君との海辺
家の、父の作った小さな書斎は、いつも小さな海のようだった。父は問屋の家に婿に入った割に商売の下手くそな人で、例えば気に入った品があればそっと懐に仕舞い込むようなところがあった。書斎には父がこっそりと仕入れ品の中から抜き取った小さな舶来の硝子玉だとか、希少な読本だとか、丁寧に扱わないと解けてしまいそうな木簡だとかが父なりの几帳面さで楚々と終われていて、私は時折そこに忍び込んでいた。
読める読本は多くなかったし、木簡は壊したら怖いから触らなかった。舶来の硝子玉は確かに綺麗だけどいつの間にか見飽きたし、それでも文次郎が「行きたい」と言うので、私は黙って文次郎についてそこに行ったのだ。
文次郎は、潮江文次郎は三軒隣の商家の子どもで本家筋の子ではあったが、比較的放って育てられた子どもだった。というのも、文次郎には十も離れた兄がおり既に家督を継いでいたのだ。更に言えば、その兄は文次郎が八つのときに生まれた長男がおり、文次郎は次男ながらも家督とは無縁として育てられた。
商家の息子らしく文次郎は算盤が得意で、少し几帳面な男だった。彼が忍術学園へ入ってからは顔を合わせる機会は多くなかったが、隣の商家に顔を出すと彼は大抵、壮年の番頭と並んで算盤を弾いていた。学園でも会計の仕事をしている、と聞いたのはいつだろうか。
文次郎は、父が集めた読本や木簡に興味があるようだった。学のないの私が読んでもよくわからなくて何故文次郎がそれを読みたがるのかわからないのだが、文次郎は帰って来るたびに私に声をかけて、いつなら父の書斎に忍び込めそうか、と聞くのだ。
二人で父の書斎に忍び込むのは大抵晴れた日の真っ昼間で、そうでないと部屋が暗くて文字が読めないからだ。父の書斎は家の中でも日当たりの悪い場所にあるから、晴れた日でないとひどく薄暗い。だから私はいつも父が家を開けている日にちをいくつか文次郎に教えて、そのうちの幾日かの晴れた日の昼間、文次郎と父の書斎に忍び込む。
晴れた日の父の書斎は、まるで小さな海の中のようだった。
さり、さり、から、から、文次郎が読本の紙面や木簡を読んでいる音だけが響いて、明かり取りに開けた開戸からは白い日差しが薄らと差し込んでくる。父がいつの間にまた増やした硝子玉を手元で転がしながら、日差しが硝子玉の中身を弾いて光るのを見ていた。もう、五年だった。
「文次郎は、学園を卒業したらどうするの」
さり、さり、と鳴っていた文次郎の指先が読本の薄い紙を捲る音の合間、私の惚けたような声が響いた。音が少し止んで、文次郎が手を止めたのがわかった。私はまだ、硝子玉をつついていた。
「このまま忍者になる」
なろうと思っている、ではなく、なる、と彼は言った。文次郎らしかった。元々の気質がそうなのか、生真面目な番頭や、呑気者の長男の跡取りを支えるしっかり者の姉たちに育てられたからなのか。文次郎はいつもとても真面目で真剣で、曖昧な言葉というものを彼はきっと知らないのだと思う。
「そうしたら、ここにはそう帰ってこれなくなる」
だから、言わないでいてくれたらいいのにな、なんて私のような先送り癖とか、素知らぬ顔とか、そういう小狡い真似は文次郎にはないのだ。
はっとして顔を上げたけれど、少しだけ日が雲に入ったのだろう。陽光が翳って、部屋の暗がりに文次郎の表情が沈んで、よく見えなかった。文次郎に何を言って返せばいいかわからなくて、私は口の中で「そう」と小さく言って、ただそれしか言えなかった。
文次郎がここに帰ってくることがもうなかったとして、私はこの書斎の部屋に、この文次郎と過ごした小さな海に、白々と浮かんだ陽光の眩しさに、きっと悲しさとか寂しさを覚えるようになって。もうここへ来ることはない。
白々とした文次郎とのこの小さな海は、記憶の底に沈めてもう開かない。文次郎はいずれ私を忘れるだろうし、私も潮江文次郎という男を忘れて生きていくのだろう。
ただ、それでも今、文次郎との別れを悟ってこのつっかえたような喉の渇きと、喘ぐような息苦しさと、詮無い広い深い海に放り出されたみたいな底のない不安を、それでも泣くまいと噛んだ唇の味気なさを。きっと忘れることはできないんだろう。
「…………一緒に来るか」
「……え」
翳った日がすっと開けて、白い日差しが文次郎の頬を照らした。文次郎はいつもの通りの澄ました顔で私を見ていて、それから少し笑った。
「この先のいつか、俺が戻ったときにここにお前がいなかったり、他所の男に嫁いでいたら、俺はきっと後悔する。それなら、今聞く。
俺と一緒に、来るか」
馬鹿みたいだ、と思った。私が一人で文次郎との離別を察して泣きたくなっていたのとは別の方向で、文次郎は文次郎で先の後悔を悟っていたらしい。
もし過ぎ去る今に何かの後悔を残すなら、きっと文次郎はどうにかそれを拾いあげようとする。潮江文次郎は、私の知っている彼は、確かにそういう男だ。
「……文次郎は、それでいいの? 私でいいの」
「誰かを選ぶなら、お前がいいよ」
喉の奥が熱い。飲み込めなかった吐息が、嗚咽みたいになって唇から溢れた気がした。文次郎は泣きそうな私に困った顔をして、わざとらしくこめかみを掻く。
「…………えと、お父さんに、言いにいかなきゃ。文次郎と行くって」
「もう、伝えてある」
何気なく言った照れ隠し混じりの私の言葉に、文次郎がさらりとそんなことをいうので一瞬何を言われたのかわからなかった。は、と惚けた息を吐いた私に、文次郎は今度こそ目線を逸らしてそっぽを向いた。
そのとき見えた彼の耳が赤いこと。むっつりと黙って文次郎がそれ以上何も言わないこと。私の顔を見ようとしないこと。
それらの全部が、文次郎の演じた何気なさを証明しているみたいだった。そうだ、文次郎は恥ずかしげもなくそんなことをしてみせる癖に、あとから自分の「らしくなさ」を悟って、しまったと後悔するんだ。いつもそうだ。私は文次郎のいつものやらかしとその彼の気恥しさを理解して、じわじわと笑えてきてしまった。
押し殺しきれず笑い声をあげると、文次郎はじろりと私を睥睨したけれど、ちっとも怖くなんてない。だって確かに文次郎とは、そういう男だった。
そうやって女慣れしてなくて気まずげな顔も、いつの間にか私の父に話を通している生真面目なのか手回しがいいのかわからないところも、おずおずと手を握ったときの彼の手のひらの震えも。
「ね。文次郎、ずっと一緒にいようね」
「……おう」
全部、ずっと知っていた。見ていた。好きだった。
いつか攫われるなら、文次郎がいい。そう願って二人で沈んでいた父のこの小さな海のことを、二人だけでいられた空間のことを、私達はこれからも抱いて生きていくのだろう。
二人で。
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