、彼女は自身の根拠のない妄想に苦く笑って首を降り、はく、と小さく息を飲みこんだ。
 しかし最終的な結論から言えば、奇しくも彼女のその『妄想』は当たったと言える。
 これが彼女と潮江文次郎という男との、出会いであった。






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