前回読んだ位置に戻りますか?

1.
 ガラガラガッシャーン!という演出音と、「当たり~」という呑気な機械音声が頭に響く。うっそでしょ、と思って恐々と頭上の電光掲示板を見れば、掲示板の縁を彩るLEDらしきラインライトが七色に光っていた。いやいやおかしいでしょ十年前は千ちひの「おおあた~り~〜」だったし、掲示板の光り方だって昔は豆球で、そんなゲーミングな光り方してなかった!! ふざけるのも大概にしてほしい。

「くそ、やられた……」

 背後からでっかいため息と、呆れかえった声音が聞こえる。私は恐る恐る、そちらを振り向いた。だるだるのTシャツサルエルにビーサンという、呪専時代には見たことのなかった気の抜けた服装で、『元』先輩の夏油傑は額に手を当てて項垂れていた。ゆっくりと、掲示板に目線を戻す。たとえ夏油傑が呪専から追われる呪詛師――犯罪者であったとしても、彼が優秀な術師であることに変わりはない。その夏油先輩に頭を抱えさせるのだから、つくづくととは本当に厄介なのだ。
 電光掲示板にはでかでかと、ぎらぎらと、ばちばちと光りながら、こう書いてある。
 
 『セックスしないと出られない部屋』






 元々は、地方への出張へ出たことが始まりだった。呪専を卒業してからも補助監督として勤務しているが、地方都市のある一帯で決まった年齢の子どもが一時昏睡し、その後目覚めはするがなんだか様子がおかしい、という事件が発生していると報告があった。恐らくは呪霊の仕業だと仮定をして、先行調査のために派遣されたのが私だった。
 結論として言えば、呪霊の仕業で相違なかった。数か月前、山中にゴルフ場拡張のための工事が入り、その際に呪霊を封じていた祠を知らず破壊してしまったことが、騒動の原因のようだった。呪霊の等級は低く見積もっても一級のため一級術師もしくは特級術師を派遣すべき、と報告済みだ。呪霊は子どもの魂に自身の根を張り、その根を通して外界からの呪力と外界知識を取得しているようで、時間経過で特級へ上がるのは確実であった。
 しかも間の悪いと言えばいいのか、運が悪いというのか。そうして山中の呪霊の様子を探っている間に、私自身が野良の呪詛師に目を付けられてしまった。山中だから誰もいないと思って、うかうか『五条』という名前を出したことが良くなかった。呪専、かつ『五条悟』と繋がりのある人間だということがその呪詛師に知られてしまい、『五条』と渡りをつけろと脅され危害を加えられそうになって逃げていた。

「というのが、私があの山にいた経緯です」

 そこまで説明すると、床に胡坐をかいて座り込んだ夏油先輩はふかぶかと息を吐いた。変わらず、片手で顔を覆っている。

「よくわかった。君は昔と変わらず、迂闊らしい」
「? なんでですか?」
「君、あの下郎にまんまとおびき出されたんだよ。わからないかい?
 ゴルフ場は新規着工ではなく、『拡張』工事。呪具が納められた祠はせいぜい作られて十年から二十年。天文道的には、初期の祠の位置は、元々現在のゴルフ場敷地にあったと考えるのが自然だ。だから、祠はゴルフ場建設に合わせて移設されたものだ。
 よって、運営側には『祠』の存在は知られていると考えていい。それなのに今回、その祠の存在が無視された、であれば、そもそも呪専との繋がりが切れていないとおかしいだろう。
 異変が起こって数か月の速さで、呪専に連絡がつけられるコネクションは存在する。しかし祠の存在は無視され呪具が破壊された。とすれば、祠は無為に壊れたのではなく、作為で壊されたんだよ。
 『誰か』が『何か』の理由で、呪専関係者をあの場所に誘き出したかったんだ。それこそ特級呪霊を祓うに相応しい、『五条』へ連絡がつけられるような関係者を、ね
 つまりその『誰か』というのが、先ほどの呪詛師だろうさ。だから『君が迂闊』だったんだ」
「へえぇー、相変わらず、夏油先輩って頭いいですよねぇ。私は、全く・全然・かけらも、気づきませんでした!」

 「すごいですぅ流石ですぅー」とおサルのおもちゃのように手を叩けば、夏油先輩は更にふかぶかと息を落として額を覆った。確かにそう言われれば、私が見分していた祠は、破壊されているとはいえ、そこまで古いものではなかったように思う。しかし、私一人ではそんなこと気づきもしなかった。そもそも、呪詛師に襲撃されて逃げて回っていた私は、夏油先輩が偶々現れなければ、その呪詛師に殺されていただろう。

「本当に最悪だ、やっぱり外になんか出なければよかった」
「夏油先輩はなぜ、あんな山の中にいらっしゃったので?」
「その『子どもの魂に根を張る呪霊』を取り込みに来たんだよ、もう無駄足になったけれど」

 逃げ回っていた私はやはりというか、なんというかでやっぱり呪詛師に捕まってしまい。あわや殺される寸前、というところで目の前の夏油先輩に助けられた。
 盛大に舌打ちをして現れた先輩は私の首根っこを掴んで呪詛師から距離を取ると、そのまま呪霊を放って呪詛師の体を食らわせた。計算外だったのは、呪詛師が自分の魂とその『子どもの魂に根を張る呪霊』との間にも根を張らせており、自分の命が尽きそうなときはそのパスから呪力を逆流させて呪力爆発を起こすような仕掛けを作っていたことだった。
 つまり、呪詛師の体と魂は夏油先輩の呪霊に食い尽くされる前に、爆発四散した。木っ端微塵だった。そして、それはその呪詛師の近くにいた私と夏油先輩も、巻き込まれるほどの威力だった。

「領域展開『鳴去梅下枝』(なきていぬなるうめがしづえに)!」 

 呪力が広がるスピードは桁違いに速く、私の領域展開が間に合ったのは奇跡だった。ごろごろごろと先輩と二人で領域のこの『部屋』内に転がり落ちた。咄嗟に掴んでいた夏油先輩のTシャツを引っ張って伸ばしてしまっていたのに気づいて、慌てて手を離す。ガラガラガラガッシャーン!!当たり~~~!!!と間抜けな声がしたのは、そのときだった。これが、私が術式に付随した領域を持っているのに、補助監督しかできない理由、そのものだった。
 頭上に燦然と輝く「セックスしないと出られない部屋」のネオンに、私は今更ながら爆発四散したほうがマシだったのかもしれない、と同じく疲れた顔でそのネオンを見る夏油先輩を見ながら、思った。 






2.
 術式にデフォルトで領域が組み込まれている術師は、数は多くないがそこまで珍しいものでもない。しかし、私の家系が相伝として引き継いできたこの術式を『ハズレ』として忌み嫌うのも、ハズレを引いた子女は術師としては生きていけないのも、術式の中身を見れば仕方のないことであった。
 定めた対象と領域結界内に閉じこもり、条件を満たすまでは対象も術者本人も脱出不可能である。またその脱出条件は、対象との関係性を踏まえた上でのランダムである。対象に対して好意があれば好意的な条件になるが、敵意があればそれこそ「相手を殺すまで」出られない部屋になってしまう。
 術者本人に実力があれば別だろうが、そうでなければ自ら逃げの道を潰すことになり、領域を展開する旨味はほぼ何もない。術式としてこの『鳴去梅下枝』を発現した子どもは、みな術師になることを諦める。私も例外なくその一人であったが、生まれた時代は恵まれていた。一昔前であれば母体として生家で飼い殺しか嫁入りという名目の政治の道具にされていただろうが、呪専に通いそのまま補助監督として自立することができた。
 『セックスしないと出られない部屋』と燦々輝くネオンサインを前に、夏油先輩は現状把握だけ済ませると私の腕を掴んで部屋の中央にあるベッドの上に放り投げた。慌てて受け身を取ったが、山のように積まれたクッションに顔面から突っ込んで「ぶへ」と間抜けな声が出る。

「さっさと脱ぎな」

 背後から、冷徹な声がした。慌ててクッションをかき分けてみれば、私を放り投げた夏油先輩が怖い顔をして、ベッドの上に膝をかけたところだった。学生時代よりも幾分長くなった髪が、彼が少し前傾の姿勢を取ったことで頬に落ち、微かな影を作る。
 その冷えた眼差しに恐ろしさと、そして学生時代には知らなかった仄暗い色気のようなものを感じてしまい、背筋がすっと冷える。ごくりとひとつ生唾を飲み込んでから、慌てて首を振った。

「ま、待ってください夏油先輩! 一度、れ…冷静になりましょう!!」
「申し訳ないけれど、こんなところで時間を食っている暇は、ないんだよね」

 そう言った夏油先輩が頬に落ちた一筋の髪を、指先で耳にかける。その仕草が如何にも生々しくて、思わず後ずさった。

「い、いやだ!」
「嫌だも何も『セックスしないと出られない部屋』なんてものを展開しているのは、君じゃないか」
「だってそうしないと、あの爆発に巻き込まれて……」
「そうやって私を救ったつもりかい? 君が」
「だって…………」

 後ずさった体は夏油先輩に簡単に捉えられ、嫌だと振った腕はベッドに押し付けられ動かせもしない。私の児戯のような抵抗には、まるでびくともしない。私の腹の上に乗り上げ見下ろしてくる先輩は確かに男の体で、そして私を見下ろす彼の目は消毒液のような冷ややかさだった。

「だってそんな、先輩……、なんで…………」

 結局、子どものように私が呟いたのは泣き言だった。ぎゅっと目を閉じてみれば、いつかの日の夏油先輩が蘇ってくる。恐らく彼を「先輩」とまだ呼んでいるのは、私だけだ。彼にまだ私の先輩でいてほしくて、それでこんな子ども染みた言い訳染みた、彼を逃がさないための馬鹿げた手段を取っている。わかっている。

「だって、領域展開しなかったら、先輩は一人で爆発受けるつもりだったじゃないですか」 
「私のほうが呪力総量も大きいし、打ち消しの呪力展開だって盾になる呪霊を出すことだってできた」
「その間に先輩、絶対に逃げるつもりだった、もん」
「私を捕まえていて、それでどうするつもりなんだ? 呪専に通報するかい、それとも悟を呼ぶ?」
「ちが、ちがう……!」
「違わないだろう」

 瞼を開ければ大きく膨らんだ涙が溢れ、こめかみを流れていった。半端に耳から垂れて落ちた先輩の髪が頬を擽り、そしてこちらを見下ろしてくる彼の目はいつかとは何もかも、違っている。まるで呆れられて捨てられる子どものような気持ちになって、小さく唸った。

「もう一回だけでも、あなたに会って話したかった。それがそんなにも、愚かなことですか」
「そうだね。現状を見れば」

 当たり前だ。私も彼も、もう十代の子どもではなく彼は呪詛師で犯罪者で人殺しで、私は呪専の補助監督で。あの時のあの頃とは、何もかもが違う。
 先輩が私のシャツのボタンに手をかけ、ひとつずつ外していく。怖くて、彼の冷えた眼差しがとても怖くて身を捩って逃げようとするけれど、それよりも強く抑えつけられ、私が如何に矮小であるかを知らしめられる。その冷たさが、ただただ悲しい。

「いい加減に観念してくれないかな、処女でもあるまいし」
「っ、」

 顎先を手のひらでぐっと抑えられ、夏油先輩が覆いかぶさってくる。怯えて、目を閉じた。噛みしめた唇の先をぬったりと柔らかい何かが這って、舐めて、それでも口を閉じていれば、がり、と唇に歯を立てられた。

「ッ、い、たぁ、」
「はは、ごめんね」

 悪いなんて欠片も思っていなさそうな軽薄な口調で先輩は言うのに、滲んだ血は優しく親指でなぞった。まるで口紅を差すような仕草に、その仕草のやわらかさにじわじわと頬が熱くなる。気恥ずかしいさに眼を逸らしたけれど、視界は少し潤んでいる。

「や、めてください」
「へえ、これで照れるんだ。初心だね」

 ようよう、消え入りそうな声でいえば、顔を背けた私を先輩は愉快そうに嘲笑った。先輩はきっと、『こういうこと』に慣れているのだろう。愉快そう悦に入った様子で小さく笑い、彼は私の首筋に顔を埋め、はあ、と熱い息を吐き出す。ぞくぞくと震えが背筋から駆け上がってきて、経験のない私はその湿っぽさに怯えた。

「あのときも、抱いておけばよかったんだ」

 体を起こした先輩が、私の額を撫でながらそんなことを呟く。言わないでほしかった。脳裏の蘇った十年前の記憶に、裏切りに、涙が滲みだす。今のあなたがどうだっていい、けれど、過去のあなたを否定しないでよ。そう言いたいのに私の呼吸は先輩の口の中へ吸い取られていくばかりで、言いたいことの一つだって、言えやしなかった。






3.
 夏油先輩は、一つ年上の先輩だった。入学時から補助監督への志望を出していた私は、一応は簡易的な結界としての機能がある領域持ちであることと、五条家の次期当主との繋がりを持っておきたい父のゴリ押し意向で、二年生の実習に駆り出されることも多かった。それは珍しい反転術式持ちの家入先輩がいれば猶更だったし、慣れてきてからは問題児と称される五条先輩と、補助監督たちとの緩衝材役として呼ばれることも多かった。
 そういう経緯だったから、夏油先輩の補助監督役として任務に同行することも、そこそこの頻度であった。その頃の私の術式は今よりももっと詳細が不明瞭で、コントロールも効いておらずよく暴発していた。
 その数日前にも灰原と組んで夜中のプールに忍び込んで遊んでいたことが夜蛾センに見つかり、逃げる途中で様子を見に来た七海を巻き込んで『出られない部屋』の術式が展開されてしまう騒動があったばかりだった。
 お題は『三人手繋ぎでスキップをして部屋を三十周しないと出られない部屋』だった。七海はクソほど嫌そうな顔をした。
 別の日に閉じ込められたときは『パン食い競争して三人それぞれ十勝しないと出られない部屋』だったし、家入さんとのときは『怪談百話しないと出られない部屋』だった。家入さんの怪談めちゃくちゃ怖くて私は普通に漏らした。
 そんな調子だったから、任務帰りに夏油先輩と閉じ込められたときもそういうふざけたお題なのだろうと、高を括っていた。聞きなれない「おおあた~り~~」という間抜けな機械音声と、『セックスしないと出られない部屋』の燦然と輝く電光掲示板を見るまでは。

「何、これ……」
「いや冗談だろう、これ……」

 呪霊を祓った帰りでそこそこ砂埃に塗れた先輩は、現れた電光掲示板を見て苦く笑った。私もその掲示板の内容が理解しきれず薄く苦笑いして、周りを見る。
 部屋はいつもの通り殺風景だったが、例えばスキップするときはそれに相応しい体育館のような広さがあったし、パン食い競争のときは何もない中空からパンが釣り下がっていたし、怪談のときは雰囲気作りにどうぞとばかりに部屋が薄暗く蝋燭が無数に置いてあったりした。
 そしてこの部屋には、白いクッションに埋もれたベッドが、部屋の中央に鎮座している。ただそれだけだった。いやいやいや、と首を振ってもう一度電光掲示板を見るが『セックスしないと出られない部屋』の文字は何も変わらない。

「君の術式は変なお題ばかりとは聞いていたけれど、『こういうもの』なのか……?」

 夏油先輩は、若干呆れたような白けたような顔で私を見る。「いやいやいや」と慌てて首を振り、違うんですと何度も重ねた。こんなお題は初めて見た、こんなものは今までなかった。そう何度か繰り返したが、はた、と気づいたのは呪専に入ってから何度か術式の暴発に飲み込まれはしたが、異性と二人だけで術式に飲まれるのはこれが初めてだ、ということだ。

「実家に伝わっているこの術式の話では、『部屋から出る条件』には個人差が多くて、何を主軸として展開されるか全くわかっていないそうなんです。私も今まで家族や、呪専に入ってから七海や灰原や、家入さんとも閉じ込められましたが、こんなのは初めてで、ただ……」
「ただ?」
「家族以外の男性と、二人きりで閉じ込められたのは、これが初めて、です…………」

 ぼそぼそと小さい声で言って、私はそのまま俯いた。恥ずかしくて、夏油先輩の顔を見ることはできなかった。情けなくて、薄く涙が滲んでくる。
 生家では術式のこともあり、落ちこぼれだ役立たずだと言われて育ってきた。けれど『五条悟と同時期に学生でいられる』というおこぼれで呪専に通わせてもらえ、そこで七海や灰原といった級友ができ、信頼できる先輩たちにも出会えた。夜蛾センは口煩いオヤジだが生家の父と違って私を『モノ』を見る目で見ない、優しい誠実な大人であった。
 だから、調子に乗っていたのだ。私でも、外の世界で迷惑を掛けずに生きていけるなんて、そういう愚かな勘違いをしていた。
 ぼたぼたぼた、と涙が落ちる。頭上から夏油先輩の戸惑った声が聞こえる。そんな声を上げさせることさえも申し訳なかった。

「え、泣いているのか、なんで?」
「ゔ、ごめ、ごめんなさぁい、ぅゔ、」
「ええ、なんで泣くの、ちょっと待ってくれ、ええー、」

 夏油先輩は慌てた素振りで私の頭を何度か撫で、それでも泣き止まないのを見ると、困ったように眉尻を下げた。心優しい先輩を困らせているという事実に、更に胸の奥が締め付けられる心持になる。何度か泣き止もうと目を擦るが、それでも後から後から、涙が出てきた。
 せめて泣き止まなければ。先輩に迷惑をかけている。何度目かに目を擦ると、夏油先輩は「少し落ち着こうか」と言って私をその場に座らせた。それでも泣き止めず、しゃくり上げて泣いているうちに段々と頭が霞んでくる。夏油先輩が宥めるようにリズムをつけて私の背中を撫でるので、そうして頭が霞んだまま、そのまま少しうとうと眠ってしまった。
 それから目が覚めたのは、何分、何時間後のことだったのだろう。目が覚めたとき私は部屋の中央にあった白いベッドに寝かされていて、そのベッドの下には側面に背を預けて、夏油先輩が座り込んでいた。

「あ、起きたの」
「夏油せんぱい、えと、なんで……」
「君、泣き疲れて寝ちゃったから」

 そう言った夏油先輩は、先ほど私が泣き出す前に見たときよりも、生傷が増えていた。はっとして入口のほうを見れば、変わらず輝く電光掲示板と、その下に付いたいくつかの打撃痕がある。

「やっぱり領域は、内側からの破壊には強いね。正直いけるかもって舐めてたよ」
「え、」
「手持ちの呪霊もいくつか出してみたんだけど、どーも部屋への攻撃は、そのまま攻撃者に戻ってくるようだ」
「先輩、」
「調子に乗って結構強め打撃の呪霊とか使ったんだけども、いやぁもう、全然、ダメ。
 やっぱり脱出条件が明確な分だけは、領域の強度が上がっている。流石よくできた領域だよ」
「先輩!」

 調子よく話す夏油先輩を遮って、慌ててベッドから転がり降りる。ベッド下の先輩の正面に回ってみれば、彼の制服は任務終了時にはなかった傷や汚れがいくつも増えていた。彼の言葉の通りなら、一級術師の夏油先輩が飼っている呪霊の攻撃がそのまま跳ね返ってきたのだ。それはいくら夏油先輩と言えど、こうもなってしまう。
 ごめんなさい、と思わず言いかけて、口ごもる。先輩は私のそんな様子がわかったようで、小さく苦笑いをした。

「君が寝ている間に解決できればよかったんだが、そんな格好もつけられないみたいだ。悪いね」
「違うんです、私が、私の術式が、」
「術式の暴発は、私も覚えがあるから。君だけじゃないよ」

 腹に手を当てている先輩は、恐らく肋骨が折れているかしているのだろう。いつもは涼しい顔の額には薄らと汗が滲んでいる。それを見て取って、私はおずおずと彼の腹に手を伸ばした。正しくは、下腹部へ。

「ちょっと待ちな。なに、何をしようとしている?」
「お題を消化すれば出られるんです、だから」
「待ってくれ、意味がわかって言っているのか?」
「わかってます」

 わかってる。それくらい、子どもじゃないからわかってる。
 腕の骨もどうにかなっているのか、強くは力の入らなさそうな夏油先輩の手の制止を無視して、彼の下腹部、制服のズボンに手を伸ばす。呪専の学ランはカスタマイズし放題なので、普通のスラックスとは造りが違っている。いまいち、外し方がわからない。情けなくてまたじわじわと涙の滲む目元を払って、先輩の腹の上で金具をがちゃがちゃといじる。

「ほら、ね。君には外せないだろう?」
「外せます、ちょっと黙っててください」
「でも、泣いてるじゃないか」
「自分が情けなくて泣いてるんです」
「怖いんだろう、手も震えてる」
「武者震い!」

 図星をつかれたのに顔を上げ言い返せば、夏油先輩は一瞬虚をつかれた顔をしてから、ふは、と小さく息を吐いて笑った。いつもの涼しい顔ではない、少年のようなその笑い方に、思わずベルトをいじっていた手が止まる。「すまない、なんて頑固なんだと思ったら」 そう言って先輩は腹部を抑えながら肩を震わせるので、私もなんだか気が抜けてしまった。

「ね、無理なんかしなくていいんだ。怖いんだろう、そういうことは、好きな人とするために取っておくべきだと私は思うよ」
「いつも家入さんは『夏油は据え膳生成機だから気をつけろ』って言ってますが」
「んん"っ、それはね、まあそういうお姉さんはね。だけど、君は呪専の後輩だからね」
「でもだって、先輩の怪我が……」
「君は気にしなくていい。それにそのうち、きっとあの利かん坊が痺れを切らして……」
 
 そこまで先輩が何かを言いかけたとき、遠くから何か硬質なものを割る連続した破壊音と、すぐに追ってドオンと腹の底から突き上げられるような破裂音が響く。振ってくる瓦礫から、立ち上がれない先輩を庇って慌てて頭上を見れば、部屋の上部が一直線に割れて青空が覗いていた。

「おーい傑ぅー。出られない部屋って、マジで出られてねえのぉー?」

 聞こえた声は、五条先輩のものだった。痺れを切らして、というのは五条先輩のことなのか。ふと時計を見れば確かに任務が終わって帰寮する時間をとうに越えている。領域結界の端に立ってこちらを覗き込んだ五条先輩は、帰寮予定から一夜経っても戻って来ない私たちを探しに来たのだという。
 怪我のひどい夏油先輩を見て、硝子を連れに行く、と一度呪専に戻った五条先輩を待ちながら、私は木陰に腰を下ろした夏油先輩の側でぐずぐずとまた泣いていた。

「だから言ったろう。その内悟が探しに来ると踏んでたから」
「でも、やっぱり先輩の怪我は私のせいで……」
「硝子が治してくれるから、大丈夫。それにさっきも言ったが君は私の『後輩』だから。面倒くらい、見させてくれないか」

 そう言われても泣きやめずにべそべそと泣いていると、五条先輩が家入さんを連れて戻ってきて、それに七海と灰原も一緒にいた。私は七海に「だから言ったでしょういい加減に術式の制御を覚えないと絶対に痛い目を見ますよって!!」と盛大に叱られ、さらにびゃーびゃーと泣いた。そのとき夏油先輩は家入さんの反転術式を受けながらそれでも笑ってくれていたので、私にとっては苦い思い出であると同時に、初めて夏油先輩という人を、一人の個人として見た記憶でもあった。

 その後、夏油先輩と五条先輩が揃って珍しく大怪我をして帰ってくるような不思議な任務や、灰原が死んだことや、疲れ切った顔の七海が前よりも更に喋らなくなったことや、そもそも任務が多くてとても忙しかったこと。そういうことがいくつも幾重にも積み重なり、気づけば夏油先輩はとても遠い人になってしまっていた。
 今でも、覚えている。
 内部からの領域破壊をしてみたいと五条先輩に言われて、二人で「出られない部屋」の領域に入ったことがある。私の領域は脱出条件が明確な分、堅牢であって、そのときの先輩はしばらく六眼で領域の解析をしていたけれど、結局破壊するのはやめたようだった。
 通常どおり条件を満たして領域を出ると言った五条先輩とお題をこなしたが、私が世間知らずだったせいで先輩にはとても迷惑をかけてしまった。ようよう、五条先輩に俵担ぎに抱えられてグラウンドに展開していた「出られない部屋」から出れば、そこでは夏油先輩が待っていた。
 任務に出ていると聞いていたはずなのに、どうして。その疑問が顔に出ていたのだろう。夏油先輩は「硝子に聞いて」と言葉少なく言った。

「どう? 悟なら、彼女の領域を破壊できたのかい?」
「いや。できなくはないけど、術者本人に影響なく領域解体するのはかなり面倒なタイプ。仕方ないからお題消化して出てきた」
「そう。今回の『条件』は……」

 夏油先輩が言いかけたとき、遠くから夜蛾センが五条先輩を呼ぶ声がした。「やべ、次の任務忘れてた」と五条先輩はやらかしの顔をして少し考えてから、「よろしく」と米俵のように抱えていた私を夏油先輩に渡した。放るように夏油先輩に渡された私は慌てて夏油先輩の制服にしがみつき、夏油先輩は私を落とさないように抱えてくれる。私たちを尻目に、五条先輩はさっさと夜蛾センのほうへ行ってしまった。
 その五条先輩が夜蛾センに引っ叩かれて引きづられていくのを見ながら、ふと、夏油先輩と二人になるのは久しぶりだと思う。

「お題、今回は何だったの」
「あ……う……」

 思わず口ごもったのは、今回が「二人で水風船のぶつけ合いをしないと出られない部屋」だったからだ。最終的にはぶつけ合いをして出てはこれたのだが、「水風船」だとして部屋の中で出てきたものが、五条先輩に言わせれば避妊具――つまりコンドームだったのだ。
 私はてっきり、水風船とは、この細長いゴム製の袋のことだとばかり、思っていた。生家で親戚の子たちともこっそり水を入れてつついて遊んでいたし、家にたくさん置いてあったから。たくさん減っていると怒られたから、ぶつけ合いなんてしたことがなくて一度してみたいとは思ってはいた。十年越しに五条先輩相手に願いは叶ったが、めちゃくちゃ恥ずかしかったし気まずかったので、正直もう二度としたくない。
 目を逸らしてきょときょととあらぬ方向を見た私に、夏油先輩はそれ以上何も言わなかった。五条先輩が無駄にハイテンションでゴム風船(もどき)のぶつけ合いを挑んできたせいでくたくただったし、恥ずかしさが抜けていないので私は顔も頭も熱かった。夏油先輩はそれっきり喋ることなく、私を抱えたまま寮まで戻ると女子部屋の近くで私を下ろしてくれた。

「じゃあ、私は戻るから」

 そう言って背を向けた夏油先輩の背中に慌てて「ありがとうございました!」と声をかけたけれど、夏油先輩が立ち止まることはなかった。






4.
「…………というのが、十年前の真相です」
「待っっっ、てくれ」
「いえ、先輩が悪い顔して『経験あるんだろ?』みたいなこと言うし、なんか勘違いしてる気がして……」
「それはそう……なんだが、私の記憶とちょっと最後の方の温度感が違いすぎるというかなんというか……。本当に待ってくれ。私たちの過去の、あの取り返しのつかない感じを消さないで」
「そう仰られましても…………」

 待てを繰り返す夏油先輩に、私は困って眉を下げた。私をベッドに押し付けて悪い顔をしていた先輩は、今や顔を覆って横で蹲っている。少しだけ見える耳が赤く見えた。

「ええー何、じゃあ。君、処女?」
「はい、まあ」
「え、キスしたのは?」
「さっき先輩に舐められたのが初めてです」
「ええー…………」

 先輩は一頻り唸ると、顔を覆っていた手を外して「ごめん」と小さく唸った。私は半身を起こしてそんな先輩を見ながら「別に気にしないですよ」と返す。

「私、これでも学生のときは先輩のことが好きだったので、気にしてないです」
「それ今言う?」

 げんなりした口ぶりの先輩に、だからむしろ役得でした、と続ける。先輩は胡乱げな目線をこちらへ向けてきた。私は顔をくしゃくしゃにして多分情けない顔で笑い、ベッドから起き上がった。
 ドアを見れば、相変わらず電光掲示板には「セックスしないと出られない部屋」の文字が、もはや誇らしげに輝いている。過去の行き違いが解決しても、現状は解決されていない。どうしたものか、やはりさっさと先輩に抱かれるべきなのか、と考えていれば後ろで先輩も起き上がった気配がした。

「君の話を聞いて考えたんだけど。
 つまり、この部屋でお題をクリアしたと判定するのは『誰』なのか、という話だと私は思うんだ」
「クリア判定ですか? 確かに……。えっ誰なんです?」
「私の考えでは、『君』なんだよね」

 背後の先輩を振り向こうとした途端、大きな手が伸びてきて再度ベッドの上に引き倒される。ゆっくりと私の上にのしかかってきた先輩は、先ほど私をベッドに放り投げたときよりも数段数倍、楽しそうに見えた。

「つまりここでえっちしなくても、君が『これはえっちだ』って思うくらいドスケベなことをすれば、出られるんじゃないか? と、思うんだが」
「待って待ってください先輩、顔がめちゃくちゃ悪人です」
「すまないねぇ、私は実は大量殺人の犯人で常軌を逸した極悪人なんだ。へえ、知らなかったのかい?」
「嘘でしょ、この人今そのネタぶち込んで現実直面させてくんのマジで??」
「まあまあまあ」

 俄かに機嫌をよくした先輩は、にやにやと悪党の顔をして私をベッドに押し付ける。私の頬にちゅっとキスをしてから、首元に顔を埋めてきた。は、と熱い吐息が首元に吹きかかり、悪い予感が背中を駆け上がる。肌が粟だっていくのが、自分でもわかった。

「ん、せんぱ、い、」
「ハハ、顔がかわいくなってきたじゃないか」

 先輩は軽く笑って、やわい舌先でぬったりと、首元の皮膚を撫でた。ぬるついた柔い舌の感触が肌の上を滑り、耳元が肩が、震えて痺れていく。その感覚が怖くて、思わず先輩のTシャツを縋るように掴めば、ますます気を良くしたように笑った先輩は私のその手のひらを握り込んだ。

「怖いかい?」
「こわ、先輩、違う人みたい、でぇ、」
「ウンウン、私はいつもの優しい君の先輩だよ」

 ちう、と先輩が私の唇の横に吸い付いて小さく音がした。恥ずかしくて目をぎゅうっと瞑れば、絞り出された涙がぽろりと落ちる。「あーかわいい」 嘆息のように呟いた先輩は、その小さな雫を舐め取った。
 先輩の大きな手のひらが、確かめるようにシャツの上から私の肋骨の形を撫でて、まさぐっていく。脇の骨、肋骨、腹、腰の骨。下腹の奥がぎゅうっと疼いて、あまりのはしたなさに泣きそうになって先輩を見れば、彼はそんな私を見てぎらついた目で笑っていた。持ち上げた唇の端から隠しきれていないような白い歯が覗く。

「ほら、わかる?」
「う、あ、」

 ごり、と太腿に押し当てられた硬いの正体がわからないほど、初心でもない。夏油先輩は指先でつう、といやらしく私の腰骨から臀部、そして鼠蹊部を撫でるとスーツのスラックスを履いたままの私の足を抱えて、ぐっと自分の下腹部を私の鼠蹊部に押し付けた。

「せ、んば、い、ぁ、」
「ふ、やらしい顔、してるなぁ、」

 ぐり、ぐぅ、と押し込むように先輩の硬いものが私の下腹と更にその下、内腿の一番柔らかいところを擦り潰す。やめてほしくて彼のTシャツを掴んだが、縋るような仕草にしかならなかった。こんなの、駄目だ、こんなのもう、えっちじゃないか。恥ずかしさと激しくのたうつ胸の中の心臓の動悸に薄ら泣きながら腕で瞼を覆えば、ドアのほうから「ぱっぱらー」と間抜けな音がした。

「ほぉら、やっぱり」
「ぅ、ぐす、」
「君がうぶい子でよかったよ」

 夏油先輩はさわやかに言って体を起こし、ぐすぐす泣いている私を抱えて立ち上がる。いつかのように、俵担ぎだ。

「先輩ひどい、ですぅ、」
「ウンウン、出てから恨み言はたくさん聞くからね」

 夏油先輩は軽く言って、「脱出成功!」のネオンが光る出口に足をかける。もうやだ、全部いやだ、なかったことにしたい、勘弁してくれ。その間際に、そう思ったのがよくなかったのだろうか。
 部屋から出た瞬間、背後で呪力の弾ける気配がした。「おっと」 先輩は一つ二つステップを踏むように地面を蹴り、私を肩に抱えたままで中空に浮く。見えたのは、部屋に入る前に呪力爆発を起こそうとしていた例の呪詛師が弾けるところだった。部屋に入ってからそこそこ時間が経っていたはずなのに、呪詛師の爆発の瞬間に戻ってしまっている。どういうことなのか私にはまるで理解できていなかったが、夏油先輩の方は欠片も焦りを見せない。
 私を抱えたまま軽々と着地した先輩は手のひらからずるりと呪霊を展開し、それは盾のように構えた。呪詛師の呪力は一度収縮し、その後溢れかえるように膨らんだ。爆発と共に地響きが腹の底を揺らし、土煙で視界がなくなる。

「やあ、そこそこの威力だったね」

 先輩の取り出した呪霊は硬化する性質があるようで、呪霊も先輩も私も、ほぼ無傷だった。夏油先輩は呪霊をしまうと私を担いだまま、弾けた呪詛師の死体を足先で蹴った。一応こちらにも仕事があるのであまり無碍なことはしないでほしいのだが、夏油先輩には呪専の仕事など関係ないのだろう。呪詛師と繋がっていた例の呪霊の残滓さえ残っていないことを確認すると、先輩はやれやれと言いながらそのまま歩き始めた。

「え、ちょっと、待ってください。そろそろ下ろしてもらえませんか」
「ん? 言ったろう、さっき。『恨み言は後で聞くよ』って」
「いやもう結構ですから……」
「そんなに遠慮しないでくれ、君と私の仲だろう?」

 肩にかついでいた私の腰を掴んで、先輩が私の体を自分の前に引き出す。足を割られ、まるで夏油先輩の腰に足を絡ませてしがみついているような格好にされ、顔を覗き込まれる。私はひいっと喚いた。人の腕を勝手に取って、首に絡めてくる先輩はどう考えても手慣れている。悔しい。

「君、どこにホテル取ってるんだい? とりあえずそこまで行こうか」
「だから下ろしてくださいって」
「ウンウン、後でね」
 
 まるで幼子を往なすような調子で私を抱えたまま先輩は山を下り、その後本当に私の取ったホテルまでやってきた。まあその後のホテルの部屋でのことは言うまでもなく、というやつだった。
 事が終わったあとに、どうしてわざわざ部屋を出てから『致した』のかと聞いた私に、夏油先輩は少し考えてから「私だって自力で部屋を出ることはできるからね。実践したまでさ」と何気なく、宣った。それを聞いて無自覚だろうが何だろうが、今も夏油先輩の心の中には五条先輩が住んでいるのだな、なんて。
 そんな詮の無いことをぼんやりと、考えている。






 ずるずると夜蛾に引きずられながら五条は、一つ年下の後輩と、その彼女を横抱きで抱える自分の親友を見た。他人の領域を自身の領域を使う以外で解体することは可能なのか、例えば対象者の呪力を上回る呪力を流し込んだり、内部から領域を破壊し脱出することは可能なのか。それを試みたく、彼女に協力を依頼した。
 結論として、領域を無理やりに破壊することは可能ではあるが、対象者の術式に干渉し最悪は破壊する可能性がある。それがわかったため、彼女の領域は破壊することなく脱出することにした。彼女は本気でコンドームを水風船だと勘違いしていたようだし、それを指摘されて顔を赤くしたり青くしたりしていたので、そこそこに面白味のある試みだったと思う。
 展開された領域を六眼で解析しながら、術式保持者の彼女自身は「詳細不明」だと思い込んでいるこの領域の脱出条件について、考える。対象者との関係性によって脱出条件が変動することは、彼女も理解していた。五条がこの術式を解析し理解したのは、詰まるところ要するに、脱出のための条件とは「術者本人が対象者と『どうなりたいか』を極端に増幅させた形である」ということだ。
 友人だと思っているのであれば「手を繋ぐ」「怪談をする」「水風船をぶつけて遊ぶ」など彼女が子どもの頃からしてみたかったのだろう、遊戯のような内容になる。その根底には、友人として親睦を深めたいという欲求が存在する。そこからいつかの夏油との『出られない部屋』の条件は、セックス――性交であったことを考えれば、自ずと理解してしまった。
 避妊具で赤面し羞恥で床に蹲るような女が、性欲のみで性交を条件にするとは考え難い。つまり彼女は、夏油と男女の関係として親しくなりたい。夏油傑に恋をしている。そういうことではないのか。
 いい加減に自分で歩かんか、と頭上で夜蛾が怒鳴っている。五条は「やだね」とすげなく返事して、そのままグラウンドに置き去りにしてきた二人を見ていた。
 夏油に横抱きにされた彼女は、体をカチコチに緊張させて夏油を見ている。夏油はなんだか判然としがたい様子で、腕の中の彼女と引きずられていく五条を見て、やがて歩き出した。
 あの鈍感で敏くはなさそうな後輩は、自分の恋心になど気づいていないのだろう。そして夏油は、その後輩の女子を他の女のような「遊び相手」とは見ていない。本人たちも気づいていない程度に細やかな他人の心の機微に触れてしまい、五条はげろげろ、と小さく舌を出した。
 
 後輩の恋心がどうなろうと知ったことではないし、夏油がそれをどうしようと五条の構うことではない。けれど、二人がそれを拗らせてぎくしゃくするのであれば、五条は楽しくはない。
 そうは言えども、後輩の彼女に接する夏油は遊び相手の女を前にしたときよりも若干優しく、彼女自身を大切なものとして扱っているように見えた。それは夏油にとって彼女が女ではなく、『後輩』だからなのだろう。
 でも、それだけだったとしても、大事にしてやればいいと思った。小さな子猫をかわいがって愛でてそこに癒しがあるように、親友がか弱く大切なものを抱えて癒されることがあるのであれば、きっと。
 それが望みだった。ただそれだけの、祈りのような行為だった。
 だって人と人の感情は、六眼の観測の対象外なのだ。だから五条悟に彼女の思いを理解しきることも、親友の気持ちを指し図ることもできない。だからこれは、五条悟の小さな祈りであり情の心であり慰めであり、そしてごく愚かな、慈しみの心であった。
 それだけの話だ。



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