舌の根
男の太腿の感触は、硬いのだ、なんて初めて知った。落ちないように、逃げないように、腰に添えられた手のひらがあって、それが燃えるみたいに熱い。じっとりとこちらを見る乙骨の目は、ほの暗く濁っていた。
「口、開けて」
腰を支えているのとは反対の手のひらで、ぱかり、と口を開かれる。上下の前歯を人差し指と中指で蝶番のように開かれてしまえば、彼女の力では逆らうことができない。口をぱっかりと開けるのは、とんでもなく間抜けだと思うのだが、羞恥に滲んだ薄い涙を、乙骨は無視する。
「舌、触るね」
彼女の開いた口が閉じないように、上顎を押さえる指を親指に変えて、乙骨は人差し指を彼女の舌に伸ばした。思わずぎゅっと目を閉じる。舌先に触れた乙骨の指は少ししょっぱくて、指先はざらついていた。自分のものよりも、造りが大きい分、指の皮膚目が荒いのだろうか。
「口、開けててね。いい子だから。……ね?」
「……はぁぇ」
念押しするように覗き込まれ、喉の奥から従順を絞り出す。舌に触れたままの指先が音を出したときに少し揺れて、乙骨の指を押した。ぐにぃ、と舌のやわらかさが乙骨の指を通して伝わってくる。乙骨はまんじりと見ながら、目を細めた。
あが、と開けたままの口の中に指を差し込まれ、乙骨の人差し指と中指に舌を掴まれる。痛くはないが抵抗はできない程度の力で、乙骨は彼女の舌を引っ張った。柔い舌がぬるぬると滑って、その度に叱るように乙骨が指に力を込める。
「ん、ちょっとだけべーってしてみようか、べーって」
「ん、べぇ、ー、」
「上手」
んべぇ、と乙骨に見せつける形になった舌を見て、乙骨は少し眦を下げた。彼女は気づいていないが、羞恥からか頬が赤く染まっており、舌もてらてらと艶めかしく、赤い。舌の中央部に浮き出た呪印を指の腹でそっと撫でると、逃げないように抑えている腰がぴくりと跳ねた。
簡単な話だ。
今日は家入は呪専を留守にしていて、乙骨は居残っていた。彼女が呪詛を受けて任務から戻り、家入の帰りを待つわけにはいかなかったので、乙骨が治療している。祓われた呪霊は最後の力で彼女の口の中に飛び込み、飛び込まれた側の彼女は呪霊を吐き出したが、残穢が舌に残ってしまった。それだけの話だった。
ただ、家入の帰りを待つと言って聞かない彼女と、彼女を心配する乙骨とで少し問答と悶着があり、言うことを聞かない彼女を無理矢理言い聞かせて治療を始めたので、乙骨は彼女が逃げないように椅子に座った自分の膝上にに抱え込んだし、彼女はずっと逃げ腰で、羞恥に塗れて顔は赤い。
「じゃあ、反転流すね」
すり、すり、と数度指の腹で舌の呪印を撫でてから、乙骨は指先に呪力を流した。呪印の反発があり痛かったのか、彼女は「ン、ぁ、」と少し声を上げ、開いた口が揺れる。舌がぐっと乙骨の指を押した。
「……あ。痛かった?」
聞くと、眦に少量の涙を貯めた彼女は、小さく首を振る。無意識だろうが、彼女の細い指先が自身の白い制服の胸の辺りを掴むのを見た乙骨は、こっそりとバレないように、唾を飲んだ。
逃げることを諦めたのか、彼女は少しくったりとして、腰を抱く乙骨の腕に体を預けてくる。潤んでいた目は恥ずかしいからか、乙骨と目が合わないようにそっと伏せられていた。
ふに、くに、と少し舌の中央を指で押し、彼女から痛みによる緊張が抜けたことを確認する。もう一度、先ほどよりも更に少なく呪力を込めると、今度は痛くはなかったようだが、刺激が何もないわけでもなかったようだ。は、と彼女が淡く吐き出す吐息が、熱い。
乙骨へ差し出すように開かれた口と、そこから突き出された赤く滑った舌を見ながら、乙骨はゆっくりと呪印を辿った。
優しく、滑るように、一周。少し力を込め、舌中央の筋を辿るように、じょり、じょりと往復。
その度に彼女の腰がぴく、ひく、と数度震え、じわりと閉じた瞼の下から雫が、染み出す。
くに、くに、と舌を数度揉んで、もう残穢が残っていないことを確認した。
「もう、大丈夫だよ」
そう言ったのに、指を彼女の舌から離してやれていなかったのは、それがあまりに柔くて熱くて、そんな舌を見せつける彼女があまりに蕩けて見えたからだ。緩慢な動作で瞼を開いた彼女は、瞼を開くのと同時に口を閉じた。
そして、何を思ったのか。触れたままだった乙骨の指を、ちぅ、と吸った。
柔らかい舌に絡められ、指の先を、ちゅく、ちぅ、と吸われた感触に腹の底が燃えるように、か、と熱くなる。ぼんやりとした目つきの彼女は、ハ、と熱く鋭く息を吐いた乙骨と目が合うと、慌てて乙骨から体を離した。
「あ、ハ、ごめんな、さ、」
「……あ、」
乙骨の膝から転がり落ちた彼女は保健室の床に尻餅をつき、慌てて立ち上がる。乙骨はあまりのことに驚いて、何も言うことができなかった。とろり、と彼女の口許を透明な液体が伝う。唾液だった。少し粘度があって、如何にも、甘そうだ。
ごくり、と乙骨の喉が鳴った。今度こそ、彼女にも、聞こえた。
「おや、来てたのかい」
そのときドアが開いた。家入がやっと戻ってきたのだ。あわわ、わわァと未だに慌てている彼女の代わりに事の次第を話し、念のため家入にも呪詛の様子を見てもらう。家入は慣れた手つきで彼女の口内を観察して、問題なしの太鼓判を押した。
「ありがとうございました」
家入に礼を言って、保健室から出る。もう、夕暮れだった。赤い日差しが、彼女の影を焼いている。秋先の、少し湿った風の匂いがした。頭の奥は、冴えてくれない。
一歩、二歩。保健室から出たところで立ち止まった彼女は、同じく立ち止まった乙骨をそっと上目で見た。いつの間に拭ったのだろう。彼女の口許にはもうあの粘ついた唾液は、付いていない。乙骨は何も言わず、横目で彼女の口許を見ていた。
「あの、ね」
「ん?」
「ええっと、ですね、」
恥ずかしそうに乙骨から目を逸らして、少し俯いた彼女に、しかし乙骨は目を逸らすことができない。制服の襟から覗く首筋が、髪の合間から覗く薄い耳殻が、丸い頬が、上気して内側から赤い。この白くて薄そうな皮膚に歯を立てて果実みたいに食い破ったら、血が、たくさん染み出るのだろうなぁ。なんて、屑なことを考えた。
「この後、まだ時間、あります、か?」
「……………………あるよ」
たっぷりと間を掛けた後に、乙骨は頷いた。迷ったからではない、逡巡したからではない、怖気づいたからではない、反芻していたからでもない。彼女が自分の言ったことの意味を、誘い文句を、彼女の羞恥を、恥ずかしくてじんわり染み出る涙を、困ったように揺れた手を、気づかず指先で掴んでいる乙骨の制服の裾を。
すべてを、彼女に自覚させるための間だった。
ごくり、と唾を飲んだ。今度は、乙骨にも聞こえた。
彼女の揺れる瞳が、眼前にはある。
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