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恋も渋みも味のうち

1.
 戸内から漂ってくる甘い米の炊ける匂いと、醤油と味醂が煮える匂いに、くぅ、と小さく腹が鳴る。乙骨はドアノブに手をかけて、少し迷ってから音を立てないようにそっと扉を開けた。
 職員寮の一角には、まるで日暮れの薄闇と一緒に漂うような、家庭の夕食のいい匂いが漂っていた。その匂いのせいで、せっかく音を立てずに室内に入ったのに、言うことを聞かない腹の虫がぐぅ、と先程よりも大きな音を立てる。
 乙骨は慌てて腹を押さえたが、「乙骨くん?」と問いかけながら振り向いた。
 『彼女』に自分の存在がバレてしまった。

「おかえり、怪我はないですか」
「あ……、ないです……」
「よかった。もうすぐできるから、手を洗ってきてね」
「わ、わかりました、」

 乙骨はようよう言って、慌てて洗面所に駆け込んだ。職員寮も学生寮も似たような造りだが、なんとなくの雰囲気が違う。誰のものかわからないシェービングクリームや電気カミソリを横目に見ながら、乙骨はじっくりと時間をかけて手を洗った。
 それは無駄な抵抗で、無駄な時間稼ぎであった。
 手がふやけそうなほど洗って、そろそろとキッチンのある一角へ戻ると、ダイニングテーブルに掛けた彼女が気づいて顔をあげた。

「できたから、食べようか」
「ヒ、は…、はい……」

 言われてしまえば仕方ない。乙骨は言われるままに彼女の向かいのダイニングテーブルに掛け、目の前に並んだ食事を見た。
 今日のメニューは鶏肉の照り焼きで、乙骨が肉の脂身が苦手だと言ったので綺麗に皮と脂が取られている。副菜には千切りのキャベツと串切りの赤いトマト、ゆで卵ときゅうりとハムの入ったポテトサラダと、ワカメと豆腐の味噌汁がついている。
 自分のために作られたのだ、と思うと背筋に冷たい汗が浮かぶ。ハワ、と小さく息を飲んだ乙骨の仕草を感じ取ったのか、彼女は「今日は五条さんが、ポテトサラダが食べたいって言ってたので」と付け加えた。
 キッチンを見れば、まだ作業台の上には大きなボウルに入った大盛りのポテトサラダが鎮座している。そのボウルを抱えて元担任がポテトサラダを食べている様がなんとなく想像できてしまい、少しだけ、乙骨も笑った。

「じゃあ、はい。いただきます」

 乙骨の表情が緩んだのを見て、彼女がさっと手を合わせる。乙骨もおずおずと、手を合わせた。

「いただきます……」

 小さく呟く。彼女は乙骨が食べ始めに少し気まずげにするのがわかって、いつもあまりの興味のない騒がしいテレビ番組をつけておいてくれる。
 彼女がそうして気を遣って乙骨から目を逸らしてテレビのほうを向いたのをわかって、乙骨はまずポテトサラダを口に入れた。酢と少しの胡椒が利かせてあり、あまりくどい味付けではない。何となくで飲み込めてしまったことに少し虚をつかれてから、もう一口、口に入れた。空腹の底に食べ物が落ちて、ひもじくなっていた腹が、体が、「もっと」と言っている。
 てらてらとした鶏肉を箸でつまむと、ぽろ、と柔らかく崩れた。溢さないように気をつけて、口に運ぶ。醤油の風味と、少しの味醂と砂糖の甘さと鶏の油がじゅわっと口の中に広がって、そのまま慌ててご飯をかき込む。ごくん、と嚥下するとその後はもう止まらなかった。
 一口、二口、三口、と茶碗の中の白飯を食べ鶏の照り焼きをわっしと摘んでから、はっとして向かいの彼女を見る。彼女は悠々と自分のペースでテレビを眺めながらポテトサラダを摘んでいたところで、はっと顔を上げた乙骨を見て、少し笑んで首を傾げてみせた。

「今日も任務、大変だった?」
「え、あ、……はい」

 少し顔を赤くして俯いた乙骨に、「そっか」と頷く。そのまま彼女は目を逸らして食事を再開したので、乙骨も、もそもそと同じように食事を再開した。今度は先程のようにガッつかないように、注意しながら。
 その後結局、ご飯のおかわりまでさせてもらって、作ってもらった食事を食べ切ったところで、彼女が食後にもう一度お茶を淹れてくれた。

「今日また五条さんがサボりに保健室来てたんだけど、持ってきたのが信玄餅だったの。わかる? 信玄餅」
「あの、きな粉がたくさんかかってるお菓子ですよね?」
「そうそれ。それでね、天気よかったから窓が開いてて。……五条さんの信玄餅は風に煽られてきな粉全部なくなるし、家入さんは保健室中にきな粉撒き散らされてブチ切れするし」
「ウワァ……」

 話を聞きながら、乙骨は眉を顰めた。五条と家入は、同期だというだけあって仲がいいというか気安く、そして互いに言いたいことを言い合うので本人達が軽い小競り合いのつもりでも、周囲はかなりハラハラさせられるのだ。

「えっ、それどうやって片付けたんですか?」
「五条さんが術式対象をきな粉に絞って無下限の順転回したの。それで、その後は無下限の中で信玄餅食べてた。
 家入さんがさせたんだけど、呪術界最強にそれさせる家入さんヤバくない?って、私は横でずっと思ってた」
「それは、確かに……」

 堪えきれずに少しだけ苦笑いを溢すと、彼女もふふっと笑ってお茶を飲んだ。ほっと息を吐いてから、乙骨は使い終わった食器をまとめてシンクへ持っていく。
 せめて食器を洗わせてほしい、とは数度頼んだ。重ねて何度も言われたことで、乙骨が逆にされるままだと余計に気を遣う質だとわかったのだろう。
 彼女の分と自分の分とをまとめて洗いながら、残った炊飯釜の中の米をまとめて握って、おにぎりを作っている彼女を横目で見る。夜食にしなよ、と言って、彼女がいつも持たせてくれるものだ。
 食べなかったら明日の朝ご飯か、おやつにしたらいい。彼女はそう言うが、朝まで残っていたことは今まで一度もない。
 見透かされているなぁ、と乙骨は彼女の握る大きな大きなおにぎりを見ながら、思った。
 

 
・・



 五条悟はウウン、と唸った。
 目の前で項垂れる自身の教え子、――乙骨憂太の所業への唸りだ。目の前の回転椅子に座らされた乙骨は、至極バツの悪そうな顔をして、すこし目線を反らしている。隣の家入は乙骨と同じく備え付けの椅子にかけて、呆れたように溜息を落とした。

「何回目だ、乙骨」
「すみません……」

 しおしおと申し訳なさそうに乙骨は謝るが、家入とて謝ってほしくて言っているわけではない。そうじゃなくてだなぁ、と言う家入の口調には呆れと困惑が滲んでいた。
 乙骨憂太が任務終了後に倒れた。原因は呪霊から攻撃を受けたわけでもなんでもなく、――栄養失調だ。食生活をおろそかにしたために、倒れたのだった。これで三回目だった。

「君はまだ成長期だし、体も大きいほうだ」
「僕には負けるけどねェ~」
「黙れ屑。……だからその体格と年齢に見合った食事をしなければいけない。わかるね?」
「……はい」

 乙骨は申し訳なさそうに頷く。家入はもう一度「気を付けるんだよ」と重ねて言って、乙骨の腕から点滴の管を抜いた。すまなさそうに頭を下げて出ていく後ろ姿を見送ってから、深々と息を吐く。

「あれは、またやらかすだろうね」
「そう思う?」
「乙骨が食事に無頓着なのは、家庭環境に要因があるだろ、恐らくな。
 ……一般家庭出身の子には時々あるが、呪霊が見えることで家庭内に軋轢を生んでしまって、家庭環境が良くないことがある。乙骨はまさにそれだろう」

 五条はそれに返事をしなかったが、彼も恐らくそれが原因だろうと考えていた。里香を過呪怨霊に堕としてから、乙骨は五条家に連なるにふさわしい呪力を発現し、里香による騒動と、そして不可解な呪霊の姿を見ながら成長した。
 特に里香が引き起こしたいくつかの事件は、確かに呪霊が見えない人間からすれば気味が悪いものだったろう。その騒動や里香によって引き起こされた暴力に、両親が疲弊するのも無理はない。

「習慣や、『食事』に対しての捉え方の問題だ。乙骨一人で解決できる問題じゃない」
「じゃあ、どーすんの」
「……ウン、食育をしようと思う」
「食育? 硝子が?」
「馬鹿を言え、私に他者に教授できるような立派な生活習慣があると思うか」
「ショーコさんそれ胸張って言えることじゃないんだよなァ〜」

 家入も五条もだが、他人に胸を張れるような生活はまず送っていない。となれば、家入や五条は乙骨の生活改善のための『先生』役にはどうしたってなれなかったし、そもそも彼らのドス黒い社畜生活には別の救いの手が必要である。

「保健室に今度新人の子が来るんだよ。その子にしてもらう」
「ああ、窓か補助監志望だったけど呪専職員として勧誘したって、例の子? 華楽のオヤジのとこの子でしょ」

 呪専のある筵山の麓には、長く窓を務める家系が経営する中華料理店が存在する。屋号から「華楽のオヤジ」と五条も呼んでいたのが、その新人の父親だ。

「それだよ。かなり優秀な子でね。
 私と同じようなズルをしたから、今年で院を修了予定なんだ」
「ふうん。それで、どうするの」
「だから『食育』だよ」

 家入は持っていたペンを振りながら言った。五条はそれを聞いて「フゥン」ともう一度息を漏らしたが、わかっていないのは丸わかりの素振りだった。
 まあそれを気にする家入ではなく、五条ではなかったので五条はそれからもしばらく、その『彼女』のことを乙骨専属の料理人なのだ、なんて思っていた。






2.
 もちもちと甘い米粉混じりの生地を噛んで、渋めに入れたお茶でぐっと飲み込む。
 家入に呼び出され「君の食育担当を付けた」なんていわれて彼女を紹介されてから、もう一か月ほどが経った。
 
 「食育担当」として紹介された彼女は、春先に呪専の保健室に着任したカウンセラーだった。彼女はまだ二十代前半の若い女性で、乙骨とも、五歳も年が離れていないのではないかと思う。
 家入よりも柔和な雰囲気を持った彼女は、それでも呪専に存在する女性らしくどこか冷徹で、家入の言う『食育』を放棄して逃げようとしたところを捕まえられ食卓に縛り付けることを数度されてから、乙骨もようよう、諦めた。
 彼女は習慣が大事だというのだ。食べたくないなら食べなくてもいいし、お腹が空いていないのならそれでいい。
 けれど、彼女とは週に三回は一緒に食事をする約束をしていて、その時間は乙骨が食べても食べなくても、彼女と一緒に職員寮の食卓につかなければいけない。その決まりを、彼女は絶対に守れというのだった。
 そして、そうやって実際に食卓につくのであれば、彼女が乙骨のために作った食事に手をつけない、などと言えるほど、彼は意固地にはなれなかった。元々、級友がいればつられて食事をしてはいたのだ。
 ただ学年が上がって、乙骨一人での任務も更に増えたこと、食事や生活時間が他と大きくズレたことがよくなかった。自分一人だとどうにも面倒で億劫で、食事をするということを後回しにしがちなのだ。
 そもそも、乙骨は自分のためだけに食事をするということの意味がよくわかっていなかった。他人が美味しいと言っているところを見るのは楽しいけれど、自分が食べても美味しいと思うことはあまりない。だから乙骨は、いつも食事というものを蔑ろにしがちだった。
 そうして食事の優先順位を下位にし続けた結果、ブっ倒れることを数度繰り返し、それを見かねた家入により生活指導としてつけられたのが、彼女だったというわけだ。
 少し年上の女性に至れりで食事を作ってもらうことも、どうでもいい話をしながら食事をすることも気恥ずかしく、前述のとおり乙骨は数度理由をつけて逃げ出しているのだが、それで許してくれるような人間を家入が配置するはずがない。
 いつの間にか五条を味方につけた彼女に乙骨はまんまと捕まり、「乙骨くんがそうやって逃げるなら私もご飯食べられないなぁ、心配で」という脅しを受けること数度。
 乙骨は観念して、週に三度を粛々と職員寮へ通うのだった。

「乙骨くん、今度は何味にする?」
「あ、あの……皮だけでいいです……」

 そう?と首を傾げながらも、彼女が焼けたどら焼きの皮を一枚、ぺろんと乙骨の皿に載せた。隣の席ではもっちもっちと狗巻がリスのように頬を膨らませて、間にミルクバターを挟んだどら焼きを食べている。
 肩にパンダを乗せた五条は、キッチンで虎杖や野薔薇とわやわや言いながら、どら焼きの皮を大量に焼いては好きなものを挟んで食べてを繰り返している。早々に「甘いものはもういい」とリタイアした真希と伏黒は、匂いも嫌がって学生寮へ戻ったようだった。
 
 どら焼きが浴びるほど食べたいと言い出したのは五条だった。乙骨と彼女が夕食を食べているときにふらっと現れたのだった。
 五条はいつも前触れなく現れては彼女に「何か食べるもの」をねだるし、彼女のほうも手慣れた様子で五条に「何か食べるもの」を与える。
 それこそ、ボウルいっぱいのポテトサラダとか、大皿に山盛りにした唐揚げとか、具沢山にしたキーマカレーとか。
 五条はそれをキッチンに立ったままでひょいひょいと、あっという間に食べて、少しお喋りをしてまた仕事へ戻っていく。自分ではなく、そうやって立ったまま食べて好きな物しか食べない五条にこそ『食育』が必要なのでは、と乙骨は思うが、彼女が五条へ何かを言うところは見たことがなかった。
 そういうお喋りの中で五条が「どら焼きを浴びるほど食べたい」と言い出して、それに彼女が「いいですね」と言った。五条が伊地知に無理を言って予定を開けたのも、乙骨含めた他の生徒の予定を開けさせたのも、あっという間の出来事だった。

 今度は変わり種を焼く、しょっぱい奴を作ろうと五条が言い始めたのに、狗巻が「ツナツナ」と言って席を立っていく。手にはどこからか取り出したツナ缶を持っていたので、本当にツナを入れるつもりなのだろう。
 なんとなく、乗り切れなくていつもの食卓の席からわいわいと騒ぐ五条たちを眺めていると、食卓の上のホットプレートで黙々とどら焼きの生地を焼いて、具を挟んでを繰り返していた彼女が「行かないの?」と聞いてきた。

「正直、向こうに言ったらその『変わり種』を食べさせられそうなので……」
「乙骨くん、変わった食べ物は警戒心あるほうだもんね」

 彼女は薄く笑って、ヘラでどら焼きにクリームを挟んでいる。今任務に出ている術師や補助監督にも配るつもりらしい。

「包むの手伝います」
「いいの? ありがとう」

 使い捨てのビニール手袋をして、彼女が中身を挟んだどら焼きを個包装の袋へ入れていく。今焼き上がっている分の中身を挟み終わった彼女はマスキングテープを出してきて、そこに何が挟まっているのかをちまちま書き始めた。
 似たようなことを妹もしていたような気もするが、あまり多くは覚えていない。どら焼きを袋に入れ終わった乙骨は、ちまちまと字を書く彼女を感心しながら見ていた。

「書くの上手ですね」
「そう? ありがとう。乙骨くんも袋詰め、手際よかったね」
「昔、妹がバレンタインにお菓子を配るって言って大騒ぎしてたのを、手伝った記憶が」
「ああ。妹さんがいるんだっけ」

 先に袋詰めした分のうち、粗熱が取れた物に彼女がマスキングテープを貼っていく。粒あん、餅入り餡子、胡桃餡、クリーム餡、ミルクバタークリーム、抹茶クリーム餡、抹茶クリーム、色とりどりのマスキングテープとそれを貼っていく彼女の細い指先が、いつかの妹の子供じみた指先と被った。
 そのときの妹は確か小学生だったから、出来上がったお菓子はお世辞にもいい出来ではなかったけれど、そうやってお菓子を贈り合う友人がいることに羨ましさを感じた覚えがある。手伝ってくれたお礼と言って、妹がくれたチョコレートケーキの切れ端は、混ぜきれなかった砂糖がジャリジャリといっていて、少し笑ってしまった。

「――憂太、ツナ、おかか!」
「えっ、何狗巻くん、」
「こーんぶ、梅!」

 キッチンの方でワアワア言いながら具を挟んでるいた狗巻が戻ってきて、どら焼きの乗った皿を乙骨と彼女に押し付けまた戻っていく。彼女は苦笑しながら渡されたどら焼きを四つ切りにカットすると、そのうちの一切れを口にした。

「あっ、美味しいよ、これ。挟まってるのは、卵サラダかな?」
「…………え」
「まあまあ、騙されたと思って」

 にこにこと笑って言う彼女を前に、乙骨は覚悟を決めてえいっと口にその変わり種どら焼きを放り込んだ。卵はマヨネーズで和えただけのシンプルなもので、卵のもったりした風味とどら焼きの皮の甘さが程よく混じる。もちもち、と数度咀嚼して、確かに案外美味しいと思った。

「乙骨くんが変わった物が苦手そうだから、美味しかったのだけ持ってきてくれたんだね」
「……そう、みたいです」

 虎杖が何かを挟んだどら焼きを食べて、「これはダメなやつ!」とぎゅっと眉を顰めて叫ぶ。それを見た五条もどら焼きを口に放り込んで、飲み込んでから大笑いをした。

「誰かが何かを好きとか、嫌いとか苦手とか、そういうことを覚えていてくれるのって好意だと思うし、一緒にご飯を食べたりこうやって何かを一緒に作ったりするのって、楽しさの共有だから」
「…………」
「乙骨くんが一人でご飯を食べることが好きじゃなくても、君自身に興味がなくても。
 きっとみんなは乙骨くんとご飯を食べることも楽しくて、君の好きな物も苦手な物も覚えたいって思ってる。そういう楽しさや嬉しさが積み重なればいいなって、私は思ってるよ」

 そうやって真正面から言われて、乙骨は何も言うことができなかった。
 恥ずかしさと嬉しさとで、ふにゃ、とにやけそうな口許を噛んで、熱を持った頬を隠すように俯く。彼女はそれ以上に何も言わず、席を立って変わり種のどら焼きを焼く五条たちの方へ行ったようだった。

「乙骨先輩、もう食べんの?」

 一人になった乙骨を目ざとく見つけた虎杖が、キッチンからこちらへ来て乙骨に声をかける。狗巻やパンダなら見て見ぬふりをしてくれていただろうが、虎杖はそうではない。
 乙骨は赤くなっているだろう目元から下を手のひらで押さえて「……うん」と、か細い声で頷いた。

「お腹が、いっぱいで……」
「先輩って、その身長の割に少食?」
「胸が……」
「アッ、胸焼け的な? 甘いの、たくさんは駄目なんかぁー」
「……そう、みたい」

 歯の奥がむずむずと、痒い。
 どくどくと、この血が湧くような胸の高鳴りが甘くないというなら、言われた言葉を反芻して噛み締めるこの心の奥が甘くないというなら。
 「無理せんでな」という虎杖の気遣いを聞きながら乙骨は羞恥で潤む視線の横目で、そっと彼女を見た。
 『恋』とはかくも、簡単に曖昧に大した理由もなく単純に高さを保って落下するように、突き落とされるように、まるで救われるみたいに。
 堕ちるものらしい。
 知らなかった。






3.
 恋を自覚したこととほぼ同時にあったものは、小さな諦めと絶望であった。彼女は大学を出てから呪専にやってきた年上の女性で、乙骨はまだ呪専の学生で、しかも彼女に世話を焼かれている立場だ。
 年下は恋愛対象外だろうか、とか、そもそも男と認識されているのだろうか、とか。悶々と思っている間に約束の曜日が来て、しかし結局、授業や任務が終わればいそいそ彼女の待つ職員寮へ向かう自分がいる。

「あ、お疲れ様です……」
「乙骨くん、いらっしゃい」

 食堂のドアをそっと開けると、食卓の机で何かの資料やら書籍やらを広げて、パソコンと向き合っていふ彼女がいた。いつもはタブレットをいじっていることはあるが、PCを触っていることは珍しい。

「何かあったんですか?」
「ん? ああ、いえ。提出用の資料がまだ纏まらないので、少しやってただけ。すぐ片付けるね、気にしないで」

 その日の夕食は回鍋肉と餃子、もやしのナムル、トマトと卵の炒め物、冷奴だった。先に副菜と鍋から上げた回鍋肉を出して乙骨に食べるように言って、彼女は餃子を焼き始める。
 基本、品数が多いのは乙骨のためだ。ドンと大皿に盛られた回鍋肉を崩しながら、同じく大皿に餃子を盛り付ける彼女をそっと見る。

「はい、ごめんね、お待ちどう様」
「あっ、すみません、……ありがとうございます」
「乙骨くん、そうやって謝る癖は直らないね」

 彼女が苦笑いをして、乙骨の向かいの席の椅子を引く。乙骨は何も言えず、黙って味の濃い回鍋肉と白飯を口の中に押し込んだ。
 惚れた弱みという訳ではないと思うのだが、彼女の作る食事はどれもおいしくてそんなにガッついて食べてはいけないと思うのに、体が言うことを聞いてくれない。彼女は乙骨が我慢できずに大口で食事をしていると、なんだか嬉しそうに見えるので、さらにへにゃへにゃと我慢が効かなくなる。
 結局今日も彼女に言われるままにおかわりをして、たくさん食べてしまった。今日の任務であったことや、狗巻とのくだらない会話や真希にまた組手で投げられたこと、パンダの手触りが今日もよかったことなどを話していると、彼女は向かいの席でそれを楽しそうに聞いている。

「あの、こんなどうでもいい話、面白いですか……?」

 思わずおずおずと聞くと、彼女は「勿論」と大きく頷いた。

「私、高校生のときは不登校で。学校行けてなかったから、乙骨くんたちを見てるのはちょっと憧れもあって」
「そ、うなんですか……」
「いじめとか、そういう大それた理由じゃないんだよ。
 ただ呪霊が今みたいにはっきりと『見える』ようになったのが中学生から高校生のときで、心が追いつかなかっただけ」

 それは乙骨にも少しだけ心当たりがある、と言いかけてからふと、彼女が自分の『食育』係として紹介されたことを思い出す。多少なりとも乙骨と境遇が似ているから、家入は彼女を紹介したのだろうか。
 お茶のおかわりを入れるね、と立った彼女の背中は、彼女のパーソナルな部分を見たからだろうか。いつもよりもずっと細く、頼りなく見えた。

「…………それなら僕は、あなたに会えてよかったです」
「え?」

 小さな小さな声で言った本音は、やはり小さすぎて彼女には届かなかった。乙骨は表情を切り替えて、へにゃ、と笑うと、お茶のおかわりは自分が入れるので、と席を立った。食器をまとめてシンクに入れて、食器洗いも始めなければいけない。
 少し戸惑ったように礼を言った彼女は、乙骨に促されるままに席に戻って座った。そして乙骨が食器を洗い終わって振り向いたときには、気づいたら、彼女は食卓の机に突っ伏していた。
 慌てて近づけば、微かな寝息が聞こえる。手には、分厚くて難しそうな単語の並んだ書籍が握られていた。
 きっと乙骨の食事を作る以外にも彼女にはたくさん仕事があって、こうして乙骨と一緒にいることも彼女にとってはその『仕事』の一環でしかない。
 そうわかってはいても、普段と違って目を瞑って疲れたように眠る彼女が好きだ、と思った。ぐぅっと喉の奥が、甘く締め付けられるみたいだった。彼女に触れてみたい欲求と自分はただ面倒をみられているだけの立場だという理性が均衡を続けて、胸の中を駆け巡る。
 乙骨は食卓の側にかがみこんで、伏せて眠る彼女の横顔をそっと見た。小さく吐息の漏れる唇は、薄く開いている。その柔らかそうな唇から、目が離せなかった。

「好きなんです」

 口から溢れたのは、紛れもない本音だった。

「あなたに触ってみたい。抱きしめて、好きだって言いたい」

 その瞬間、ばちっと彼女の瞼が開く。屈んで彼女の顔を覗き込んでいた乙骨は、ぴったりと合った視線に目を逸らすことができなかった。

「う、あ……」

 自分の顔が熱を持っていくのが、わかる。気まずげに目を逸らした彼女の視線がとても雄弁に、今の乙骨の欲望を聞いていただろうことを証明していた。
 何か言わなければ、何か、何か、何かとは、何を? ――自分の気持ちを?
 はくはくと開閉する口をぎゅっと引き結んで、乙骨は拳を握った。

「――あの、」
「もう遅いし、戻らなきゃね」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。ぎゅっと拳を握ったまま、彼女を見る。彼女は乙骨から目を逸らし、垂れた髪を耳にかけながらテーブルの上に視線をやっている。
 彼女は頑として、こちらを、乙骨を見るつもりがないようだった。
 つまり『交わされた』のだとわかって、腹の底が冷えていく。まるで鉛を飲まされたみたいに、胃の奥が重く冷たかった。

「あ、……はい、そうですね」
「うん、じゃあ、ね」

 おやすみ、と彼女が言ったとき、いつもは乙骨を見て微笑みながら言ってくれるのに。明日も任務頑張ってね、と笑ってくれるのに。
 今日の彼女は気まずげな表情のまま目線を逸らして、乙骨を見ようとしない。やらかしたのだ、とようやく悟ったときには、もう何もかもが遅かった。
 静かに音もなく閉じた職員寮の食堂の扉が、まるで彼女の心のようだった。



・・



 彼女は失意の表情でこちらを見ていた乙骨を思い出して、深く溜息を落とした。麓に実家はあるが、山道を上り下りして呪専へ通うことを面倒がって職員寮に住む人間は一定数存在する。彼女もその内の一人だった。
 食堂へ持ち込んだPCをその職員寮の自室へ持ち帰り、そうだ、コーヒーを飲もうと思っていたのだった、と食堂に取って返す。湯を沸かしてドリップパックのコーヒーを淹れながらも脳裏に浮かぶのは、「もう遅いから戻ろうか」と彼女が言ったときの乙骨の顔だった。

「熱っ、…………、ハァ」

 ぼんやりとしながら淹れたコーヒーを飲んで、舌を焼く熱さに顔を顰める。そのまま大きく溜息を吐いたのは、そうやって乱される自分がありありとわかったからだ。
 家入から今回の話をもらい、乙骨と初めて会ったときは「大人しそうな子だな」と思ったのが第一印象だった。
 数少ない特級術師の内の一人だというから、もっと呪専時代の五条やあの頃の夏油のような、強い自信と自覚と傲岸不遜ぶりのある子なのかと漠然と思っていた。それが実際に会ってみれば真逆の印象で、少し驚いたことを覚えている。
 ただ任務の話を聞いていると時折みせる乙骨自身の我の強さが、やはり彼を特別に、特級術師と足らしめているように思えた。こう、と決めたことはそうそう譲らない子だな、というのが二番目の印象だった。

「エー、何。今日は何もないの?」
「……五条さん」

 ふかぶかと息を落としていたところにやって来たのが、件の特級術師だった。彼も職員寮に居座っているため、どうしても会う頻度は多少高くなる。そして彼女が小学生の時から麓の実家の中華料理屋で見かけていた食べっぷりのいい高校生は、今は我儘をそのまま大きくしたような、大人になっていた。

「おにぎりと、他の余ったものが冷蔵庫に……、温めましょうか」
「いやいいよ、自分でできるし」
「餃子はまだ焼いてないので、焼いてください」
「はいよ」

 キッチンの脇に布巾をかぶせて休めてあったおにぎりを目ざとく見つけて、五条はそれを齧りながら冷蔵庫を開けてタッパーをレンジに放り込む。適当にレンジのボタンを押して温めをしている様は、全くの普通の社会人の男のようだった。

「どう? 憂太は」
「最近はかなり素直に食事もできるようになりましたし、初期のように逃げることもないですし……」

 でも次回はどうするか、わからないですけどね。
 思わずそう言いかけて、咄嗟に口をつぐむ。その微妙な表情が出ていたのか、五条は三口目のおにぎりを口内に放り込みながら、胡乱げな顔を彼女に向けた。あたためる分とは別に避けていたもやしナムルのタッパーを開いて、中身を摘まむ。

「何、憂太に告られでもしたの」
「………………」
「エ、当たった感じ? マジ?」
「五条さんのその、普段へらへらしてる癖に変なところで勘がいいの、何なんですか。めちゃくちゃキモいんで直してください」
「君ね、昔から言ってるけどキモいとか簡単に僕に言ったら駄目だからね。
 言われ慣れてないから、僕マジで傷つくからね」

 八つ当たり気味に言った彼女に、五条は慣れた調子で返す。言うだけ言って、よろよろと食堂を出ようとした彼女に「無碍にしたら、駄目だよ」と五条の無情な声が追いかけてくる。
 そんなことはわかっている、と強く言い返したいのを堪えて、彼女は食堂を後にした。五条とは付き合いも長く、小学生のときから店に食事に来た五条と顔を合わせていたし、不登校気味だった中学から高校時代は五条の気が向いたときに勉強を見てもらったりもしていた。
 自室でPC画面を睨みながら、報告書を数行打ち込んでは消してを繰り返す。全く集中できそうになかった。五条の言う通りだ。無碍にしてはいけないし、けれど応えるわけにもいかない。
 乙骨が少しずつ、おずおずと自分の話をするようになって、困ったように眉を下げてへにゃ、と笑ってくれるのを見るのは嬉しかった。
 遠慮がちに伸ばしていた箸が、段々我慢できないというように作った惣菜をわしっと掴んで、大口でご飯をかき込むのを見ると、作り手冥利につきると思っていた。

「一番困るのは、そういう乙骨くんをかわいいと思ってしまってる。
 この自分なんだよ……」

 乙骨が可愛くて人として好ましくて、無碍にできそうにないとわかっている。だから動揺して心を乱されて、困りきっているのだ。きっとあの最強には彼女のこの心の機微は、わからないだろう。
 彼女はぐったりと机にうつ伏せた。
 やらなければいけない仕事も課題も何一つ、手につきそうにはなかった。




 

4.
 昨日の『やらかし』が頭から抜けず、深々と息を吐きながら乙骨は廊下を歩いていた。集中力がなく、真希に数度投げられ虎杖にもぶっ飛ばされて、二人に本気で心配されてしまい、ぶつけた頭を押さえて保健室に向かっている次第だ。
 簡単な外傷なら反転を回して自分で治すが、頭を打っていたことと、動きに集中力が欠けているから乙骨がいても単に邪魔なのだろう。真希はかなりキレた顔で「さっさと保健室に行け」と言った。それを取りなす虎杖も苦笑いをしていて、どう見ても今の自分の状態は通常ではないのだろう。
 いっそ特級案件になるような任務でも入れば、自ずと緊張感と集中力が生まれるだろうか。でもその前に死ぬかもな…などと胡乱なことを考えながら廊下を歩いていると、少し向こうに五条と脳裏から離れない彼女の姿が見えた。

「なあおーい、明日からいないんだって? 大学戻るって?」
「ああ、そうですね。耳が早いですね」
「硝子に聞いた」

 五条はいつもの調子でにへらっと笑って言うと、「その間さぁ〜、ご飯ないじゃーん」とぐだぐだ彼女に絡み始めた。ちらり、と乙骨のほうへ微かに目線を寄越してみたので、五条は乙骨がここにいることをわかっているのだろう。

「あと週末は君の実家行くから、ちゃんと用意しておいてよね」
「は、はぁ……。その場で言っていただければ、父がすると思いますが……」

 五条はそう言って、にやりと口許を歪めてから手を振って、廊下の向こうへ消えた。
 実家? 用意? 五条が彼女の実家に何をしに行くというのだ?
 ちか、と目の前が白むようだった。乙骨は衝動的に足を踏み出すと、そのまま止まれなかった。

「あの、」
「え、あ、乙骨くん……」

 彼女は驚いた声音を上げ、乙骨を見る。乙骨は彼女の手を掴むと、それを引いて校舎の中を抜けた。玄関から出て、林を抜ける。乙骨がどこに向かっているのかを理解した彼女が、ぐっと体を固くしたのが手のひら越しに伝わった。
 いつもの、彼女と乙骨が会っていたたったひとつの空間。いつも彼女が煮炊きをしてふんわりと湯気や、腹を空かせる食事の匂いが漂っていた職員寮の食堂は、今は火の気もなく、しんとしている。

「お、乙骨くん……」
「大学戻るって、本当ですか」

 ひんやりと、乙骨は彼女を見た。二人で囲んだ食堂のテーブルに彼女を押し付け、その両側に手をついて閉じ込める。

「僕のこと、捨てるんですか? 五条先生と結婚でもするの?」
「ち、ちが、何か勘違い、して……」
「逃すわけ、ないじゃないですか」

 乙骨は彼女を両腕で囲ったまま、すん、と首筋に唇を寄せた。第一ボタンまで留めたシャツの下に、薄くて細い骨がある。肩が小さく震えていて、可哀想だな、と思うのと同時にもっともっと自分に怯えればいいのに、と相反した感情が湧く。
 舌先でスタンプするように彼女の首筋の肌を押すと、「ぁ、」と小さく声を上げて彼女は肩を振るわせた。

「抵抗しないんですか? こんなこと、五条先生にバレたら怒られますよ?」
「だから、違うって、ン、乙骨くん、話を聞いて」

 首筋を舌先で舐め、ちゅう、と吸えば甘い声がした。ぞくぞくと背中が泡立って、乙骨は衝動的に彼女の首筋に噛みついた。邪魔をするシャツのボタンを一つ外して襟元を緩め、かぷ、かぷ、と数度甘噛みをする。

「ん、ぁ、」
「やだよ、捨てないでよ……」

 柔く肌に噛みつきながら、テーブルに付いていた手のひらを彼女の背中に回す。縋りつくみたいだ、と彼女は思った。
 何かわからないが、多分乙骨が何かの誤解をしていることがわかる。その誤解を解かなければ、と思う。けれど「捨てないで」と言う乙骨があまりにも愛情に飢えた子どもみたいで、彼女は強く突き放すことができなかった。

「捨てないよ、どこにも行かないよ」

 ぎゅうぎゅうとしがみついてくる乙骨の、背中に腕を回して抱き締める。仕事の範疇はとっくに超えていたし、未成年に好きにさせていいことではないとわかっていた。
 けれど、嫌だと一言でも口にすれば、逆に乙骨がどこかへ行ってしまうような気がしていた。それが嫌だと、行ってほしくないと思うのだから、多分悪いのは彼女のほうなのだ。
 しばらく抱きしめられるままになっていると、少しして腕の力が緩んだ。気まずげな顔をして、乙骨が少し体を離す。

「落ち着いた?」
「…………すみません」

 謝りながらも乙骨は背中に回した腕を離してくれなかったので、仕方なくそのままで話をした。自分はまだ大学院を修了しておらず、今は研修として呪専に来ていること、そのためつど大学へ戻って指導を受ける必要があること。五条とは本当に何も男女の関係はなく、恐らく何か乙骨の勘違いであろうこと。

「五条先生が『実家に行く』って言ってたのは……」
「私の実家は、山の麓の中華料理屋だから、ご飯食べに行くって意味だと思うよ」
「…………大変重ね重ね、すみませんでした」

 しおしおと項垂れて、乙骨は愁傷に謝ってみせた。しかしその割に、彼女の背中に回した腕を離してくれる気配がない。

「誤解が解けたところで、離してほしいんですけど……」
「いえあの、まだあなたの返事を聞いてないので。
 僕はあなたが好きですし、触りたいと思ってしまってますし。
 あなたは僕のこと、どう思ってますか?」
「…………どう、って……」

 先程までの愁傷に謝っていた雰囲気が嘘みたいに。
 乙骨は控えめに、だがしゃあしゃあと笑って、聞いてきた。彼女は思わず頬を染めて、ウっと唸って俯く。

「……あの。乙骨くんは未成年なので、成人したら……」
「成人したら、受け入れてくれるってことですか?」
「そ、そうですね、だからあの、今は……」

 ぐっと体を押されて、思わず腰が仰け反る。反射的に顔を上げて乙骨を見ると、かぷ、と口を吸われた。

「僕、成人してますよ。十八歳なので」
「……え、だってまだ、」
「一年生のときに不登校で留年したので、みんなよりひとつ上なんです」

 だから、もう何も問題ないですよね?
 
 そう言って笑った乙骨の顔は、とても楽しそうで、そのまま不埒な指先に腰の辺りを撫でられてぞくぞくと背筋を痺れが走る。
 こっち見て、と小さく吐息混じりに言われれば、もう建前でも理性でも抗う理由を探すことが難しくて、じっとりとこちらの様子を伺う乙骨と、視線を合わせた。
 そのまま擦り付けた唇も、飲み込んだ唾液も、まるで知らない味がした。胸の中の心臓は勝手に跳ねるばかりで言うことを聞いてくれないし、閉じ込めるみたいな腕を解いてくれない乙骨には勝てそうもなくて。
 でもきっとこれを、恋という名前で呼ぶのだろう。



 ・・



 戸内から漂ってくる甘い米が炊ける匂いに、ぐう、と腹の奥が鳴る。乙骨は背負っていた日本刀を入れたバッグを玄関口で外すと、通路脇に揃えられたスリッパを履いてリビングへ向かった。

「あ、お帰り。憂太くん」
「ただいま」

 キッチンで乙骨を振り向いて言った彼女に、乙骨は同じく微笑んで返す。今日のメニューは麻婆豆腐と出来合いの惣菜コロッケのようで、鍋の中からは微かに花椒の匂いがしている。

「明日は休み、取れたから」
「うん、よかった。ありがとう」
「……こちらこそ」

 キッチンで袋入りのカットサラダを皿に盛り付けている彼女の背中に抱きつきながら言えば、彼女は小さく笑った。背中はいつも華奢で、もしかしたら頼りなげなほどに見えるのに、内面は全くそうではない。そのことを乙骨はこの数年で嫌というほど思い知らされていた。

「明日はたくさんご飯用意しておくねって、お父さんが」
「そんなにたくさん食べれるかなぁ、絶対緊張してるよ」

 自信なさげな乙骨の言い振りに、ふふっと彼女が笑う。
 明日、彼女の実家へ行く。いつかの五条のようにただ食事に行くわけではなく、正真正銘、結婚の挨拶に行く。

「お父さん、一緒にご飯食べるの楽しみにしてるよ」
「……うん」

 在りし日の彼女が言った言葉、誰かが何かを好きだとか嫌いだとかを覚えていてくれるのはきっと愛情で、彼女が、彼女の家族が自分と一緒にご飯を食べたいと思ってくれていること。
 相変わらず肉の脂身は苦手で一人でご飯を食べることも好きではないけれど、彼女の愛が、一緒に食べる食事が、いつも糧になって乙骨を作っていく。
 自分のために食べる意味がわからないなんて、乙骨憂太にはもう、言う必要がないのだ。


 
  了











mさまによる「いっぱいたべるキミがすき!」の乙夢アンソロジーに寄稿した作品です。
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