前回読んだ位置に戻りますか?

ノンヒール・ローヒール

 日吉の丸い後頭部の光景とか、つむじとかって高校生のときから変わっていなくて、一番よく覚えているのは階段の上から彼のその丸い頭の上を見た時だ。
 学校の室内履きの踵を潰して歩くくせのあった私は、その日もそうやって靴の踵を潰してたらたらと歩いていたわけだけど、階段をてっぺんまで登りきったときに足からその室内履きがすっぽ抜けてしまって、あ、と思って階下を振り向いたときに、見えたのがすれ違いで階段を降りて行った、日吉のまぁるい頭だった。
 そのときだけまるでスローモーションに、靴が飛んでいくのが見えたのを、よく覚えている。脱げた靴を頭にぶつけられた日吉は、いて、と小さく言って頭を押さえた後、階上で「やっちまった」の顔をしている私を憎々しげに睨んだ。愛想のいい奴じゃないとは知っていたけれど、そんなに睨まなくてもいいじゃない。
 そんなことをその時は思ったものだが、今思えば、確かに後頭部に室内履きなんかぶつけられたら、睨むかも。大人になって、そう反省をしている。

「だから、ごめんね」
「…………過去じゃなく、今についてを謝ってほしい」

 日吉は閑散とし始めた駅のベンチで、疲れたようにそう言った。
 日吉と再会したのは偶々で、彼の勤め先の会社と私の勤め先の会社が偶然提携のプロジェクトがあったとか、そういう下らないもの。初めての顔合わせのときから、お互いがいることは知っていたし、プロジェクトが進行していくうちに日吉宛に連絡を取る機会が増えて、打ち上げの席でなんとなく連絡先を交換して、ときどき思い出したように日吉から飲みのお誘いが来る。
 それだけの関係だった。別に男女間の色っぽいことになるわけでもなく、お互いの仕事の愚痴を差し障りない範囲で話し合ってお酒を飲んで、なんかどっか遠く行きたいよね、旅行とか……みたいな中身のない話に二人で同意をし合う。
 最近の流行りの映画を見たかとか、電車の車窓から見える新築の建物は何ができるんだろうとか。一人暮らしの社会人が誰ともなく喋る雑談をお互いにしているだけで、生産性があるわけでもない。きっと喋る相手は日吉じゃなくてよかったし、日吉だって私じゃなくてもいいのだろう。
 そういうことを繰り返した何度目かの二人だけの飲み会で、気づいたら終電の時間が迫ってきていて大慌てで会計をして駅まで走ったのに、私の履いていたローヒールが足からすっぽ抜けて、階段を転がって落ちて行った。

「先に行って!」

 先導して走っていた日吉に向かって叫んだはずなのに、階段の下まで転がっていった靴を拾って履いてから階段の上を見上げたら、呆れ顔の日吉がまだそこにいた。

「先に行ってって、言ったじゃん」
「仮にもさ、女を一人で終電後の駅に置いていけるわけないだろう」

 日吉はそんなことを言うので私も何も言えなくなってしまって、とりあえず二人で大人しく階段を上って、乗るはずだった電車のホームに行ってみる。そこには勿論、もう影も形も電車なんかないし、ここは繁華街の駅だから来た電車から降りてきた人もほぼいない。電車のテールランプさえ見えない線路の向こうをじっと睨んでから、二人で店からここまで走ってきたせいで、少し汗ばんだシャツの襟を少しはためかせて、揺らした。
 のろのろと、とりあえず近くのベンチに私が腰かけると日吉は自販機で水を買ってから、同じくこちらに来た。一口二口、その水を煽ってから「ん」とボトルをこちらへ突き出してくる。少し考えてから有難くそのボトルを受け取って、冷えた水を飲むと酒と塩分に乾いた口内に、水が美味しかった。

「どうすんの」
「どうするって」
「今からタクシー、呼ぶか?」
「……日吉さぁ。ここから深夜料金はえぐいでしょ」
「じゃあ、どっかで始発まで時間潰すか。歩いて帰るか」
「学生でもあるまいし、歩いて帰るとか……」

 言いかけて、走ったせいで少し靴の縁が食い込んだ、自分の足の甲を見ていた。少し走っただけでぜえぜえと息切れとして、お酒が美味しくて、したくもない仕事をして愚痴を言い合う私達は、確かに大人になってしまったと思う。
 会話が途切れたのが気になって、ふと顔を上げると日吉がベンチの背もたれに肘をついて、じっとこちらを見ていた。その目線がいつになく真っすぐに見えたから、なんだか困ってしまってまた顔を背ける。

「時間潰すって、どこで」
「どこって、漫喫とか」
「この年で漫画喫茶で寝泊まりは、キツイだろ」
「いいよ。一人で行くから日吉は好きなところ、行ってくれれば」
「言っただろ。深夜に女ひとりでは、置いていけないって」

 日吉がまるで普通の男の子のようなことを言うから、困ってしまう。手の中で弄んでいる、日吉が買ってくれた水のペットボトルは段々と体温が移って温くなってしまっていて、私は結露の水で手のひらを汚しながら、その水が駅の薄暗い蛍光灯を反射するのを見ている。
 きらきらして見えてしまって、だから、気のせいだと思っていたかった。

「……違ったらごめんだけど。ホテルに、誘ってる?」
「うん」
「日吉ってさ、私でもいけるの?」
「……どうかな」

 いやそこは嘘でもウンって言えよと思って、私はふは、と少しだけ息を吐き出して笑ってしまった。日吉も笑っているかと思って見たら、彼はさっきからずっと同じように私をずっと眺めていたようで、さっきと同じくベンチの背もたれに肘をついたまま、何か嘲笑うように、目の端を少しだけ緩ませている。

「行く前に、試してみるか?」
「試すって」
「キスとか。キスできるなら、その先もいけるだろ」
「日吉って、なんかそういうこと苦手なのかと思ってた」

 どうしてだろう。主導権は、ずっと日吉にある。私が一人で困って、ウジウジしているだけで日吉は多分困ってなんかいなくて、きっと私が「ホテルに行かない」と断ったらどうにか家に帰してくれるか始発まで一緒にいてくれて、そしてもう二度と日吉からは連絡がなくなる。

「苦手じゃない。別に、好きじゃないだけで」
「好きじゃないのに、なんで誘うの」
「好きか好きじゃないかって、相手によらないか」

 言いながら、日吉の手のひらが伸びてくる。あっけなく頬に手を当てられて顔を上げたと思ったら、もう、ゆっくりと唇が押し当てられていた。視界の端でさら、と日吉の相変わらず指通りの良さそうな髪が揺れて、そっか、この人とホテルに行ったら、この綺麗な髪も触りたい放題なのか、と呆けたことを思った。
 ちゅ、と少しだけ湿っぽく唇を吸ってから、日吉は少し距離を離して私の目の中を見た。日吉だって目の端が少しだけ赤くなっていて、それがお酒のせいなのかそれ以外が理由かわからないけれど、この人もでもこんな焦れた男みたいな顔すること、あるんだ、と思った。

「……どうだ、行けそうか?」
「…………もう一回してみないと、わからないかも……」
「それって、もう答えが出ていないか」

 そう呆れた口ぶりで言いながら、もう一度唇を合わせてくれる日吉は、きっと女に甘い男なんだと思う。いつの間にか日吉の手のひらが私の腰を抱いて引き寄せたのに、私が日吉のコートを掴んで擦り寄ったのに、そして合わせた唇が、キスが深くなっていったのにもう何も隠すことなんてできなくて、私達はそうやって言葉にしない小さな恋心とかそういうものを二人で甘ったるく、きっと交換し合っていた。

 二人でちょっとだけえっちなキスに夢中になっていたら、駅員さんから半ギレで咳払いをされるのは、その数分後である。






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