前回読んだ位置に戻りますか?

1

 大きな体に抉られた水がばしゃん、と派手な音を立てる。その硬質な音がひときわ周囲の日常を奪っている。跳ねた水沫が日の光に瞬いてはきらめき、ばらばらと硬い音を立てて土の上に落ちた。その水しぶきの向こうでフロイドは、むすっとした子どものような表情で、このオンボロ寮への闖入者はいつもこうなのだ。身体は大きくても、時折お菓子を買ってほしいと母親に駄々をこねる幼子と同じような表情をする。わかっていてやっているのか、わからないけれど。
 監督生は仕方がないのでため息をおとして、その場に背を向けた。ぶなぶなと相棒の叫び声が聞こえているので、これからもうひと騒ぎになるだろう。フロイドがやってきたのは昼過ぎで、授業のない日の監督生はオンボロ寮の掃除をしたり、エースやデュースやハーツラビュルの面々と食事をしたり、お菓子を作ったり、グリムと宿題をしたりなど、そこそこ充実している。今日もやりたかった風呂掃除が一段落したのでグリムとおやつを食べてから、夕食について考えようと思っていた。その矢先だった。
 フロイドは鍵が開いていれば勝手にオンボロ寮に入ってきて、我が物顔で過ごしている。今日も同じようにけたたましく入室してきたのだが、ひとつ目に付くところがあった。大きなカバンを携えていて、入ってくるなり「これ、片付けておいて」と監督生に放り投げたのだ。なんとかカバンを落とさず受け取った監督生は彼に「これは?」と問いかける。

「俺の着替えとかシャンプーとか、そういうの」
「今日はお泊りになるおつもりで?」
「今日っていうか、これから?」
「……ずっと?」
「ずっと」

 その返事にグリムが騒がしい声を上げるが、フロイドには梨の礫で意に介していない。それどころか、「ていうか、あちぃし。水浴びしたーい」などと言い出すので、現在風呂場は清掃中で使用ができないことを伝えると、あからさまに不機嫌になる。グリムが「そんなに水浴びしたいなら、庭の池ですればいい」などと意地悪を言えば、そのとおりだと言って庭の池に飛び込んでしまう始末で。ぎゃあぎゃあと、主にグリムが言い募る声を聞きながら、監督生はオンボロ寮を出た。庭の池は春先にエースとデュースに手伝ってもらって一度水を抜き掃除をしたが、不衛生であるだろう。人魚の姿ならいざ知らず、人間の姿であの池に長時間居ついていいものかどうか、意見を聞きに行かなければならない。
 外はまだまだ日差しが暑かった。学園長が買ってくれた白い日傘をさして鏡舎まで歩き出す。授業のある日は皆と同じ制服を着ているが、今日は休日だ。先日トレインが「娘のお下がりだが」と差し入れてくれたコットン地のスカートが風に涼しい。ぺたぺたと歩いていると鏡舎から出てくる人影が見えた。サバナクローのラギーだ。

「ユウくんじゃないっすか。ハーツラビュルにでも行くんスか?」
「いえ、今日はオクタヴィネルに…」

 監督生が珍しい行き先を告げたので、ラギーは意外そうに目を見開いた。フロイドがオンボロ寮に来ていると伝えれば、気の毒そうに顔を歪める。

「引き取りが来るかどうかは保護者役―ジェイドくんの気分次第だろうし、検討を祈るっス」
「ありがとうございます。ラギー先輩は、購買…植物園ですか?」
「購買っス。先週までの統一試験でレオナさんの部屋の掃除ができてなかったんで。今まとめてしてるとこなんスけど、まァ汚くて、追加の洗剤とか買いに来たんスよ」

 じゃあ頑張ってとラギーは購買へ歩いていった。しっぽと耳がぴよぴよと揺れているので、機嫌は悪くないのだろう。ジャックが掃除を手伝っているのかもしれない。しかし、レオナのほうは今回の試験をちゃんとパスできているのだろうか? 先日の試験の際、植物園での試験中に見かけたレオナの猫背を思い出す。とても、そう、いい言い方をすれば、無気力そうだった。監督生は購買のほうへ歩いていくラギーの丸まった背中を見送ってから日傘を閉じ、鏡舎に入った。薄暗く石造りの建物内は外と比べてひんやりしている。そのまま日傘を鏡のそばに立てかけて、オクタヴィネルへの鏡をくぐる。水の中にあるオクタヴィネルは外より気温が低く、火照った首筋に心地よい。寮長以下があんな性格でなければNRC校生の格好の避暑地になっていただろうが、あの性格の持ち主が集まっているので、用事もなく踏み込めばどうなるかわからない。監督生はちょうど周りに漂ってきたクラゲの人魚にジェイドとアズールの所在を訪ねた。アズールは所用で寮の敷地外へ出ているらしいが、ジェイドはモストロ・ラウンジで事務作業中らしい。クラゲの人魚が何かもの言いたげにしていたが無視して、お礼を言って別れた。彼も本当に何かが回収できると思っているわけではない。以前はそれがわからずおどおどしたものだが、トレイやケイトが簡単にあしらっているのを見て、思い直したのだ。
 モストロ・ラウンジの扉をたたくと、眼鏡をかけたジェイドが迎えてくれた。こちらを見て少し意外そうな顔をするので、「フロイド先輩がオンボロ寮に来ています」と伝えると、合点がいったように頷いた。

「それはそれは、フロイドにも困ったものです。今やりかけの業務を終わらせてから伺いますので、中でお待ちいただけますか」

 全く困っていない素振りで困ったと言われて、監督生のほうが困ってしまう。ジェイドが「どうぞ」とカウンターの一席を指し示すのでそれによじ登りながら、スイングドアを押してカウンター内へ入っていくジェイドに目を向けた。「紅茶でいいですか?」「おかまいなく」 髪も軽い整髪料で整えただけのジェイドは、全くのオフに見える。眼鏡姿もなんだか新鮮だ。彼が目が悪いのかどうがは知らないが、カウンターには分厚いファイルがいくつかと起動中のパソコンのようなものがあるので、業者とはこれのことなのだろう。ジェイドは自分の分も紅茶を注いできたようで、分厚いガラスのグラスを二つ、木目の天板におく。ミルクも砂糖も添えられていないのは、現在営業中ではないからだろう。不満があるわけでもないので、ありがたくいただいた。
 かちかち、ぱちぱちとジェイドがマウスとキーボードを手繰る音が響く。いつもはなんらかのBGMがかかっている店内も今は静かだ。不思議だなと思う。スマホもそうだし、ゲームやこのパソコンも、自分の生きてきた世界と同じようなものがあるのに、同じではない。同じようなことができるのに、仕組みが違うのだというし、説明されても監督生には理解できないのだ。自分がそこまで理解力のないほうだとは思わないのだが、説明を聞いてもさっぱり意味がわからないので、恐らく「林檎は手を離したら落ちる」というような、社会通念としての常識がなにか自分に足りていないせいではないかと監督生は考えている。しばらくジェイドがキーボードを弾くのや、ゆらゆら揺れる水槽の中の海藻や珊瑚を見ていると「お待たせしました」とジェイドから声がかかった。

「フロイドがそちらへ行ったという話でしたか?」
「そうです。今、うちの寮の池に人間の姿のままで浸かっています。野外の池ですし衛生面でも不安がありますので、引き取っていただけたらと思い、伺いました」
「さて、衛生面云々は問題ないでしょうが。そちらの本題は引き取ってほしいというほうでしょうね」

 ジェイドは口先だけで微笑んで、ふむと顎に手を当てた。ジェイドがよくする仕草だが、それをされると監督生はいつも身構えてしまう。昔父親に叱られる際、父親もよく同じ仕草をしていたのだ。なんとなく、腰が引けてしまう。

「わかりました、引き取りに伺います。フロイドの今回の家出は、僕の責任もありますからね」
「…喧嘩でもされたんですか?」
「ふふ、そのようなものです」

 まったく悪びれないジェイドの微笑みに監督生は「はあ」と生返事をしてスツールから降りようとした。「手を」 そう言って手を差し出されるので見れば、地に足のついていない自分を支えてくれるつもりらしい。少し気恥ずかしく思いながら、ありがたくその手を借りた。日本人の同年代では、こういう手助けはまずない。ジェイドが特別なのではなく、エースでもデュースでも同じように手助けしてくれるので、国民性というべきものだろう。珍しく素手のジェイドの手のひらはひんやりしている。水の中の生き物にとって人間の体温は高すぎると聞くから、もともとの体温が低いのだろう。過ごしづらいだろうなと、監督生は自分の境遇を棚にあげて思った。
 一緒にモストロ・ラウンジを出て、鏡をくぐる。鏡舎で日傘を回収すると、「可愛らしい傘ですね」とジェイドから褒め言葉が降ってきた。「学園長に伝えておきます」 すげなく言えば「おやおや」と眉を持ち上げてみせる。
 鏡舎を出て橋を渡り、魔法薬学室の前を通る。ほぼ毎日通る道のりだが、ジェイドと二人というのはどうにも長く感じてしまう。

「…暑いですね」
 
 沈黙に耐え切れずとりあえずな話題を出してみれば、ジェイドは困ったものを見るような目で監督生を見て、笑ってみせた。

「そうですね、実に暑い。陸の夏は大変です」
「水の中は涼しいんですか?」
「場所によりけりですが、僕が住んでいた地域は比較的涼しかったですね。以前お話ししたかもしれませんが、寒冷な気候の地域なので、夏は涼しく冬は寒いのです」
「じゃあ、今はとても暑いのでは? この日傘、使いますか?」
 
 思わずジェイドを見上げてそう聞くと、ジェイドは今度こそはっきりと笑った。「おかしな人ですね」 そう言って肩を揺らすジェイドは他意なく愉快そうで、そうしていると普通の学生に見えるから不思議だ。

「本当はキノコでも差し上げて今日のお詫びとさせていただきたいのですが、あいにくそうはいきませんので…。残念です。監督生さんはいつも僕のキノコを喜んでくださるのに」
「キノコ、なにか調子が悪いのですか?」

 監督生の問いに、ジェイドは歯がゆそうに植物園を見た。「そんなところです」と煮え切らない返事をする。そんなことを喋りながら歩いているうちに、オンボロ寮に近くなってきたので、遠くからグリムとフロイドの喧騒が聞こえた。まだやりあっているらしい。

「ふなあああ! 今日という今日は許さないんだぞ! ここは俺様のナワバリなんだぞ!!」
「だからぁ、それでいいって言ってンじゃん。俺はこの池とぉ、バスルームとぉ、ベッドとキッチンとソファもらうから。あ、シューズクローゼットもほしいかもォ」
「ほうほう…ってそれつまり、全部ってことじゃねえか! ふなあああ!!」

 バキバキだとか、ドカンだとか、魔法の弾けるいやな音がしている。二人を置いてきたからこうなっているが、監督生がいても似たような結果になっていただろう。それなら巻き込まれないほうがいくらかマシだ。オンボロ寮の庭が見える位置で隣のジェイドが息を吸い込む。「フロイド!」 呼びかけた声は、ドッカーンと飛んでいった魔法の爆発音にかき消された。

一作品のボタンにつき、一日50回まで連打可能です。